流れぬ死
退路を守るように倒れたサイゾウは、もう動かなかった。
黒い鎧の下からゆっくりと染み出した血が、白砂へ広がっている。
「サイゾウ……」
テンカの唇から、声がこぼれた。
返事はない。
いつもなら、どれほど危険な状況でも声を返した。命令を受ければ承知したと告げ、無茶をすれば厳しく諫め、戦場では誰よりも早く次にすべきことを示してくれた。
だが、今は何も言わない。
巨鬼が妖刀を引き戻した。
刃に付着した血が、黒紫色の澱みへ呑まれて消える。赤黒い眼光が、サイゾウの身体を越えて西側の退路へ向いた。
「急げ!」
トウマの声が飛ぶ。
「降下を止めてはなりません! 動ける者から下へ!」
兵たちが縄を伝い、石垣の外へ身体を下ろしていく。マリエラと術士たちは縄の固定を確かめながら、負傷者を支える者へ指示を送っていた。
「姫さま、行きます!」
キリカがラデルカの隣へ回り込み、西側の退路を確かめる。
ラデルカは抱えていたテンカの身体を支え直し、そのまま西側へ向き直った。
「下ろせ」
テンカは告げた。
「駄目だ」
ラデルカは足を止めなかった。
「今のお前は戦えない。サイゾウが何のために残ったと思っている!」
「下ろせ」
「姫さま」
キリカがテンカの顔を覗き込む。
その瞬間、腹の底で燻っていた火が弾けた。
緋色の光がテンカの身体から噴き上がり、ラデルカの腕を押し広げる。熱風がキリカの髪を煽り、袖口に挟まれていた紙符が一斉に揺れた。
「なっ……!」
ラデルカが反射的に腕を緩める。
その隙に、テンカは身を捩って腕の中から抜け出し、白砂へ降り立った。
足元が大きく揺らいだが、継火を地面へ突いて身体を支える。澱みに乱されていた五行の中で、火行だけが怒りに引かれるように膨れ上がっていた。
黒髪の内側から、緋色が広がっていく。
「姫さま、火を収めてください!」
キリカの声が届く。
だが、意味のある言葉として頭に入ってこなかった。
見えるのは、サイゾウを斬った巨鬼だけだった。
「あやつを……」
継火を引き抜く。
「あやつを、斬る」
詠唱はなかった。
呼吸も構えも整えないまま、溢れ出した火行を継火へ叩き込む。刀身を包んだ炎が膨れ上がり、白砂を赤く照らした。
「テンカ、止まりなさい!」
コトネの声さえ、遠い。
テンカは地を蹴った。
緋色の炎が足元で弾け、小さな身体を巨鬼の懐へ押し出す。
妖刀が横へ振るわれた。
水行で流すことも、間合いを測ることもしない。テンカは身を低く沈め、黒紫色の刃の下へ飛び込んだ。
髪の先が切られ、数本の黒髪が宙を舞う。
それでも止まらない。
「はああっ!」
継火を右足首へ叩き込む。
緋色の炎が傷口の奥で弾け、黒紫色の澱みを内側から吹き飛ばした。巨鬼の右脚が傾き、巨体が白砂を踏み砕きながら半歩下がる。
テンカは刃を引かず、そのまま斬り上げた。
脇腹に残る《緋皇断華》の傷へ、新たな炎が重なる。
巨鬼を覆っていた黒紫色の層が焼け落ち、その内側から朽ちた甲冑と黒く変色した肉が露出した。
火は効いている。
巨鬼の輪郭を確かに削っている。
「もう一度じゃ……!」
妖刀の柄頭が迫る。
テンカは継火を横へ構え、真正面から受けた。
重い衝撃が両腕を貫く。
「ぐっ……!」
身体が地面から浮き、白砂の上を弾き飛ばされた。
肩から落ちる直前、火行を足元へ噴き出して体勢を戻す。両脚で着地したものの、勢いは殺しきれず、足元に長い跡を刻みながら後退した。
両腕の痺れは消えていない。
胸の奥には、先ほど浴びた澱みの冷たさも残っている。
それでも怒りが、痛みを覆い隠していた。
「まだじゃ……!」
テンカは再び踏み込む。
巨鬼の妖刀が斜めに落ちる。今度は刃へ継火を叩きつけ、炎の勢いだけで軌道を押し返した。
黒紫色の刀身へ緋色の火が燃え移る。
刃を返し、巨鬼の左腕を斬る。
浅い。
踏み込みも刃筋も乱れている。
それでも膨大な火行が力任せに肉を焼き、巨鬼の腕から黒い体液が噴き出した。
「姫さま、戻ってください!」
キリカが追おうとする。
「近づくな!」
ラデルカが腕を伸ばして止めた。
「今の火に触れれば、お前まで焼かれる!」
テンカの周囲では、白砂の一部が熱で黒く変色していた。炎は巨鬼だけへ向けられているわけではない。継火からこぼれた火の粉が石畳を焦がし、崩れた木片へ燃え移っている。
制御など、どこにもなかった。
斬る。
焼く。
目の前の巨鬼を消す。
それしか残っていない。
テンカは継火を振り上げた。
その間にも、神楽殿跡の亀裂から黒に近い灰色の澱みが溢れ続けている。
地面の窪みに沿って流れた澱みが巨鬼の足元へ集まり、焼け落ちた右足首と脇腹を新たな層で覆っていく。緋色の炎は消えていないが、その上から幾重にも澱みが重なり、失われた輪郭を埋め戻していた。
先ほど焼いたはずの左腕にも、黒紫色の筋が伸びていく。
巨鬼が妖刀を握り直した。
テンカは気づいていた。
何度斬っても終わらない。
火で焼ける量より、地下から流れ込む澱みの方が多い。
それでも止まれなかった。
「返せ……」
炎がさらに膨れ上がる。
「サイゾウを返せ!」
継火を振り下ろした。
巨鬼の妖刀と激突し、緋色と黒紫色の光が境内を埋める。
「下がれ!」
本殿側から届いたトウマの声が、刃の衝突音を貫いた。
激突の反動に押し戻されながら、テンカは視線を走らせる。
白砂の上を、黒に近い灰色の筋が這っていた。神楽殿跡から伸びたそれは、本殿前へ運ばれた盾兵の鎧へまとわりつき、裂けた隙間から身体の内側へ沈んでいく。
白砂へ垂れていた指が動いた。
息をしていないはずの兵が右手をつき、不自然な角度で上半身を起こす。首が傾き、開いた眼には生者の光がなかった。
「おい……?」
近くにいた兵の声が震える。
巨鬼が妖刀を引き、刃を返した。
テンカは身を沈めて斬撃を避ける。黒紫色の刃が頭上を通過し、巻き起こされた風が緋色の髪を大きく揺らした。
その間にも、本殿前ではもう1人の亡骸が動き始めていた。
踏み潰された脚を引きずり、両腕を白砂へ突いて身体を起こす。黒灰色の筋が傷口と関節へ絡みつき、壊れた身体を外側から支えている。
「違う!」
ラデルカが戦斧を構えた。
「息をしていない! あいつらじゃない!」
盾兵だった亡骸が、近くの兵へ腕を振るう。
兵は盾で受けたが、仲間の姿を前に押し返せず、数歩後退した。
「縄の周りを空けてください!」
トウマが叫ぶ。
「降下は続けます! 動ける兵は、亡骸を退路へ近づけないでください!」
ラデルカが戦斧の柄を亡骸の胸元へ押し当てる。キリカも紙符を投じ、淡い光の帯をその腕へ絡ませた。
巨鬼の柄頭が迫る。
テンカは継火を横へ構えたが、衝撃を受け切れず、白砂の上を大きく押し戻された。
「姫さま!」
キリカの声が届く。
足を踏み止めたテンカの視界に、別の澱みが映った。
黒灰色の筋が本殿前を横切り、白砂に残る血の跡を伝っている。
その先には、黒い鎧を纏ったサイゾウが伏していた。
「やめろ……」
ラデルカの声が聞こえた。
サイゾウの右手が動く。
白砂を押し、上半身を起こした。
胸元から斜めに走る傷は開いたままだった。流れ出した血はすでに止まりかけている。その傷口から黒い筋が身体の内側へ入り込み、首筋と頬へ浮かび上がっていく。
「サイゾウ……?」
テンカの火が揺れた。
サイゾウの亡骸は答えない。
半ば開いた眼は何も映さず、口元も動かなかった。
右手を地面へつき、立ち上がる。
左腕は力なく垂れている。
右手にも武器はない。
それでも、澱みに支えられた足が一歩ずつ白砂を踏み、テンカへ近づいてきた。
「サイゾウ」
もう一度呼ぶ。
返事はなかった。
巨鬼が妖刀を頭上へ振り上げる。
テンカの目の前では、サイゾウの亡骸が右腕を伸ばした。
テンカは炎を纏った継火を構える。
このまま振れば、斬れる。
澱みごと焼き払えば、動きは止まる。
分かっている。
それなのに、腕が動かなかった。
「姫さま、避けて!!」
キリカの声が響く。
巨鬼の妖刀が振り下ろされる。
サイゾウの亡骸が、テンカの目の前へ迫る。
その刹那。
世界から音が消えた。
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