幕間 クレハ=ウエスギ
時系列は禍つ鬼戦の時です
東側の避難路では、灰白色の異形が兵たちの盾へ群がっていた。
白く濁った眼。胸元まで裂けた口。人のものより長く、幾重にも折れ曲がった四肢。
地中から這い上がった異形たちは、槍で胸を貫かれても止まらなかった。硬い指を盾の縁へ掛け、兵を引き倒そうとしながら、負傷者と神職たちが下る道へ進もうとしていた。
「頭を狙え! 倒すことより、避難路へ近づけるな!」
外周隊を率いる古参兵が叫んだ。
若い槍兵は盾の隙間から穂先を突き出し、異形の喉を貫いた。黒い体液が柄を伝ったが、異形は首を傾けただけで、そのまま槍を掴もうと腕を伸ばしてきた。
槍を引こうとしても抜けなかった。
背後では、神職が負傷した兵へ肩を貸していた。ここを抜かれれば、戦う力のない者たちへ異形が届く。
「離せ……!」
若い槍兵は柄へ体重を掛けた。
異形の白濁した眼が間近で彼を捉え、胸元まで裂けた口が開いた。その瞬間、横合いから長い刃が走った。
異形の頭部が首から離れ、灰白色の身体が若い槍兵の槍を掴んだまま地面へ崩れ落ちた。
「怪我はありませんか?」
穏やかな声だった。
長い薙刀を振り抜いたクレハが、倒れた異形の向こうに立っていた。
薄紅に紫をひと雫落としたような髪は、走ってきたためか肩の辺りで乱れていた。それでも深い青色の瞳は落ち着き、息もほとんど乱れていなかった。
「だ、団長……!」
「返事を」
「ありません!」
「よろしい。では、槍を放してください。その異形はもう動きません」
若い槍兵は慌てて手を離した。
クレハは周囲を見渡した。
外周隊の半数近くが負傷していた。倒れた兵は、動ける者たちによってすでに後方へ運ばれていた。
避難列はまだ長かった。
崩れた斜面を避けるため、神職や負傷者たちは細い脇道へ迂回していた。道幅が狭く、全員が麓へ下りるまでには時間が掛かっていた。
「予備隊は外周隊と交代してください。負傷者は避難列の中央へ。動ける方は、決して走らず、前の方との間を空けないように」
クレハが指示を出すと、彼女に続いてきた兵たちがすぐに動いた。
「槍兵は前へ。盾兵は避難路を背にして半円を作ってください。異形を倒すことより、押し返すことを優先します」
「了解!」
若い槍兵も、地面へ倒れた異形から槍を引き抜いた。
穂先がわずかに曲がっていた。それでも、まだ使えた。
前へ出ようとした時、隣に立った古参兵が肩を掴んだ。
「団長の前へ出るな」
「ですが、数が多すぎます」
「だからだ。団長の間合いへ入るな」
クレハが薙刀を返した。
長い柄が彼女の手の内で滑り、石突が地面すれすれを通った。
迫っていた異形の足首が断たれた。体勢を崩したところへ刃が返り、今度は頭部が斜めに割られた。
その背後から2体が跳びかかった。
クレハは退かなかった。
一歩踏み込み、薙刀の柄を立てた。
最初の異形の腕を柄で受け流し、身体を入れ替える。そのまま石突で2体目の胸を突き、避難路とは反対側へ押し戻した。
刃が円を描いた。
2体の首が、ほとんど同時に断たれた。
クレハは止まらなかった。
薙刀の間合いへ入った異形だけでなく、その外側から兵へ回り込もうとした個体にも切っ先が届いた。柄を短く持ち直し、懐へ入った異形の顎を斬り上げると、次の瞬間には柄尻を返し、別の個体の膝を崩していた。
動きは速い。
だが、それ以上に迷いがなかった。
異形が腕を伸ばすより早く、刃はその腕が通る場所へ置かれていた。兵の盾へ体重を掛けようとした個体は脚を断たれ、脇道へ向きを変えた個体は頭部を割られた。
クレハが踏み込むたび、異形の群れは押し戻され、崩れかけていた戦列が立て直されていった。
「すごい……」
若い槍兵の口から、声が漏れた。
「見惚れるな。来るぞ!」
古参兵に叱られ、槍を構え直した。
クレハが押し返した異形の一体が、地面を這いながら盾の隙間へ向かってきた。若い槍兵は穂先を突き下ろし、白濁した眼の間を貫いた。
今度こそ、異形は動きを止めた。
だが、地中から這い上がるものは途切れなかった。
崩れた斜面の下で土が押し上げられ、新たな指が地面を掴んだ。1体、さらに2体。その後ろからも、灰白色の身体が重なり合うように現れた。
「まだ来るのか……」
若い槍兵の手が震えた。
すでに地面には幾つもの異形が倒れていた。それでも、穴の奥から聞こえる硬い音は消えなかった。
クレハも異形を見据えたまま、薙刀を構え直した。
「避難はどこまで進んでいますか?」
「神職は残り僅かです! ですが、負傷者の列がまだ半分ほど!」
「では、ここを通すわけにはいきませんね」
声は変わらず穏やかだった。
異形の群れが一斉に地面を蹴った。
「盾、構えろ!」
半円に並んだ盾へ、異形たちが激突した。
前衛の足が地面を滑った。
槍兵たちが盾の間から穂先を突き出した。肩を貫き、喉を裂き、頭部を狙ったが、異形の数が多すぎた。
1体を止めても、その背中を踏み越えて次の個体が迫った。
盾の上へ異形が乗り上げた。
若い槍兵は槍を持ち上げ、その胸を押し返そうとする。だが、折れ曲がった腕が柄へ絡みつき、穂先を横へ逸らされた。
異形の指が、彼の顔へ伸びた。
薙刀の刃が間へ入り、その腕を断った。
「前だけを見ないでください」
クレハが若い槍兵の隣へ立った。
「戦場では、自分が見えていない場所ほど危険です」
「はい!」
「ですが、今は私が見ています。あなたは盾の隙間だけに集中してください」
「了解しました!」
クレハが前へ出た。
薙刀が左右へ走るたび、異形の腕と脚が地面へ落ちた。頭部へ届かない時は姿勢を崩し、兵たちが止めを刺せる形を作っていった。
若い槍兵はその背を追いながら、槍を突き続けた。
押し返せる。そう思い始めた時だった。
崩れた斜面の下で、地面が大きく持ち上がった。
「下がれ!」
古参兵の声に、前衛が一斉に距離を取った。
土と砕けた石の間から、太い腕が現れた。
灰白色の皮膚には黒紫色の筋が幾重にも走り、その表面を煙のような瘴気が覆っていた。
その腕は、人の胴ほども太かった。
続いて、異形の頭部が地上へ押し出された。
ほかの個体よりも大きい。
白く濁った眼は顔の左右で高さが異なり、胸元まで裂けた口には、黒ずんだ歯が不揃いに並んでいた。幾重にも折れた四肢は太く、背中からは骨のような突起が伸びていた。
異形が地上へ這い上がると、まとわりつく瘴気が周囲へ広がり、近くに倒れていた草が黒く変色した。
若い槍兵の喉が焼け、息が詰まった。
「この瘴気……」
古参兵の表情が変わった。
「以前の黒き鬼より濃いぞ」
その言葉が、周囲の兵たちへ伝わった。
黒き鬼。
異常な再生力を持ち、第三討伐隊だけでは倒しきれなかった変異種。その名を聞いたことのない旅団員はいない。
「では、あれも……」
「同じと思うな」
古参兵が遮った。
「瘴気が濃いだけだ。あの黒き鬼のように再生するとは限らん。動きを見ろ」
巨大な異形は地面へ両腕をつき、力任せに身体を押し出した。
速さはない。
だが、その一歩だけで石畳へヒビが走った。
周囲の異形たちが、巨大な個体の横を抜けるように散った。
「左右へ来ます!」
「前衛は小型を止めてください」
クレハが命じた。
「大きな個体は、私が引き受けます」
「団長、お一人では!」
若い槍兵が思わず声を上げた。
クレハは振り返らなかった。
「避難路を守る方が必要です。皆さんは、そちらへ集中してください」
巨大な異形が腕を振り上げた。
クレハは薙刀を斜めに構えた。
腕が振り下ろされる直前、横へ踏み込んだ。直撃を避け、薙刀の刃を腕の内側へ走らせた。
灰白色の皮膚が裂け、黒い体液が飛んだ。
浅い。
ほかの異形なら腕を落としていた刃が、半ばまでしか入っていなかった。
巨大な異形は傷を気にする様子もなく、もう片方の腕を横へ振るった。
クレハは薙刀の柄を地面へ立て、その反動で後ろへ跳んだ。太い腕が直前まで彼女のいた場所を通り過ぎ、石灯籠の上部をまとめて砕いた。
着地したクレハの足元へ、黒い瘴気がまとわりついた。
彼女は薙刀を振り、風圧で瘴気を散らした。
「団長を援護する!」
若い槍兵が前へ出ようとした。
再び、古参兵に肩を掴まれた。
「近づくな」
「ですが、団長が単独で……!」
「だから近づくな」
古参兵はクレハから目を離さなかった。
「あの方が、あの構えを取った時から……あそこはもう、俺たちの立つ戦場じゃない」
クレハは薙刀の石突を地面へ下ろしていた。
巨大な異形を中心に、ゆっくりと歩いた。
石突が土を削り、弧を描いた。
半円。
さらに歩みを進め、異形の群れごと囲うように円を閉じていった。
巨大な異形がクレハを追って腕を伸ばした。
彼女は円の外へ出なかった。
紙一重で指をかわし、薙刀の柄を滑らせる。刃が手首を深く裂き、黒い体液が地面へ落ちた。
その間にも、石突が描く線は途切れなかった。
やがて、円が閉じた。
クレハは薙刀を正面へ構えた。
柔らかな微笑みはもうなく、深い青色の瞳が、巨大な異形とその周囲へ集まった異形たちを静かに見渡した。
「万人敵と謳われる、我らウエスギの真髄」
薙刀の刃へ、赤い光が走った。
炎ではない。
刃の表面を伝い、枝分かれしながら柄へ流れていく、赤い雷だった。
「お見せしましょう」
クレハが薙刀の石突を地面へ打ち下ろした。
「毘沙門槍天流奥義――《赤雷滅陣》」
地面へ描かれた円が、赤く輝いた。
次の瞬間、円の内側を赤い雷が走り抜けた。
地を這う光が異形の脚へ絡みつき、身体を駆け上がった。空中にも赤い線が交差し、逃れようとした異形の腕と首を打った。
縦に。
横に。
斜めに。
幾つもの赤雷が円の内側を駆け巡り、異形たちの動きを縫い止めていった。
巨大な異形が腕を持ち上げた。
赤い雷が肩から指先へ抜け、その腕が途中で止まった。
咆哮を上げようと裂けた口が開いたが、下顎を赤雷が貫き、声は掠れた息に変わった。
円の外には、雷の一筋も漏れていなかった。
若い槍兵たちの立つ場所も、背後の避難路も、何一つ傷つけていなかった。
その時、境内の方角から地面を震わせる重い衝撃が伝わってきた。続いて石が崩れ落ちる音が山中へ広がり、東側の石段があった方角から灰色の砂煙が立ち上った。
若い槍兵は振り返りかけた。だが、赤い光の中でクレハが踏み出すと、その姿が消えたように見えた。
次に若い槍兵の目がその姿を捉えた時には、クレハは1体目の異形の脇を通り過ぎていた。遅れて頭部へ赤い線が走り、灰白色の身体が崩れ落ちた。
クレハは止まらなかった。
赤雷の走る道をなぞるように、円の内側を駆けた。
薙刀が閃くたび、異形の頭部が割れた。
首が断たれた。
白濁した眼の間を、切っ先が正確に貫いた。
異形たちは雷に焼き尽くされたのではなかった。
赤雷によって動きを封じられ、クレハの薙刀によって急所を断たれていた。
巨大な異形が、無理やり片脚を持ち上げた。
赤雷が幾重にも身体を走ったが、それでも地面を踏み砕き、クレハへ腕を振り下ろそうとした。
クレハは正面から踏み込んだ。
振り下ろされた腕の内側へ入り、薙刀を低く払った。
右脚が膝から断たれ、巨体が傾いた。
クレハは柄を短く持ち替え、その身体の下へ潜り込んだ。
赤雷を纏った刃が顎の下から頭部へ深く入り、頭蓋を断って白濁した眼の間まで抜けた。
巨大な異形の身体が止まった。
クレハは薙刀を引き抜き、倒れ込む巨体の脇を静かに抜けた。
地面が揺れ、黒い土煙が立った。
最後まで残っていた赤雷が、巨大な異形の背を走った。
やがて円の光が失われ、赤い雷も跡形なく消え去った。
その内側には、頭部や首を断たれた異形だけが倒れていた。
若い槍兵は、槍を構えたまま動けなかった。
古参兵が、低く呟いた。
「あれが、武蔵ノ原最強と謳われるウエスギの武……」
異形の間に立つクレハは、薙刀へ付着した黒い体液を振り払った。
古参兵はその姿から目を離さないまま、続けた。
「一人で万軍に敵した軍神。その血を引く、団長の力だ」
クレハがこちらを振り返った。
先ほどまで赤雷を纏っていたとは思えないほど、その表情は穏やかだった。
「皆さん、怪我はありませんか?」
若い槍兵は我に返った。
「は、はい!」
「負傷者を確認してください。頭部が残っている異形には近づかず、槍の間合いを保ったまま、動かないことを確かめてください」
「了解!」
兵たちが動き出した。
避難列の最後尾では、残っていた神職と負傷者たちが脇道へ入っていた。あと僅かで、異形の出た場所から十分な距離を取れる。
クレハは境内の方角へ顔を向けた。東側の石段があった方角には、灰色の砂煙がまだ立ち込めていた。
「団長……」
クレハは薙刀を握り直した。
「負傷者と神職の方々は、そのまま麓へ。外周隊の半数は護衛につき、残りはこの場所を封鎖してください」
「団長は?」
「境内へ戻る道を探します」
古参兵が一歩前へ出た。
「我々も同行します」
「動ける方だけにしてください。無理をして、帰り道で倒れることのないように」
クレハは兵たちを見渡した。
「私たちの任務は、戦うことだけではありません。全員で生きて帰ることです」
若い槍兵は槍を握り直した。
「同行します!」
クレハは小さく頷き、崩れた石段を避けるように山道へ向き直った。
赤い雷の残滓すら残さず、滅魔旅団長クレハ=ウエスギは、再び戦場の先頭へ立った。
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