生徒会長の妹
黄金色の髪を揺らして駆けてきた少女は、馬車の前でぴたりと足を止めた。
そのまま駆け寄って扉を開けそうな勢いだったが、周囲の視線に気づいたのだろう。少女は胸元へ手を添え、すっと背筋を伸ばした。
乱れかけた息を整え、柔らかく微笑む。
「テンカ。ようこそ、皇国学園へ」
声はいつものように整っていた。
けれど、その奥に弾んだ響きが隠しきれていない。
テンカは窓布を上げたまま、目を細めた。
「姉上」
レイナ=ハヅキ。
ハヅキ辺境伯家の長女であり、テンカの姉。
父アルバート譲りの黄金色の髪は陽光を受けて淡く輝き、所作の一つ一つには、幼い頃から次期当主として育てられてきた品位がある。
だが、テンカの視線は、それだけを見ていたわけではなかった。
レイナが姿を見せた途端、周囲の空気が変わっている。
「レイナ会長だ」
「本当に迎えに来られたのね」
「今、走っていらっしゃらなかった?」
「見間違いでは?」
小さな囁きが、春風に紛れて届く。
生徒たちは道の端へ寄り、職員らしき者も軽く会釈をした。新入生らしい者たちは、ただ有名人を見つけた顔でレイナを見ている。
どうやら姉は、この学園でただの上級生ではないらしい。
御者が馬車の扉を開けると、まずキリカが降りた。周囲を一度確認してから、テンカへ手を差し出す。
「姫さま」
「うむ」
テンカはその手を借り、馬車から降りた。
石畳へ足を下ろすと、春の風が黒髪を揺らす。大通りを行き交う学生たちの視線が、今度はテンカへ集まった。
レイナは一歩近づきかけて、そこでまた動きを止めた。
腕が小さく上がり、すぐに下りる。
テンカはそれを見て、口元を緩めた。
「姉上。迎えに来てくださり、ありがとうございます」
「当然です。妹が初めて学園都市へ来るのですから、迎えに来ない姉など姉ではありません」
「相変わらずじゃな」
「はい。わたくしは相変わらずです」
レイナは何一つ恥じる様子もなく言った。
その堂々とした返答に、テンカは小さく笑う。
学園の生徒会長であろうと、属性魔術の天才と呼ばれていようと、妹の前での姉は姉のままらしい。
「長旅で疲れてはいませんか。馬車酔いは? 朝食はきちんと取りましたか。途中で寒くはありませんでしたか。眠れなかったのではありませんか」
「姉上」
「はい」
「質問が多い」
レイナは一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、わずかに頬を染める。
「……失礼しました。聞きたいことが、少し多すぎました」
「少しか?」
「少しです」
隣でキリカが静かに目を伏せた。
笑いを堪えているのだろう。
レイナは改めてキリカへ向き直り、丁寧に頭を下げた。
「キリカ。テンカをここまで守ってくれて、ありがとう」
「わたしは姫さまの側仕えですので」
「それでも、ありがとう」
レイナの声は穏やかだった。
キリカは静かに目を伏せる。
「もったいないお言葉です、レイナ様」
テンカはそのやり取りを、静かに見ていた。
キリカはこの2年で、ただの側仕えではなくなっている。テンカの隣に立ち、ともに危険へ踏み込む者になった。
それをレイナも分かっているのだろう。
「では、まずは入学手続きへ向かいましょう。受付棟はこちらです」
レイナが歩き出すと、周囲の学生たちが自然に道を空けた。
誰かが命じたわけではない。
だが、そうすることに慣れているような動きだった。
「レイナ会長、おはようございます」
「おはようございます。新入生の案内は順調ですか?」
「はい。西門側が少し混んでいますが、職員の方が誘導を増やしてくださいました」
「分かりました。あとで確認します」
すれ違う上級生へ、レイナは淀みなく答える。
別の学生が書類の束を抱えて駆け寄ってきた。
「会長、午後の歓迎式典の席順ですが」
「来賓席の追加分は、昨日のうちに講堂係へ渡しています。控え室前の掲示だけ、もう一度確認してください」
「分かりました!」
学生はほっとした顔で頭を下げ、走り去っていった。
テンカは姉の横顔を見上げる。
レイナは、ここで自分の名を築いていた。
ハヅキ家の長女としてではなく、ただの才女としてでもなく、皇国学園の生徒会長として。
学園の者たちは、レイナの言葉に従い、彼女を頼りにしている。それが一目で分かった。
「姉上は、本当に生徒会長なのじゃな」
「本当に、とはどういう意味ですか?」
「いや。手紙では知っておったが、こうして見ると違うものじゃ」
テンカはしばし考え、言葉を選んだ。
「立派じゃ」
レイナの足が止まった。
一瞬だけ。
その頬が、春の花びらよりも分かりやすく染まる。
「……テンカ」
「何じゃ」
「もう一度、言っていただけますか」
「嫌じゃ」
「なぜですか」
「姉上が崩れそうだからじゃ」
「崩れません。わたくしは生徒会長です」
そう言ったレイナの声は、わずかに震えていた。
キリカが小さく咳払いをする。
周囲の学生たちは、聞こえないふりをしていた。だが、耳がこちらを向いている者は何人もいる。
テンカは静かに視線を巡らせた。
なるほど。
ここでは、自分よりも姉の名が先に歩いている。
南方での噂や《五行姫》という呼び名よりも、この場所では「生徒会長レイナ=ハヅキの妹」であることの方が、まず人々の関心を集めるのだ。
それは、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、誇らしい。
「テンカ?」
「何でもない」
テンカは首を横へ振った。
「姉上がこの学園で積み上げてきたものを、わらわが軽くしてはならぬと思っただけじゃ」
レイナは胸元を押さえた。
「テンカが、わたくしを誇りに……」
「姉上」
「はい」
「道案内を頼む」
「……そうでした」
レイナは何事もなかったかのように歩き出した。
ただし、歩幅が先ほどよりも軽い。
大通りを進むにつれ、皇国学園の建物が近づいてくる。
正面には大きな講義棟。その左右には、専門棟や演習場、図書館へ続く道が分かれていた。学園の敷地だけで一つの街のように広く、その外側にも学生向けの商店や工房、食堂が連なっている。
レイナはその一つ一つを指しながら説明した。
「受付棟の隣が新入生用の相談所です。制服や教本の受け取りで困った時は、まずそこへ行ってください。図書館は入学式の後から利用できますが、禁書庫と研究閲覧室は許可制です」
「禁書庫などあるのか」
「あります。勝手に入ってはいけません」
「まだ何も申しておらぬ」
「テンカは興味を持つと思いましたので」
「否定はせぬ」
レイナは小さく笑った。
「学生寮は東棟です。テンカの部屋は上級貴族用の区画にあります。キリカの従者登録も済んでいますから、隣接する控えの間を使えるはずです」
「キリカも近くにいられるのじゃな」
「はい。ただし、授業中は原則として教室の外です。実技科目では、申請すれば見学できる場合もあります」
「承知しました」
キリカが静かに頷く。
その時だった。
すぐ前方で、荷台を押していた新入生らしい少女が足を取られた。
「あっ」
積まれていた箱の紐が緩み、書類や小さな瓶が石畳へ落ちかける。近くを歩いていた学生たちが咄嗟に身を引いた。
レイナの指が、軽く弧を描いた。
詠唱はない。
ただ、風が生まれた。
落ちかけた箱がふわりと浮き、散りかけた書類が一枚ずつ空中で止まる。小瓶は割れる寸前で柔らかく受け止められ、持ち主の足元へ静かに戻った。
強すぎない風が、必要なものだけを支え、余計なものは乱さなかった。
「お怪我はありませんか?」
レイナが少女へ歩み寄る。
「は、はい! 申し訳ありません、レイナ会長!」
「謝る必要はありません。初日は誰でも慌てるものです。荷紐は少し緩んでいますね。結び直しましょう」
レイナが再び指を動かすと、荷紐がするすると巻き直され、箱が安定した。
周囲から小さなどよめきが上がる。
「今の、風属性?」
「ほとんど揺れていなかったぞ」
「やっぱり、レイナ会長はすごいな」
テンカは黙って見ていた。
属性魔術。
皇国で一般的に用いられるその術理は、テンカの扱う五行とは似て非なるものだ。
それでも、今の魔術には見るべきものがあった。魔力の流れが細く、余分な揺らぎが少ない。術の規模は小さいが、制御が恐ろしく丁寧だった。
姉は、自分とは違う形で強い。大魔境で刀を振るう強さではなく、この学園で多くの者に信頼されるだけの力と技を持っていた。
「姉上」
「何ですか?」
「今の術、見事であった」
レイナは今度こそ固まった。
「……テンカ」
「何じゃ」
「今日は、わたくしをどうするつもりなのですか」
「何もしておらぬ。褒めただけじゃ」
「それが一番危険なのです」
「理不尽じゃな」
キリカが横で目を伏せている。
今度は、肩がわずかに震えていた。
荷物を直してもらった少女は、何度も礼を言いながら去っていった。レイナはそれを見送り、すぐに生徒会長の顔へ戻る。
「では、行きましょう。受付が混む前に手続きを済ませておいた方がよいです」
「うむ」
再び歩き出す。
道の先には、皇国学園の正門が見えていた。
外門とは違い、こちらの門は戦のためではなく、学び舎の入口として造られている。白い石柱には皇国学園の紋章が刻まれ、その下を新入生たちが少し緊張した顔で通っていく。
テンカは足を止めた。
大魔境の境界でも、天巡神社の石段でもない。
それでも、ここもまた一つの境目なのだと思った。
ハヅキ領の姫として生きてきた自分が、皇国中から集まった者たちの中へ踏み出す境目。
「テンカ?」
レイナが振り返る。
テンカは小さく首を横へ振った。
「いや。ここからが、学園なのじゃなと思うただけじゃ」
「ええ」
レイナの声が柔らかくなる。
「ここには、さまざまな人がいます。南方の常識が通じない相手も、ハヅキの名を特別に思わない相手も、逆に過剰に見る相手もいるでしょう」
「であろうな」
「ですが、心配はしていません」
「なぜじゃ」
レイナは微笑んだ。
「あなたは、テンカですから」
単純な言葉だった。
だが、その言葉には、これまでテンカを見てきた姉の信頼が込められていた。
テンカはかすかに目を伏せる。
「そなたもキリカも、時々ずるいことを申す」
「キリカも?」
「うむ」
キリカは涼しい顔で答えた。
「姫さまが姫さまでいらっしゃるからです」
「……ほれ、またそうやってずるいことを申す」
レイナが楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、テンカも釣られて口元を緩めた。
学園の正門へ向けて、3人は歩き出した。
その時。
「随分と賑やかな到着ですこと」
涼やかな声が、春の陽気をすっと冷ますように響いた。
テンカが振り返る。
少し離れた石柱のそばに、白銀の髪を揺らす少女が立っていた。
氷を思わせる淡い青の瞳。
整った立ち姿。
周囲のざわめきから切り離されたような静けさ。
北方侯爵家の令嬢、エリシア=フロストレイン。
2年前、刀を交えた好敵手であり、友となった。
テンカは小さく笑った。
「久しいのう、エリー」
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