学園都市レイヴェルン
第2部開始です。
学園都市レイヴェルンの鐘は、テンカたちの馬車が外門へ辿り着くより先に鳴り始めた。
最初に響いたのは、都市の中央にそびえる白い鐘楼からだった。
澄んだ音が春の空へ広がると、少し遅れて東西の塔からも鐘が鳴る。異なる高さの音が重なり合い、石壁に囲まれた都市全体を揺らすように響いていた。
「姫さま、見えてまいりました」
向かいに座るキリカの声に、テンカは馬車の窓布を持ち上げた。
緩やかな坂道の先に、巨大な都市が広がっている。
淡い灰色の外壁。その向こうには青や赤の屋根を戴いた石造りの建物が幾重にも並び、街路に沿って立つ魔導灯が朝の光を反射していた。建物の間には、空中廊下のような石橋まで架けられている。
そのさらに奥。
都市の中心にある高台には、いくつもの尖塔と大きな講義棟を備えた皇国学園が見えた。皇国中から集まった若者たちが、武術や魔術、領地経営に必要な学問を修める、皇国屈指の学び舎である。
ここが、学園都市レイヴェルンだった。
「あれが、皇国学園か」
テンカは窓枠へ手を添え、遠くに見える白い尖塔を見上げた。
天巡神社で送り火を見送った夜から、2度の春が巡っている。
テンカは、13歳になった。
腰まで届く艶やかな黒髪に、暗い紅玉のような瞳。幼さの残る顔立ちは変わらないが、背は伸び、旅装の上からでも鍛えられた身体の線が分かる。
腰には、黒い鞘に緋色の一筋が走る愛刀《継火》を佩いていた。
「随分と大きいのう」
「レイナ様のお手紙にも、そのように書かれておりましたね」
「手紙で読むのと、実際に見るのとでは違うものじゃ」
テンカは膝の上へ置いていた案内図へ視線を落とした。
皇国学園や学生寮、図書館、商業区など、都市の主要な場所が細かく記されている。余白には、レイナの整った字で注意書きまで添えられていた。
その中に、赤い印が3つある。
「こちらが、レイナ様お勧めの菓子店ですか」
「うむ。姉上が2年をかけて調べた、選りすぐりの店らしい」
「学園生活に必要な施設よりも、印が大きいように見えます」
「姉上らしい」
テンカは小さく笑った。
「学び舎のことも、街のことも、菓子のことも。あの方は、わらわが困らぬよう、すべて書き残してくれたのじゃろう」
「はい。とても、レイナ様らしいお手紙でした」
「うむ。ありがたいことじゃ」
キリカは目元を和らげた。
「レイナ様がお聞きになれば、きっとお喜びになります」
「そうじゃな。まずは無事に顔を見せねばならぬ」
テンカは案内図を折り畳み、懐へ戻した。
胸に残る痛みも、失った者たちの記憶も消えてはいない。
それでも、立ち止まってはいなかった。
送り火の夜に見上げた火の粉を胸に抱き、テンカはこの2年を歩いてきた。かつて抱えていた、自分が何者なのかという迷いも、今はもうない。
前世の記憶も、テンカ=ハヅキとして生きてきた日々も、すべて自分のものだった。
「姫さま」
「何じゃ」
「少し緊張されていますか?」
キリカの問いに、テンカは窓の外を眺めながら考えた。
街道には、同じように学園都市を目指す馬車が連なっている。貴族家の紋章を掲げた豪奢な馬車もあれば、数人の新入生を乗せた乗合馬車もあり、剣や槍を背負って徒歩で門へ向かう者もいた。
「しておる」
テンカは静かに答えた。
「ですが、不安ではなさそうです」
「不安がないわけではない。知らぬ土地で、知らぬ者たちと4年間を過ごすのじゃ。胸がざわつかぬ方が不自然であろう」
そこで、テンカは少しだけ口元を緩めた。
「だが、それだけじゃ。姉上もおる。エリーも同じ年に入学する。そなたも、こうして隣にいてくれる」
「はい」
「ならば、案ずるより先に、見るべきものを見る。ここがどのような場所で、どのような者たちが集まるのか。わらわは、それを学びに来たのじゃからな」
キリカは静かに頷いた。
「姫さまらしいお言葉です」
「そうか?」
「はい。以前よりも、少しだけ遠くをご覧になっているように思います」
テンカは、わずかに視線を逸らした。
「そなたは時々、面映ゆいことを平然と申す」
北方侯爵家の令嬢、エリシア=フロストレイン。
2年前に手合わせをし、友となった少女も、同じ年に皇国学園へ入学する。手紙のやり取りは続けていたが、再会するのは久しぶりだった。
もっとも、エリシアから届く手紙は、近況報告というより、北方の魔物や氷術に関する観察記録に近い時もある。
おそらく本人は、立派な友への手紙だと思っているのだろう。
再会できるのは楽しみだった。
だが、ここへ来たのは友に会うためだけではない。刀も、五行も、この国のことも、ハヅキ領にいるだけでは出会えなかった者たちのことも、学ばねばならない。
母コトネからも、自分の目で見て、自分で考えるようにと言われている。
馬車は、外門へ続く列の中へ入った。
門の左右には、皇国の紋章を胸に付けた衛兵たちが立っている。頭上の歩廊にも弓兵が配置され、門柱には魔力を感知する術具が埋め込まれていた。
テンカは無意識に、門の守りを数えていた。
正面に6人、左右に4人ずつ。歩廊には8人の弓兵がおり、門扉を動かす巻き上げ機は壁の内側へ隠されている。
「姫さま」
「何じゃ」
「街並みではなく、門の防備をご覧になっていますね」
「癖じゃ」
「到着早々、攻め落とす方法を考えないでください」
「攻め落とすつもりはない。守る側として見ておっただけじゃ」
「どちらにしても、観光客の目ではありません」
キリカは小さく息を吐いた。
だが、その表情には困惑よりも、どこか懐かしむような柔らかさがある。
テンカが戦場を見る目を身につけた時間を、キリカも隣で過ごしてきた。
かつてのように、ただ危険から遠ざけようとはしない。
危険へ踏み込む時にはともに踏み込み、退くべき時には止める。2人の関係もまた、この2年で少しずつ変わっていた。
やがて、馬車が門前で止まった。
御者が書類を持って降り、衛兵へ差し出す。
馬車の扉に刻まれたハヅキ家の紋を見て、衛兵の背筋がわずかに伸びた。
「ハヅキ辺境伯家からお越しの方々ですね」
「左様です。皇国学園へ入学する、テンカ=ハヅキ様をお連れしております」
御者の答えに、周囲の空気がわずかに動いた。
近くの列に並んでいた者たちが、こちらへ顔を向ける。
「ハヅキ……?」
「南方の辺境伯家か。大魔境を押さえている、あの」
「では、あの馬車に乗っているのが……」
声は小さい。
だが、テンカの耳には届いていた。
「レイナ様の妹君でしょう?」
「生徒会長の?」
「ええ。属性魔術の天才と名高い、あのレイナ=ハヅキ様の」
囁きが、人から人へ渡っていく。
ハヅキ辺境伯家の次女。
学園で名を馳せる生徒会長、レイナ=ハヅキの妹。
そして、南方では《五行姫》と呼ばれているらしい少女。
テンカは、窓布の向こうに広がる気配を静かに受け止めていた。
噂とは、そういうものだ。
事実の欠片を拾い、語る者の期待や畏れをまとって、本人よりも少しだけ派手な姿で歩き出す。
そのすべてが間違っているわけではない。だが、正確とも言い切れなかった。
テンカは幾度か大魔境で戦った。戦果も上げた。五行姫と呼ばれることも、今では否定しきれない。
けれど、どの戦いも1人で成したものではなかった。
滅魔旅団が道を開き、キリカが隣に立ち、命を懸けて繋いでくれた者たちがいたからこそ、テンカは今ここにいる。
「姫さま」
「聞こえておる」
「訂正なさいますか?」
「いや」
テンカは首を横へ振った。
「言葉で追いかけても、噂には追いつけぬ。ならば、これからの振る舞いで示すほかあるまい」
キリカは少しだけ目を細めた。
「かしこまりました」
「それに」
テンカは小さく笑う。
「姉上の妹と呼ばれるのは、悪い気分ではない」
衛兵が書類を確認し、馬車の中へ声を掛ける。
「ハヅキ様。ご入学の確認が取れました。随行者キリカ様の従者登録も確認しております」
「ご苦労」
「ようこそ、学園都市レイヴェルンへ」
衛兵が一礼する。
やがて前方の馬車が動き、テンカたちの馬車も外門をくぐった。
石造りの門の影を抜けると、視界が一気に開けた。
広い大通りには色鮮やかな店の天幕が並び、荷物を運ぶ魔導車が行き交っている。その間を、真新しい制服を着た学生たちが、期待と緊張を顔に浮かべながら歩いていた。
講義棟だけでなく、商業区も、寮へ続く道も、学生たちの生活を抱え込むように学園と結びついている。街そのものが一つの学び舎を成しているのだと思うと、テンカの記憶にある学校とは、ずいぶん違って見えた。
街路樹には淡い花が咲き、春風に乗った白い花びらが空を舞う。
ハヅキ領とは違う。
森の匂いも、潮風も、見慣れた瓦屋根もない。
代わりに、ここには皇国中から集まった若者たちが、新しい生活を始めようとする熱気が満ちていた。
「姫さま」
「うむ」
「楽しそうですね」
指摘されて、テンカは自分の口元へ触れた。
いつの間にか、少し笑っていたらしい。
「そう見えるか?」
「はい」
「ならば、そうなのじゃろうな」
この都市でどのような者と出会い、何を学び、何を得るのか。今はまだ分からない。
それでも、知らない場所へ踏み出すことを、楽しみだと思える自分がいる。
馬車が大通りを進むにつれて、皇国学園の白い尖塔が少しずつ近づいてくる。
「ここからが始まりじゃな」
「はい」
テンカは腰の《継火》へ、そっと手を添えた。
その時。
「テンカ!」
馬車の外から、聞き慣れた声が響いた。
いつもは整っているはずの声が、喜びを隠しきれずに弾んでいる。
テンカが窓布を持ち上げると、春の陽光の中、皇国学園へ続く大通りを、黄金色の髪を揺らしながら駆けてくる少女がいた。
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