第21話 少年兵の戦後④
side 夜神夕子
『黒い恋人』。
毒草を好んで食し、体内に毒を溜めて身を守るというウサギ『ドクソウカジリ』の変異種にして、『怪獣』になりかけている歪んだ神獣。
アオザクラのおじさまの話によると、『彼女』は毒草を好むドクソウカジリでもまず口にしない『黒毒沼の樹』の樹液を主食にしていたそうで。
その樹の持つ『黒いトリモチのような毒の樹液で虫や動物を誘引して捕らえ、そのまま養分にする』という食虫植物のような性質を受けて毛皮は黒いゴムのような物質に変異し、さらにその伸縮性と弾力性から打撃を弾き返すようになり、しかも大きさや形態を自在に変えて近隣の動物たちや村の人々を殺し回ったのだと。
ただ、それだけならまだ単に『強い魔獣』というだけ。
森の民の方々が『厄介』だというようなものではなく、実際生け捕りまでは成功したのだとか。
ただ、『獲物を誘引する』という毒樹液の力も『彼女』の中で濃縮されていたらしく……
「とどめを刺そうとしたけれど、誰もやりたがらなくてその場で殺せなかった。簡単に言ってしまえば『殺そうとすると抵抗感が強くなる』という性質が発現してしまったの。『魅了』……というよりも、『印象操作』。ねねさんの能力に近いかしら?」
「ビィさん、簡単に言っていますけれど……そのラバーズさんは言わば『魔獣』の類で、人間ではありませんわよね? だというのに、そんな魔法のような……いえ、転生者のような能力を持っていることなんてありますの?」
「ええ、割とよくありますわよ? こうやって森の民の方々が人里に影響が出る前に見つけて狩っているので中央ではあまり知られていませんけど。転生特典と同じように……というよりも、その元となる『神様の権能』という意味では、むしろ転生者の方々よりも真っ当なものと言えますわ。だって、『森の神様』として発現した自前のものですもの」
「『森の神様』……『神獣』というのは、そういうことなのですわね」
「ええ、ついでに言えばいつも『初期対応部』のみんなで捕まえている『妖怪』も、その神獣の肉体の一部を組み込んでいるものがほとんどよ? 今回の『悪神送り』というのは性質的に危険な権能を発現させた神獣に対するちょっと特別で入念な処置だけれど、森の民は昔から神獣の一部を『神様の力』を定着させるための器として利用していたの」
今は儀式の準備中。
暗くなり始めた森の中の集落は篝火に囲まれていてある種のお祭のような不思議な空気に満ち始めていますわ。
これから行われるのは……私たちが行うのは、生け捕られ自由を奪われた『彼女』にとどめを刺し、そのままの流れで血肉を神器の素材として使えるように腑分けする行程。
まだ姿を見てもいないのに『彼女』にそうすることを考えるだけで罪悪感が湧いてくるのも、その性質によるものなのでしょうか。
「わ、私……釣りとか狩りとか、そういう経験は全くなくて、生き物の解体なんて……」
「それなら心配ありませんわ。だって、私が一緒にやりますもの。これでも、実家を勘当されてから何年かは肉屋の看板娘をやっていましたし、家畜を潰して店頭に並べたことだって何度もありますのよ?」
「そ、それは『肉屋の看板娘』のお仕事なんですの……?」
そういう行程は専門の業者の方がやっていて『肉屋の看板娘』が店の裏でやっているというイメージはないのですけれど……いえ、ビィさんがやっていたというのなら、実際にそういうふうにやっているお店もあるということなのでしょうけど。
既にこのお役目を辞退しなかったことに少し後悔し始めている私と比べてビィさんはむしろ生き生きしているように見えますわ。
「ビィさん……解体、以前に……殺せる、のでしょうか? 森の民の方々も殺せなかったと……」
「確かに殺そうとすれば抵抗感が上がる性質らしいので殺しにくくはありますけれど……結局は、その上限も『人を殺す時の抵抗感』を越えませんわ。やろうと思えば誰でもやれるけれど、自分がやらなくていいのなら自分がやらないで済ませたいという程度……殺してしまえば、人を一人殺したのと同じくらいにストレスを感じるというのが予期できてしまうというだけ。それなら、『人を殺し慣れている人』がやった方がいいでしょう?」
「…………そう、ですわね。私はもう、あの戦場で、たくさん殺したのだから……そこに一人分の重みが増えたところで、大きな違いはありませんわね……それで、森の民の方々のためにもなるのなら、悪くない話……ですわよね……?」
「ええ、そうよ。夕子さんが自分で言っていたとおり、人を殺しても罪の意識を感じられない『人でなし』なら単純な印象操作くらい平気なはずですもの」
血で血を洗う罪の清算。
この手を汚して傷付けた森の民の方々が自らの手を汚さなくていいように、既に汚れたこの手を使う。
それが正しく成立してしまえば、残念ながらというべきか、私は元から戦場に向き過ぎていただけの『人でなし』であったことが証明されてしまう。
適性のあった才能を適切に振るってしまった結果、順当に戦果を上げてそれが当時は『敵陣営』であった森の民の方々に大きな被害を与えてしまっただけ、そういう英雄譚の裏返しのような話でしかなかったと結論付けられる。
そうなれば……私のしたことは単なる『人を殺した』という話ではなく『英雄のように活躍した』という話だと思えれば少しは、気も楽になるのかもしれない。
そう思えば、今のこの気分の悪さも錯覚かもしれませんわ。
けれど……
「……ビィさんは、無理に手伝ってくださらなくてもいいでしょう? 『彼女』を殺せば心に痛みを受けることがわかっているのに……私の『共犯者』になる必要なんて……」
ビィさんは、森の民の方々に償うべきことなんて何もない。
わざわざ辛いとわかっている仕事をする必要なんてないはずなのに、私と一緒に刃を握ってくれると言っている。
少し心に余裕ができて、ようやくその理由を問いかけられた私に、篝火の灯りに照らされて銀の髪を燃えているかのような焔色に染めた彼女は、にこやかに微笑みながら言った。
「私、思いますの。自分自身が悪くなくても謝れるのが『本当に偉い人』だと……それも、他人の分まで謝れたのなら、きっと『とても偉い人』なのだと」
「……え?」
気分が悪くて頭の回転がよくないせいか、言葉の意味が上手く読み取れなかった。
だって、『本当に偉い人』というのは……やっぱり誰でも見ればわかるくらいに『偉そうな人』で、それは『絶対に誰にも謝ったりしない人』だと思っていたから。
少なくとも、私はお母様が誰かに謝っているところなんて、見た記憶がないから。
あんなに、『偉そうな人』が『偉い人』じゃないなんて……考えたことがなかったから。
「私は、今はこんなでも、今生は『貴族の娘』として生まれたのですもの。お友達が『ごめんなさい』をするのをお手伝いするくらい、お茶の子さいさいですわ」
「……ありがとう、ございます。ええ……そう、ですわね。ビィさんは『偉い人』ですわ」
少なくとも、今の私にとってはそれを否定するなんてありえないと言えるくらいに。
私が長く抱き続けることになりそうだった過去の罪への苦悩を一日で解決できてしまうかもしれない道を示してくれて、その道を進むのに肩まで貸してくれると言っているのだから。
程なくして、儀式の準備は整いましたわ。
「『捌き役』、どうぞ前へ」
森の民の儀礼などに詳しくない私たちは本当にただ『捌き役』としての実行犯になるだけで良いように儀式が進められたところで呼び出され、儀式用の服を着て『儀式場』の中央へ。
手元を明るくするためかたくさんの篝火に囲まれて少し熱気すら感じる儀式の中心へやって来て、初めて目にした『彼女』は……
「ングキュィ──ッ! ギギギギュギッ──!」
木組みの台に縛り付けられた『人間大の黒兎』。
その四肢と首にかけられた縄で両腕両脚を開いた状態で台に固定された『彼女』は、その口に枷を嵌められ、その目を分厚い布で隠されてガタガタと台を揺らしながらもがいている。
自分に死が迫っているのを気配で察したように、必死に逃げようとするように。
けれど、『森の民』の施した拘束に『彼女』に脱出の希望を与えるような隙はない。
「夕子さん、残酷だと思うかしら? けれど、まともに目を見たり鳴き声を聞いたりすれば精神への影響が強まるの。それに、これからやることのためには視覚や声は封じていた方がいいわ」
そう言って、ビィさんが手にしたのは森の民の方々から借りた、『彼女』の弾力の強い皮膚を貫けるほど鋭利で……毒に慣れたその身に通じるほど強力な麻痺毒が仕込まれた骨製のナイフ。
ビィさんは、重い斧を持って立ち尽くす私の前で、さながら『キリトリ線』を描き入れるように『彼女』の肌に毒を刻み込んでいく。
ゆっくりとその四肢の感覚が消失して、『彼女』が自分自身の肉体が損なわれたと錯覚できてしまうように。
「事前に説明した通り……本当に切り落とさなくてもいいの。森の民の方が、タイミングを合わせて桶に水を注いでくれる……すぐに、『致死量』を感じ取ってくれるわ」
そう……これは、昔テレビで見た人体実験と同じ。
死刑囚に、両手両足の血管を切って血を流してもらうと言ってバケツに水を垂らして音を立てていくと……実際には血を流していないのに、その死刑囚は致死量の血を流したと思い込んで死んでしまった。
これは、『殺すのが難しい相手』に失血を錯覚させて、『勝手に死んでもらう』という手法。
私たちの罪悪感が一番少なく済むようにビィさんが考えてくれた方法。
けれど……
「さあ、これでもう、『彼女』は自分の手脚があるかどうかを触覚で判別できない。後はこれを五回振り下ろすだけですわ……気を楽にして。殺すのは、捌く相手はただの『ウサギ』、人間じゃないわ」
ナイフを置いたビィさんが私の後ろに回ってきて、斧を握る手にそっと手を添えられる。
そう……後は『彼女』のすぐ側に斧を振り下ろして、『切断したふり』をするだけでいい。
それで、私の戦場での行いは、この罪悪感は、清算される。
きっと……きっと……
「ねえ、夕子さん。私ね……戦場での行為について善悪を問うのは意味のないことだと思うの」
「……え?」
『ダンッ』。
気付けば、『彼女』の右腕ギリギリへ斧が振り下ろされていた。
非力な私の力で出せるとは思えないような豪快な音で、もしそこに生き物の肉や骨があってもそのまま一刀両断してしまっていたと思えるくらいに。
「キュギィイ──ッッ!?!?」
『彼女』が首を大きく振りながら悶え苦しむ。
実際には斧での傷なんてついていないのに、自分の肉体の一端が両断されたと思い込んで。
それと同時に、右手の先の桶に水が注がれ始める。
始まってしまった儀式。
そんな中で、ビィさんの声が耳元へ吹き込まれ続ける。
「私は二十七人殺して『殺人姫』なんて呼ばれるようになったわ」
「二十……七、人……?」
「ええ、そうよ。ちゃんと数えたもの……けれどね、けれどね? 戦場に行ったことのある兵士さんには、私よりもたくさん人を殺してる人なんていくらでもいるの。これって、不思議なことだと思わない?」
『ダンッ』。
今度は右脚。
始まる水音と、口枷越しでも伝わってくる悲痛な叫び。
想像と違う、気が楽になるどころかますます辛くなってくる。
喉が狭まったみたいに呼吸が苦しい。
身体が冷たい、なのに汗が噴き出てる。
きっと、顔は真っ青で今にも倒れそうなのに……ビィさんが手を添えているだけで、私の全身が操られてしまっているみたいにビィさんの思い通りに動かされてしまう。
そうして、儀式場の中で足を進めさせられる間も、ビィさんの声が脳へ響く。
「不思議ね、不思議でしょう? 私がたった二十七人殺しただけであんなにみんな大騒ぎしていたのに、それが『戦場』で『兵士さんのやったこと』だっていうなら誰もおかしいって言わないの。殺した人の数が狂気の度合いだっていうのなら、快楽殺人鬼なんて可愛く思えてしまうくらいに殺してる人もたくさんいるのに、尋問のために遊びのための拷問よりも酷い事をした人もいるのに。それも、ほとんどは戦争なんてなければ死ぬまで人なんて殺さなかったはずの優しい人や普通の人なの。みんな、戦場では当たり前みたいに人を殺してしまう」
「いやっ……やめましょう、やめて、ビィさん……もう、これ以上は……『彼女』が、苦しんでるから……」
そこにないはずの『斧が肉と骨を断つ瞬間の手応え』が両手にこびり付いている。
立ちくらみがして、吐き気がして、今にも倒れそうなのに、勝手に身体が斧を振り上げている。
「『戦火の神秘は人を狂わせる』」
『ダンッ』。
今度は、左脚。
それ以上、何も見たくない。何も考えたくない。
なのに、心の奥にビィさんの妖艶さすら混じった声が響き続ける。
「戦火は、戦場は混沌の坩堝よ……殴り殴られ、飢えて飢えさせ、奪い奪われ、欺き欺かれ、憎み憎まれ、恨み恨まれ、殺し殺され。そんな狂った場所に、人の本質なんて見出そうとしなくていいの。『終わった話』になった今なら、心が引き裂かれて、分裂して、苦しさを押し殺していたことを思い出していい」
「やめて……ビィさん……そんなこと、言わないで……こんなの、『あの時の私』じゃなきゃ、耐えられないのに……」
「だーめっ……だって、あなたもそうなんだから。あなたも結局は普通の人間だったってだけの話なんだから。特別なんかじゃない、異常なんかじゃない、『人でなし』なんかじゃない。ただ、そう思うことで心を守ろうとしてるだけ……戦場でしたことは、戦火の狂気のせいにしていい。聖人だろうと誰だろうと、生きたまま火に炙られれば見苦しく藻掻いて転げ回るを恥ずかしくなんて思わなくていい……所詮は人間なんだもの。それを隠された人間性だのその人の本質だのなんて言うお馬鹿さんには油でもかけて試させてあげればいいわ……ふふっ、そんな子たちはマッチ一本見せれば何も言わなくなるでしょうけど」
まるで、子供たちの諍いを微笑ましく見守る親のように、ケンカで傷付いた子供の傷に消毒液をかけて痛みに呻くのを宥めるように、ビィさんは笑いかける。
「『戦火』は、傷つけ合ってでも生き足掻こうとするヒトの臓腑からこぼれ出た命の炎そのものよ。潔くなんてなくて、どんなに醜くても必死に生きようと燃え盛る命の炎はとっても綺麗なの……だから、戦火の中で生き足掻く人間のお話は醜くてもいいの。苦しいものは苦しい、痛いものは痛い、怖いものは怖い、それはいつの時代にだって何も変わらなかったし、だからこそ死ぬほど辛くて、本当に死んでしまった人もいた。世界なんて終わってしまってもいいと思うほど醜悪な出来事が起きてしまった。けれど……それでも私たちは生き延びて今を生きてる。戦争の話は、そういう話でいい。綺麗でお行儀のいいメルヘンやファンタジーのお話じゃないんだから」
苦しい。
心が、左胸の奥の心臓が、魂が苦しい。
これが『戦場』で、傷付けているのが襲いかかってくる『敵』だったならきっともっと楽なのに……何も考えずに殺せるのに。
今はもう、ここはもう、『戦場』じゃないから……『正気』になってしまったからこそ、苦しくて仕方がない。
栄誉も英雄も、正義も悪も、大義名分も命令もない、ただただ生々しい『目の前の生き物から命を奪う』という行為が怖くて仕方ない。
私を狂わせて生かしてくれていた『戦火の神秘』が途絶えてしまったから。
戦場に満ちていた狂気が取り上げられてしまってからこそ、私を狂わせてでも……私を狂わせて、でも、戦争が終わるまで生き残らせてくれたあれが『魔法』だったことに気付いてしまう。
やっとわかった……私は、こうなるのが怖くて、正気に戻ってしまうのが怖くて、『戦場』に心のどこかを置いたままにしてしまっていた。だから、わからなくなっていただけだった。
「どんな時代だって、どんな場所にいてたって、どんなに醜くなったって、『秩序』が死ねと命じたって、老いや病気や不運に追われ怯え続けたって、本当に何かに殺されてしまうまでは生き足掻くことが命の義務よ。ずっとずっと昔から、みんながそうしてきたから、命の炎は、進んで、化けて……世代を経るごとに重く、強く輝くようになった。あなたも、その層の一つに生まれ落ちたというだけ。だから、責任転嫁なんてするまでもなく、背負わなくていい……戦争のことは、それをやらせた偉い人のせいにして、偉い人に謝ってもらえばいい。戦火のせいでしたことは、戦火のせいにしていい」
「わかった……もう、わかったから……やめて……」
「『あの時の自分はどうかしてた』、『冷静になってみれば信じられないようなことをしてしまった』と言い訳していい……だって、本当にどうかしていたのだもの」
「はぁ、はぁ、はぁ……うぷっ」
「けれど……戦火が終わった後は、生き残った兵士も、戦士も、勇士も、みんなちゃんと家に帰って、大切な人たちと大切な時間を過ごさなきゃだめ。戦火は、その後ろに隠した『自分の命よりも大事な宝物』を守るための炎の壁なんだから。宝物を守るためのものが宝物を壊しちゃいけないんだから。元は命の輝きだったとしても、戦火として燃え盛って、燃え移って、燻って、怨みや呪いになってしまったのなら……そんな残り火はちゃんと消して、皆でおうちに帰らなきゃ」
手が震える、涙が滲む、冷たい汗が首筋を伝う。
今更になって、自分が転生者である前に、戦場で戦っていた人間である前に、魚すら捌いたことのない、殴り合いのケンカすらしたこともない『ただの怖がりで気弱な子供』だったことを意外なほど新鮮な感情で思い出す。
最悪な気分だけど……ようやく、思い出せた。
「いやぁ……わたし、怖かったの……でも、誰も、助けてくれなくて……いやなのに、いやだって、言えなくて……言うこと聞かなくて怒られるのが怖くて……たくさん、ひどいこと、しちゃった……」
私は……本当は、泣きたかったんだ。
けど、何も知らない世界で助けを求めていい人なんてわからなくて、平気なふりをしてないと泣き出してしまいそうで、潰れてしまいそうで……
「ご……ごめんなさい……もう、こんなの、いや……」
「そうよ! ちゃんと考えて! 感じて! それがあなたの善性の声! さあ、自分の中からの声を認めて! あなたが本当は何がしたくて何がしたくないのか、もう見失わないために!」
斧が振り上げられる。
私の手で、嫌なのに、もう誰も殺したくなんてないのに、それがわかったのに──
『ダンッ』。
「っ…………」
落ちた斧の刃が外れたことだけ認識してすぐ、目を逸らす。
振り下ろしたのは最後の、左腕……本当は切れてないけれど、『彼女』の反応はもう瀕死みたいで、死にかけていて……その呼吸はまるで、あの日、押し入れの中の狭くて暗い闇の中で死にかけていた私の呼吸みたいに浅くて。
間を置かず、また斧が振り上げられる。
今度は、最後の場所へ……『死』の合図を送るべき首元へ。
これまでと同じように、戦火の中で人を殺してきたのと同じように、私の意思になんて関係なく身体を操られるように……
「だめっ! できない……ごめんなさい!」
「おっとと、危ない」
私が咄嗟に手を離して、落ちてきた斧がビィさんの手で止められる。
ビィさんの手がなければ私に刃が当たっていたかもしれないけど、そんなのは気にしていられなかった。
『彼女』の目隠しを取る。
真っ暗な中で、本当に死ぬほどの恐怖に心を染められて死んでいくなんて見ていられなかったから。
「ごめんなさいっ! 私、自分の罪から逃げようとして、そんなことのために……ごめんなさいっ!」
『彼女』の瞳に、篝火に照らされた私の顔が写っていた。
人の言葉なんてわからないであろう『彼女』は緊張の糸がそれで途切れてしまったのか、長い息を吐いて身を縮ませてくと同時に目を濁らせていく……ふっと気が抜けたように、生気が消えていく。
精神影響の力も消えたのか、『彼女』が……『黒い恋人』が、動物のウサギと人間とを区別できる感覚が戻ってくる。
けれど、ああ……なんて、酷くて、気分が悪い。
血が流れなくても、手応えがなくても関係ない……こんな、生き物の命を奪う感覚なんて、二度と味わいたくない。
「ごめんなさい……ごめんなさい!」
儀式場の上から、視界に入る端から、森の民の人たちに、とにかく頭を下げて鼻をすすりながら枯れた声を絞り出す。
それしかできない私の心に、ビィさんの優しい声が響いた。
「そうよ。それが、あなたが本当にしたかったはずのことで、何よりも先にするべきだったはずのこと……けれど、あなたは悪くない。戦火の中でやってしまったことは、偉い人や神様のせいでいいの。あなたは責められなくていいし、自分自身を責めることもない……それをわかった上で、あなたは謝る必要があったの。戦争の中で当たり前にしてきたことは、本当は『どんな時にだってしちゃいけないこと』だったって、ちゃんと思い出すために」
「ううっ……ううぅ……」
「ようやく、心の中で握りしめてた『いつでも人を殺せる刃』をもう必要ないって認めて捨てられた。よく戦火を越えたわ。本当に……よく、ちゃんと自分じゃなかった自分の分まで『ごめんなさい』が言えたわね、とても偉いわ。『戦後』へようこそ、夜神夕子さん」
その後、私がみっともなく泣き崩れながら再度醜態を晒し続けた話とか、その間に鼻歌混じりでサクッと『黒い恋人』の解体を済ませていたビィさんのことは割愛しまして……今回のオチというべきか、なんというべきか。
ピークドットにある『戦英プロ』の本社区画に帰った時にはもうすっかり夜遅くで、寮の前には腕組みした千里先生が険しい顔で待っていて。
……寮の玄関に入るなり問答無用で正座させられましたわ、ビィさんと並んで。
「一応、蓬にCクラスの原則を教え忘れてないか確認したが、初登校の日に教えたと言っていたから夕子も知っているはずだろうが。外に行くなら大人組の同伴は絶対だと」
「えっ、あの、でも、レイさんは……」
「あいつはソニアに任せた方が夕子にとっていい結果になると考えて見逃したらしいが、監督不行き届きだし罰を受けるのを承知でやった上で自首してきたからな。で、そのレイはレイで社長とテーレに別室でしぼられてるぞ」
「…………ごめんなさい」
「……レイには謝らなくていいそうだ。まあ、お前が向き合うべき過去に向き合えたというのなら、レイの判断はそれほど間違っていなかったんだろうとは思えるしな。それはそれとして、無断外出の罰としてペリカンコインは減らさせてもらうが」
「うっ……はい、罰則は心してお受けいたしますわ」
血で血を洗う贖罪なんて成り立たない。
それと同じように、結果的に上手く行ったからといって、その過程での無法は帳消しにはならない。
まして、その結果で恩恵を受けるのが自分自身でなくても、その相手に責任を負う立場であれば施しの対価に罰を受けなければいけないこともある。
もしかしなくても、ビィさんの『本当に偉い人は自分が悪くなくても謝れる人』というのは、今回のレイさんのことも言っていたのかもしれませんわね。
今回のことを恩着せがましく言うことは一生ないだろうと思えるレイさんは決して『偉そうな人』ではないけれど、絶対に『偉い人』だと思えるのだもの。
「ほとんど振り回された側であろう夕子の方はこれくらいにしておいて……ソニア、勝手に壁を飛び越えて夕子を外に連れ出した事とか、いろいろと言わなきゃいけないことはあるが。何より、お前も一応はガロム王室の人間だという自覚を持って行動しろ。お前が森の民との会談まがいのことを勝手に主催するというのは政治的にも面倒な……」
「……『ガロム王室』? あの、千里先生? ビィさんは『貴族』だと……」
「ん? 夕子、知らなかったのか? ソニアのフルネームは『ソニア・ビィ・ガロム』……確かに貴族は貴族だが、それ以上に『王族』だぞ? 『ビィ』は王位継承権を失った者に付けられる呼称……どちらかと言えば、『恥知らず』くらいの意味合いになるような蔑称の類のはずなんだがな」
「クスクス、夕子さんは世間知らずなようなので、ちょっと他の方にはしてもらえない『あだ名呼び』をしてみてもらいましたの。夕子さんったら、人前でも平気で『ビィさん、ビィさん』と呼ぶのだもの。他の方からは、それだけ親しい間柄かとっても大胆な人に見えたかもしれませんわね」
……『ガロム王室』
この世界、この文明そのものともいえる『ガロム中央会議連盟』……その中心の王族のお姫様。
それを、当たり前のように『恥知らず』と人前で呼び続けて、泣き喚いて怒鳴りつけて、学校を一緒にサボった挙句に一緒に深夜まで遊び回って(?)。
「…………」
「うふふっ。私、友達と口げんかしたり、こんなふうに一緒に怒られたりなんて初めてで新鮮な経験ですわ。今度また夜遊びにでも繰り出しません?」
「と、とんだお姫様ですわ……」
こうして、私の『友達百人計画』のノートには、とても偉くてちょっといけないお友達が新たに一人加わったのでした。




