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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第6章 禍つ鬼と蒼き姫
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流れぬ死

 退路を守るように倒れたサイゾウは、もう動かなかった。


 黒い鎧の下からゆっくりと染み出した血が、白砂へ広がっている。


「サイゾウ……」


 テンカの唇から、声がこぼれた。


 返事はない。


 いつもなら、どれほど危険な状況でも声を返した。命令を受ければ承知したと告げ、無茶をすれば厳しく諫め、戦場では誰よりも早く次にすべきことを示してくれた。


 だが、今は何も言わない。


 巨鬼が妖刀を引き戻した。


 刃に付着した血が、黒紫色の澱みへ呑まれて消える。赤黒い眼光が、サイゾウの身体を越えて西側の退路へ向いた。


「急げ!」


 トウマの声が飛ぶ。


「降下を止めてはなりません! 動ける者から下へ!」


 兵たちが縄を伝い、石垣の外へ身体を下ろしていく。マリエラと術士たちは縄の固定を確かめながら、負傷者を支える者へ指示を送っていた。


「姫さま、行きます!」


 キリカがラデルカの隣へ回り込み、西側の退路を確かめる。


 ラデルカは抱えていたテンカの身体を支え直し、そのまま西側へ向き直った。


「下ろせ」


 テンカは告げた。


「駄目だ」


 ラデルカは足を止めなかった。


「今のお前は戦えない。サイゾウが何のために残ったと思っている!」

「下ろせ」


「姫さま」


 キリカがテンカの顔を覗き込む。


 その瞬間、腹の底で燻っていた火が弾けた。


 緋色の光がテンカの身体から噴き上がり、ラデルカの腕を押し広げる。熱風がキリカの髪を煽り、袖口に挟まれていた紙符が一斉に揺れた。


「なっ……!」


 ラデルカが反射的に腕を緩める。


 その隙に、テンカは身を捩って腕の中から抜け出し、白砂へ降り立った。


 足元が大きく揺らいだが、継火を地面へ突いて身体を支える。澱みに乱されていた五行の中で、火行だけが怒りに引かれるように膨れ上がっていた。


 黒髪の内側から、緋色が広がっていく。


「姫さま、火を収めてください!」


 キリカの声が届く。


 だが、意味のある言葉として頭に入ってこなかった。

 見えるのは、サイゾウを斬った巨鬼だけだった。


「あやつを……」


 継火を引き抜く。


「あやつを、斬る」


 詠唱はなかった。


 呼吸も構えも整えないまま、溢れ出した火行を継火へ叩き込む。刀身を包んだ炎が膨れ上がり、白砂を赤く照らした。


「テンカ、止まりなさい!」


 コトネの声さえ、遠い。


 テンカは地を蹴った。


 緋色の炎が足元で弾け、小さな身体を巨鬼の懐へ押し出す。


 妖刀が横へ振るわれた。


 水行で流すことも、間合いを測ることもしない。テンカは身を低く沈め、黒紫色の刃の下へ飛び込んだ。

 髪の先が切られ、数本の黒髪が宙を舞う。


 それでも止まらない。


「はああっ!」


 継火を右足首へ叩き込む。


 緋色の炎が傷口の奥で弾け、黒紫色の澱みを内側から吹き飛ばした。巨鬼の右脚が傾き、巨体が白砂を踏み砕きながら半歩下がる。


 テンカは刃を引かず、そのまま斬り上げた。


 脇腹に残る《緋皇断華》の傷へ、新たな炎が重なる。

 巨鬼を覆っていた黒紫色の層が焼け落ち、その内側から朽ちた甲冑と黒く変色した肉が露出した。


 火は効いている。


 巨鬼の輪郭を確かに削っている。


「もう一度じゃ……!」


 妖刀の柄頭が迫る。


 テンカは継火を横へ構え、真正面から受けた。


 重い衝撃が両腕を貫く。


「ぐっ……!」


 身体が地面から浮き、白砂の上を弾き飛ばされた。


 肩から落ちる直前、火行を足元へ噴き出して体勢を戻す。両脚で着地したものの、勢いは殺しきれず、足元に長い跡を刻みながら後退した。


 両腕の痺れは消えていない。

 胸の奥には、先ほど浴びた澱みの冷たさも残っている。


 それでも怒りが、痛みを覆い隠していた。


「まだじゃ……!」


 テンカは再び踏み込む。


 巨鬼の妖刀が斜めに落ちる。今度は刃へ継火を叩きつけ、炎の勢いだけで軌道を押し返した。

 黒紫色の刀身へ緋色の火が燃え移る。


 刃を返し、巨鬼の左腕を斬る。


 浅い。


 踏み込みも刃筋も乱れている。


 それでも膨大な火行が力任せに肉を焼き、巨鬼の腕から黒い体液が噴き出した。


「姫さま、戻ってください!」


 キリカが追おうとする。


「近づくな!」


 ラデルカが腕を伸ばして止めた。


「今の火に触れれば、お前まで焼かれる!」


 テンカの周囲では、白砂の一部が熱で黒く変色していた。炎は巨鬼だけへ向けられているわけではない。継火からこぼれた火の粉が石畳を焦がし、崩れた木片へ燃え移っている。


 制御など、どこにもなかった。


 斬る。

 焼く。


 目の前の巨鬼を消す。


 それしか残っていない。


 テンカは継火を振り上げた。


 その間にも、神楽殿跡の亀裂から黒に近い灰色の澱みが溢れ続けている。


 地面の窪みに沿って流れた澱みが巨鬼の足元へ集まり、焼け落ちた右足首と脇腹を新たな層で覆っていく。緋色の炎は消えていないが、その上から幾重にも澱みが重なり、失われた輪郭を埋め戻していた。


 先ほど焼いたはずの左腕にも、黒紫色の筋が伸びていく。


 巨鬼が妖刀を握り直した。


 テンカは気づいていた。


 何度斬っても終わらない。

 火で焼ける量より、地下から流れ込む澱みの方が多い。


 それでも止まれなかった。


「返せ……」


 炎がさらに膨れ上がる。


「サイゾウを返せ!」


 継火を振り下ろした。


 巨鬼の妖刀と激突し、緋色と黒紫色の光が境内を埋める。


「下がれ!」


 本殿側から届いたトウマの声が、刃の衝突音を貫いた。


 激突の反動に押し戻されながら、テンカは視線を走らせる。


 白砂の上を、黒に近い灰色の筋が這っていた。神楽殿跡から伸びたそれは、本殿前へ運ばれた盾兵の鎧へまとわりつき、裂けた隙間から身体の内側へ沈んでいく。


 白砂へ垂れていた指が動いた。


 息をしていないはずの兵が右手をつき、不自然な角度で上半身を起こす。首が傾き、開いた眼には生者の光がなかった。


「おい……?」


 近くにいた兵の声が震える。


 巨鬼が妖刀を引き、刃を返した。


 テンカは身を沈めて斬撃を避ける。黒紫色の刃が頭上を通過し、巻き起こされた風が緋色の髪を大きく揺らした。


 その間にも、本殿前ではもう1人の亡骸が動き始めていた。


 踏み潰された脚を引きずり、両腕を白砂へ突いて身体を起こす。黒灰色の筋が傷口と関節へ絡みつき、壊れた身体を外側から支えている。


「違う!」


 ラデルカが戦斧を構えた。


「息をしていない! あいつらじゃない!」


 盾兵だった亡骸が、近くの兵へ腕を振るう。


 兵は盾で受けたが、仲間の姿を前に押し返せず、数歩後退した。


「縄の周りを空けてください!」


 トウマが叫ぶ。


「降下は続けます! 動ける兵は、亡骸を退路へ近づけないでください!」


 ラデルカが戦斧の柄を亡骸の胸元へ押し当てる。キリカも紙符を投じ、淡い光の帯をその腕へ絡ませた。


 巨鬼の柄頭が迫る。


 テンカは継火を横へ構えたが、衝撃を受け切れず、白砂の上を大きく押し戻された。


「姫さま!」


 キリカの声が届く。


 足を踏み止めたテンカの視界に、別の澱みが映った。

 黒灰色の筋が本殿前を横切り、白砂に残る血の跡を伝っている。


 その先には、黒い鎧を纏ったサイゾウが伏していた。


「やめろ……」


 ラデルカの声が聞こえた。


 サイゾウの右手が動く。


 白砂を押し、上半身を起こした。


 胸元から斜めに走る傷は開いたままだった。流れ出した血はすでに止まりかけている。その傷口から黒い筋が身体の内側へ入り込み、首筋と頬へ浮かび上がっていく。


「サイゾウ……?」


 テンカの火が揺れた。


 サイゾウの亡骸は答えない。


 半ば開いた眼は何も映さず、口元も動かなかった。


 右手を地面へつき、立ち上がる。

 左腕は力なく垂れている。

 右手にも武器はない。


 それでも、澱みに支えられた足が一歩ずつ白砂を踏み、テンカへ近づいてきた。


「サイゾウ」


 もう一度呼ぶ。


 返事はなかった。


 巨鬼が妖刀を頭上へ振り上げる。


 テンカの目の前では、サイゾウの亡骸が右腕を伸ばした。


 テンカは炎を纏った継火を構える。


 このまま振れば、斬れる。

 澱みごと焼き払えば、動きは止まる。


 分かっている。

 それなのに、腕が動かなかった。


「姫さま、避けて!!」


 キリカの声が響く。


 巨鬼の妖刀が振り下ろされる。

 サイゾウの亡骸が、テンカの目の前へ迫る。


 その刹那。


 世界から音が消えた。

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