表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第6章 禍つ鬼と蒼き姫
86/126

天華

 暗い部屋があった。


 机の上には、空になった缶コーヒーと、冷めた弁当。

 四角い画面の中で、黒髪の姫武者が刀を構えている。


 一人称は、わらわ。


 刀と五行を操る、自分とは正反対の理想の少女。

 40歳の男が、誰に見せるでもなく作り上げたキャラクターだった。


 その少女に、テンカと名づけた。


 だが、その少女はもう、画面の中だけの存在ではない。


 母に叱られ、父に本を読んでもらい、姉に抱き締められた。キリカとは何度も刀を交え、大魔境で初めて恐怖を知り、火を暴走させた時には母の声に救われた。


 継火を手にし、友と出会い、地下を歩いてサイゾウの背中を追った。


 それらは、作られた設定ではない。

 この世界で生きた、テンカ自身の時間だった。


 けれど、心のどこかでは分け続けていた。


 前世を生きた男としての自分。

 テンカ=ハヅキとして生きる自分。


 大人の理性で、幼い感情を押さえようとした。

 少女の心で、前世の記憶を遠ざけようとした。


 どちらが本当の自分なのか、答えを出さないまま歩いてきた。


 今もそうだった。


 サイゾウは死んだ。

 死んだ人間は戻らない。


 40年生きた男は、それを知っている。

 それでも、知っているだけでは受け入れられなかった。


 胸を引き裂く悲しみは、11歳の少女だけのものではない。サイゾウと過ごした3年間も、命令に従えと叱られたことも、地下から戻ると約束したことも、最後に行けと命じられたことも、すべて自分の記憶だった。


『悲しいな』


 男の声がした。


 いつも思考の奥にあった声。


 けれど今は、自分の外側から聞こえていた。


「……うむ」

『俺もだ』


 暗がりの向こうから、1人の男が歩いてくる。


 特別な人間ではない。

 英雄でも、剣豪でもない。


 ただ、40年を生き、仕事に疲れた夜に、画面の中の少女へ理想を託した男。


 その顔は、どこか困ったように笑っていた。


『ずっと、お前を俺とは違うものだと思ってた』

「わらわもじゃ」


 テンカは答えた。


「そなたの記憶が戻った日から、わらわの中に別の誰かがおるのだと思っていた」

『でも、違った』


 男は足を止める。


『母上を怖いと思ったのも、キリカが大事だと思ったのも、サイゾウが死んで悲しいのも、全部同じだ』


 男が右手を差し出した。


『行こうぜ、テンカ。俺はテンカで、テンカは俺だ。俺の記憶も、人生も、全部お前のものだ』


 男は、差し出した手を下ろさなかった。


『だから、サイゾウを失った痛みも、悲しみも、お前だけのものじゃない』

「……うむ」


 テンカは、差し出された手を取った。


「ならば、共に背負おう」


 重ねた手へ、静かに力を込める。


わらわ()が、すべて連れていこう」


 何かを受け取ったわけではなかった。

 誰かが消えたわけでもない。


 2人の間にあった境が、初めから存在しなかったものとしてほどけていく。


 前世で積み重ねた40年。

 今世で生きた11年。


 男の記憶も、少女の感情も、どちらかへ呑み込まれることなく、1人のテンカ=ハヅキへ重なった。


 世界に、音が戻る。


 ◇  ◇  ◇


 テンカは目を開いた。


 五つの流れが、一つの輪を描いた。


 木が芽吹き。

 火が燃え。

 土が支え。

 金が研がれ。

 水が流れる。


 これまで別々に巡り、互いへぶつかっていた五行が、初めて一つにつながった。


 テンカの内側で、魔力が爆発的に膨れ上がる。


 白砂が円を描いて舞い上がった。


 砕けた石片が地面から浮き、神楽殿跡へ残っていた木片が震える。西側に張られた縄が大きく揺れ、兵たちの装束とキリカの髪が、吹き荒れる魔力に煽られた。


「これは……」


 ラデルカが腕で顔を庇う。


「姫さまの魔力なのか……?」

「姫さま……」


 キリカが目を見開いた。


 テンカの黒髪を、五つの色が駆け抜ける。


 翠。

 緋。

 山吹。

 白銀。

 蒼。


 8歳の儀式の日には、互いを押し退けるように暴れていた五色が、今は円を描くように黒髪を巡っていた。


 新しい魔力が生まれたわけではない。

 分かたれていた流れが一つになり、器の底へ沈んでいた膨大な力が、初めて余すことなく巡り始めたのだ。


 身体の内側へ貼りついていた澱みが、魔力の奔流に押し流される。冷たい濁りがテンカの口元から黒灰色の息となって漏れ、その場で形を失った。


 11歳の身体が悲鳴を上げる。


 骨が軋み、全身の筋肉が内側から引かれるように痛む。


 それでも、力はもう荒れていなかった。

 怒りも悲しみも消えてはいない。


 ただ、それらに刀を握らせる必要がなくなった。


 テンカは正面を見据えた。


 巨鬼の妖刀が、すでに頭上へ迫っている。


 目の前には、サイゾウの亡骸。

 その向こうに、黒紫色の刃。


 すべてが、ひどく遅く見えた。


「水行――蒼流!」


 五色を巡っていた髪が、深い蒼へ染まる。


 テンカはサイゾウの脇をすり抜け、継火の刃を妖刀へ斜めに添えた。


 正面からは受けない。力へ逆らわず、落ちる刃の行き先だけを変える。

 これまでとは比べものにならない量の水行が、継火を通して妖刀へ流れ込んだ。


 黒紫色の刃がテンカの肩先を通り過ぎ、境内中央へ落ちる。


 石畳が砕け、白砂が噴き上がった。


 だが、テンカは一歩も退かなかった。


 水行は衝撃を受け止めるのではなく、継火の刃に沿って地面へ流していた。

 妖刀の表面から、細い黒紫色の筋が剥がれ落ちる。


 テンカの瞳が、その動きを捉えた。

 剥がれた澱みは水行へ引かれ、刃の先から白砂へ流れ落ちていく。


 巨鬼が妖刀を引き上げる。


 同時に、サイゾウの亡骸が再び右腕を伸ばした。


 テンカは斬らなかった。


 半歩下がり、その腕を避ける。


「サイゾウは、もう死んでおる」


 口にした言葉が、胸へ刃のように刺さる。


 それでも目を逸らさなかった。


「そこにおるのは、そなたではない」


 亡骸は答えない。


 ただ、黒灰色の筋に引かれるまま、再び腕を伸ばした。


 その背後で、盾兵の亡骸がキリカへ迫る。


「キリカ!」


 テンカは地を蹴った。


 先ほどまでの火行による荒々しい加速ではない。足元を流れる水へ身体を預け、最短の道を滑るように駆ける。


 亡骸の腕が振り下ろされる直前、テンカはキリカとの間へ入った。


 継火を返す。

 刃ではなく、刀身の平を亡骸の腕へ添えた。


 水行を流す。


 蒼い光が、死んだ兵の腕から肩、胸元へ広がっていった。


 傷口へ入り込んでいた黒灰色の筋が震える。


 次の瞬間、それらは亡骸の身体から引き剥がされ、水の流れへ混じって外へ溢れ出した。

 亡骸の腕から力が抜け、膝が折れた。


 テンカは継火を左手へ持ち替え、空いた右腕で崩れる身体を支えた。そのまま膝をつき、ゆっくりと白砂へ横たえる。


 新しい傷は、どこにもない。


 テンカは開いたままの瞼をそっと閉じた。亡骸はそのまま、再び動かなくなった。


「姫さま……今のは」


 キリカが掠れた声で尋ねる。


 テンカは死んだ兵の胸元へ手を添えた。


 鼓動はない。

 息も戻っていない。


 澱みが抜けただけだった。


「生き返ったのではない」


 テンカは立ち上がる。


「この者は、もう戻らぬ」


 その言葉を口にしても、心は崩れなかった。


 悲しみは消えない。

 失った事実も変わらない。


 それでも、死をなかったことにせず、前を向くことはできる。


「じゃが、亡骸を澱みに縛らせるつもりもない」


 もう1人の亡骸へ、ラデルカが戦斧の柄を押し当てている。


 動きを止めようとするたび、傷口から伸びた澱みが手足を引き起こしていた。


 サイゾウの身体には、兵の亡骸よりも濃い澱みが幾重にもまとわりついている。神楽殿跡から伸びた黒灰色の筋が血の跡を伝い、今も胸元の傷へ流れ込んでいた。


 《蒼流》で1人を解き放つことはできても、すべてを剥がし切ることはできない。


 巨鬼の傷を覆うもの。

 妖刀へ絡みつくもの。

 死者の身体へ入り込んだもの。

 神楽殿跡の亀裂から流れ続けるもの。


 すべてが同じだった。


 人格も、命令もない。

 地下から押し上げられた澱みが、行き場を失ったまま傷口から肉へ入り込み、そこに滞留している。


 五つの流れが一つにつながったことで、水行の感覚は境内全体へ広がっていた。


 白砂の下に残る水分。

 砕けた石畳の隙間。

 神楽殿跡の巨大な穴。


 そのさらに奥から、澱みが巨鬼の両脚へ流れ込み、傷を埋め、妖刀を覆っている。


 巡っているのではない。

 本来あるべき巡りへ戻らず、同じ場所へ溜まり続けている。


 火は、その場にある澱みを焼ける。


 だが、燃やした先から新たな澱みが重なれば終わらない。


 水なら。


 焼き尽くすのではなく、滞ったものを流せる。

 死者の身体を斬らずに、そこへ絡みついた澱みだけを剥がせる。

 巨鬼を覆う澱みも、地下から続く流入ごと断ち切れる。


「トウマ!」


 テンカが呼ぶ。


「降下を続けよ! 動ける者から、すぐに下へ!」


 トウマが一瞬だけ目を見開く。


 だが、テンカの声に迷いがないことを悟ると、すぐに頷いた。


「承知しました! 降下を再開してください!」


「ラデルカ!」

「何だ!」

「亡骸を斬るでない! 押しとどめるだけでよい!」

「その後はどうする!」

「わらわが、澱みを流す!」


 テンカはサイゾウへ向き直った。


 亡骸は澱みに引かれるように近づき、その後ろでは、巨鬼が黒紫色の妖刀を構え直している。


 水行を選んだことで、髪を巡っていた五色は消えていた。それでもテンカの内側では、五つの流れが一つの円環となり、途切れることなく巡り続けている。


 精神は澄み切り、魔力はこれまで触れたことのないほど深く、広い。同時に、今の身体が、この力へ長く耐えられないことも分かっていた。


 猶予はない。


 死者を戻すことはできず、サイゾウもまた戻らない。それでも、澱みの中へ置き去りにはしない。


 テンカは継火を正眼に構えた。


 深い蒼に染まった髪が、流れる水のように背後へ広がる。その正面には、妖刀を構えた巨鬼と、澱みに引かれて歩く亡骸たちがいた。


 地下から絶えず押し寄せる澱み。

 そのすべてが、今は一つの流れとして見えていた。


 ようやく、斬るべきものが見えた。

評価やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになりますのでよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ