天華
暗い部屋があった。
机の上には、空になった缶コーヒーと、冷めた弁当。
四角い画面の中で、黒髪の姫武者が刀を構えている。
一人称は、わらわ。
刀と五行を操る、自分とは正反対の理想の少女。
40歳の男が、誰に見せるでもなく作り上げたキャラクターだった。
その少女に、テンカと名づけた。
だが、その少女はもう、画面の中だけの存在ではない。
母に叱られ、父に本を読んでもらい、姉に抱き締められた。キリカとは何度も刀を交え、大魔境で初めて恐怖を知り、火を暴走させた時には母の声に救われた。
継火を手にし、友と出会い、地下を歩いてサイゾウの背中を追った。
それらは、作られた設定ではない。
この世界で生きた、テンカ自身の時間だった。
けれど、心のどこかでは分け続けていた。
前世を生きた男としての自分。
テンカ=ハヅキとして生きる自分。
大人の理性で、幼い感情を押さえようとした。
少女の心で、前世の記憶を遠ざけようとした。
どちらが本当の自分なのか、答えを出さないまま歩いてきた。
今もそうだった。
サイゾウは死んだ。
死んだ人間は戻らない。
40年生きた男は、それを知っている。
それでも、知っているだけでは受け入れられなかった。
胸を引き裂く悲しみは、11歳の少女だけのものではない。サイゾウと過ごした3年間も、命令に従えと叱られたことも、地下から戻ると約束したことも、最後に行けと命じられたことも、すべて自分の記憶だった。
『悲しいな』
男の声がした。
いつも思考の奥にあった声。
けれど今は、自分の外側から聞こえていた。
「……うむ」
『俺もだ』
暗がりの向こうから、1人の男が歩いてくる。
特別な人間ではない。
英雄でも、剣豪でもない。
ただ、40年を生き、仕事に疲れた夜に、画面の中の少女へ理想を託した男。
その顔は、どこか困ったように笑っていた。
『ずっと、お前を俺とは違うものだと思ってた』
「わらわもじゃ」
テンカは答えた。
「そなたの記憶が戻った日から、わらわの中に別の誰かがおるのだと思っていた」
『でも、違った』
男は足を止める。
『母上を怖いと思ったのも、キリカが大事だと思ったのも、サイゾウが死んで悲しいのも、全部同じだ』
男が右手を差し出した。
『行こうぜ、テンカ。俺はテンカで、テンカは俺だ。俺の記憶も、人生も、全部お前のものだ』
男は、差し出した手を下ろさなかった。
『だから、サイゾウを失った痛みも、悲しみも、お前だけのものじゃない』
「……うむ」
テンカは、差し出された手を取った。
「ならば、共に背負おう」
重ねた手へ、静かに力を込める。
「わらわが、すべて連れていこう」
何かを受け取ったわけではなかった。
誰かが消えたわけでもない。
2人の間にあった境が、初めから存在しなかったものとしてほどけていく。
前世で積み重ねた40年。
今世で生きた11年。
男の記憶も、少女の感情も、どちらかへ呑み込まれることなく、1人のテンカ=ハヅキへ重なった。
世界に、音が戻る。
◇ ◇ ◇
テンカは目を開いた。
五つの流れが、一つの輪を描いた。
木が芽吹き。
火が燃え。
土が支え。
金が研がれ。
水が流れる。
これまで別々に巡り、互いへぶつかっていた五行が、初めて一つにつながった。
テンカの内側で、魔力が爆発的に膨れ上がる。
白砂が円を描いて舞い上がった。
砕けた石片が地面から浮き、神楽殿跡へ残っていた木片が震える。西側に張られた縄が大きく揺れ、兵たちの装束とキリカの髪が、吹き荒れる魔力に煽られた。
「これは……」
ラデルカが腕で顔を庇う。
「姫さまの魔力なのか……?」
「姫さま……」
キリカが目を見開いた。
テンカの黒髪を、五つの色が駆け抜ける。
翠。
緋。
山吹。
白銀。
蒼。
8歳の儀式の日には、互いを押し退けるように暴れていた五色が、今は円を描くように黒髪を巡っていた。
新しい魔力が生まれたわけではない。
分かたれていた流れが一つになり、器の底へ沈んでいた膨大な力が、初めて余すことなく巡り始めたのだ。
身体の内側へ貼りついていた澱みが、魔力の奔流に押し流される。冷たい濁りがテンカの口元から黒灰色の息となって漏れ、その場で形を失った。
11歳の身体が悲鳴を上げる。
骨が軋み、全身の筋肉が内側から引かれるように痛む。
それでも、力はもう荒れていなかった。
怒りも悲しみも消えてはいない。
ただ、それらに刀を握らせる必要がなくなった。
テンカは正面を見据えた。
巨鬼の妖刀が、すでに頭上へ迫っている。
目の前には、サイゾウの亡骸。
その向こうに、黒紫色の刃。
すべてが、ひどく遅く見えた。
「水行――蒼流!」
五色を巡っていた髪が、深い蒼へ染まる。
テンカはサイゾウの脇をすり抜け、継火の刃を妖刀へ斜めに添えた。
正面からは受けない。力へ逆らわず、落ちる刃の行き先だけを変える。
これまでとは比べものにならない量の水行が、継火を通して妖刀へ流れ込んだ。
黒紫色の刃がテンカの肩先を通り過ぎ、境内中央へ落ちる。
石畳が砕け、白砂が噴き上がった。
だが、テンカは一歩も退かなかった。
水行は衝撃を受け止めるのではなく、継火の刃に沿って地面へ流していた。
妖刀の表面から、細い黒紫色の筋が剥がれ落ちる。
テンカの瞳が、その動きを捉えた。
剥がれた澱みは水行へ引かれ、刃の先から白砂へ流れ落ちていく。
巨鬼が妖刀を引き上げる。
同時に、サイゾウの亡骸が再び右腕を伸ばした。
テンカは斬らなかった。
半歩下がり、その腕を避ける。
「サイゾウは、もう死んでおる」
口にした言葉が、胸へ刃のように刺さる。
それでも目を逸らさなかった。
「そこにおるのは、そなたではない」
亡骸は答えない。
ただ、黒灰色の筋に引かれるまま、再び腕を伸ばした。
その背後で、盾兵の亡骸がキリカへ迫る。
「キリカ!」
テンカは地を蹴った。
先ほどまでの火行による荒々しい加速ではない。足元を流れる水へ身体を預け、最短の道を滑るように駆ける。
亡骸の腕が振り下ろされる直前、テンカはキリカとの間へ入った。
継火を返す。
刃ではなく、刀身の平を亡骸の腕へ添えた。
水行を流す。
蒼い光が、死んだ兵の腕から肩、胸元へ広がっていった。
傷口へ入り込んでいた黒灰色の筋が震える。
次の瞬間、それらは亡骸の身体から引き剥がされ、水の流れへ混じって外へ溢れ出した。
亡骸の腕から力が抜け、膝が折れた。
テンカは継火を左手へ持ち替え、空いた右腕で崩れる身体を支えた。そのまま膝をつき、ゆっくりと白砂へ横たえる。
新しい傷は、どこにもない。
テンカは開いたままの瞼をそっと閉じた。亡骸はそのまま、再び動かなくなった。
「姫さま……今のは」
キリカが掠れた声で尋ねる。
テンカは死んだ兵の胸元へ手を添えた。
鼓動はない。
息も戻っていない。
澱みが抜けただけだった。
「生き返ったのではない」
テンカは立ち上がる。
「この者は、もう戻らぬ」
その言葉を口にしても、心は崩れなかった。
悲しみは消えない。
失った事実も変わらない。
それでも、死をなかったことにせず、前を向くことはできる。
「じゃが、亡骸を澱みに縛らせるつもりもない」
もう1人の亡骸へ、ラデルカが戦斧の柄を押し当てている。
動きを止めようとするたび、傷口から伸びた澱みが手足を引き起こしていた。
サイゾウの身体には、兵の亡骸よりも濃い澱みが幾重にもまとわりついている。神楽殿跡から伸びた黒灰色の筋が血の跡を伝い、今も胸元の傷へ流れ込んでいた。
《蒼流》で1人を解き放つことはできても、すべてを剥がし切ることはできない。
巨鬼の傷を覆うもの。
妖刀へ絡みつくもの。
死者の身体へ入り込んだもの。
神楽殿跡の亀裂から流れ続けるもの。
すべてが同じだった。
人格も、命令もない。
地下から押し上げられた澱みが、行き場を失ったまま傷口から肉へ入り込み、そこに滞留している。
五つの流れが一つにつながったことで、水行の感覚は境内全体へ広がっていた。
白砂の下に残る水分。
砕けた石畳の隙間。
神楽殿跡の巨大な穴。
そのさらに奥から、澱みが巨鬼の両脚へ流れ込み、傷を埋め、妖刀を覆っている。
巡っているのではない。
本来あるべき巡りへ戻らず、同じ場所へ溜まり続けている。
火は、その場にある澱みを焼ける。
だが、燃やした先から新たな澱みが重なれば終わらない。
水なら。
焼き尽くすのではなく、滞ったものを流せる。
死者の身体を斬らずに、そこへ絡みついた澱みだけを剥がせる。
巨鬼を覆う澱みも、地下から続く流入ごと断ち切れる。
「トウマ!」
テンカが呼ぶ。
「降下を続けよ! 動ける者から、すぐに下へ!」
トウマが一瞬だけ目を見開く。
だが、テンカの声に迷いがないことを悟ると、すぐに頷いた。
「承知しました! 降下を再開してください!」
「ラデルカ!」
「何だ!」
「亡骸を斬るでない! 押しとどめるだけでよい!」
「その後はどうする!」
「わらわが、澱みを流す!」
テンカはサイゾウへ向き直った。
亡骸は澱みに引かれるように近づき、その後ろでは、巨鬼が黒紫色の妖刀を構え直している。
水行を選んだことで、髪を巡っていた五色は消えていた。それでもテンカの内側では、五つの流れが一つの円環となり、途切れることなく巡り続けている。
精神は澄み切り、魔力はこれまで触れたことのないほど深く、広い。同時に、今の身体が、この力へ長く耐えられないことも分かっていた。
猶予はない。
死者を戻すことはできず、サイゾウもまた戻らない。それでも、澱みの中へ置き去りにはしない。
テンカは継火を正眼に構えた。
深い蒼に染まった髪が、流れる水のように背後へ広がる。その正面には、妖刀を構えた巨鬼と、澱みに引かれて歩く亡骸たちがいた。
地下から絶えず押し寄せる澱み。
そのすべてが、今は一つの流れとして見えていた。
ようやく、斬るべきものが見えた。
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