100話 俺×平穏な一日=平和すぎます。
昨日、真希那にはちゃんと伝えたはずだった。
しばらく警戒してくれ。外にはなるべく一人で出るな。変なことがあったらすぐ言え。
あれだけ真面目な空気で、いつになく低い声で、ちゃんと釘を刺したはずなのに——
「まーくん、おはよ♡」
朝、目を開けた瞬間に視界いっぱいに広がっていたのは、やたら距離の近い真希那の顔だった。
「……なんでいるんだよ」
寝起きのまま、ぼそっと言う。
「警戒してるから」
「方向性おかしいだろ」
真希那はベッドの端に座りながら、当然のような顔で頷く。
「だってさ、一人で部屋いるの危ないって言われたし?」
「だからって俺の部屋に来るなよ」
「一番安全じゃん。まーくんいるし」
「……」
言い返せないのが腹立つ。
「ちゃんとノックしたし」
「してねぇだろ」
「心の中で」
「それは無効だ」
真希那はケラケラ笑う。
昨日の空気なんてなかったみたいに、やけに明るい。
「ほら、顔洗ってきなよ。朝ごはんあるよ」
「……なんでそんな仕切ってるんだよ」
「お姉ちゃんだから」
「便利な言葉だな」
「便利でしょ?」
軽い足取りで部屋を出ていく。
その背中を見送りながら、真守は小さく息を吐いた。
昨日あんな話をしたばかりなのに、このテンション。けれど、それに救われている自分がいるのも確かだった。
リビングには、意外にもちゃんとした朝食が並んでいた。
「お、来た来た」
「……ちゃんと作ったのか」
「失礼な。今日はちゃんと頑張ったよ」
「“今日は”って自分で言うな」
「ほら、愛情多め」
「具体的に何割だよ」
「七割」
「高ぇな」
「残り三割は下心」
「最低だな」
「えへ」
全く悪びれない。
そのまま席に座り、適当に食べ始める。
「てかさ」
真希那がパンをちぎりながら言う。
「今日一日ずっと一緒にいよ?」
「学校あるだろ」
「放課後」
「……それはまあ」
「決まりね」
勝手に決定される。けれど、強く否定する気にはならなかった。
「……気をつけろよ」
「はーい」
軽い返事。
それでも、その一言に少しだけ安心したような顔をするのを、真守は見逃さなかった。
真希那との朝食が終わり、学校へ着く。
そして教室に入ると、いつもの空気が広がっていた。
ざわめきと、どこか気の抜けた朝の雰囲気。
席に向かう途中で、神宮丸がこちらに気づく。
「お、楽々浦。今日やけに普通の顔してるじゃん」
「どういう意味だよ」
「いや最近、なんか考え込んでる顔多かったからさ」
「……そう見えてただけだろ」
「そうか?まあでも今日は調子よさそうだな」
軽く笑いながら言う。
その隣で、白ヶ崎がちらりとこちらを見る。
「確かに」
「……」
短い一言だったが、その声色は少しだけ柔らかかった。
「なんだよその“確かに”」
「別に」
そっけない返事。
けれど、完全に冷たいわけではない。
「よーし、今日は平和な一日になりそうだな!」
神宮丸が勝手にまとめる。
「あんたがいる時点でどうだろうね」
「ひどっ」
「うるさい」
「なんで白ヶ崎は毎回辛辣なんだよ!?」
「騒がしいから」
「理不尽!」
そんなやり取りが自然に続く。
結城の姿はなかった。
それだけで何かが変わるわけではないけれど、教室の空気は少しだけ軽かった。
「今日、結城いないみたいだな」
神宮丸が何気なく言う。
「生徒会じゃない?」
白ヶ崎が答える。
「最近そっち多いし」
「……そうだな」
真守も軽く頷く。
いないことに対して、特別な感情はない。ただ、いつもと違う流れの中で、少しだけ余白があるような感覚だった。
その余白が、妙に落ち着く。
昼休みは、自然と三人で食堂へ向かう流れになった。
神宮丸が騒ぎ、白ヶ崎が突っ込み、真守が適当にまとめる。
その繰り返し。
「で、結局パン派?ご飯派?」
「だからなんだよその派閥」
「あるだろ!」
「ないって」
「あるって!」
ここで白ヶ崎が遮るように。
「うるさい」
「白ヶ崎が冷たすぎる!」
「正常」
「否定された!?」
どうでもいい話ばかり。
それでも、そのどうでもよさが妙に心地いい。
席に着いてしばらくすると、赤坂がやってきた。
「お、見つけた!」
「赤坂先輩」
「今日はなんか平和そうだね」
「そうですね」
真守が答えると、赤坂は笑った。
「いいじゃん、たまにはこういうのも」
そのまま自然に隣に座る。
「最近さ、真守ちょっと顔固かったし」
「……そうですか」
「うん。今くらいがちょうどいい」
さらっと言われて、少しだけ言葉に詰まる。
「ほら咲音ちゃんも、今日はちょっと機嫌いいし」
「よくない」
即答。
「でもさっきより柔らかくない?」
「気のせい」
「絶対違うって〜」
赤坂が笑う。
その空気に、また全体が少し柔らかくなる。
気づけば、自然に笑っていた。
あっという間に放課後になり、生徒会室に向かう。
扉を開けると、静かな空間の中に葵がいた。
「お疲れ様、楽々浦くん」
「お疲れ様です、葵先輩」
軽く会釈する。
「今日、暑かったね」
葵が書類をまとめながら言う。
「ですね。教室のエアコン効いてなくて地獄でした」
「それは大変だ」
くすっと笑う。
「水分ちゃんと取ってる?」
「一応」
「一応はダメだよ」
そんな、何でもない会話から始まる。
特別な話題じゃない。ただの日常のやり取り。
それが、妙に心地よかった。
「今日は教室どうだった?」
「普通でした。久しぶりに落ち着いて過ごせた感じです」
「そっか」
葵は安心したように頷く。
「よかった」
その一言が、自然に胸に入ってくる。
そのまま作業の確認に移る。
淡々とした仕事の流れ。時々交わされる短い言葉。無理に何かを話さなくても成立する空気。
それがありがたかった。
作業を終えて、生徒会室を出ようとしたときだった。
「……あ、まも君」
声がかかる。
振り返ると、結城がいた。
今日はあまり顔を合わせていなかったせいか、その姿が少しだけ新鮮に見える。
「お疲れ」
「お疲れ様」
自然に言葉が出る。
前ほどの引っかかりは、もうほとんどなかった。
「今日さ」
結城が少しだけ近づいてくる。
「うち、めっちゃ書類ミスった」
「え」
「三回くらいやり直し」
「それは……きついな」
「でしょ?」
少しだけ笑う。
「でもさ、ちょっと慣れてきたかも」
「……それならよかった」
「まも君も?」
「まあ、少しは」
「そっか」
軽い会話。
それだけなのに、前よりずっと自然だった。
「じゃあ、また明日ね」
「……ああ」
手をひらっと振る結城。
その表情は、どこか楽しそうだった。
真守も小さく頷く。
「楽々浦くん」
横から葵の声。
「帰ろっか」
「はい」
そう返して歩き出す。
今日という一日は、驚くほど何も起きなかった。
真希那の暴走から始まって、教室でのどうでもいい会話があって、赤坂が笑って、白ヶ崎がいつもより少し柔らかくて、葵と穏やかに話して、最後に結城と軽く言葉を交わした。
それだけだ。
それだけなのに。
妙に、満たされていた。
胸の奥にあった重さが、少しだけ軽くなっている。
このまま、何も起きなければいい。
そんなことを、ふと思ってしまうくらいには。
それくらい、平和な一日だった。




