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山之内家の父親は、まだ右も左も分からなかった学生の陣野という青年を、長期のインターンシップ先で公私ともに面倒を見たことがあった。
現在は一線を退き、実家の側にある小さな会社でゆっくりと仕事をしている。
その話を聞いた陣野は、日頃の不義理を詫びるのも兼ねて、挨拶がてらその家を訪ねたのだった。
「せっかくだから、今夜は泊まっていきなさい」
温かく迎え入れられ、断る理由もなかった。
夕方に到着したその家は、一歩足を踏み入れた瞬間から、特有の匂いに満ちていた。
長い年月をかけて木に染み込んだお香のような、あるいは上質な、い草がゆっくりと乾いていくような、ひどく落ち着く、しかしどこか現実味の薄い、古い家特有の濃密な匂い。
夕食の時間、食卓には手作りの素朴な料理が並び、山之内家の父親とその奥方、娘、山之内家の祖母、そして陣野の五人で穏やかな時間を過ごした。
箸が皿に当たる小さな音、トントンと小気味よく響く台所の音、父親の低く穏やかな笑い声。
家族の温かい気配があたりを包んでいた。
「準備ができたから、いつでも休んでおくれ」
そう言われて案内されたのが、南向きの広い座敷だった。
夜になると雨戸を閉ざされ、外の景色も見えなくなり、閉じ込められたような感覚に陥る。
部屋の真ん中に一組だけ敷かれた布団が、妙にぽつんとして見えた。
夜、布団に入ってしばらくした頃。
窓も雨戸も完全に閉め切られているはずなのに、部屋の中を、すうすうと風が吹いているような気がした。
家族は全員それぞれの部屋で静かに眠りについている。
決して怖くはなかった。
嫌な気配もしない。
不気味な足音がするわけでもない。
天井から誰かが覗いている気配があるわけでもない。
…まあ、古いお屋敷だしな、隙間風くらいは入るか。
そう思いながら目を閉じる。
なのに、どうしても眠れなかった。
自分がいま、遮るものが何もない、周囲の壁や柱がすべて透き通って消えてしまい、吹きさらしの高台で、ただ一人だけでじっと夜空を見上げているような、奇妙な浮遊感を感じていた。
結局、一睡もできないまま朝を迎えた。
翌朝、何事もなかったかのように雨戸を開ける娘の姿を見ながら、陣野は「知らない家だしな、緊張してたんだろう」と自分を納得させて帰路についた。
……それから半月ほどが経った。




