9話 俺×保健室=危険な香りがします。
痛い。
左頬が痛む。いや、顎も痛い。
絶対に顔が腫れている。そうとしか思えない。片目がちゃんと開かないからだ。
「……なんで、こうなったんだよ」
不幸を避けて高校生活を送ると誓った、その当日に。真守はとんでもない不幸に襲われていた。
けれど今回は、少しだけ違う。
真守自身、自分で選んで不幸に突っ込んだのは初めてだった。
赤坂を助けなければ、きっと穏便に済んでいた。……まあ、生徒会に勧誘された件は抜きにしても、だ。
それでも、あの場で黙って見ていることはできなかった。
「……これも運命ってやつなのかね」
そんなことをぼんやり考えていたときだった。
「あら、目が覚めたの?」
「はい……!?」
保健室の先生が、真守の目覚めを迎えてくれた。
なんて素晴らしい光景なんだ。
白衣を着てはいるが、どう見ても胸元の主張が強すぎる。いや、強すぎるどころか、もはや白衣に収まっていない。
(さっきまでの不幸を帳消しにする幸運って、こういうことか……?)
「もう、初日から喧嘩なんて災難ね」
その“巨乳保健師”は、優しく真守の頭を撫でてくる。
(生きててよかった……)
「ねぇ、君さ、可愛らしい顔してるわよね」
「えっ!?」
まさかの褒め言葉だった。一気に脳が危険な方向へ働き出す。
「おねぇちゃん、食べちゃおうかな♪」
「……お、おねぇちゃん?」
そこで、引っかかる。
今、この人、自分のことを“お姉ちゃん”って言ったよな?
“お姉さん”じゃない。“お姉ちゃん”だ。
個人の見解だが、それを自称する人間はだいたい危ない。少なくとも俺の身近には、一人しかいない。
そして、その答えにはすぐに辿り着いた。
「……真希ねぇ!?ここで何してるの!?」
「あら、バレちゃった?」
保健室の先生……に見せかけたその人は、俺の実の姉——楽々浦 真希那だった。
真希ねぇこと楽々浦真希那は、真守の実の姉である。
年齢は十歳上。
そして、かなり重度の弟愛好家——つまり、ブラコンだ。
茶色に染めたミディアムロングに、白衣から溢れそうなほど立派なものをお持ちで、悔しいくらい普通に顔がいい。
本当に自分と血が繋がっているのか疑いたくなるレベルだ。
まあ、仮に繋がっていなかったとしても、恋愛感情なんて一ミリも生まれないけど。
「バレたじゃなくて……」
「もう、まー君が学校で倒れたって聞いて、心配になって飛んできたのよ」
さすが、弟愛好家。
今日の真希那は仕事だったはずだ。
しかもその仕事は、わざわざ真守が入学したこの田舎高校の近くに場所を移して、やっと昨日から始まったばかりの新しい職場だった。
そこをもう抜けてくるなんて、本当にこの人の行動力はどうかしている。
……まあ、真希ねぇがそこまで俺に過保護な理由は、一応ちゃんとある。
それは、俺がまだ物心もついていない頃の話だ。
***
三歳になりかけた頃の俺は、まだおしゃぶりを咥えていた。
かなりの甘えん坊で、構ってもらえないとすぐに泣く、厄介なガキだったらしい。
一方、当時の真希ねぇは反抗期の真っ只中で、毎日イライラしていた。
親にも反抗し、時間があれば友達と遊びに行き、夜遅くに帰ってくることも多かったという。
そんな俺たち姉弟に、ある日事件が起きた。
真希ねぇが学校を早退して帰ってきた日だった。その日、母親と俺は昼寝をしていた。
真希ねぇは、その隙に友達と夜遊びする準備をしていたらしい。
ドライヤーの音やクローゼットを開ける音で目を覚ました俺は、いつものように真希ねぇに“構って攻撃”を仕掛けた。
「ねぇね、あそぼ、あそぼー」
「チッ、うっせーな、このガキ」
「ねぇね、たかいたかいしてくれないと、ないちゃうよ!」
「うるせぇっつってんだろ!」
キレた真希ねぇは、俺のことをかなりの勢いで蹴飛ばした。そのまま壁に押しつけるようにして、怒鳴った。
「死んでろ、ガキ!」
「ねぇね……」
当時の真希ねぇは、今とは真逆だった。
俺に興味なんてなくて、むしろ邪魔者扱いに近かったらしい。
きっと、俺が生まれてから両親が俺につきっきりになったせいで、まだ子どもだった真希ねぇの寂しさや不満は、ずっと放置されていたのだろう。
「黙れ、黙れ、黙れ!」
「……」
そして、突き飛ばされた俺は、当たりどころが悪かったのか、そのまま意識を失った。
ちょうどその頃、騒ぎで母親が目を覚ました。
「おい、聞いてんのかガキ!」
「ちょっと、真希那うるさいわよ!」
「あぁ?こいつがうるせぇからだろ!」
「こいつって……真守?ねぇ、真守ったら」
「……」
「嘘……こんなのって……」
そこからは慌ただしかったらしい。
母親はすぐに救急車を呼び、俺は病院に運ばれた。俺はそのまま、一週間ほど意識が戻らなかった。
そして、その時間が真希ねぇの人生を変えた。
「私が……私のせいで……」
「真希那、今日も帰るわよ」
「でも、真守が……真守が起きないから!」
「もう時間だから、病院にはいられないのよ」
「でも、真守が!!」
家に戻っても、真希ねぇはずっと自分を責め続けていたらしい。そしてある日、ついには自傷行為までしようとした。
「私なんて、生きてる価値なんてないわ……」
「真希那、なにしてるの!?」
「関係ないでしょ!ママまで傷つけたくないから、私に近づかないで!!」
右手に握ったカッターを、母親に向ける。
「真希那、いい加減にしなさい!」
「だって、真守は一週間も目が覚めないのよ!もう死んでるも同然じゃない……私は人殺しなのよ!!」
「違う、違うわ真希那。あなたは人殺しなんかじゃない」
「でも、でも……」
「真希那のそんな姿、真守が目を覚ましたら悲しむと思うわ」
「……え?」
「あなたが、ごめんなさいって謝るだけでいいのよ。それに、真守がそんなことでお姉ちゃんのことを嫌いになるわけないじゃない」
その言葉に、真希ねぇの手からカッターが落ちた。
母親はそのまま真希ねぇを抱きしめた。
「ママ……」
「だから、真守が目を覚ましたらちゃんと謝るの。それからは、真守を傷つけるんじゃなくて、お姉ちゃんが守ってあげるの。いい?」
母親がなんとか真希ねぇを落ち着かせた。
そこからだ。
真希ねぇが二度と俺を傷つけまいと決めて、過保護になり、それが今の“弟愛好家”へと繋がっていった。
ちなみに俺は、その二週間後に無事意識を取り戻し、今もこうして元気に生きている。
今振り返ると、なかなか重い話ではある。
真希ねぇにとっては一生忘れられない出来事なんだろう。
***
そんなことより。
「真希ねぇ、その白衣どうしたの?」
さっきからずっと気になっていた。
どう見ても保健室の先生みたいに振る舞っているが、白衣はどこから持ってきたんだ。
「あぁ、これ?この部屋に置いてあったから、勝手に着ちゃったの!」
「はぁ……」
「そしたらね、まー君の“あそこ”が大きくなったから〜」
少し照れながら、さらっとど下ネタをぶっ込んでくる実姉。さすがに黙ってはいられない。
「真希ねぇ、一つ言っとくけど、俺は全く真希ねぇに対して恋愛感情はないから」
「えぇっ!?まー君、なんでそんなひどいこと言うの!?」
さっきまでの照れ顔が、一瞬で涙目に変わる。
ちなみに真希ねぇは俺のことを“まー君”と呼ぶ。正直、かなり恥ずかしい愛称だ。
「あのさ、これ毎日言ってることなんだけど。なんで毎回そんな新鮮なリアクション取れるの?」
このやり取りは、もはや日課みたいなものだった。
真守が毎回きっぱりと可能性を否定することで、ギリギリ姉弟のラインを守れている。
こうでもしないと、真希那は普通に越えてくる。
いや、俺にその気は一切ないんだが。
「まぁまぁ、そんなことよりさ、まー君。どうしてそんな怪我したのか教えてくれる?」
真希那は真守の顔の傷を、痛くならないようにそっと撫でた。
「あぁ、これは、多分だけど先輩に殴られて——」
「先輩っ!?そんな、まー君がいきなり先輩と喧嘩!?」
「話は最後まで聞けよ」
反応がデカいんだよ、この人は。
「喧嘩じゃないよ。ちょっと俺が調子に乗っただけ」
「そんな、殴られるようなことしたってこと?」
「まぁ、それをしたから殴られたわけであって……」
「もう、一体誰なの!まー君を殴ったやつは!」
若干、お怒りモードに入った。
昔、不良をやっていたせいか、たまにそういう血が騒ぐ瞬間がある。
たぶん、今がそれだ。
「お、落ち着いて真希ねぇ!」
「ダメ!私のまー君が殴られたのよ!?このまま黙っていられるわけないでしょ!」
「うーん、それをやると余計ややこしくなるんだけどな……」
とにかく落ち着かせたい。そう思った真守は、真希那の手をそっと握った。
「真希ねぇ。俺は大丈夫だから」
「……ま、まー君……」
真希那は、こういうスキンシップにめっぽう弱い。これが一番、手っ取り早く落ち着かせる方法だった。
ただし。
(本気で照れるのやめてくれ……)
見てるこっちがしんどい。
「とりあえず、もう傷もそんなに痛くないし、真希ねぇは仕事に戻っていいよ」
「いや、仕事は早退したから今日はもう何もないのよ」
「そうだったのか……なんか、ごめん」
「ううん。まー君は悪くないのよ」
真希那はすぐに首を振った。
そして、ふっと笑う。
「それより、お姉ちゃんはまー君の新居が見てみたいな!」
「新居って、ただの学生寮だけど」
「いいじゃん、案内してよ〜」
すっかり放課後も終わり、校内にはもうほとんど人が残っていない。
そんな静かな学校を後にして。
真守は真希那と一緒に、新しい生活の拠点である学生寮へ向かった。




