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大家の元へ行き、陣野の部屋を開けてくれ、緊急事態だ、と頼みこんだ岡野だったが。
「いや、そう言われてもねえ。親御さんでもないのに、勝手に鍵を開けるわけにはいかないよ」
初老の大家は、老眼鏡の奥の目をあからさまに細め、面倒そうに首を振った。
「事件とかだったら嫌だよ? 警察沙汰とかになられたら、こっちだって困るんだから。そもそも、ただの風邪か何かで寝込んでるだけじゃないの?」
早く話を切り上げたいという態度が透けて見えていた。
大家にしてみれば、家賃の滞納でもないのに、住人の同僚と名乗る男の「様子がおかしい」という主観だけで動くのはリスクでしかない。
もし中で変な事件でも起きていたら、それこそ物件の価値に関わる。
関わりたくない、というのが本音だった。
「違うんです、普通の病気じゃないんです!」
岡野はすがるように机に身を乗り出した。
その顔は青ざめ、額には脂汗が浮かんでいる。
「昨日、僕が無理やり病院に連れて行ったんです。なのに勝手に抜け出して戻ってきて……。部屋の中が、とにかく異常なんです。お札としめ縄が、部屋中に……。今開けないと、本当に手遅れになります!」
岡野の尋常ではない怯え方、その目に宿る本物の恐怖に、大家は渋々と腰を上げた。
「……マスターキー、持ってくから。でも、本当に何でもなかったら困るよ」
三階の最奥の部屋。
大家が鍵穴にキーを差し込み、回す。カチャリ、と硬質な音が響いた。
「陣野さん? 入るよ」
大家がドアを開け、一歩足を踏み入れた瞬間、その身体がぎょっと硬直した。
薄暗い部屋の真ん中で、何百枚ものお札の海に囲まれ、糸のように痩せこけた住人が倒れている。
その異様な光景に、大家の顔から一気に血の気が引いた。
「おい、陣野さん! しっかりしろ!」
大家は慌てて陣野の元へ駆け寄る。
そして、おそらく無意識だったのだろう、どんよりとした空気がこもる室内の換気をしようと、ワンルームの奥側にある窓をガラガラと大きく開け放った。
岡野は、玄関のドアを開け放したまま、その場に立ち尽くしていた。
その瞬間、びゅう、と部屋の中を突風が駆け抜けた。
玄関から入った空気が、リビングを通り、開けられた窓へと一直線に抜けていく。
(へえ……玄関のドアを開け放していると、風の通りって、すごくいいんだな)
緊迫した状況の中だというのに、岡野の頭の片隅で、そんな場違いでのんきな感想がふっと浮かんだ。
それほどまでに、風はあっさりと、淀んだ部屋の空気を丸ごと入れ替えるように通り抜けていった。
だが、その風が止む間際。
岡野の耳に、かすかな音が届いた。
誰かの、ぼそぼそとした独り言のような話し声。
しかし、目の前にいる大家は陣野の身体を揺さぶるのに必死で、そんなことは言っていない。陣野も意識を失っている。
「早く救急車!」
大家の鋭い声に弾かれ、岡野は我に返った。
「あ、はい! すぐ呼びます!」
風の音だろう。
今はそれよりも、陣野を早く病院へ運ばなければならなかった。
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とある日記の断片
×月×日
音が静かだった。よかった、今日は誰もいない。
×月×日
真ん中にいると、わかりやすい。うん。




