幕間 継ぐ者
送り火の祭祀を終えてから、数日が過ぎた。
滅魔旅団本部の一室で、ラデルカは机の上に広げられた書類を見下ろしていた。
第三討伐隊。
表紙に記された文字の下には、現在の所属人数、負傷者の復帰見込み、装備の損失、補充が必要な物資が並んでいた。
そのどれもが、ラデルカにとって見慣れた記録だった。副長補佐兼実地調査官として、これまでにも各隊の報告書へ目を通してきた。数字を確認し、申請の不備を探し、現場から上がった要望の優先順位を決める。それも自分の仕事の一つだった。
だが、今回の書類には、埋められていない欄があった。
隊長。
その横だけが空白だった。
「いつまで睨んでいるつもりですか」
机を挟んだ向こうから、トウマの声が届いた。
黒に近い藍色の髪を後ろで緩く束ね、銀縁の眼鏡を掛けた滅魔旅団副長は、いつものように落ち着いた顔で椅子に座っていた。
ラデルカは書類から顔を上げた。
「別に睨んでない」
「耳が伏せられています」
「これは生まれつきだ」
「普段はもう少し立っています」
ラデルカは無意識に伏せていた犬耳を動かした。
誤魔化せていなかった。
長い付き合いだ。トウマの補佐として働くようになってから、書類仕事でも現場でも、互いの癖は嫌というほど知っている。
「それで」
ラデルカは椅子の背へ身体を預けた。
「第三討伐隊の再編案について意見を聞きたい、という話じゃなかったのか」
「そのつもりで呼びました」
「なら、さっさと始めろ。欠員の補充なら、第一と第二から均等に回すのは反対だ。どちらも余裕があるわけじゃない。新兵を増やしすぎれば、今度は古参に負担が偏る」
「同意見です」
「装備の補充は?」
「すでに優先枠へ入れています」
「治療中の隊員の復帰を急がせるな。特に脚をやられた連中は、無理に戻せば大魔境で置いていかれる」
「治療師にも伝えてあります」
答えが早い。
ラデルカは眉を寄せた。
トウマがこの程度の確認をするために、自分を呼ぶはずがない。
「何が言いたい」
トウマは机の上で両手を組んだ。
「第三討伐隊の隊長を、あなたに任せたいと考えています」
部屋の空気が止まった。
廊下の向こうを歩く兵の足音が、妙にはっきりと耳へ届いた。
ラデルカは目の前の男を見た。
冗談を言っている顔ではない。そもそも、トウマは軍務の人事を冗談に使う男ではなかった。
「断る」
考えるより先に、言葉が出た。
「理由を聞いても?」
「聞かなくても分かるだろ」
ラデルカは空白の欄へ視線を落とした。
「あそこは、サイゾウの場所だ」
「いいえ」
トウマは静かに否定した。
「第三討伐隊を率いる者の場所です」
「同じことだ」
「同じではありません」
ラデルカの犬耳が、力なく伏せられた。
「お前まで、あいつの最後の命令を持ち出すつもりか」
神社の白砂が脳裏に浮かぶ。
血に濡れ、折れた刀を握りながら、それでも退路の前に立っていた男。
『お前がいる』
『俺は第三討伐隊の隊長じゃない!』
『今からやれ』
あれは、皆を生かして帰すための命令だった。
正式な隊長になれと言われたわけではない。それに、死に際の言葉を都合よく人事へ使われるのは、我慢ならなかった。
「サイゾウが命じたから、俺を据えるのか」
「違います」
トウマは即答した。
「あの命令がなくとも、私はあなたを推薦しています」
「なぜだ」
「副長補佐として、あなたは長く私の右腕を務めてきました。作戦の立案、物資の配分、撤退経路の確認、現地での判断。机上と実地の双方を知る者は、旅団の中でも多くありません」
「それなら、今の役目を続けた方が都合がいいだろ」
「私にとっては、そうです」
トウマは眼鏡の位置を直した。
「優秀な補佐を手放すことになりますから」
ラデルカは黙った。
「ですが、私の都合と、旅団にとっての最善は別です」
トウマは第三討伐隊の名簿へ指を置いた。
「あなたは彼らと何度も大魔境へ入り、戦い方も、得意な役割も、無理をする者の顔も知っている。隊員たちも、あなたの判断に従うことへ慣れています」
「調査に同行していただけだ」
「天巡神社では、撤退する第三討伐隊をあなたが指揮しました」
「あれは、サイゾウに押しつけられたんだ」
「それでも、あなたは生き残った者たちを麓まで連れ帰った」
反論が喉で止まった。
連れ帰った。だが、全員ではない。何人もの兵が白砂に倒れ、サイゾウも戻らなかった。
「俺は、あいつを連れて帰れなかった」
「あなたの責任ではありません」
「そういう話をしてるんじゃない」
低くなった声に、トウマは口を閉じた。
ラデルカは拳を握った。
「俺が隊長になれば、嫌でも比べられる。隊員も、俺自身もだ。サイゾウならどうした。あいつなら何と言った。ずっと、それが付きまとう」
「そうでしょうね」
トウマは否定しなかった。
「簡単に言うな」
「簡単だとは思っていません」
穏やかな声だったが、眼鏡の奥の目は逸れなかった。
「サイゾウに近かったから、あなたを選ぶのではありません。あなたが、第三討伐隊を預けるに足る人物だから選ぶのです」
「……俺は、あいつの代わりにはなれない」
「代わりを求めていません」
トウマは空白の欄を指した。
「ここに必要なのは、亡くなった隊長を演じる者ではない。生き残った隊員たちを、次の任務から連れ帰る者です」
ラデルカの犬耳がわずかに動いた。
――生きて帰るところまでが、お前の役目だ。
サイゾウが若い兵へ告げた言葉が、脳裏をよぎった。
ラデルカはそれを振り払うように椅子から立った。
「少し考える」
「ええ」
「いつまでだ」
「団長へ推薦書を出すのは、今日の夕刻です」
「全然待つ気がないじゃないか」
「第三討伐隊を、いつまでも暫定指揮のままにはできませんので」
どこまでも正論だった。
ラデルカは舌打ちを飲み込み、執務室を出た。
◇ ◇ ◇
第三討伐隊の訓練場には、槍がぶつかる乾いた音が響いていた。
隊員たちは2人ずつ組み、基礎の打ち合いを続けていた。重傷者はまだ戻っておらず、並ぶ人数は以前より少なかったが、それでも訓練が止まることはなかった。
ラデルカは訓練場の入口で足を止めた。
誰かに会うつもりで来たわけではない。ただ歩いているうちに、ここへ辿り着いていた。
「踏み込みが浅い!」
古参の槍兵が、若い兵を叱りつける。
「それじゃ穂先が届く前に腕を持っていかれるぞ!」
「はい!」
若い兵が構え直した。
天巡神社で、自分も残ると言い張っていた兵だった。
サイゾウに槍を渡し、負傷者を支えながら退路へ下りた。今も左肩には厚い包帯が巻かれている。
「肩を庇いすぎだ」
気づけば、ラデルカは声を掛けていた。
訓練場の音が止まった。
若い兵が振り返った。
「副長補佐」
「腕だけで突くな。後ろ脚から力を送れ。肩が動かなくても、腰まで死んだわけじゃないだろ」
「はい!」
若い兵は足の位置を直した。
もう一度、槍を突き出した。
先ほどより穂先が深く伸びた。
「今の形を忘れるな。ただし、傷が開く前にやめろ」
「了解しました」
ほかの隊員たちも、いつの間にかこちらを見ていた。
「何だ」
ラデルカが睨むと、古参兵の1人が口を開いた。
「次の任務は、いつになりますか」
「まだ決まってない」
「では、訓練内容は」
「それも隊長が決めることだ」
「隊長は、いつ決まるんです」
ラデルカは答えられなかった。
隊員たちは誰も、ラデルカを推薦しなかった。誰がいいとも、誰では嫌だとも言わない。
軍の人事は、部下が選ぶものではない。
ただ、彼らは待っていた。
次に進むための指示を。
「今は基礎を続けろ」
ラデルカは訓練場へ入り、乱れていた盾と槍を端へ寄せた。
「負傷者の復帰が一段落するまで、連携の組み直しはできない。午前は個人訓練、午後は少人数での移動と回収をやれ」
「了解しました」
返事が重なった。
誰も迷わず、ラデルカの指示に従って動き始めた。
その光景を見ながら、胸の奥に重いものが沈んでいった。
サイゾウがいなくても、第三討伐隊は残っている。
傷ついた者も、戻れなかった者もいる。それでも、生き残った者たちは武器を取り、次に備えている。
あれはサイゾウだけの隊ではない。
トウマの言葉が、ようやく実感を伴って胸へ落ちた。
「副長補佐」
先ほどの若い槍兵が呼んだ。
「何だ」
「自分は、まだ隊に残れますか」
ラデルカは包帯の巻かれた肩を見た。
「治療師が許可すればな」
「戻ったら、また前衛を任せてもらえますか」
「今のままなら後ろだ」
「では、戻れるように鍛えます」
「傷を悪化させたら、訓練場からも追い出すぞ」
「はい」
若い兵は真っ直ぐに答えた。
その目には、不安も悔しさも残っている。それでも、前を向こうとしていた。
ラデルカは訓練場の先頭へ視線を向けた。
いつもサイゾウが立っていた場所には、誰もいない。
空いたままにしておけば、傷は塞がるのか。
そんなはずはなかった。
「午後の訓練は変更だ」
ラデルカが告げると、隊員たちが動きを止めた。
「負傷者を想定した撤退訓練をする。動ける者と動けない者を分け、指定した場所まで運べ。途中で隊列が崩れたら、最初からやり直しだ」
「了解!」
返事が訓練場へ響いた。
ラデルカは踵を返した。
夕刻まで、もう時間は多く残っていなかった。
◇ ◇ ◇
団長執務室には、クレハとトウマが待っていた。
クレハは執務机の向こうに立ち、トウマが提出した推薦書へ目を通していた。薄紅に紫をひと雫落としたような髪が肩の辺りで柔らかく揺れ、深い青色の瞳は書面へ向けられていた。
ラデルカが入室すると、クレハは顔を上げた。
「来てくださったのですね、ラデルカさん」
「ああ」
机の上には、先ほど見た第三討伐隊の書類が置かれている。
空白だった隊長欄の隣に、推薦者としてトウマの名が記されていた。
「トウマさんから、推薦の理由は聞きましたか?」
「嫌になるほど」
「必要なことしか話していません」
「お前の必要な話は長いんだ」
トウマは気にした様子もなく眼鏡を押し上げた。
クレハの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
だが、すぐに団長の顔へ戻った。
「第三討伐隊長の任命権は、私にあります」
穏やかな声だった。
「ですが、受ける意思のない方に、隊を無理に預けるつもりはありません」
クレハは推薦書を机へ置いた。
「ラデルカさん。あなたの意思を聞かせてください」
ラデルカは2人の顔を見た。
トウマは何も言わない。
推薦はした。理由も述べた。だが、最後の答えまで決めるつもりはないらしい。
「俺は、サイゾウの代わりにはなれない」
「はい」
クレハは静かに頷いた。
「同じ隊を作ることもできない。判断も、戦い方も、あいつとは違う」
「それで構いません」
「隊員に不満が出るかもしれない」
「その時は、団長である私が話を聞きます」
クレハの深い青色の瞳が、まっすぐにラデルカを見つめた。
「私たちが求めているのは、サイゾウさんの姿を真似る方ではありません」
クレハは胸元へ手を添えた。
「第三討伐隊のこれからを、預けられる方です」
ラデルカは息を吐いた。
断ろうと思えば、まだ断れた。
副長補佐としての仕事も残っている。実地調査官として、大魔境や地下遺構の調査を続ける道もある。
だが、訓練場で見た隊員たちの顔が浮かんだ。
次の任務を待つ者、傷を治して戻ろうとする者。亡くなった者の場所を空けたまま、それでも武器を握っている者たち。
「一つ、条件がある」
「何でしょう?」
「俺のやり方でやらせてもらう。サイゾウと同じ指揮も、同じ隊も求めるな」
「もちろんです」
クレハは微笑んだ。
ラデルカは背筋を伸ばし、右の拳を胸元へ当てた。
「第三討伐隊長の任、拝命する」
トウマが目を伏せた。
クレハは団長として、厳かに頷いた。
「承認します。今日より、第三討伐隊をあなたに預けます」
「了解した」
その一言を口にした途端、肩へ重みが乗った。
サイゾウが背負っていたものと、同じではない。
これは今から、ラデルカが背負うものだ。
◇ ◇ ◇
翌朝。
第三討伐隊の兵たちは、訓練場へ整列していた。
ラデルカは戦斧を背負い、隊列の前へ進んだ。
そこは、昨日まで空いていた場所だった。
並ぶ兵たちの顔を、一人ずつ確かめた。古参も、若い者も、まだ包帯の取れていない者もいた。
サイゾウの代わりになる者など、どこにもいない。
だからこそ、ラデルカは自分のやり方で、この隊を率いると決めた。
「今日から、俺が第三討伐隊を預かる」
褐色の犬耳を立て、全員を見渡した。
「先に言っておく。俺はサイゾウにはなれない。なるつもりもない」
隊員たちは黙って聞いていた。
「だが、あいつが残したこの隊を、ここで終わらせるつもりもない」
ラデルカは戦斧の石突を地面へ下ろした。
「全員、武器を取れ。今日から第三討伐隊を立て直す」
一瞬の沈黙の後、古参兵が拳を胸元へ当てた。
「了解しました、隊長」
続いて、若い槍兵が声を上げる。
「了解!」
返事が次々と重なり、訓練場の空気を震わせた。
空いていた隊列の先頭に、ラデルカは自分の足で立った。
評価やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになりますのでよろしくお願いいたします!




