北方の友
「久しいのう、エリー」
テンカがそう言うと、白銀の髪を揺らす少女は、静かに目元を和らげた。
「ええ。お久しぶりですわ、テンカ」
エリシア=フロストレインの声は、記憶にあるものと同じだった。
涼やかで、澄んでいて、春の陽気の中でもどこか北方の空気をまとっている。ただ、その表情は完全な無表情ではない。よく見れば、淡い青の瞳に再会を喜ぶ色が浮かんでいた。
相変わらず分かりにくい。
だが、テンカには分かった。
「元気そうで何よりじゃ」
「テンカも。以前より背が伸びましたのね」
「そなたも伸びたであろう」
「ええ。ですが、テンカほどではありませんわ」
エリシアはすました顔で言った。
そのやり取りに、レイナが穏やかに微笑む。
「フロストレイン様。テンカと親しくしてくださって、ありがとうございます」
「こちらこそ、レイナ様。テンカとの文のやり取りは、わたくしにとっても有意義でしたわ」
「有意義、ですか」
レイナの目がわずかに動いた。
妹の交友関係を知りたいという気配が、上品な微笑みの奥からにじみ出ている。
テンカは横目で姉を見た。
「姉上、顔に出ておるぞ」
「出ていません。わたくしは生徒会長です」
「生徒会長は表情を失う役職ではあるまい」
「失っていません」
レイナはきっぱりと言ったが、興味はまったく隠せていなかった。
エリシアはその様子を見て、ほんのわずかに首を傾ける。
「わたくしからの手紙は、テンカにもお役に立っていたでしょうか」
「うむ。北方の魔物や氷術について、ずいぶん詳しく知ることができた」
「それは何よりですわ。入寮後に、氷狼の群れの移動経路について追記したものをお渡しします」
「やはり手紙ではなく報告書ではないか」
「友への手紙ですわ」
エリシアは当然のように答えた。
テンカは小さく笑った。
この真面目さも、懐かしい。
周囲では、また囁きが生まれていた。
「フロストレイン様まで……」
「レイナ会長の妹君と、北方侯爵家の令嬢が知り合いなの?」
「新入生なのに、もう目立ちすぎでは」
声は小さいが、聞こえないほどではない。
外門をくぐった時と同じだ。噂は人の間を渡り、本人より先に形を変えて歩き出す。
生徒会長レイナ=ハヅキの妹。
北方侯爵家令嬢エリシア=フロストレインの友。
その二つが重なれば、テンカが何もしなくとも視線は集まる。
「目立つのは今さらですわ」
エリシアが涼しい顔で言った。
「そなたに言われると、妙に説得力があるのう」
「テンカも、すぐに慣れますわ」
「慣れる前提か」
「ええ」
エリシアの答えは揺るがない。
レイナが軽く咳払いをした。
「名残惜しいですが、ここで立ち話を続けると、噂にさらに足が生えます。まずは受付棟へ向かいましょう」
「うむ」
「わたくしも、まだ手続きが残っていますの。ご一緒しても?」
「もちろんです。フロストレイン様もこちらへ」
レイナが歩き出す。
テンカとエリシアが並び、その半歩後ろにキリカが続いた。
皇国学園の正門を抜けると、石畳の道が受付棟へ続いていた。両側には新入生を案内する上級生が立ち、必要な書類や寮の場所を説明している。
白い石造りの受付棟には、皇国学園の紋章が大きく掲げられていた。
中へ入ると、広い玄関ホールにいくつもの受付窓口が並んでいる。新入生たちは家名や紹介状を確認され、学生証や寮の案内札を受け取っていた。
「テンカ=ハヅキ様ですね」
受付係の女性が、書類を確認して顔を上げた。
「うむ」
「ご入学の登録を確認しました。こちらが学生証です」
差し出されたのは、銀縁の薄い札だった。
中央には皇国学園の紋章が刻まれ、その下に「テンカ=ハヅキ」の名が記されている。小さな術式の光が札の縁を一度巡り、淡く消えた。
テンカはそれを受け取った。
掌の上に収まる、ただの札。
けれど、そこに刻まれた名を見た瞬間、胸の奥に静かな実感が落ちた。
ここでは自分は、ハヅキ辺境伯家の姫である前に、皇国学園の学生なのだ。
「姫さま」
キリカがそっと呼ぶ。
「何じゃ」
「いえ。学生証をお持ちになる姿を見て、少し感慨深く」
「そなたまで母上のような顔をするでない」
「失礼いたしました」
キリカは涼しい顔で頭を下げた。
反省はしていなさそうだった。
続いて、受付係は別の書類へ目を落とす。
「随行者キリカ様の登録も完了しております。通常授業への同席は原則認められませんが、登下校時の付き添い、寮区内での生活補助、指定区画への同行は許可されています」
「承知しました」
キリカが答える。
「実技授業の見学については、担当教員への申請が必要です。試験や評価への干渉は認められません」
「心得ております」
キリカの声は静かだった。
テンカはその横顔を見た。
キリカは自分の護衛だ。だが、この学園では、いつでもすべてに手を出せるわけではない。
それは不便でもあり、必要なことでもあるのだろう。
テンカは学生として、自分の足で歩かねばならない。
受付係はさらに一枚の札を差し出した。
「寮は皇国学園寮区、東棟上級貴族用区画です。案内は寮区で寮監が行います」
「分かった」
隣の窓口では、エリシアも学生証を受け取っていた。
エリシア=フロストレイン。
銀縁の札に刻まれた名を一瞥し、彼女は静かに懐へ納める。
「何やら、不思議ですわね」
「そなたもそう思うか」
「ええ。家名ではなく、学生として名を記されるのは、少しだけ新鮮ですわ」
「同感じゃ」
テンカが答えると、エリシアは淡い青の瞳をこちらへ向けた。
「テンカ」
「何じゃ」
「以前より、雰囲気が変わりましたわね」
ふいに言われ、テンカは瞬きをした。
「2年も経てば、多少は変わる」
「時間だけの変化ではありませんわ」
エリシアの声は静かだった。
踏み込みすぎるものではない。だが、見過ごすつもりもない。そういう声音だった。
テンカは答えるまでに、わずかな間を置いた。
天巡神社。白砂。送り火。夜空へ昇っていった火の粉。
胸の奥を過ぎたそれらを、すべて言葉にすることはできなかった。
「失ったものも、得たものもあった。それだけじゃ」
エリシアはそれ以上、問いを重ねなかった。
「では、今度は学園で得るものを増やせばよろしいですわ」
「簡単に申すのう」
「簡単ではないから、学びに来たのでしょう?」
テンカは目を細め、それから笑った。
「まったく。そなたも、時々ずるいことを申す」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
横で聞いていたレイナが、満足そうに微笑んでいる。
「よいお友達ですね、テンカ」
「うむ。少々、手紙が報告書めいておるがな」
「友への手紙ですわ」
エリシアは再び、まったく同じ調子で答えた。
受付を終えた一行は、寮区へ向かった。
皇国学園寮区は、学園の東側に広がっていた。
講義棟や図書館とは中庭と回廊でつながっており、単なる寝泊まりの場というより、学生たちの生活そのものを抱え込んだ一画に見える。
中央棟には大食堂や談話室があり、その左右へ女子寮である東棟と、男子寮である西棟が分かれている。さらに奥には上級生や特別許可を受けた学生が使う北棟が見えた。
「ここが、皇国学園寮区……」
テンカは東棟を見上げた。
白い石壁に、淡い青の屋根。
窓辺には花鉢が置かれ、回廊には魔導灯が並んでいる。ハヅキ家の屋敷のような瓦屋根も、障子に似た建具もない。
ここは、皇国の学び舎なのだ。
部屋一つ、建物一つからも、それが分かる。
「姫さま」
「うむ。ハヅキ家とは、ずいぶん違うのう」
「はい」
「だが、悪くない」
テンカがそう言うと、キリカは目元を和らげた。
東棟の入口では、落ち着いた雰囲気の女性が待っていた。
年の頃は40代ほど。濃い茶色の髪をきっちりとまとめ、深い緑の長衣を身につけている。柔らかな表情ではあるが、背筋はまっすぐで、目元には規則を預かる者の厳しさがあった。
「東棟寮監のミリアムです。ハヅキ様、フロストレイン様、お待ちしておりました」
「世話になる」
「よろしくお願いいたしますわ」
テンカとエリシアが挨拶すると、ミリアム寮監は丁寧に頭を下げた。
「お二人とも、東棟上級貴族用区画をご利用いただきます。まず、武器と術式使用に関する確認をいたします」
寮監の視線が、テンカの腰の《継火》へ向けられた。
「ハヅキ様。《継火》は登録武器として持ち込みが許可されています。ただし、寮内での抜刀はお控えください」
「承知しておる」
「演習場以外での攻撃術の使用も禁止です。これはフロストレイン様も同様です」
「心得ておりますわ」
エリシアが涼やかに答える。
ミリアム寮監は頷いた。
「ここでは、爵位よりもまず寮則が先です。何かあれば、家名ではなく、学生として寮監室へ申し出てください」
テンカは内心で感心した。
ハヅキ家の名にも、フロストレイン家の名にも、必要以上に怯えていない。
なかなか胆の据わった御仁じゃ。
「分かった。寮則には従おう」
「ありがとうございます」
ミリアム寮監は表情を崩さずに答えた。
「ハヅキ様の随行者、キリカ様の登録も確認しております。控えの間は、ハヅキ様のお部屋に隣接しています。通常授業への同席はできませんが、寮区内での生活補助は問題ありません」
「承知しました」
キリカが一礼する。
それから、ミリアム寮監は廊下の奥へ歩き出した。
東棟の上級貴族用区画は、一般学生の区画よりも静かだった。
床には柔らかな敷物が敷かれ、壁には防音と防護の術式がさりげなく組み込まれている。華美ではないが、要人を預かる場所としての配慮は行き届いていた。
「こちらが、ハヅキ様のお部屋です」
ミリアム寮監が一つの扉の前で足を止める。
「寝室、書斎兼応接室、着替え用の小部屋、専用洗面室、そしてキリカ様用の控えの間がございます」
「十分すぎるほどじゃ」
「ありがとうございます」
続いて、寮監は隣の扉へ手を向けた。
「隣室は、フロストレイン様がお使いになります」
テンカは隣の扉を見た。
それから、エリシアを見る。
「隣か。これは退屈せずに済みそうじゃな」
「騒がしい隣人でなければよろしいのですけれど」
「それはそなた次第じゃな、エリー」
「まあ。わたくしのせいになりますの?」
「そなたの手紙が報告書である限り、わらわは退屈せぬ」
「友への手紙ですわ」
エリシアは三度、同じ調子で答えた。
レイナが口元に手を当てて笑い、キリカも目を伏せている。
ミリアム寮監だけは表情を変えなかったが、その目元がほんのわずかに柔らかくなっていた。
「では、お荷物は順次運び入れます。歓迎式典まで、あまり時間はありません。着替えと身支度を整えたら、中央棟前へお集まりください」
「うむ」
「分かりましたわ」
レイナがテンカへ向き直った。
「わたくしは式典の準備がありますので、一度生徒会へ戻ります。テンカ、分からないことがあれば寮監か、近くの上級生へ聞いてください」
「姉上には聞けぬのか?」
「聞いてください。いつでも聞いてください。今すぐでも構いません」
「式典の準備はどうした」
「……行きます」
レイナは名残惜しそうにしながらも、生徒会長の顔へ戻った。
「では、また後ほど」
「うむ。案ずるでない、姉上」
「案じます」
「即答じゃな」
「当然です」
レイナはきっぱりと言い残し、回廊の向こうへ歩いていった。
その背を見送ってから、テンカは自分の部屋の扉に手をかけた。
皇国学園寮区、東棟上級貴族用区画。
隣室には北方の友が、控えの間にはキリカがいる。ここでテンカは、皇国学園の学生として暮らしていく。
テンカはゆっくりと息を吸った。
「さて」
扉を開ける。
新しい部屋の空気が、春の光とともに流れ出した。
「ここが、わらわの学園での居場所じゃな」
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