エピローグ 送り火
日が沈むと、天巡神社から見下ろす山裾に、小さな火が灯り始めた。
一つ。
また一つ。
かつて送り火の道と呼ばれた古い巡回路に沿って、大魔境に近い慰霊碑から、山裾の祠、水路沿いの分社へと火がつながっていく。
実際の炎が運ばれているわけではない。各地では、そこで亡くなった者たちの名を読み上げ、別れを告げるための火が灯されていた。
天巡神社での戦いから、幾日かが過ぎている。
負傷者は領都の治療院へ運ばれ、亡くなった者たちは家族や仲間のもとへ帰された。身寄りのない兵も滅魔旅団が引き取り、ほかの戦死者と同じように葬送を済ませている。
それでも、別れが終わったわけではなかった。
崩れた神楽殿は、まだ元の姿へ戻っていない。神楽殿跡は白布と注連縄で囲われ、その手前には、新しい板で仮設の舞台が組まれていた。
境内には、戦いの痕が残っている。
斜めに断たれた石灯籠。新しい石で塞がれた地面の割れ目。白砂には、消えきらずに残る黒い焼け跡もあった。
だが、黒灰色の澱みはどこにもなかった。
テンカは本殿前に並ぶ人々の先頭で、舞台を見つめていた。
黒を基調とした礼装に身を包み、腰には継火を佩いている。身体の痛みはまだ残っていたが、立っていられないほどではない。
半歩後ろにはキリカが控え、そのさらに向こうには、コトネとアルバート、滅魔旅団の兵たちが並んでいる。クレハとトウマも礼装を纏い、今夜は武器を携えていなかった。
第三討伐隊の列の先頭には、1人分の空いた場所がある。
その隣に立つラデルカは、戦斧を持たず、両手を身体の横へ下ろしていた。褐色の犬耳も、今夜は力なく伏せられている。
祭主が舞台へ進み出た。
手にした長い紙を開き、境内に集まった者たちへ静かに頭を下げる。
「これより、送り火の祭祀を執り行います」
人々が一斉に頭を下げた。
「この1年に亡くなられた、すべての方々へ。名の残る方も、残らぬ方も。生まれも、身分も、亡くなられた場所も問わず、同じ火と祈りを捧げます」
祭主は顔を上げ、紙に記された名を1人ずつ読み始めた。その合間には、名の残らなかった者たちへも祈りが捧げられる。
海から戻らなかった漁師。病に倒れた老人。旅の途中で命を落とした商人。そして、大魔境や天巡神社での戦いに倒れた兵たち。
テンカの知らない名もあった。
けれど、その名が呼ばれるたび、背後のどこかから押し殺した嗚咽が聞こえた。衣擦れが重なり、誰かが隣の者へ縋る気配が夜気の中を伝わってくる。
やがて、聞き慣れた名が落ちた。
「滅魔旅団第三討伐隊長、サイゾウ」
テンカは礼装の袖の中で、拳を固く握りしめた。
白砂へ血を落としながら、それでも立ち続けた背中が浮かぶ。
必ず戻れと命じ、サイゾウは承知したと答えた。
だが、生きて戻れぬことを覚悟していたのだと、テンカは分かっていた。それでも、その場を離れた。残れば、彼が命懸けで守ろうとした者たちを、さらに危険へ晒すことになると分かっていたからだ。
正しい判断だった。今でも、そう思う。
けれど、正しいことと、悔やまずにいられることは同じではなかった。
テンカがわずかに視線を巡らせると、第三討伐隊の列ではラデルカが目を閉じていた。クレハは唇を固く結び、トウマも銀縁の眼鏡の奥で視線を伏せていた。第三討伐隊の兵たちは誰一人として顔を背けず、隊長の名が読み終えられるまで、まっすぐ前を向いていた。
すべての名が読み上げられた。
祭主が紙を閉じると、神職たちが舞台を囲む火皿へ火を移した。細かった炎は油を吸い上げ、夜風の中で丸みを帯びた光へ育っていく。
最後に、その正面へ設けられた送り火が灯された。
薪の間を赤い炎が走り、やがて人の背丈を越えるほど高く立ち上がる。夜の冷えた空気がわずかに緩み、境内を埋めていた人々の顔が火明かりに浮かび上がった。
神楽鈴が鳴る。
澄んだ音に導かれ、スズネが舞台へ上がった。
白と緋を基調とした巫女装束。透明感のある白銀の髪は高い位置で結われ、五色の組紐と小さな鈴飾りが添えられている。
右手に神楽鈴を、左手に白い扇を携えていた。
スズネは祭主へ一礼し、境内に集まった者たちへも深く頭を下げた。
急がず、最初の一歩を踏み出した。
足の裏で板の感触を確かめるように進み、扇をゆっくりと開く。神楽鈴を掲げて身を翻すたび、白銀の髪が送り火の光を受けて淡く輝いた。
死者を追い立てるための舞ではない。呼び戻すための舞でもない。
大切な者を失い、立ち止まっている者が、悲しみを抱いたまま次の一歩を見つけるための舞だった。
鈴の音が、夜の境内を巡る。
炎の向こうに人の姿が現れることも、声が聞こえることも、何かが応えることもなかった。
送り火は、ただ燃えている。
それでよいのだと、テンカは思った。
祈ったからといって、死者は戻らない。どれほど強く願っても、失った時間をやり直すことはできない。
それでも、自分たちはここに立っている。
サイゾウに守られた命を抱え、明日も生きていく。
胸の奥に、かつて聞いた言葉が蘇った。
――休息も任務だと言った。撤退も任務だ。
あれは声ではない。
テンカの中に残った、サイゾウとの記憶だった。
目の奥が熱くなる。視界が滲んでも、テンカは顔を背けなかった。
「……今度こそ、休め。サイゾウ」
小さな言葉は、神楽鈴と炎の音の中へ溶けていった。
テンカがそっと視線を向けると、ラデルカの肩がわずかに揺れていた。
それでも、誰も言葉を重ねなかった。
スズネは舞い続けた。扇を開き、閉じ、見送るように腕を伸ばしては、ゆっくりと胸元へ戻した。
最後の一歩を踏み終え、神楽鈴を胸の前へ下ろした。
鈴の余韻が夜へ消えていった。
拍手はなかった。
人々は送り火の前で、亡くした者の名をそれぞれの胸に抱きながら、ただ静かに立っていた。
やがて薪の一つが崩れ、赤い火の粉が舞い上がった。
テンカは、黙ってその行方を追う。
一片の火の粉が目の前をゆっくりと横切り、続く小さな光とともに夜風へ乗った。
火の粉は一つ、また一つと高く昇り、星々が瞬く夜空へ流れていった。
これにて第1部終幕となります。
第2部については、活動報告にでご連絡いたしますので引き続き、よろしくお願いいたします!
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