第一演習場①
翌朝、テンカは武具掛けの前で足を止めていた。
黒い鞘に緋色の一筋が走る愛刀《継火》が、静かに掛けられている。
寮内での抜刀は禁止。
だが、今日の基礎実技演習では、登録武器の持参が許可されていた。
「姫さま」
背後から、キリカの声が届く。
「《継火》をお持ちになりますか」
「うむ。許可されている以上、持っていく」
テンカは《継火》を手に取り、腰へ佩いた。
その重みが戻るだけで、背筋が自然と伸びる。ここは戦場ではない。敵を斬りに行くわけでもない。それでも、刀があるだけで、自分の芯が定まるような気がした。
「本日の実技演習ですが、見学許可が下りております」
「そなたも来るのか」
「はい。ただし、わたしは見学区画から拝見いたします。授業への介入は、緊急時を除き認められておりません」
「それでよい。そなたが隣で構えておったら、測られるのがわらわなのか、そなたなのか分からなくなる」
キリカはわずかに目元を和らげた。
「姫さまがそう仰る時ほど、何か起きる気がいたします」
「今日は何も起きぬ。基礎実技演習じゃぞ」
「では、そう願っております」
「信用が薄いのう」
テンカは小さく笑い、部屋を出た。
午前の基礎座学を終えた後、1年1組の学生たちは第一演習場へ向かうことになっていた。
中央棟から演習場へ続く回廊には、真新しい制服姿の新入生たちが流れている。剣を腰に佩いた者。杖を手にした者。革の手袋を確かめる者。何も持たず、緊張した顔で案内札を見上げる者。
昨日の教室とは、空気が違っていた。
机に向かう時よりも、少しだけざわめきが鋭い。
「皆さん、どこか落ち着きませんわね」
隣を歩くエリシアが言った。
白銀の髪をきれいに整えた彼女は、いつもと変わらず涼しげな顔をしている。だが、その淡い青の瞳には、わずかな興味が浮かんでいた。
「実技となれば、自信のある者も多かろう」
「テンカも楽しそうですわ」
「顔に出ておるか?」
「ええ。昨日より、ほんの少しだけ」
エリシアはすました顔で答えた。
テンカは肩をすくめる。
「否定はせぬ」
その少し前を、ミナ=アーレンが歩いていた。
胸元には奨学生の徽章。手には、昨日よりも薄くなった紙束を抱えている。演習場へ向かうというのに、彼女は武器らしいものを持っていなかった。
「ミナ」
「は、はい」
「そなたは武器を持たぬのか」
「はい。私は戦闘実技は得意ではないので。魔力制御も、あまり強い方ではありませんし」
ミナは少しだけ肩を縮めた。
「でも、測定内容は記録しておきたくて。演習場の設備も、見られる範囲で見ておこうかと」
「実にそなたらしい」
「そ、そうでしょうか」
「褒めておる」
テンカが言うと、ミナは少し照れたように目を伏せた。
回廊を抜けると、視界が開けた。
第一演習場は、想像していたよりも広かった。
白い石壁に囲まれた楕円形の砂地。その周囲には淡い光の線が巡り、防護結界が張られていることを示していた。片側には木人や打撃標的が並び、反対側には魔術の威力と制御を測るための標的柱が立っている。
奥には教師用の観測台があり、その横に見学区画が設けられていた。
すでに数名の随行者と補助教員が、そこに控えている。
「姫さま」
キリカが足を止めた。
「わたしはあちらへ」
「うむ。見ておれ」
「はい。しっかりと」
「ほどほどにせよ」
テンカが言うと、キリカは静かに一礼し、見学区画へ向かった。
ほんの少しだけ、半歩後ろの気配が遠ざかる。
その代わりに、演習場の砂の匂いと、学生たちの緊張が近くなった。
「皆さん、集合してください」
よく通る声が響いた。
アリア=ベルンハルトが、演習場の中央に立っていた。昨日と同じ深緑の教師服だが、今日は上着の裾を動きやすいように留めている。手には出席簿ではなく、筆記帳を持っていた。
その両脇には、実技担当らしき教師が2人控えている。
「本日は、基礎実技の確認を行います」
学生たちが静かになる。
「昨日も言いましたが、これは競技ではありません。相手を打ち負かす場でも、力を誇示する場でもありません」
アリアは演習場全体を見渡した。
「武器の扱い、身体能力、魔力制御、観察力。皆さんが今どの位置にいるのかを確認するための時間です。よい結果が出ても、悪い結果が出ても、それだけで終わりではありません。大切なのは、自分の今を知ることです」
テンカは静かに頷いた。
自分の今を知る。
昨日の言葉とつながっている。
「登録武器の抜刀、術式の発動、攻撃魔術の使用は、教師の指示がある時のみ許可します。勝手に行った場合は、その時点で演習を中止します」
何人かの学生が、腰の剣や手にした杖を見下ろした。
アリアの声は穏やかだったが、反論を許す響きではなかった。
「では、始めましょう。まずは身体能力の確認からです」
最初に行われたのは、短距離の走行、踏み込み、停止、方向転換の確認だった。
演習場の砂地には白い線が引かれており、学生たちは順に合図を受けて走る。速度だけでなく、足を止めた時の姿勢や、方向を変えた時の体軸も見られているらしい。
騎士家の子息たちは、さすがに動きが良かった。踏み込みが鋭く、止まる時にも膝が流れない。普段から身体を鍛えていることが分かる。
一方で、魔術を志す学生の中には、走り出しは悪くないが、止まる時に身体が前へ流れる者もいた。
ミナは懸命に走った。
速くはない。
だが、指示された線を踏み越えないよう、何度も足元を確認している。方向転換の時には少しふらついたが、転ばずに最後まで走り切った。
「ミナ=アーレン。終了です」
「は、はい」
ミナは肩で息をしながら、筆記帳を持つ教師へ頭を下げた。
その後に、エリシアの番が来た。
エリシアの動きは派手ではない。だが、無駄が少なかった。
走る速度そのものは騎士家の学生に及ばないが、止まる時の姿勢が崩れない。方向を変える時も、足元の砂を大きく蹴り上げず、静かに体を入れ替える。
「フロストレイン様、さすがですわね」
誰かが小さく呟いた。
エリシアは聞こえていないふりをして、淡々と戻ってくる。
「そなた、涼しい顔で戻ってきたのう」
「息を乱して戻る必要はありませんもの」
「それができるから言える台詞じゃな」
テンカがそう言うと、エリシアは少しだけ目元を和らげた。
「次はテンカですわ」
「うむ」
名前を呼ばれ、テンカは前へ出た。
演習場の空気が、わずかに変わる。
ハヅキ辺境伯家の次女。
生徒会長レイナ=ハヅキの妹。
腰に刀を佩いた、南方の少女。
昨日から、その程度の噂はすでに広がっているのだろう。
テンカは気にせず、白線の前に立った。
「テンカ=ハヅキ。準備は?」
「できておる」
アリアが片手を上げる。
「始め」
テンカは地を蹴った。
速さだけなら、もっと速い者はいるだろう。
だが、テンカの足音は乱れなかった。
砂を踏む。
身体を沈める。
線の手前で止まり、すぐに体を返す。
無理に力で止まらない。膝と腰で勢いを逃がし、次の一歩へつなげる。
刀を振るために鍛えた足運び。
大魔境のぬかるみを歩き、神社の白砂を踏み、幾度も訓練場で叩き込まれた身体の使い方だった。
最後の線で止まった時、砂だけがわずかに遅れて流れた。
「終了です」
アリアの声がした。
テンカは息を整え、軽く頭を下げて戻る。
周囲から、小さなざわめきが漏れた。
「今の、止まり方……砂がほとんど跳ねなかったぞ」
「速いというより、崩れないんだ」
「あれが、刀を使う家の足運びなのか?」
テンカは聞こえていないふりをした。
隣へ戻ると、エリシアがこちらを見る。
「相変わらず、足運びが綺麗ですわ」
「そなたにそう言われると、悪い気はせぬな」
「褒めていますもの」
「今日は素直じゃな」
「いつも素直ですわ」
エリシアは当然のように言った。
次は、武器の基礎確認だった。
ただし、真剣は使わない。
学生たちは学園が用意した木剣や訓練槍を使い、基本の打ち込み、構え、間合いの取り方を確認される。登録武器を持参している者も多かったが、抜刀はまだ許可されていなかった。
テンカは木剣を手にした。
重さも長さも、《継火》とは違う。
それでも、刃筋を意識することはできる。
「テンカ=ハヅキ。基本打ちを」
「承知した」
テンカは木剣を構えた。
一振り。
正面へ打ち下ろす。
乾いた風が、わずかに砂を撫でた。
二振り。
三振り。
派手な技ではない。
ただ、真っ直ぐに振る。
それだけだった。
だが、ただ真っ直ぐに振ることほど、誤魔化しの効かないものはない。足、腰、肩、腕、手の内。そのどこかが乱れれば、木剣の軌道にすぐ出る。
テンカは、ゆっくりと息を吐いた。
「十分です」
実技担当の教師が筆記帳へ何かを書き込む。
その表情は、先ほどよりも少し真剣だった。
「次は魔力制御の確認です」




