禍つ鬼と蒼き姫
神楽殿跡から伸びる澱みは、幾つもの黒灰色の筋となって境内を這っている。
巨鬼の両脚と妖刀へ流れ込み、サイゾウたちの亡骸へ絡みつき、傷口から肉の内側へ入り込んでいた。
すべてを焼き尽くす必要はない。
滞った流れをほどき、本来あるべき場所へ還せばよい。
テンカは継火を正眼に構えた。
「――北天玄水、淀む因果を流し還せ」
澄んだ声が、崩れた境内へ響く。
「負傷者をテンカの周囲から下げなさい! 退路を空けて!」
コトネの声が飛んだ。トウマも西側の兵たちへ降下を急がせ、マリエラと術士たちは揺れる縄を押さえながら、残る負傷者を石垣の外へ送り出していく。
巨鬼の腰が沈んだ。
黒紫色の妖刀が低く引かれ、次の瞬間には、白砂を抉りながら横薙ぎに振るわれる。
「姫さま!」
キリカが叫ぶ。
テンカは退かなかった。
足元へ水行を巡らせ、迫る刃の軌道へ継火を添える。真正面から受けず、巨鬼の力へ身体を預けるように滑り、黒紫色の刃を背後へ流した。
妖刀が石畳を断ち、砕けた石が宙へ跳ねる。
その間にも、サイゾウの亡骸は右腕を伸ばして近づいてくる。キリカの投じた紙符が腕へ絡みついたが、胸元から溢れる澱みが淡い光の帯を押し広げていた。
「長くは保ちません!」
「それでよい!」
テンカは巨鬼とサイゾウの間へ踏み込む。
「此の身、此の太刀、流転の理に委ねる」
継火の切っ先を、静かに白砂へ向けた。
深い蒼に染まった髪が大きく広がる。
境内に残る朝露が震え、石畳の隙間から細い水の筋が浮かび上がった。白砂の下へ染み込んでいた湿り気も、砕けた瓦に溜まった雨水も、蒼い光を帯びて一つの流れへつながっていく。
水は渦を巻かず、荒れ狂う濁流にもならなかった。幾つもの細い流れが五行の円環に沿って境内を巡り、亡骸と巨鬼へ絡みついた黒灰色の筋へ触れた。
最初に、ラデルカが押しとどめていた兵の亡骸が震えた。
「離れるぞ!」
ラデルカが戦斧の柄を引く。
亡骸の傷口と関節から、黒灰色の澱みが糸のように引き出された。蒼い流れへ混じった澱みは、白砂の上を滑り、神楽殿跡の穴へ向かっていく。
力を失った身体が傾き、近くの兵が両腕で受け止めた。
「傷つけるな。ゆっくり寝かせよ!」
テンカの声に、兵が強く頷く。
続いて、蒼い流れがサイゾウの足元へ届いた。
黒い鎧の隙間へ入り込んでいた澱みが浮かび上がる。首筋と頬に走っていた黒灰色の筋が薄れ、胸元の傷から幾重もの濁りが引き剥がされていった。
それでも、兵の亡骸より濃い。
澱みはサイゾウの身体へ深く食い込み、神楽殿跡から伸びた筋が、なおも新たな濁りを送り込んでいる。
「サイゾウを放せ!」
テンカは継火を握り込んだ。
五つの流れが内側で巡り、水行へ次々と力を渡していく。蒼い光が強まり、サイゾウと穴をつないでいた黒灰色の筋を包み込んだ。
押し返さず、断ち切るために逆らわない。流れの向きを変え、傷口へ入り込んだ澱みを一筋ずつ外へ導いていく。
最後の黒い筋が胸元から抜け落ちた。
サイゾウの右腕が下がる。
膝から力が失われ、その身体が白砂へ崩れた。
「サイゾウ!」
ラデルカが駆け込み、倒れる身体を受け止めた。
返事はなく、半ば開いていた眼にも光は戻らなかった。ラデルカは唇を噛み、サイゾウの身体を静かに白砂へ横たえる。
テンカは駆け寄らなかった。
水行を通して、澱みが一つ残らず抜けたことだけを確かめる。
これで、眠れる。
その思いを胸に収め、神楽殿跡へ視線を向けた。
亡骸から剥がれた澱みが、蒼い流れに導かれて穴の縁へ集まっている。だが、地の底からは新たな黒灰色が絶えず押し上がり、巨鬼の両脚へ向かっていた。
テンカは継火を両手で握り、切っ先を穴へ向ける。
「還れ!」
境内を巡っていた水が、一斉に神楽殿跡へ流れ込んだ。
蒼い光が穴の内壁を走り、地下から伸びていた黒灰色の筋へ絡みつく。澱みを押し潰すのではなく、行き場を失って滞っていた流れへ道を開き、さらに深い地の底へ導いていった。
穴の奥で、重い震えが起きる。
黒灰色の澱みが逆巻き、地上へ溢れようと膨れ上がった。
テンカの両腕に痛みが走る。継火を握る指が痺れ、蒼く染まった髪の根元へ黒が戻り始めた。
「姫さま!」
キリカが背後へ駆け寄る。
「触れるな! 今は流れを乱せぬ!」
テンカは奥歯を噛み締めた。
水は力で押し勝つものではない。
狭ければ細くなり、塞がれれば別の道を探す。どれほど深い澱みであろうと、流れ続ける限り、同じ場所へ留まることはできない。
五行の円環が、さらに速く巡る。
木が水の道を伸ばし、金が流れの輪郭を研ぎ、土が崩れかけた地を支える。火さえも水を妨げず、巡りを進める熱となっていた。
蒼い光が地の底を貫き、黒灰色の筋が次々と千切れる。
巨鬼が妖刀を持ち上げようとする。だが、両脚と刀身から澱みを引き剥がされるたび、巨体は均衡を失って大きく揺れた。
巨鬼の両脚へ流れ込んでいた澱みが止まった。
脇腹と左肩を覆っていた黒紫色の層が剥がれ、白砂へ落ちる。右足首と左膝裏の傷からも濁りが抜け、外側から肉をつなぎ止めていた黒い筋が形を失った。
妖刀を覆っていた澱みも崩れ始める。
骨と角を重ねたような黒紫色の層が刀身から剥がれ、その内側から、錆びた鉄色の刃が現れた。長い年月に晒され、刃こぼれを重ねた古い大太刀だった。
巨鬼の肉体を包んでいた澱みが失われるにつれ、黒紫色の外殻も崩れ、その輪郭は一回り小さく見えた。朽ちた甲冑の形が露わになり、面頬の奥で燻っていた赤黒い光も弱まった。
それでも、巨鬼は倒れなかった。
古い大太刀を両手で握り直す。
右足を半歩引き、刃を身体の脇へ収めた。
静かな構えだった。
先ほどまで境内をまとめて薙ぎ払っていた妖刀の動きとは違う。切っ先は揺れず、足の置き方にも、肩の角度にも無駄がない。
刀を知る者の構え。
テンカがそう悟った時には、巨鬼の姿が目の前へ迫っていた。
古い刃が下から跳ね上がる。
テンカは継火を斜めに添え、水行で外へ流した。
刃と刃が触れた瞬間、巨鬼の手首が返る。
流したはずの大太刀が円を描き、今度は上段からテンカの肩へ落ちてきた。
「くっ……!」
身を捩って避ける。
切っ先が袖を裂き、白い腕へ細い傷を刻んだ。
血が一筋、指先へ伝う。
澱みは戻らず、巨鬼の傷も塞がらない。それでも、剣技だけは鋭かった。
巨鬼が踏み込む。
大太刀が横へ走り、テンカの退路を塞ぐ。その軌道を継火で流そうとした瞬間、巨鬼の左足が一歩先へ置かれた。
逃げようとした場所へ、すでに刃が待っている。
テンカは足を止め、身体を沈めた。
大太刀が頭上を通過し、風圧が蒼い髪を巻き上げる。懐へ入ろうと踏み込むが、巨鬼は柄頭を落とし、継火を握る右手を正確に狙ってきた。
継火を引き、紙一重でかわす。
続く刃を受け流せば、すぐに返され、流した先へ次の斬撃が置かれる。テンカは後退を重ねた。
身体が重い。
水行の奥義で澱みを流し切った反動が、骨と筋肉へ残っている。右手の指先は痺れ、呼吸をするたび胸の奥が焼けるように痛んだ。
蒼い髪へ、黒い筋が混じり始める。
長くは保たない。
巨鬼も同じだった。
右足首が沈み、左膝がわずかに揺れる。サイゾウとラデルカが刻んだ傷は、もう澱みに支えられていない。
脇腹から左肩へ走る《緋皇断華》の傷も開いたままだ。
傷ついている。それでも退かず、古い大太刀を正眼へ構え、ただテンカへ刃を向けている。
巨鬼の眼窩に残る赤黒い光が、細く揺れた。
テンカは一度だけ息を吐き、継火を鞘へ納めた。
水で澱みを流した。
亡骸を澱みから解き放ち、地下からの流入も断った。
だが、この肉体はまだ立っている。
終わらせなければならない。
怒りに任せて焼くのではない。
憎しみで斬るのでもない。
この者が再び澱みへ縛られぬよう、今度こそ、その歩みを終わらせる。
巨鬼が地を蹴った。
古い大太刀が、最短の軌道で迫る。
「――流転」
テンカは半歩だけ身を開いた。
刃へ逆らわず、その流れに身体を沿わせる。古い大太刀の切っ先が頬の脇を通り過ぎ、数本の髪を断った。
それだけだった。
大きく退くことも、刃を打ち払うこともしない。巨鬼の力をわずかに流し、生まれた隙間へ身体を滑り込ませる。
深い蒼に染まった髪へ、一筋の緋色が差した。
また一筋。
水の蒼と、火の緋。
二つの色は互いを押し退けず、流れる髪の中で静かな螺旋を描いていく。
水が火を消すのではない。
荒れようとする熱を受け入れ、ただ一つの刃へ導いている。
巨鬼が手首を返した。
振り抜かれた大太刀が円を描き、テンカの背を追う。だが、傷ついた右足首が沈み、左脚の踏み込みがわずかに遅れた。
サイゾウとラデルカが刻んだ傷。
右脇腹から左肩へ走る、かつての斬線。
皆が命を懸けてつないだ道は、まだそこに残っている。
テンカは腰を沈め、継火の柄へ右手を添えた。
「緋皇断華――」
その声は、ひどく静かだった。
敵を威圧するためでも、勝利を告げるためでもない。
長く死へ辿り着けず、澱みの中を彷徨い続けた亡者を送るような声だった。
抜刀。
継火の刃から、蒼い炎が立ち上がる。
緋色ではない。
流転の水行と、破邪の火行。
二つの理が一つの円環を巡り、澄み切った蒼炎となって刃を包んでいた。
蒼い斬撃が、巨鬼の右脇腹から左肩へ駆け抜ける。
朽ちた甲冑が断たれた。
黒く変色した肉が裂け、その奥へ蒼炎が静かに流れ込んでいく。
炎は爆ぜなかった。
巨鬼の内側へ染み渡り、肉と骨へこびりついていた黒い残滓を、一筋ずつ焼き祓っていく。
巨鬼の身体が止まった。
眼窩に残る赤黒い光が、細く揺れる。
声は上げない。
古い大太刀を握ったまま、一歩だけ前へ進もうとする。
右足が白砂を踏んだ。
だが、続くはずだった左足は動かなかった。
巨鬼の手から、大太刀が滑り落ち、錆びた刃が白砂へ突き立った。
蒼炎が、巨鬼の全身へ広がっていく。
それは肉を貪る炎ではなかった。
長く滞っていたものを流し、死者を死へ還すための火だった。
朽ちた甲冑が灰へ変わる。
黒紫色の外殻が崩れ、巨鬼の輪郭が蒼い光の中へ溶けていく。
最後に残っていた赤黒い光が消えた。
巨鬼は倒れることなく、蒼炎に包まれたまま、静かに灰となって白砂へ散った。
境内が静まり返る。
テンカは継火を振り抜いた姿勢のまま、しばらく動けなかった。
終わった。
そう理解した途端、全身から力が抜けた。
髪を巡っていた蒼と緋が消え、髪は元の黒へ戻った。
「姫さま!」
駆け寄ったキリカが、倒れそうになった身体を抱き留める。
「大事、ない……」
口にした声は、ひどく掠れていた。
「そのお言葉は、今は信じません」
キリカの腕が、テンカの身体を強く支える。
テンカは抗わず、その肩へ重みを預けた。
視線の先では、ラデルカがサイゾウの傍らに片膝をついている。黒い鎧の胸元には深い傷が残っていたが、首筋と頬を走っていた澱みは消えていた。
サイゾウは動かない。
もう立ち上がることもない。
テンカはキリカに支えられながら、静かに告げた。
「……終わったぞ、サイゾウ」
返事はなかった。
それでよい。
東の空が白み始め、淡い朝の光が澱みの消えた白砂へ差し込んだ。




