最初の授業
1年1組の教室へ向かう中央棟の回廊には、午後の光が差し込んでいた。
高い窓から入る陽光が石床に長く伸び、行き交う新入生たちの影を揺らしている。掲示板で所属組を確認し、歓迎式典を終え、大食堂で昼食を取った後だというのに、学園の初日はまだ終わる気配を見せなかった。
「この後は、1年1組の教室へ集合じゃな」
テンカは案内札に目を落とした。
案内札には、歓迎式典、昼食、所属組ごとの初回授業、そして寮区での諸注意と、初日の予定が簡潔に記されている。
「初日から授業がありますのね」
エリシアが隣で言った。
「歓迎され、飯を食い、すぐ学ぶ。皇国学園は忙しい場所じゃ」
「学園へ来た以上、当然ですわ」
「そなたは本当に模範的じゃな、エリー」
「テンカが気楽すぎるのですわ」
「気楽に見えるか?」
「見えますわ」
エリシアはすました顔で答えた。
ミナ=アーレンは、その少し後ろを歩いていた。先ほどの大食堂で同じ卓を囲んだとはいえ、まだテンカやエリシアの隣に自然と並ぶことには慣れていないらしい。
胸元の奨学生の徽章を指で軽く押さえ、手に持った紙束を抱え直している。
「ミナ」
テンカが振り返ると、ミナは肩を跳ねさせた。
「は、はい」
「そなたも同じ1年1組であろう。後ろを歩く必要はない」
「いえ、でも」
「廊下は十分に広い。並んでも邪魔にはなるまい」
ミナは少し戸惑ったようにエリシアを見た。
エリシアは淡い青の瞳を向け、静かに頷く。
「同じ組ですもの。ご一緒しましょう」
「……はい」
ミナはおずおずと歩幅を合わせた。
その様子を、キリカが半歩後ろから見守っている。
だが、教室へ続く回廊の手前で、キリカは足を止めた。
「姫さま」
「何じゃ」
「ここから先は、学生のみとなります。授業中、わたしは随行者用の控え室か、学園内の指定区画で待機いたします」
「教室の前で控えるわけではないのか」
「はい。各家の随行者が回廊に並んでは、授業の妨げになりますので」
「それもそうじゃな」
言われてみれば、その通りだった。
貴族家の子女が多く通う学園で、従者たちが教室の外に並んでいたら、それだけで回廊が埋まってしまう。ここはハヅキ家の屋敷ではなく、皇国学園なのだ。
テンカは少し考えてから、キリカを見上げた。
「ならば、授業の間はそなたの時間にせよ」
「姫さま?」
「控え室でじっと待つだけでは退屈であろう。鍛錬でも、読書でも、休息でもよい。呼ばれた時に来られるなら、それで十分じゃ」
「ですが、わたしは姫さまの側仕えです」
「分かっておる。だが、そなたにも学園で過ごす時間がある。わらわだけが学ぶのでは、つまらぬ」
キリカは一瞬だけ目を丸くした。
それから、静かに目元を和らげる。
「……承知しました。では、授業中は指定区画で待機しつつ、時間を使わせていただきます」
「うむ。そうせよ」
キリカは一礼し、随行者用の控え室へ向かって歩き出した。
ほんの少しだけ、半歩後ろの気配が遠ざかる。
エリシアとミナが待っている。
テンカは小さく息を吸い、教室へ向き直った。
「では、行くか」
1年1組の教室は、講堂ほどではないが十分に広かった。
前方には教師用の机と大きな黒板があり、壁には学園の紋章と、授業予定を掲示するための細長い板が掛けられている。窓際には魔導灯が等間隔に並び、天井には音を広げるための小さな術具が埋め込まれていた。
机は2人掛けの長机が整然と並んでいる。
すでに半数ほどの学生が席についていた。
テンカたちが入ると、やはり視線が集まる。
ハヅキ辺境伯家の次女と、フロストレイン侯爵家の令嬢。そして、その2人と一緒に入ってきた奨学生の少女。
視線には驚きと好奇心が混じっていた。中には、ミナの胸元の徽章を見て、小さく眉を動かす者もいる。
ミナの肩が、ほんの少し強張った。
「どこに座るかのう」
テンカは教室を見渡した。
前方はすでに何人かの学生で埋まり、後方にはまだ空きがある。
「黒板が見やすい席がよいです」
ミナが思わず口にした。
言ってから、はっとする。
「す、すみません。勝手に」
「よい。学びに来たのじゃ。見やすい席に座るのは道理であろう」
テンカは前方寄りの空いた長机へ向かった。
隣にエリシアが座り、ミナは一瞬迷った後、すぐ後ろの席へ腰を下ろす。
だが、紙束を机に置いたミナは、視線をさまよわせた。
「ミナ」
「はい?」
「前の席が見やすいなら、隣へ来ればよい」
「え、でも、お2人が」
「2人掛けの机じゃ。ならば、後ろの席を使えばよいだけじゃろう」
テンカは立ち上がり、後ろの席へ移った。
エリシアも当然のように隣へ移動する。
結果、ミナが前の席に座り、テンカとエリシアがその後ろに並ぶ形になった。
「こ、これでいいんですか?」
「そなたが黒板を見るには、その席がよいのであろう?」
「はい」
「ならば、それでよい」
テンカが答えると、ミナは目を丸くした。
エリシアが静かに言う。
「テンカは、こういう時に遠慮してもあまり意味がありませんわ」
「それは褒めておるのか?」
「事実ですわ」
「そなたも大概じゃな」
ミナは2人のやり取りを見て、少しだけ笑った。
その笑みはまだ小さいが、先ほどよりも緊張は薄れていた。
やがて、始業の鐘が鳴った。
教室のざわめきが静まる。
扉が開き、1人の女性教師が入ってきた。
年の頃は30代半ばほど。濃い灰色の髪を後ろでまとめ、深緑の教師服をきっちりと着こなしている。細身だが姿勢がよく、手には分厚い出席簿を抱えていた。
優しげな顔立ちではある。
だが、その目は教室へ入った瞬間、学生たちの座り方、机の上、視線の向きまでひと通り確認していた。
甘い教師ではない。
テンカはそう判断した。
「皆さん、席についていますね」
女性教師は教壇に立ち、出席簿を机へ置いた。
「1年1組の担任を務めます、アリア=ベルンハルトです。担当科目は皇国史と基礎総合。4年間、全員を直接教えるわけではありませんが、少なくともこの1年は皆さんの担任です」
声はよく通った。
大きく張り上げているわけではないのに、教室の隅まで届く。
「まず初めに、皇国学園での基本を確認します」
アリアは黒板へ向き、白い筆で短く書いた。
学生であること。
「この教室では、皆さんは学生です」
教室内の空気が、わずかに動いた。
「もちろん、家名や身分が消えるわけではありません。そんなことを言えば嘘になります。皆さんの中には、貴族家の子女もいれば、騎士家の者も、商家や工房の出身者も、奨学生もいます」
ミナの肩が、また少しだけ強張る。
アリアの視線は、特定の誰かに向けられてはいなかった。
「ですが、この学園で評価されるのは、家名だけではありません。授業へどう向き合うか。何を学び、何を成すか。それが、成績にも、信頼にもつながります」
教師はそこで、静かに教室を見渡した。
「家名は背負いなさい。捨てる必要はありません。ですが、家名の陰に隠れて座ることは許しません」
テンカはその言葉を、黙って聞いていた。
厳しい。
だが、嫌な厳しさではない。
母コトネとはまた違う種類の厳しさだった。刃のように迫るのではなく、机の上へ定規を置かれるような、逃げ道をまっすぐ塞ぐ厳しさ。
「では、出席を取ります」
アリアは出席簿を開き、1人ずつ名を呼んでいった。
学生たちが返事をする。
貴族らしい整った声もあれば、緊張で裏返りかけた声もあった。
「エリシア=フロストレイン」
「はい」
エリシアが静かに答える。
「テンカ=ハヅキ」
「うむ」
思わずいつもの調子で答えてから、教室内に小さな沈黙が落ちた。
テンカは瞬きをする。
しまった。
返事は「はい」と言うべきであったか。
アリアは表情を変えなかった。
「次からは、授業中の返事は『はい』でお願いします」
「はい」
今度は素直に答えた。
教室のあちこちから、小さな笑いが漏れる。
嘲笑ではない。
緊張が少しだけ緩んだような笑いだった。
エリシアが隣で目を伏せている。
笑っているのかもしれない。
「ミナ=アーレン」
「はい!」
ミナは少し大きめの声で返事をした。
アリアは頷き、最後まで出席を取り終えると、出席簿を閉じた。
「次に、簡単な自己紹介をしてもらいます。名前、出身、そしてこの学園で何を学びたいか。長く話す必要はありません」
何人かの学生が緊張したように背筋を伸ばした。
自己紹介。
前世の記憶を持つテンカにとっても、あまり得意な響きではない。
会社の研修やら、部署異動やら、何かと自己紹介をさせられた記憶がある。大抵は無難な趣味を言って終わるのだが、今の自分が無難に済むとは思えなかった。
順番は前列から始まった。
騎士家の子息や東部商家の娘、地方貴族の三男、魔術師を志望する少女など、それぞれが緊張しながらも自分の名と学びたいことを語っていく。
やがて、ミナの番になった。
ミナは勢いよく立ち上がりかけて、膝を机に軽くぶつけた。
小さな音がした。
「あ、す、すみません」
「落ち着いて」
アリアが穏やかに言う。
ミナは深く息を吸った。
「ミナ=アーレンです。実家は小さな魔導具工房で、奨学生枠で入学しました。魔導工学を学びたいです」
そこまで言って、彼女は一度言葉を切った。
それから、紙束を握る手に少しだけ力を込める。
「魔力はあまり強くありません。でも、魔導具の仕組みを学べば、魔力が強くない人でも使える道具を作れると思っています。いつか、街の暮らしを少し楽にできるような魔導具を作りたいです」
教室が静かになった。
ミナは言い終えると、慌てて座った。
耳まで赤くなっている。
テンカはその背を見た。大食堂で見せた魔導工学への熱は、今の短い言葉にも確かに滲んでいた。
よい志じゃ。
そう思った。
「エリシア=フロストレイン」
次はエリシアだった。
彼女は静かに立ち上がる。
「エリシア=フロストレインですわ。北方フロストレイン侯爵家より参りました。氷術の制御と、北方に棲む魔物の生態について、より深く学びたいと考えております」
声は涼やかだった。
無駄がなく、堂々としている。
「また、異なる地域の魔術体系にも興味があります。この学園で、多くの知見に触れられることを楽しみにしております」
エリシアは一礼して座った。
隙のない自己紹介だった。
実にエリーらしい。
「テンカ=ハヅキ」
呼ばれ、テンカは立ち上がった。
視線が集まる。
先ほどまでとは違う密度だった。
ハヅキ辺境伯家の次女であり、生徒会長レイナ=ハヅキの妹。
それらの噂が、教室の視線に混じっている。
テンカは背筋を伸ばした。
「テンカ=ハヅキ。南方ハヅキ辺境伯家の次女じゃ」
そこまで言ってから、アリアの方を見る。
教師は静かに聞いていた。
先ほどの返事のように止める様子はない。
「刀と五行を修めておる。だが、この学園で学びたいことは、それだけではない」
教室の空気が少し変わった。
「わらわは、ハヅキ領の外をまだ多くは知らぬ。皇国のことも、各地の魔術も、魔導工学も、ここに集う者たちの考えも、知らぬことばかりじゃ」
テンカは一度、言葉を切った。
母に言われたことを思い出す。
――自分の目で見て、自分で考えなさい。
「ゆえに、ここでは知らぬものを知りたい。刀も、五行も、人も、国も。わらわ自身の目で見て、学びたい」
教室は静かだった。
テンカは軽く頭を下げ、席へ戻った。
隣のエリシアが、わずかに目元を和らげている。
「テンカらしいですわ」
「そうか?」
「ええ。妙に大きなことを言っているのに、不思議と背伸びには聞こえませんでした」
「褒めておるのか、それは」
「褒めていますわ」
小さな声で交わしたやり取りに、テンカは少しだけ口元を緩めた。
自己紹介はその後も続いた。
全員が終わる頃には、教室の緊張も少し和らいでいた。名前だけだった者。将来の夢を語った者。家の期待を背負う者。何を学びたいか、まだ分からないと正直に言った者。
1年1組という一つの枠の中にも、さまざまな者がいる。
テンカはそれを、静かに面白いと思った。
「ありがとうございました」
アリアは教壇へ戻った。
「皆さんの学びたいことは確認しました。今日のところは、うまく話せたかどうかを気にする必要はありません。むしろ、自分が何を学びたいのかを、言葉にしてみることが大切です」
教師は黒板へ新たな文字を書いた。
課題。
「初回課題を出します。1週間以内に、自分がこの学園で学びたいこと、そして今の自分に足りないと思うことを、紙1枚にまとめて提出してください」
小さなどよめきが起こる。
「授業は、明日から本格的に始まります。午前は基礎座学。午後は基礎実技演習です」
基礎実技。
その言葉に、何人かの学生が反応した。
剣を扱う者や魔術を志す者など、自信のある者ほど目に光が宿る。
「基礎実技では、武器の扱い、魔力制御、身体能力、観察力を確認します。登録武器の持参は許可しますが、抜刀や術式の使用は教師の指示があるまで禁止です」
テンカは無意識に、腰にない《継火》の重みを思い出した。
寮の武具掛けに置いてきた愛刀。
明日は、それを持っていくことになるのだろうか。
「なお、実技演習は競技ではありません。相手を倒すことより、自分の力量を正確に知ることを重視します」
アリアの目が、教室全体を見渡した。
「力を誇示する場ではありません。力を測る場です。そこを勘違いしないように」
その言葉は、教室の何人かに向けられているようにも聞こえた。
テンカは内心で頷く。
それは、力はただ振るうものではなく、知り、測り、制御するものだという母の教えと、よく似ていた。
「本日の授業はここまで。寮区へ戻る者は、掲示板で連絡事項を確認すること。明日の集合場所は、第一演習場です」
鐘が鳴った。
学生たちが一斉に息を吐く。
初めての授業が終わったのだ。
ミナは前の席で、黒板に書かれた課題を必死に写していた。授業が終わっても、手を止める気配がない。
「ミナ」
「はいっ」
「授業は終わったぞ」
「分かっています。でも、課題の書き方を忘れると困るので」
ミナは真剣だった。
エリシアがその紙を覗き込む。
「とても細かく書いていますのね」
「えっと、後で見返す時に、細かい方が分かりやすいので」
「よいことですわ」
エリシアが淡々と言うと、ミナは少し嬉しそうに瞬きをした。
テンカは立ち上がり、窓の外を見た。
第一演習場。
明日、自分たちはそこで初めて実技に臨む。
この学園には、ハヅキ家の訓練場とは違う者たちがいる。北方の氷術師も、魔導工学を志す奨学生も、名も知らぬ剣士や魔術師もいる。
その中で、自分は何を見て、何を学ぶのか。
「テンカ」
エリシアが声をかけた。
「何じゃ」
「明日は、退屈しなさそうですわね」
「そなた、少し楽しんでおるな」
「否定はしませんわ」
テンカは小さく笑った。
「わらわも、否定はせぬ」
教室を出る支度をしながら、テンカは明日の演習場を思った。
明日の演習は、刀を抜くためではない。まずは己を知るためにあるのだと、テンカは思った。
皇国学園での最初の授業は、静かに終わった。
けれど、本当の意味で学園生活が動き出すのは、どうやら明日かららしい。
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