幕間 悠久の銘
ハヅキ辺境伯家の屋敷、その地下に設けられた保管室で、ムネチカは長い白布を静かにめくった。
布の下に横たわっていたのは、天巡神社で回収された大太刀だった。
黒紫色の淀みも、骨と角を重ねたような外殻も、すでに残ってはいない。露わになった刀身は錆びた鉄色を帯び、刃には大小幾つもの欠けが走っている。
柄巻は黒く変色し、鍔にも深い傷が刻まれていた。
それでも、刀身は折れていない。
ムネチカは腕を組み、しばらく大太刀を見下ろした。
「どうですか」
背後から、コトネの声が届いた。
保管室には、ムネチカのほかにコトネとトウマが立っていた。入口の外には滅魔旅団の兵が控え、扉や壁には異常を検知するための術式が幾重にも施されている。
大太刀から淀みの反応は確認されていない。
それでも、巨鬼が振るっていた武器を無防備に扱うつもりは、誰にもなかった。
「少なくとも、今すぐ何かが起きることはないでしょうな」
ムネチカは答え、大太刀の棟へ指を沿わせた。
「淀みは抜けています。刃に妙な術式が刻まれている様子もない。こいつはもう、ただの鉄です」
「ただの鉄、ですか」
「ええ」
トウマが銀縁の眼鏡を押し上げた。
「巨鬼の膂力と淀みに耐え、テンカ様の継火と何度も打ち合った刀を、ただの鉄と呼ぶのですか」
「鉄にとって、ただの鉄以上の褒め言葉はありませんよ」
ムネチカは僅かに口元を緩めた。
鉄は、強いから残るのではない。
熱に耐え、打たれ、曲げられ、研がれ、それでも己の形へ戻ろうとするから、刃になる。
目の前の大太刀も同じだった。
長い年月を地の底で過ごし、淀みに覆われ、異形の手で振るわれてもなお、その芯には鍛えられた鋼が残っている。
ドヴェルグの血を引くムネチカに聞こえるのは、死者の声ではない。
鉄が受けた熱、槌の重さ、刃の内側へ残された歪み。何度研がれ、どれほど使われてきたか。
鉄が語るのは、それだけだった。
「古い刀ですな」
ムネチカは刃元を薄い硝子板越しに覗き込んだ。
「どれほど前のものか、正確には分かりません。ですが、相当に古い。少なくとも、近年打たれた刀ではありませんな」
「それほどですか」
「刃は何度も研ぎ直されています。大きく欠けた箇所を修復した痕もある。飾っておくための刀ではありません」
ムネチカは刀身の中央へ視線を移した。
「戦へ持ち出され、欠けては戻り、また研がれた。そういう刀です」
コトネは錆びた大太刀を見つめた。
「巨鬼が、人であった頃から使っていたものだと思いますか」
「そこまでは、鉄にも分かりません」
ムネチカは首を横へ振った。
「ただ、淀みに覆われてから拾った刀ではないでしょう。柄も、鍔も、刀身と同じだけ古い。長く同じ者に使われた痕がある」
「同じ者に?」
「握る位置が決まっています」
ムネチカは傷んだ柄へ指を近づけた。
「柄巻はほとんど朽ちていますが、下地の摩耗が偏っている。何度も同じ位置で握られた痕です。持ち主は、この大太刀を己の手足のように扱っていたのでしょうな」
天巡神社で、巨鬼は淀みを失った後も立ち続けた。
再生も、異形の膂力も失いながら、その手に残った古い大太刀だけを頼りにテンカと斬り結んだという。
ムネチカはその戦いを見ていない。
だが、この刃を見れば分かる。
あれは、淀みが与えた技ではない。
刃を振るい続けた者の身体に、長い時間をかけて刻まれたものだ。
「柄を外します」
ムネチカが告げると、コトネが頷いた。
「任せます」
ムネチカは道具箱から細い金具を取り出した。
柄を留めている目釘は、錆と黒い汚れに固められている。無理に押せば、茎まで傷つけかねない。
油を少量染み込ませ、時間を置く。
細い金具を当て、力を掛けすぎないよう、少しずつ押し出していく。
やがて目釘が抜けた。
ムネチカは柄を両手で包み、僅かに捻った。動かない。角度を変え、柄の内側で固まっていた錆を少しずつ剥がしていく。
焦らず、無理に力を掛けず、わずかな隙間を広げていった。
古びた柄が、ようやく茎から外れた。
露わになった茎は、刀身以上に赤黒く錆びていた。
トウマが一歩近づく。
「何かありますか」
「まだ分かりません」
ムネチカは布へ油を染み込ませ、茎の表面を軽く拭った。
錆をすべて落とすつもりはない。
古い刀の錆は、その刀が過ごした時間そのものだ。調査のためとはいえ、削り落としてよいものではない。
表面を覆う汚れだけを取り除き、光の角度を変える。
浅い線が見えた。
傷ではない。
人の手で刻まれた跡だった。
「銘があります」
ムネチカの声に、保管室の空気が僅かに変わった。
コトネとトウマが、白布を敷いた台へ視線を落とす。
ムネチカは灯りを近づけた。
長い時を経て、線の幾つかは錆に埋もれている。それでも、刻まれた文字は消えていなかった。
ムネチカは一文字ずつ確かめた。
「ヤス……ツナ」
口にした瞬間、自分の声が低くなったことに気づいた。
「ご存じなのですか」
コトネが問う。
ムネチカはすぐには答えなかった。
銘を見間違えた可能性を考え、茎の向きを変える。線の深さ、文字の傾き、最後の一画。
間違いない。
「少し、お待ちを」
ムネチカは道具箱の底から、小さな鍵を取り出した。
保管室の隅に置いていた自分の荷箱を開き、その中から黒い布に包まれた書物を取り出す。
表紙も背も傷み、何度も補修された古い刀工譜だった。
「それは?」
「若い頃、武蔵ノ原で修業していた時に、師から譲られた写しです」
武蔵ノ原で鍛えられた刀のすべてが記されているわけではない。
現存する刀。
すでに失われた刀。
名だけが残る刀匠。
戦乱や火災で失われた系譜を、後の刀匠たちが書き継ぎ、残したものだった。
ムネチカは慎重に頁をめくった。
紙が古いため、急げば端から崩れてしまう。
武蔵ノ原東部。
中央。
西方。
そして、北方。
頁の途中から、記録は急に少なくなる。
ムネチカの指が止まった。
「ありました」
開かれた頁には、刀の茎から写し取った幾つかの銘が並んでいた。
その一つ。
僅かに右へ傾いた文字。
長く引かれた最後の一画。
大太刀に刻まれた銘と同じものだった。
「ヤスツナ」
ムネチカは改めて名を読んだ。
「これは、刀の名ではありません。こいつを鍛えた刀匠の名です」
「どこの刀匠ですか」
トウマの問いに、ムネチカは頁の上部を指した。
そこには、今の地図には存在しない国名が記されていた。
「咲ノ珠」
コトネの目が細くなる。
「武蔵ノ原の北にあった国ですね」
「はい。武蔵ノ原の遥か北、今では黄泉路底根國に呑まれたとされる領域に、かつて存在した国です」
ムネチカは、刀工譜に記された古い銘へ目を落とした。
「ヤスツナの名は、武蔵ノ原に伝わる古い刀工譜に残っています。私に分かるのは、この銘が残されているということまでです。ただの無名の工ではなかったのでしょう」
「この大太刀は、その記録にある刀なのですか」
「いえ」
ムネチカは首を横へ振った。
「ここに写されている刀とは、長さも姿も違います。少なくとも、記録に残るその一振りではないようです」
トウマの視線が、錆びた大太刀へ移る。
「では、あの巨鬼は咲ノ珠の者だったのでしょうか」
「刀が咲ノ珠に関わる刀匠の手で鍛えられたことは、ほぼ間違いありません」
ムネチカは大太刀へ白布を掛け直しながら答えた。
「ですが、刀匠に分かるのは、刀のことだけです。誰がこの刀を佩き、なぜ地の底へ沈んだのか。それを断じることはできません」
「それでも、手掛かりにはなります」
コトネが言った。
「咲ノ珠に関する記録を集めます。ただし、照会先は慎重に選びなさい」
「承知しました」
トウマが頷く。
「黄泉路底根國に関わる北方の失われた国。その刀匠の銘が刻まれた大太刀が、皇国南方の地下から現れた。事実だけでも、中央や武蔵ノ原を刺激しかねません」
「ええ。公にはしません」
コトネは大太刀を見つめた。
「ムネチカ。この刀は、今後も調べられますか」
「可能です」
ムネチカは即答した。
「ただ、一つお願いがあります」
「何ですか」
「この刀を、材料として潰さないでいただきたい」
トウマが僅かに眉を上げた。
「使える鋼なのですか」
「そういう話ではありません」
ムネチカは白布の下にある大太刀へ手を置いた。
「こいつは、もう十分に戦いました。研ぎ直して誰かに持たせるつもりも、打ち直して別の刀へ変えるつもりもありません」
錆び、欠け、淀みに覆われながら、それでも折れずに残った刀。
持ち主の名は分からない。
どの戦で振るわれ、どれほどの血を吸ったのかも分からない。
けれど、刀匠の銘は残っている。
「この姿のまま、残すべきです」
ムネチカは言った。
「国が滅び、人の名が失われても、刀だけは残った。ならば、せめてこれ以上、消すべきではないでしょう」
コトネはしばらく黙っていた。
やがて、静かに頷く。
「分かりました。大太刀はハヅキ家で保管します。あなたには、保存と調査を任せます」
「承りました」
ムネチカは深く頭を下げた。
コトネとトウマが保管室を出た後も、ムネチカは一人、大太刀の前に残った。
白布を僅かに戻し、錆びた茎をもう一度見る。
ヤスツナ。
持ち主の名も、咲ノ珠が滅びた日のことも、鉄は語らない。
それでも、その国で一人の刀匠が鉄を打ち、一本の大太刀を世へ送り出したことだけは、消えていなかった。
ムネチカは銘を傷つけぬよう、茎へ静かに布を掛けた。
地図から失われた国の名が、長い年月を越え、錆の下から再び姿を現していた。
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