第32話 開幕前
side 夜神夕子
『第一回ピークドット大物産展』。
戦場となった街の復興を証明する事業の一つとして、各地の生産者や商人を招いてピークドットの大広場で行われる特産物展。
私は憶えていないのですけども、その戦いの時にいろいろあって主要都市に『アビスの箱庭』という転移ポイントが設置されたとのことで、それによって加速した遠隔地の交流に便乗した異世界文化の再現企画。
つまりは、遠い場所で生まれ育った人たちが、自分の知らない場所の料理や食材を知る交流イベント。
『人間は知らないものは知らない』。
どんなに美味しくて好みの食べ物があったって遠い地方の特産物だったら一生食べることはないかもしれない。
一度でも食べてみればやみつきになって一生大好物として買い続けるかもしれない。
日本ではそういったものはテレビの宣伝だったり通信販売だったりで少しは食べたことがあったり、そうでなくても『人気であること』や『美味しいらしいこと』くらいは知ることができて当たり前だったけれど、この世界では少し前までそうじゃなかった。
だからこその、ビジネスチャンス。
目敏くその商機を掴もうとする商人さんたちと、ガロム正規軍からの宣戦布告やそこからの戦闘と破壊のせいでイメージダウンしたピークドットが手を取り合って開くちょっとしたお祭り。
そして、その商人さんの中に……
「久しぶりだな、夜神夕子。記憶が欠けていると聞いているから、俺のことは……」
「えっと……アントニオさん、ですわよね?」
「……憶えていなくてもよかったのだがなぁ。あの砦での俺の振る舞いなんて」
私がステージに立つことになったイベント当日。
物産展そのものは始まっていても、まだライブは準備中という私にとっては待機にあたる時間。
会場の『特殊警備』として配置されている初期対応部のメンバーに指示を出す舞台裏の仮設通信室にやってきたのは、あの砦で面識のある男性。
いつも辛そうで、どこかやつれたような顔で無駄に立派な服に着られていたこの人は確か……
「あの、えっと……一応、敬礼とかした方がいいのかしら? その、立場上といいますか……」
「言いたいことはわかってるから無理をしなくていい。『見るからにお飾りの最高指揮官だった人』だろう? 自分でもわかっている……むしろ、お前が俺を仮にも『敬意を払うべき上官』と認識してくれていたことに少し驚いたくらいだ。いや、思い返せば確かにあの時の転生者たちの中では一番真面目ではあったが」
『見るからにお飾りの最高指揮官』。
世間知らずの私ですらわかってしまうくらいにロバートさんや黒雄さんに逆らえず独立軍の『代表者』というよりも『責任者』として据え置かれていた表向きの主犯。
あの旧都を占拠しての戦いが『終わったクーデター』の一部として語られるようになっている以上、言うまでもなく旧都砦の独立軍は勝って覇権を握ることもなかった敗軍、いわゆる賊軍として終わったわけで……正直、こうして目の前に現れた時には生きていたことに驚きましたわ。
しかも……
「今は『ノーラン商事』の会長さん……だと聞きましたけど……出世した、ということでいいのかしら?」
「貿易関連の経験はあるとは言え、貴族から新米商人への転身と考えれば出世とは言い難いが……『テロ組織のトカゲの尻尾』と比べれば大出世でいいだろう。ノーラン地方領の自治権はそう簡単に取り戻せないだろうが、それでも『ノーラン』の名前と文化だけでも時代の流れに風化させられぬように、こうして足掻いている方があの砦で名ばかりの首領をやっているよりも生きていると思えるしな」
「それで、この物産展にノーラン地方の特産物を……」
「ああ、調理技術というのは元を辿れば『食品の保存』の技術だ。中央に比べればノーランは田舎ではあるが、その分だけ便利な技術や異世界由来の食事文化が普及するのは歴史的に見て常に遅かった。だからこそ、独自の調理法や食品加工の文化は今でも色濃く残っている……これでも、あの戦いへの貢献の見返りとして恩赦と共にどうにか手にした軍資金をはたいて今日のイベントに命運をかけているんだ」
襟を正し、背筋を伸ばして自分の人生の分岐点となる『商人の戦場』へ向かう決意を見せるアントニオさん。
彼は、他人に操られるままに命令を出していた前とは全く違う……今なら皮肉ではなく『上司』と思えるような強い瞳で私を見据えて、ハッキリと言った。
「夕子……今日は頼むぞ。このイベントの成功はお前たちにかかっているのだからな」
少し時間は遡って、今日のまだ朝早い時間。
学校の教室で、イベントの準備のために集まったCクラス全員の前に会場の地図を広げて、千里先生は言った。
『つい先頃、数日前の春子の「占い」の裏付けが完了した……先日の刺客の尋問で見つけた敵の拠点に、今日のイベントを妨害するための準備をしていた痕跡が見つかった。敵は……「靴裏男」は、ほぼ確実に仕掛けてくる』
『靴裏男』。
隠密性の高い収納能力者で、以前から『戦英プロ』に対して陰湿な嫌がらせを繰り返している謎の転生者。
そして、先日のアトリさんの店では、その能力を使って監禁し『手駒』にした人間を差し向けてきた犯人。
何故かわからなくとも確実に私への執着を見せているらしいとは聞いていましたし、その執着の対象の私がステージ上に立つように春子さんがプログラムを変えたと聞いて、おそらく『そういうこと』なのだろうというのは私でも薄々わかってはいましたけど……
『拠点の設備などから見て、敵はイベントの客に紛れ込ませた手駒を使って「食中毒」と「機材トラブル」を同時多発的に引き起こそうとしている。今回、愛理や他の戦闘向きの大人組は襲撃した拠点で得た情報から特定できた敵の残り拠点とそこに監禁されている手駒に対処するためにこちらへは来られない……イベント会場は、お前たちにしか護れない』
敵は明確にこのイベントを、ライブをぶち壊そうとしている。
以前、テーレさんからの話で『靴裏男』はなんらかの方法で捕まえた人間にスキルを付与することができると聞いたけれど……見つかった『拠点』では、『病原体の扱い方』や『発火装置の作り方』を付与した人間を監禁して脅すことでトラブルを引き起こすための道具を作らせていたらしい。
収納にスキル付与……そんなすごい能力の割にやることがあまりに陰湿だけれど、それだけ本気で、それだけ悪質に転生特典を使った『嫌がらせ』を行おうとしている。
愛理さんたちがこちらに来られないほど早急に対応しようとしているのも、他の拠点でもっと危険な毒物や爆弾なんかを量産させている可能性もあるから。
そして……
『イベント会場の地図についた印は春子の占いの結果から「トラブルが起きる可能性が極めて高い」と判断した場所だ。春子の能力の性質上、完全に100%信頼するわけにはいかないが……お前たちの仕事は、「トラブルが起きる前」に下手人を全て捕まえることだ。イベントの客にはトラブルが起きそうになったという事実すら認識されない内に全てを終わらせ、イベントを成功させる。それが最善の結果だということを忘れるな』
「…………皆さんを信じて、何事もなくライブを完遂する。思っていたよりも緊張しますわね」
アントニオさんとの挨拶も終えて、ライブの開始を待つばかりの現在。
春子さんの『占い』が、転生特典による未来予知という保証がなければまずあり得ない『先回り』の配置を済ませた初期対応部。
けれど、ステージに立つ『アウトゾーン・ティーンズ』のベルシィさん、ミュジカさん、タカラさん、そして私の四人だけは舞台裏で待機中。
皆さんはおそらく既にイベントを妨害しようとする『靴裏男』との見えない戦いを始めているのでしょうけど……
「もしも私がステージの上で失敗したら……」
何も起こらなければ、『ゼット・ネイバー』のアシストに全てをお任せしている間に終わるというのはわかっているけれど。
もし何かあってライブが失敗すれば、皆さんがお客さんたちに異常を気取られないように気配を殺して動いているその努力が無駄になる。
あのアントニオさんの……私が思っていたよりも遥かに重いこのイベントへの決意と覚悟が台無しになる。
もっと気軽なお仕事かと思って受けた話だった。
けれど……これが『責任』というものなのかと思わずにはいられないほど、重いものが心に乗っている。
「春子さんはどこかに行ってしまいましたし……誰か、お話してくれる相手はいないかしら」
少しでも緊張を紛らわせたくて。
あまり動き回るべきではないとは思ったけれど、座っていたベンチを離れて舞台裏を少しだけ歩いてみる。
照明が弱くて少し暗いけれど、狭くはない。
押し入れの中みたいに『暗くて狭い場所』はパニックになってしまうくらい怖いけれど、歩き回れるくらいの灯りと空間があれば、いつでも自分で出られると思えるくらいの場所ならパニックにはなりませんわ。
そして、ここは狭くはないけれど、さすがに舞台裏なんてそこまで広いわけでもないから、すぐに自分以外の『誰か』は見つかって……
「あっ、ベルシィさ……」
「こら、こっち来い夕子」
ステージ裏の奥まった空間。
そこにいたのは、椅子に座って俯きながら顔を手で覆っている舞台衣装のベルシィさん。
彼女に声をかけようとした直後に服の裾を引っ張られて強制移動。
ズイズイと引っ張られながらも、低い位置からの力で動かされているので視線を落とすと……
「本番前で集中してるんだ、あいつ。邪魔してやんな」
「タカラちゃん……いえ、タカラさん。そう……ですわね、私ったら自分の緊張ばかり考えて……ベルシィさんたちは『主役』ですものね。私なんかよりもずっと緊張していますわよね……」
私を引っ張るタカラさんの小声の注意でハッとする。
仮面をつけてアシストに従って体内のゼット・ネイバーに身体を貸すだけの私とは違う。
以前からアイドルとして活躍しているベルシィさんたちは慣れているだろうと思って話しかけようとしてしまったけれど……プロだろうとベテランだろうと、毎回緊張していたって何も不思議じゃない。
私がそう納得しかけたところで……
「緊張とは少し違うかもな……『アイドル』としての仕事は、あいつにとっては仇討ちみたいなもんだから。むしろ、ちゃんと心を落ち着けてないと笑えないだろ」
「…………え?」
「『え?』って、夕子はあいつの……いや、聞いてないのか? あいつの、あー……どうして軍に入る羽目になったか、とか。そこら辺の話」
「…………ご家族のことなら、本人から聞きましたわ。けれど『アイドル』が、その仇討ちというのは……」
私がそう問いかけると、軽くため息をついて足を止めて、私に向き直りました。
「リハーサルの時に見せただろ、あのアニメーション……あのショートドラマの内容は実話から作ってるんだ」
「実話からって……あの、白黒の鷹とタコの戦いや、暗黒帝国のお話が……?」
「そうだよ。ちなみに、あの白黒鷹は愛理の持ちキャラで、尻尾が『6』になってるリスはシックスの持ちキャラな……あれはな、戦英プロがやってる『負の遺産の後始末』の記録と報告なんだよ。そんでもって、お前の言った戦いとかは……裏組織の力で成り上がった悪徳貴族やら、組織が潰れたせいでやってきたことがバレて今も中央政府から逃げてる闇市の残党なんかの討伐報告。ネタが足りない時には妖怪退治の話とかも入れてるけどな」
「な、なんでそんな……それなら、もっと直接的に発表した方が……」
「裏組織との後ろ暗い繋がりがあって政府のお偉方にも捕まえにくい『そういう連中』の処理を戦英プロが受けてるんだよ、『ソニアの実家の関係者』から、内々にな……政府の方も、パニックにも隠匿にもならない程度に公表はしてるが、大きな声で民衆に言うわけにはいかない汚点だ。だから、こうやってエンタメ化して『知ってるやつならわかる』『元ネタを調べればわかる』ってくらいにぼかすことで俺たちの社会復帰への足がかりにすることにもお目溢しをもらってんだよ……本当に『自分たちは正義の味方として皆に迷惑をかけてる悪党をぶち負かしてやったぞ』なんて、そのままぶちまけると押し付けがましくなるしな。かといって、さすがに何もアピールせず裏で動いてるだけじゃ汚名の払拭も名誉回復もなんもねえだろ?」
「…………」
「ま、お前が気付かなかったように、本当に何も考えずに楽しむ分には単なる異世界技術の宣伝に見える安っぽいアニメーションだ。そうじゃなきゃいけない……だが、実際に起きた事件との相似に気付いたやつがその気になって調べれば関連性も見えてくるし、そこから他の事件のこともわかる。そして、『悪役』の元ネタになったあくどいやつらのやってたリアルで吐き気のする悪事の数々もな」
「じゃあ、ベルシィさんの『仇討ち』というのは……」
「ああ、そうだ……『アウトゾーン・ティーンズ』が有名になるほど、アニメーションに秘められた本当の意味に気付く人間も増えるし、それによって裏組織に封殺されてきた悲鳴も悲劇も……中央政府ができるだけ大衆に認知されたくないと大々的な発表を控えてるガロム正規軍の悪事……『悪徳権』も、白日の下に晒されていく。それが、あいつにとっての『仇討ち』なんだ……きっと、最後はあいつ自身についての『スキャンダル』を認めて、それをライブでぶちまけた情報への導火線にして、表舞台を降りるところまで含めて」
『悪徳権』。
ベルシィさんが家族を失った……いえ、そんな言葉では生温いような悲劇を作り出した人災的悪習。
何も知らなかった家族を襲った軍事力の悪用……そして、軍事力だけでなく『権力』による秘密に護られて続いてきたであろう最悪の行為。
『仇討ち』とは、その秘密を暴いてより多くの人にそんな悲劇が実在したことを知らせること。
そして、二度とそんなことが起きないように、そんな『秘密』が続くことがないように世界の価値観を変えること。
さっきのベルシィさんは、顔を隠していた。
いつも、教室で会えばいつだって笑っていた彼女が……俯いて、手で顔を覆っていた。
私には、その手の下の表情は想像できない。
人前では、同じCクラスの私たちの前ですら『仇討ち』のために完璧なアイドルの振る舞いを徹底している彼女が本番直前の今、何を思っているのか……私には、考えられない。
想像しようとすれば、それだけで重すぎて心が潰れてしまいそうになる。
「…………」
「夕子……衣装とメイクの時間もある、春子もそろそろ探しとけ。あいつなら時間になればひょっこり出てくるんだろうが、ここにいるよりマシだろ」
「はい……そうしますわ」
タカラさんに追い返されるようにベルシィさんの集中している空気の重い空間から離れて、彷徨うように舞台裏を歩く。
すると、見えてきたのは大道具置き場らしき場所で……
「それは……本当、なのか? あいつは、あの現代日本で……あの歳で……」
「……っす。少しだけ聞いた話だと、学校のテストとかも家の権力で勝手に……」
そこにいたのは、向き合って話しているねねさん……いえ、今日は『大人組』の小野倉さんと千里さん。
小野倉さんから話を聞くと、柱に背をもたれて俯いて頭を抱える千里さん。
何か深刻な話をしているらしいという空気はこちらまで伝わってきて、離れようとしたところで……
『ゴトッ』
「あっ……」
つい覗き込む時に触っていた木材に体重をかけすぎたらしく、その先に触れていた別の端材が鈍い音を立てて床に落ちる。
その音は元冒険者の千里さんがこちらに気付くのは充分だったらしくて……
「あ、あの、わたくし……し、失礼しますわ!」
「ま、待て! 夕子!」
必死の形相で強く名前を呼び止められて、身体が動かなくなる。
『大人に強く命令されると反射的に従ってしまう』……身体に刷り込まれたその習性のせいで金縛りのようになってしまった私を見て、何故だか苦虫を噛み潰したような表情をした千里さんは、一度手で顔を覆って、深くため息をつく。
「はぁぁ……命令して、怯えさせてどうする……子供から信頼されない大人のどこが『先生』なんだ……この馬鹿が」
拳骨。
私へ、ではなく……千里先生から、千里先生自身の頭へ。
そして、目を伏せたままこちらへ歩み寄って……大人が小さな子供に目線を合わせる時にそうするように膝をついて、私よりもずっと視線が低くなる位置から、さらに深々と頭を下げた。
「すまなかった……昨日の私の言葉は、絶対に言ってはいけないことだった。謝ってどうなることではないとはわかってるが……謝らせてくれ」
「え……?」
「……小野倉から、先日の話を聞いたんだ。夕子の死因も……家庭環境のことも」
「じゃあ…………」
「私が生まれ育ったのと同じ現代日本で……本当に『日本舞踊だけ』しか教え込まれないような生活をしてきたなんて……」
「千里先生……」
「まさか……平仮名の読み書きにも苦戦するような教育しかされないまま高校生まで……」
「ひ、ひらがなの読み書きくらいできますわ! ゆっくりなら……それか、見本があれば」
「…………くそっ!」
もう一度自分の拳を自分の額にぶつける千里先生。
その後ろから、小野倉さんがオズオズとやってきて……
「あの……これ、すんごく言いにくいんすけど、夕子ちゃんのそれってたぶん、文字を『日本語』として読み書きできてたじゃないんじゃないかな〜って……」
「『日本語』として……読み書き、できて……なかった? それは、どういう意味ですの?」
「いや、多分なんすけど……夕子ちゃんって、平仮名の『なにぬねの』をジブンの筆跡そっくりにコピーしたみたいに書いてくれたじゃないっすか? それとか見ると……文字を『図形』としてスケッチして、その時の自分の手の動きを暗記してただけなんじゃないかって……普通は自転車の乗り方とかと一緒で、記憶喪失とかブランクじゃ平仮名とか数字の書き方は忘れないと思うっすし。そういう忘れ方するのって、弾幕ゲームの避けパターンとか音ゲーのボタン押すタイミングとか、そっち系っぽいなって……」
「それは……長く寝ていた、後遺症で……」
「そうかもっすけど……それと、あれから考えてたんすけど、読みの方も……たぶん、文字を文字じゃなくて『絵』として記憶してたんじゃないかと……夕子ちゃん本人がその違いを理解してないから言語化できてなくて自覚もなくて他の人にも気付かれなかったのかもしれないっすけど」
「小野倉、どういうことだ?」
小野倉さんの今している話は千里先生も初めて聞くものだったのか、振り向いての問いかけ。
それに対して、小野倉さんは自分の中での考えをまとめながら話すように言葉を続ける。
「ほら、子供向けアニメとかで出てくる暗号で『動物の象の絵』と『お金の絵』を並べて答えが『雑巾』になる、みたいなクイズよくあるじゃないっすか。夕子ちゃん、たぶんそんなタイプの暗号を解読する感じで文字を見て『その図形の呼び方』を音で思い浮かべて頭の中で並べて会話とかと同じように処理してるんじゃないかなー……なんて。それで文章を読むにもちょっと時間がかかるんじゃないかな、とか……」
「そ、そんなことありませんわ! さすがに、私、そこまで……読み書きくらい……」
「いや、そうかもしれないっすけど、完全にはっきりそうなってるわけじゃないかもしれないっすけど……ジブンがこう思ったのは夕子ちゃんが自分の書いたメモなら普通に読めてるみたいっすから……夕子ちゃん、ジブンの文字を見本にした時に筆跡までかなり似せてたっすし、それって『文字』を普通の人よりもかなり『絵』に近い感じで記憶してるのかなって」
「文字を……絵として……? だが、本当にそうなら、さすがに周りが気付いて……いや、『再現が精密すぎた』なら……」
「愛理さんから、『自分とは別のタイプの異常記憶だと人の顔の角度や表情が少し違うだけで同じ人間と認識できなくなるらしい』……みたいな話を聞いたことがあるんす。だから、夕子ちゃんにとっての『文字』がそういう……たぶん筆跡が変わると『画風』が変わっちゃうから……たとえば『め』と『ぬ』とかの『文字としての特徴の違い』と『筆跡の違い』がわからなくて区別が難しくなっちゃうとか、そもそもその人の書き方の癖なのか全く別の読み方をする文字なのかわからないみたいな……」
「そんなことは……『め』と『ぬ』くらい……普通に……」
普通に書き分けられる。
そう証明しようとして、二人の前で、目の前の木材の表面に薄く『不明』を滲ませた指で線を引いて……引き始めて……
「夕子……どちらを書こうとしたかわからないが、『逆』だ」
「えっ……?」
「書き始める方の、左右がな……いや、書き順を細かく注意する気はないが……私なら、それでバランスよく書くのは逆に難しいと思う」
「…………う、うっかりしただけですわ……」
「えっと……いや、実はこれ、ぶっちゃけ大人でもないことじゃないんすよ? だから、夕子ちゃんもそんなに落ち込まなくていいっていうか……」
「ち……ちがいますわ、今のはうっかり間違えただけで、ひらがなくらい……」
「いや、ホントに大人だって偶にあるんすよ? これはジブンも大学で数学の時ホワイトボードのΣ(シグマ)を平均2って書いてたり、微分のδ(デルタ)の話なのに先生が『6』をそう書く癖のある人だって思い込んでノート取ってて後から訳わかんなくなってロリ先輩に助けてもらったりした経験からなんすけど……あの時のジブン、δがそういう記号だって説明されてもしばらく『6』の認識が抜けなくて『なんか円周率の3.14=πみたいに特殊な条件で変化した6』みたいに思い込んでて……勉強教えてくれるロリ先輩にすんごい苦労かけてたっすね」
「…………」
「まあ、とにかくそういう感じっていうか……もしも夕子ちゃんにとっての『読み書き』が……平仮名までジブンにとっての『Σ』とか『δ』とかの話と同じなら、鏡文字になったり見本の筆跡まで真似ちゃったりも説明がつくのかなって思ったっす。ジブンがその数学記号の意味を理解せずに文字の形だけ見て意味がわからないノートを取ってたみたいに……ちゃんと『文字』ってものを理解するより先に『完璧に形を真似すること』を教え込まれたなら、勉強とか文字の練習とかって『学習法』の基本も『そういう感じ』になっちゃうこともあるのかなって」
「小野倉、『そういう感じ』というのは……」
薄暗い中、顔色を若干悪くしているように見える千里さん。
おそらく『普通にちゃんとした教育を受けられた側の人』である彼女は『想像もつかないもの』を想像しようとするような顔をしていた。
「哲学とかで言うところの『中国語の部屋』みたいな話っすかね……周りの人と同じように教科書とかを読んだり問題に答えてるように見えても、内容を理解せず同じような図形として書き写してるだけ、みたいな……それで読みの方も同じキャラクターでも絵師さんが違うと時々誰かわからなかったりするみたいに」
「『中国語の部屋』……あの話は、確か実際には……」
「っす……けど、夕子ちゃんって自分の名前とかの書き慣れた文字そのものはスラスラ描けるみたいっすし、うっかり間違えた時の鏡文字でもまるで印刷した文字みたいに違和感なくて見逃すくらい綺麗っすし、なにより自分で書いたメモはちゃんと読めるみたいっすから、本当に全く『読み書き』ができないってわけじゃないとは思うんす。日本語なんて元々全部象形文字って意味では絵みたいなもんって認識も間違ってないっすし」
「……」
「ただ、本当に手書きの文字だと不必要なレベルで完璧過ぎるというか、夕子ちゃんが現代日本で……たぶん、ある程度は普通に苦労せず生活できてたのは、一番よく使われるのが『画風』を統一されてて読みやすい『活字』だからだったんじゃないかなって。だから、こっちでも夕子ちゃんが読み書き苦手だって今までわからなかったのも、基礎教養の学習ゲームの画面の文字とか手書きじゃない書類を読むだけなら比較的簡単だったりするんじゃないかなって……」
「違いますわ……わたし……ひらがなくらい……ちゃんと……」
「わわっ! 泣かせちゃうつもりじゃなかったんす! ごめんなさいっす!」
さっきは、本当に、うっかり間違えただけなのに。
さすがに、『め』と『ぬ』くらい何が違うかまでちゃんと知っているのに。
小野倉さんが、彼女なりに私の、私自身にも言語化できてないような頭の中を理解しようとして一生懸命考えてくれたのがわかってしまって反論できない。
それに……画数の多い漢字だったり、私がしてきた『勉強』を思い返すと全くそういう間違った認識をしていたことは……完全には否定しきれない。
春子さんに教えてもらった『記憶法の違い』の話。
将棋の『この盤面ではこう打つ』を最初から最後まで全部暗記していれば、将棋のルールも戦術も理解できない子供でも最強になれてしまうという話。
それを知った今だと、過去を振り返った時にどうしても考えてしまう。
出力されるものが一緒でも、テストで同じ点数が取れたとしても、労力や脳の記憶容量の使い方が違う方法がある。
私が当たり前だと思っていて実行していたのとは全く違う、そして他のほとんどの人にとっては他人に説明するまでもなく当たり前だと思っている憶え方や思い出し方がある。
日本での学校の授業は、私には難しかった。
話も教科書の文章も憶えきる前に次へ行ってしまうし、黒板もノートに写し切る前に消されてしまうから。
宿題は日本舞踊の稽古の時間に間に合わなくて、自分で解けずに問題集の答えをそのまま書き写すのが私にとっての当たり前だった。
そもそも何がわからないのかわからなくて、誰にどう質問すればいいのかすらわからなくて、たまに自分で解いてみようと思っても何もできなくて、結局諦めるしかなかった。
毎日、なんにもわからないまま教室での時間を浪費していた。
なんでクラスの皆は普通にできている『学校の勉強』があんなに難しくて辛かったのか、なんで他の皆は簡単にできてしまうのかわからなかったから、とにかく頑張って憶えようとして、追いつかなくて、私は根本的にどうしようもなく頭が悪いのだろうと思っていた。
けれど、そもそも私がそういうものだと思っていた『勉強』の概念が間違っていたのなら。
日本舞踊の型を憶える時と同じように頑張ってしまっていたことが根本的に誤りだったとしたら……私の人生は、私の十六年のほとんどは……
「……すまない! 本当にすまなかった!」
「せ、千里さん……?」
「私は教師失格だ……目の前の生徒そのものを見ず、自分の頭の中にしかない思い込みに話しかけて、本物の夕子に酷いことを言っているのに気付けなかった」
「…………」
「お前が心から生まれ変わるために、その勇気を以て『剣』を手にしたことを理解できていなかった……夜神家の、名家の生まれと聞いて、伝統芸能の継承とは『そういうもの』なのだろうと思って、人並み以上に上等な教育を受けた上で日本舞踊の稽古が厳しかったというような、そんな、生まれに恵まれた令嬢の甘えた悩みのように勝手に思い込んでしまっていたんだ。本当に悪かった」
「……そういう誤解はもう慣れっこですわ。前世から、ずっと……だから……」
「夕子、だが……っ!」
「慣れっこだから、平気な……はずなのに……私、あの時……」
信頼してたから辛かった。
千里先生は、戦英プロの人たちは、みんな私のことをちゃんと理解してくれていると、お母様じゃなくて私の側に立って話を聞いてくれる味方だと思って、思えていたから安心できる居場所だと感じられていたのに、それが裏切られたみたいで。
「脚が、痛むんですの……『踊らなくていい』って言ってくれた人がいて、その時の傷が……治ったはずなのに、日本舞踊をまたやらなきゃって考えると、急に痛くなって……テーレさんは、それなら踊らなくていいって言ってくれたのにって……お母様と、『多少仲が悪かったくらいで』って言われて……私、それで死んだんですのよ? 死ぬほど、辛かったんですのよ? それなのに……『そんなこと』なんて……信じてたのに、戦英プロの仲間で、信じられる大人だって思ってた人が、私の苦しみを『そんなこと』って……」
「っ…………殴られても、他の何をされても文句は言わない」
「ぐすっ……もう、あんなこと、言わないで……二度と……絶対に……」
「ああ……約束する。本当に、私が全て悪かった」
偉そうにせず、逆上して怒鳴りつけてきたりせず、ただ謝ってくれた。
正直に言えば、言いたいことはまだまだたくさんある……繰り返し繰り返し、無限に言いたい文句がある。
けれど、言い足りなくても……ちゃんと謝ってもらえて、大きなトゲが取れた。
そして……
「相変わらず、夜神さんは泣き虫さんだなー。泣き腫らした顔でステージに立っちゃう気? まあ、仮面付けるからそれでもいいけど」
私に日本舞踊とは別の道を踏み出させてくれた『剣の先生』の声が背後から聞こえたと同時に、視界が狭くなる。
「ぐすっ……春子さん」
「さ、お互いにいくら話しても話し足りないとは思うけど、そろそろ準備しなきゃだからね。ほんの少しだけ横に置いて、サクッと一仕事終わらせちゃお?」
気付けばライブの開始時間はもう間もなく。
もうすぐ……私が剣を持って踏み出すべきステージの幕が上がる。
ちなみに、夕子さんが書類にサインする時の『夜神夕子』の筆跡はベーシック明朝体そっくりな綺麗な文字です。
……名前の描き方一つからでも育ちの良さが滲み出てますね。




