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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第2部第1章 学び舎に咲く天の華
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生徒会長の妹

 黄金色の髪を揺らして駆けてきた少女は、馬車の前でぴたりと足を止めた。


 そのまま駆け寄って扉を開けそうな勢いだったが、周囲の視線に気づいたのだろう。少女は胸元へ手を添え、すっと背筋を伸ばした。


 乱れかけた息を整え、柔らかく微笑む。


「テンカ。ようこそ、皇国学園へ」


 声はいつものように整っていた。


 けれど、その奥に弾んだ響きが隠しきれていない。


 テンカは窓布を上げたまま、目を細めた。


「姉上」


 レイナ=ハヅキ。


 ハヅキ辺境伯家の長女であり、テンカの姉。


 父アルバート譲りの黄金色の髪は陽光を受けて淡く輝き、所作の一つ一つには、幼い頃から次期当主として育てられてきた品位がある。


 だが、テンカの視線は、それだけを見ていたわけではなかった。


 レイナが姿を見せた途端、周囲の空気が変わっている。


「レイナ会長だ」

「本当に迎えに来られたのね」

「今、走っていらっしゃらなかった?」

「見間違いでは?」


 小さな囁きが、春風に紛れて届く。


 生徒たちは道の端へ寄り、職員らしき者も軽く会釈をした。新入生らしい者たちは、ただ有名人を見つけた顔でレイナを見ている。


 どうやら姉は、この学園でただの上級生ではないらしい。


 御者が馬車の扉を開けると、まずキリカが降りた。周囲を一度確認してから、テンカへ手を差し出す。


「姫さま」

「うむ」


 テンカはその手を借り、馬車から降りた。


 石畳へ足を下ろすと、春の風が黒髪を揺らす。大通りを行き交う学生たちの視線が、今度はテンカへ集まった。


 レイナは一歩近づきかけて、そこでまた動きを止めた。


 腕が小さく上がり、すぐに下りる。


 テンカはそれを見て、口元を緩めた。


「姉上。迎えに来てくださり、ありがとうございます」

「当然です。妹が初めて学園都市へ来るのですから、迎えに来ない姉など姉ではありません」

「相変わらずじゃな」

「はい。わたくしは相変わらずです」


 レイナは何一つ恥じる様子もなく言った。


 その堂々とした返答に、テンカは小さく笑う。


 学園の生徒会長であろうと、属性魔術の天才と呼ばれていようと、妹の前での姉は姉のままらしい。


「長旅で疲れてはいませんか。馬車酔いは? 朝食はきちんと取りましたか。途中で寒くはありませんでしたか。眠れなかったのではありませんか」

「姉上」

「はい」

「質問が多い」


 レイナは一瞬だけ目を瞬かせた。


 それから、わずかに頬を染める。


「……失礼しました。聞きたいことが、少し多すぎました」

「少しか?」

「少しです」


 隣でキリカが静かに目を伏せた。


 笑いを堪えているのだろう。


 レイナは改めてキリカへ向き直り、丁寧に頭を下げた。


「キリカ。テンカをここまで守ってくれて、ありがとう」

「わたしは姫さまの側仕えですので」

「それでも、ありがとう」


 レイナの声は穏やかだった。


 キリカは静かに目を伏せる。


「もったいないお言葉です、レイナ様」


 テンカはそのやり取りを、静かに見ていた。


 キリカはこの2年で、ただの側仕えではなくなっている。テンカの隣に立ち、ともに危険へ踏み込む者になった。


 それをレイナも分かっているのだろう。


「では、まずは入学手続きへ向かいましょう。受付棟はこちらです」


 レイナが歩き出すと、周囲の学生たちが自然に道を空けた。


 誰かが命じたわけではない。


 だが、そうすることに慣れているような動きだった。


「レイナ会長、おはようございます」

「おはようございます。新入生の案内は順調ですか?」

「はい。西門側が少し混んでいますが、職員の方が誘導を増やしてくださいました」

「分かりました。あとで確認します」


 すれ違う上級生へ、レイナは淀みなく答える。


 別の学生が書類の束を抱えて駆け寄ってきた。


「会長、午後の歓迎式典の席順ですが」

「来賓席の追加分は、昨日のうちに講堂係へ渡しています。控え室前の掲示だけ、もう一度確認してください」

「分かりました!」


 学生はほっとした顔で頭を下げ、走り去っていった。


 テンカは姉の横顔を見上げる。


 レイナは、ここで自分の名を築いていた。

 ハヅキ家の長女としてではなく、ただの才女としてでもなく、皇国学園の生徒会長として。

 学園の者たちは、レイナの言葉に従い、彼女を頼りにしている。それが一目で分かった。


「姉上は、本当に生徒会長なのじゃな」

「本当に、とはどういう意味ですか?」

「いや。手紙では知っておったが、こうして見ると違うものじゃ」


 テンカはしばし考え、言葉を選んだ。


「立派じゃ」


 レイナの足が止まった。


 一瞬だけ。


 その頬が、春の花びらよりも分かりやすく染まる。


「……テンカ」

「何じゃ」

「もう一度、言っていただけますか」

「嫌じゃ」

「なぜですか」

「姉上が崩れそうだからじゃ」

「崩れません。わたくしは生徒会長です」


 そう言ったレイナの声は、わずかに震えていた。


 キリカが小さく咳払いをする。


 周囲の学生たちは、聞こえないふりをしていた。だが、耳がこちらを向いている者は何人もいる。


 テンカは静かに視線を巡らせた。


 なるほど。


 ここでは、自分よりも姉の名が先に歩いている。


 南方での噂や《五行姫》という呼び名よりも、この場所では「生徒会長レイナ=ハヅキの妹」であることの方が、まず人々の関心を集めるのだ。


 それは、不思議と嫌ではなかった。

 むしろ、誇らしい。


「テンカ?」

「何でもない」


 テンカは首を横へ振った。


「姉上がこの学園で積み上げてきたものを、わらわが軽くしてはならぬと思っただけじゃ」


 レイナは胸元を押さえた。


「テンカが、わたくしを誇りに……」

「姉上」

「はい」

「道案内を頼む」

「……そうでした」


 レイナは何事もなかったかのように歩き出した。


 ただし、歩幅が先ほどよりも軽い。


 大通りを進むにつれ、皇国学園の建物が近づいてくる。


 正面には大きな講義棟。その左右には、専門棟や演習場、図書館へ続く道が分かれていた。学園の敷地だけで一つの街のように広く、その外側にも学生向けの商店や工房、食堂が連なっている。


 レイナはその一つ一つを指しながら説明した。


「受付棟の隣が新入生用の相談所です。制服や教本の受け取りで困った時は、まずそこへ行ってください。図書館は入学式の後から利用できますが、禁書庫と研究閲覧室は許可制です」

「禁書庫などあるのか」

「あります。勝手に入ってはいけません」

「まだ何も申しておらぬ」

「テンカは興味を持つと思いましたので」

「否定はせぬ」


 レイナは小さく笑った。


「学生寮は東棟です。テンカの部屋は上級貴族用の区画にあります。キリカの従者登録も済んでいますから、隣接する控えの間を使えるはずです」

「キリカも近くにいられるのじゃな」

「はい。ただし、授業中は原則として教室の外です。実技科目では、申請すれば見学できる場合もあります」

「承知しました」


 キリカが静かに頷く。


 その時だった。


 すぐ前方で、荷台を押していた新入生らしい少女が足を取られた。


「あっ」


 積まれていた箱の紐が緩み、書類や小さな瓶が石畳へ落ちかける。近くを歩いていた学生たちが咄嗟に身を引いた。


 レイナの指が、軽く弧を描いた。


 詠唱はない。


 ただ、風が生まれた。


 落ちかけた箱がふわりと浮き、散りかけた書類が一枚ずつ空中で止まる。小瓶は割れる寸前で柔らかく受け止められ、持ち主の足元へ静かに戻った。


 強すぎない風が、必要なものだけを支え、余計なものは乱さなかった。


「お怪我はありませんか?」


 レイナが少女へ歩み寄る。


「は、はい! 申し訳ありません、レイナ会長!」

「謝る必要はありません。初日は誰でも慌てるものです。荷紐は少し緩んでいますね。結び直しましょう」


 レイナが再び指を動かすと、荷紐がするすると巻き直され、箱が安定した。


 周囲から小さなどよめきが上がる。


「今の、風属性?」

「ほとんど揺れていなかったぞ」

「やっぱり、レイナ会長はすごいな」


 テンカは黙って見ていた。


 属性魔術。

 皇国で一般的に用いられるその術理は、テンカの扱う五行とは似て非なるものだ。


 それでも、今の魔術には見るべきものがあった。魔力の流れが細く、余分な揺らぎが少ない。術の規模は小さいが、制御が恐ろしく丁寧だった。


 姉は、自分とは違う形で強い。大魔境で刀を振るう強さではなく、この学園で多くの者に信頼されるだけの力と技を持っていた。


「姉上」

「何ですか?」

「今の術、見事であった」


 レイナは今度こそ固まった。


「……テンカ」

「何じゃ」

「今日は、わたくしをどうするつもりなのですか」

「何もしておらぬ。褒めただけじゃ」

「それが一番危険なのです」

「理不尽じゃな」


 キリカが横で目を伏せている。


 今度は、肩がわずかに震えていた。


 荷物を直してもらった少女は、何度も礼を言いながら去っていった。レイナはそれを見送り、すぐに生徒会長の顔へ戻る。


「では、行きましょう。受付が混む前に手続きを済ませておいた方がよいです」

「うむ」


 再び歩き出す。

 道の先には、皇国学園の正門が見えていた。


 外門とは違い、こちらの門は戦のためではなく、学び舎の入口として造られている。白い石柱には皇国学園の紋章が刻まれ、その下を新入生たちが少し緊張した顔で通っていく。


 テンカは足を止めた。


 大魔境の境界でも、天巡神社の石段でもない。

 それでも、ここもまた一つの境目なのだと思った。


 ハヅキ領の姫として生きてきた自分が、皇国中から集まった者たちの中へ踏み出す境目。


「テンカ?」


 レイナが振り返る。


 テンカは小さく首を横へ振った。


「いや。ここからが、学園なのじゃなと思うただけじゃ」

「ええ」


 レイナの声が柔らかくなる。


「ここには、さまざまな人がいます。南方の常識が通じない相手も、ハヅキの名を特別に思わない相手も、逆に過剰に見る相手もいるでしょう」

「であろうな」

「ですが、心配はしていません」

「なぜじゃ」


 レイナは微笑んだ。


「あなたは、テンカですから」


 単純な言葉だった。


 だが、その言葉には、これまでテンカを見てきた姉の信頼が込められていた。


 テンカはかすかに目を伏せる。


「そなたもキリカも、時々ずるいことを申す」

「キリカも?」

「うむ」


 キリカは涼しい顔で答えた。


「姫さまが姫さまでいらっしゃるからです」

「……ほれ、またそうやってずるいことを申す」


 レイナが楽しそうに笑った。

 その笑顔を見て、テンカも釣られて口元を緩めた。


 学園の正門へ向けて、3人は歩き出した。


 その時。


「随分と賑やかな到着ですこと」


 涼やかな声が、春の陽気をすっと冷ますように響いた。


 テンカが振り返る。


 少し離れた石柱のそばに、白銀の髪を揺らす少女が立っていた。


 氷を思わせる淡い青の瞳。

 整った立ち姿。


 周囲のざわめきから切り離されたような静けさ。


 北方侯爵家の令嬢、エリシア=フロストレイン。


 2年前、刀を交えた好敵手であり、友となった。


 テンカは小さく笑った。


「久しいのう、エリー」

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