102話 俺×距離=少しだけ近づきます。
朝の空気は、やけに静かだった。
嵐の前の静けさなのか、理由はわからない。ただ、家の中に流れている時間が、どこかゆっくりに感じた。
制服に袖を通しながら、ふと手が止まる。
「……」
考えることは一つだった。
昨日決めたこと。
いや、決めたというより、もう“やるしかない”と理解しただけだ。
守る。
それだけだ。
真希那の部屋の前で足を止める。
ノックはしない。ただ、ドア越しに声をかける。
「いいか、今日は外出るな」
少し低い声になった。
「コンビニもダメだ。鍵ちゃんとかけろ。知らないやつ来ても絶対開けるな」
一瞬、間があく。
それから、
「……はーい」
軽い返事が返ってくる。
いつも通りの調子。
けれど、そのあとに少しだけ声のトーンが落ちる。
「……ちゃんと言われたこと、守るよ」
その一言に、ほんの少しだけ安心する。
「……頼む」
それだけ言って、その場を離れる。
完全に守れる保証なんてない。それでも、何もしないよりはいい。
タイミングは、まだ来ていない。
だからこそ、焦らずに待つしかない。
そして学校に着いたが、教室には寄らなかった。自然と足が生徒会室に向いていた。
扉を開けた瞬間、空気の違いがわかる。
「……」
重い。
昨日までの穏やかさとは、明らかに違う。
張り詰めている。
会長はいない。それでも、この空気は十分に異質だった。
「……すみません」
ぽつり、と声が落ちる。
結城だった。
机の上には、何度も書き直された書類が散らばっている。赤ペンの跡が目立つ。
「また?」
黒ヶ峰がため息混じりに言う。
「これ、三回目だよね」
言葉は静かだが、遠慮がない。
「ほんとに成績優秀なの?」
結城は何も返さない。
ただ、視線を落とすだけ。
「……」
真守は一瞬だけそちらを見る。
けれど、すぐに意識を切り替える。
「ここ、ルート被ってる」
アリスの声が入る。
「この時間帯だと……」
「……はい」
真守が頷く。
「こっちを潰す方がいい」
「うん」
葵もすぐに同意する。
三人の意識は完全に“作戦”に向いていた。
結城のミスも、黒ヶ峰の言葉も、認識はしている。けれど、優先順位が違う。
それどころじゃない。そう判断してしまっていた。
「……すみません」
また、結城の声。
今度は少しだけ震えていた。
「……」
視線を向ける。
指先が小さく震えている。呼吸も、少しだけ乱れているように見える。
それでも——
「……」
真守は視線を戻した。
今は、まだ。その判断が、次の瞬間に崩れる。
「——もういいって言ってんでしょ!!」
結城が叫んだ。
空気が一気に裂ける。
全員の動きが止まる。
「っ……」
息を荒くして、結城が立ち上がる。
「もういい……無理……」
声がかすれる。
そのまま、机を軽く押しのけて、部屋を飛び出す。
「……っ」
葵が一歩踏み出す。
「楽々浦くん」
「俺が行きます」
即答だった。
それ以上は言わせず、そのまま走る。
行き先は、迷わなかった。
あの場所。前にも、こうして彼女を追ってきた。
階段の踊り場。人目につかない場所。
そこに——
「……」
結城がいた。
壁に背を預けて、呼吸を整えようとしている。
「……大丈夫か」
声をかける。
結城はすぐには反応しなかった。
数秒。それから、ゆっくりと顔を上げる。
「……見てた?」
かすれた声。
「……少し」
正直に答える。
「……そっか」
小さく笑う。
けれど、その笑いは明らかに無理をしていた。
「……近づくな、とは言わないんだ」
ぽつりと、結城が言う。
「言わねぇよ」
「……そっか」
そのまま、結城は腕に手をかけた。
袖を、ゆっくりと捲る。
そこにあったのは——包帯だった。
白い布が何重にも巻かれている。
新しいものではないが、まだ完全には治っていない。
「……」
言葉が出ない。
「……ちょっとさ」
結城が視線を逸らす。
「色々あるんだよね」
軽い言い方。けれど、その奥にあるものは軽くない。
「……誰にやられた」
思わず出た言葉。
結城は少しだけ笑った。
「さあね」
それ以上は言わない。言わせない空気だった。
「……」
沈黙が落ちる。
「……でもさ」
結城が続ける。
「助けとか、いらないから」
顔は上げないまま。
「……」
「こうやってさ」
少しだけ言葉が詰まる。
「近くにいてくれるだけで……それでいい」
その言葉に、真守は何も返せなかった。
ただ、そこに立つ。それしかできない。
「……うちの代わりなんて、いくらでもいるし」
結城が小さく笑う。
「生徒会入りたい人、いっぱいいるよ」
「……」
「元々いた人だって、戻りたがってるし」
その一言で、脳裏に浮かぶ。
祇園。
あの夜の言葉。
「……」
胸の奥が、わずかに軋む。
「……だからさ」
結城が顔を上げる。
「うちなんかに構ってる余裕ないでしょ」
「……」
真守は、一歩踏み出した。
「……それでもだ」
短く言う。
「何かあったら、少しでもいいから頼れ」
結城の目が、わずかに揺れる。
「……全部じゃなくていい」
「……」
「ほんの少しでもいい」
言葉を選びながら、続ける。
「……お前を少しでも助けたい」
結城は、しばらく何も言わなかった。
ただ、真守を見ていた。
それから——
「……ほんと、そういうとこだよ」
小さく笑う。
さっきより、ほんの少しだけ柔らかい表情。
「……でもさ」
続ける。
「まも君に、これ以上迷惑かけられない」
「迷惑じゃねぇよ」
即答だった。
間を置かずに。
「……」
結城が少しだけ目を見開く。
「……そういう問題じゃないって」
「じゃあなんだよ」
「……」
言葉が詰まる。
その沈黙の中で、真守はもう一歩近づいた。
「……いいから」
視線を合わせて、
「無理すんな」
それだけ言う。
結城は何も言わなかった。
けれど、さっきまで荒れていた呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
「……ありがと」
小さな声。
それだけで、十分だった。
二人の距離は、ほんの少しだけ近づいていた。




