第13話:『北方の兆しと、静かなる過負荷』
1
ガリア帝都の夜は、どこか威圧的な美しさに満ちていた。
先ほどまで執り行われていた「アスタリア・ガリア国際魔導物流協定」の公式調印式、およびそれに続く祝賀夜会の賑わいが、遠い波音のように静まり返っていく。
ガリア宮殿の奥深くに位置する、重厚な暖炉が赤々と薪を燃やす執務応接室。
アスタリア王国筆頭貴族、ヴァルモント公爵家の令嬢であり、アスタリア商会会長でもあるシェリィは、一切の乱れを見せない完璧な姿勢でソファに腰かけていた。その手元では、細やかな刺繍の施された扇が、ゆったりとしたリズムで優雅に揺れている。
対面に座るのは、ガリア帝国の絶対なる覇者——カール皇帝。
「……素晴らしい調印式だったよ、ヴァルモント公爵令嬢。君の持ち込んだ『構造最適化』による新グリッドの試算は、我が帝国の主計局の老臣たちを軒並み脱帽させた」
カール皇帝は手元のクリスタルグラスを傾け、不敵な笑みを深めた。
「さて、無事に署名も終えたところでだ。君にひとつ、魅力的な『北方への小旅行』を提案したくてね」
「小旅行、でございますか?」
「ああ。我が帝国の最北端、魔族領国境に接する要塞都市『ラードン』への合同視察だ。新グリッドの北方基点となる場所だが……なに、数字と書類ばかりを見ている君に、魔族領という現実の泥の匂いを肌で感じてもらいたくてね。商会代表としての『親心』だよ」
シェリィは扇の動きをピタリと止め、青磁色の瞳に微かな笑みを浮かべた。
「まあ、皇帝陛下から直々に『親心』をいただけるなんて、公爵家の娘として光栄の極みにございますわ。……ですが、陛下」
シェリィは首を小さく傾げ、鈴を転がすような洗練された声で言葉を継ぐ。
「前回の地政学の盤面で少々後手に回られたお腹立ち……失礼、小さなお戯れ心のために、帝国の重装護衛隊を動かし、北方までの莫大な軍費を費やされるとは。ずいぶんと『高くつく親心』でいらっしゃいますこと」
一瞬の静寂。
応接室に流れる空気が凛と張り詰めた直後、カール皇帝の胸底から豪快な笑いが弾けた。
「はははっ! 相変わらず口の減らないお嬢さんだ。皇帝の提案に対し、開口一番で補給線のコスト計算を突き返してくるとはね!」
皇帝は愉しげに目を細め、身を乗り出した。
「仕返しなどという浅はかな意図ではないさ。ただ、机上の計算とロジックに狂いのない君が、魔族領の荒々しい風と泥の中でどんな顔をするか……少しばかり興味があるのは認めよう。で、その高くつく親心を、君は受け取るのかね?」
「勿論、お引き受けいたしますわ」
シェリィは扇を優雅に閉じ、胸の前で軽く手に添えた。
「ヴァルモント公爵家の名においても、商会代表としても。どのような泥の中でも、わたくしは『最も気高く、利益の出る構造』を計算してみせますから」
「見事な気概だ。……そういえば、アスタリアの若き新王、ジュリアン陛下は同行されないのかね?」
探るような皇帝の視線に対し、シェリィは間髪入れずに即答した。
「公的な商会の現地調査や不正疑惑の確認のために、一国の主たるジュリアン陛下がご自ら他国へ出向かれるなど、政治的・外交的に理にかなっておりませんわ。陛下はアスタリアの王宮でどっしりと政務を執っておられます。これは筆頭貴族たるわたくしの責務です」
「くくっ、相変わらず公私の線引きも完璧か。良いだろう、では明朝、ラードンへ向けて出発する」
こうして、公爵令嬢としての矜持とアナリストの知性を交えた言葉のチェスは、シェリィの鮮やかな受け打ちによって幕を閉じた。
2
翌朝、ガリア帝都を出発した馬車列は、重装騎兵に護衛されながら一途に北方へと向かっていた。
車窓からの景観は、日に日にその表情を変えていく。
華やかな田園風景や美しい街並みは姿を消し、ゴツゴツとした荒々しい岩肌と、肌を刺すような冷気が支配する世界へ。
見上げれば、空の色すらもどこか歪んだ紫色を帯び始めていた。
馬車の向かい側に座るレオンハルト大公は、険しい表情で窓の外を見つめている。
前回の事件でシェリィを危険に晒してしまった後悔を胸に刻む彼は、剣士としての鋭い直感で北方の異様な気に強い警戒を向けていた。
「シェリィ。外の気が急激に荒くなっている。体調に異変を感じたら、すぐに言うんだぞ」
「ご心配ありがとうございます、レオンハルト様。ですが、大丈夫ですわ。北方の魔素データの変質について、観察していたところです」
シェリィは気高く微笑んでみせた。
前世の危機管理アナリストとしての視線で、大気の変化を客観的に分析しようと試みていたのだ。
だが——その時、シェリィの体内で「未知の異変」が静かに芽吹き始めていた。
(……何かしら、この胸の圧迫感は……?)
一般の人間であれば「北方の空気が冷たく重い」と感じる程度だろう。
しかし、シェリィの身体構造は、世界中の誰とも異なっていた。
13年前、幼い彼女の命を守るために施された深層の封印。
そのほんのわずかな「ほつれ(数%)」から漏れ出す魔力だけで、シェリィはこれまで圧倒的な大魔法や複雑な魔導回路の書き換えを行ってきた。
しかし、魔族領が近付くにつれ、大気に充満する「高濃度の原始魔素」が体内に侵入。
それが、深層に眠る——「規格外の莫大な自魔力」に触れてしまったのだ。
胸の奥底で、巨大な質量を持った熱の渦が、ドクンと不気味に跳ね上がった。
3
ガリア最北端の要塞都市『ラードン』。
黒鉄の重々しい城壁と、魔族領から吹き荒れる激しい風が迎えるその街へ到着した瞬間、シェリィの視界が一瞬、グラリと揺れた。
「……っ」
馬車から一歩外へ踏み出した途端、大気中の高濃度魔素がカミソリのような冷気となって肌を刺す。
(あ……ダメ、これは……!)
外気の激しい魔素と、それに過剰反応して膨れ上がる体内の自魔力。
二つの巨大なエネルギーが胸の内で凄まじい圧力差を生み出し、激しい衝突を起こし始めた。
内臓を直接絞り上げられるような強烈な過負荷。
視界が急激に色を失い、胃の奥から耐えがたい吐き気(魔力酔い)が押し寄せる。
脈拍が跳ね上がり、呼吸を吸うたびに、肺の奥が焼き切れるような激痛が走った。
「……シェリィ?」
レオンハルトが異変を察知して声をかける。
「……何でもありませんわ、レオンハルト様」
シェリィは必死で荒れる息を押し殺し、震えそうになる指先でしっかりと扇を握りしめた。
「少し、風が冷たいだけですわ。さあ、領主館へ向かいましょう」
カール皇帝の試練に応え、ヴァルモント公爵家の名に傷をつけないため。
そして、何よりレオンハルトや周囲に無用な混乱と心配を与えないため。
シェリィは血の気の引いた唇に完璧な「公爵令嬢の微笑み」を貼り付け、気高く歩みを進めた。
その晩、領主館で開かれた晩餐会でも、シェリィの完璧な立ち振る舞いは崩れなかった。
カール皇帝は「ふむ、さすが公爵家の令嬢だ。この過酷な北方の空気の中でも微動だにしないとは」と内心感心していた。
だが——レオンハルトだけは違っていた。
(おかしい……何かが決定的に狂っている)
シェリィのわずかに蒼白な側顔。
グラスを持つ指先の微かな顫動。
そして何より——剣士として、高位貴族として培われた高度な魔力探知が、過酷な警告を発していた。
(シェリィの周りだけ……空間の魔力密度が、異常なまでに高まり歪んでいる……!?)
4
晩餐会が終わり、宛がわれた自室へ戻った瞬間だった。
重厚な木製のドアが静かに閉まったのと同時に、シェリィの脚から一切の力が抜けた。
「あっ……く……っ!?」
完璧な公爵令嬢の姿は霧散し、シェリィは高級な絨毯の上へ膝から崩れ落ちた。
「はっ……ぁ……ガハッ……!?」
呼吸がまともにできない。
封印の隙間から溢れ出した黄金の魔力光が、シェリィの皮膚の表面からバチバチと音を立てて漏れ出し、客室の空間そのものを激しく歪ませていく。
深層に眠る自魔力が、魔族領の気に引きずられて勝手に「解凍」されようとしているのだ。
だが、現在のシェリィの制御回路を超えた暴力的な魔力の奔流は、彼女の肉体という器を内側から破壊しようと暴走を始めていた。
(熱い……! 体の中が……焼き切れる……!?)
前世のアナリストとしての冷徹な頭脳が、体内の惨状を容赦なく「致命的異常」として弾き出す。
自分の体の中に、こんなにも恐ろしい「怪物」が眠っていたというのか。
自分の力でありながら、何一つコントロールが効かない。
床に伏し、荒い息を吐きながら絶望的な激痛に耐えるシェリィは、前世と現世を通じて初めて——「自身の持つ魔力に対する本当の恐怖」に打ち震えていた。
その頃。
ラードンから遥か数百レグ離れたアスタリア王国の最奥、王宮の隠されし『星詠みの間』にて。
暗闇の中に座す五つの影が、同時にその目を見開いた。
大后陛下の膝の上で、13年間静かに凪いでいた黄金の羅針盤が、狂ったように発光し、金色の火花を散らし始めていた。
『……シェリィの魔力波長が、暴走している……!』
誰ともなく上がった緊張の息遣い。
五大至高の者たちが、静かに、しかし圧倒的な決意をもって立ち上がった。




