白砂に散る
サイゾウの身体が大きく揺れる。
左肩から脇腹へ走った傷口が開き、裂けた鎧の隙間から血が溢れ出した。
「サイゾウ!」
テンカは手を伸ばした。
だが、澱みに乱された五行は戻らない。踏み出そうとした足が白砂を滑り、身体が前へ傾いた。
サイゾウは片膝をつきながらも、折れかけた刀を地面へ突いて踏みとどまった。
巨鬼が妖刀を引き戻す。
「離れろ!」
ラデルカが横から踏み込み、戦斧を右足首へ叩き込んだ。
黒い体液が飛び散り、巨鬼の右脚がわずかに傾く。第三討伐隊の槍兵たちも左右から槍を突き出し、妖刀を振るうための間合いを作らせない。
「姫さま、こちらへ!」
キリカがテンカの腰を抱え、巨鬼から引き離した。
「待て! サイゾウが!」
「今の姫さまでは、近づく方が危険です!」
その言葉を否定できなかった。
両腕は上がらず、足元も覚束ない。無理に水行を巡らせようとするたび、胸の奥へ入り込んだ冷たさが五つの流れを乱していく。
テンカが動けずにいる間にも、サイゾウの足元へ血が広がっていた。
「隊長!」
槍兵の1人が駆け寄ろうとする。
「前を見ろ!」
サイゾウの声が飛んだ。
膝をついたまま、巨鬼から視線を外していない。
「俺の傷を見て、あれが止まるのか!」
「……止まりません!」
「ならば持ち場を守れ!」
「了解!」
槍兵は歯を食いしばり、巨鬼へ向き直った。
巨鬼が右足を踏み直す。
ラデルカに斬られた傷へ黒紫色の澱みがまとわりつき、開いた肉を外側からつなぎ止めていく。完全には塞がっていない。それでも巨体を支えるには十分だった。
「サイゾウ、動くな!」
ラデルカが巨鬼との間へ立つ。
「その傷で戦えるわけがない!」
「戦えるかどうかは、俺が決める」
「見れば分かる!」
「なら、見ていろ」
サイゾウは刀を杖に立ち上がった。
左腕は力なく下がっている。裂けた鎧の内側からは、立ち上がっただけで新たな血が流れ出した。
それでも右手は、刀の柄を放していない。
「西側はどうなっている!」
サイゾウが叫ぶ。
「石垣の上部を崩しています!」
マリエラが術士たちのいる西側から答えた。
「縄を固定できれば、1人ずつ下ろせます! ですが、負傷者を運ぶには支えが足りません!」
「動ける兵を回せ! 盾と槍を支柱に使え!」
「承知しました!」
マリエラが術士たちへ指示を出す。
石垣の前では、兵たちが崩れた石を運び、斜面へ縄を下ろす準備を進めていた。境内の外へ続く細い道が、少しずつ作られている。
だが、退路が完成するまで巨鬼が待つはずもない。
赤黒い眼光が西側へ動いた。
「退路に気づいたぞ!」
トウマが叫ぶ。
背中の傷を兵に押さえられながらも、本殿前に立っている。
「正面へ引き戻してください! 西側へ近づけてはなりません!」
「聞いたな!」
サイゾウが刀を構える。
「左脚を狙え! 正面へ向けさせろ!」
第三討伐隊が動いた。
盾兵が巨鬼の正面へ並び、槍兵たちが左側へ回る。ラデルカが傷ついた右足首を狙い、巨体の進路を塞いだ。
巨鬼の妖刀が横へ走る。
「伏せろ!」
兵たちが身を沈める。
刃は盾の上を通過し、その後ろに残っていた石灯籠を断ち切った。切断された石が白砂へ落ち、破片が周囲へ弾け飛ぶ。
遅れた盾兵の肩へ、石片が突き刺さった。
「ぐっ!」
盾兵がよろめく。
隣の兵が腕を掴み、後ろへ引こうとする。だが、巨鬼はその動きを見逃さなかった。
妖刀を返す。
横薙ぎではない。
柄頭が、負傷した盾兵へ向けて突き出された。
「避けろ!」
サイゾウの声より早く、鈍い衝撃が響いた。
盾兵の身体が盾ごと宙へ浮かび、本殿側まで弾き飛ばされる。地面へ落ちた身体は一度だけ跳ね、そのまま動かなくなった。
「回収しろ!」
後列の兵が駆け寄る。
首元へ指を当てた兵の顔が、強張った。
「……息がありません」
サイゾウの表情は変わらなかった。
「本殿前へ運べ」
「隊長」
「ここへ置いておけば踏まれる。早くしろ」
「了解……!」
兵たちは倒れた仲間を抱え、後方へ運んだ。
テンカはその姿を見つめることしかできなかった。
朝まで生きていた。
同じ境内で、同じ灯を守っていた者だ。名を聞いたことはなくても、サイゾウの命令に応じて走る姿を何度も見ている。
それが今は、力の抜けた腕を白砂へ垂らしている。
腹の底で火が揺れた。
だが、火行へ触れようとした途端、胸に残る澱みが巡りを濁らせた。熱は刃へ届かず、痛みとなって身体の内側へ散っていく。
「姫さま、無理をなさらないでください」
キリカがテンカの肩を支える。
「無理をせねば、皆が死ぬ」
「今、姫さまが倒れれば、守る者が増えます」
テンカは唇を噛んだ。
分かっている。
正しい。
それでも、目の前で兵が命を落としているのに、自分だけが支えられていることを受け入れられなかった。
巨鬼が西側へ一歩進む。
「押し返せ!」
サイゾウが踏み込んだ。
折れかけた刀を右手だけで振るい、左膝裏へ刃を走らせる。浅く塞がり始めていた傷が再び開き、巨鬼の膝が沈んだ。
ラデルカの戦斧が右足首へ食い込む。
巨体が傾く。
「今だ!」
槍兵たちが一斉に槍を突き出した。
穂先が傷ついた左脚へ集中し、巨鬼の進路を境内中央へ押し戻す。
だが、巨鬼は倒れない。
左腕を横へ振るい、槍の柄をまとめて払いのけた。兵たちが体勢を崩したところへ、妖刀の切っ先が落ちる。
「下がれ!」
サイゾウが刀を差し込み、軌道を逸らす。
刃と刃が触れた瞬間、刀に入っていたヒビが一気に広がった。
刀身が半ばから折れ、先端が宙を舞い、白砂へ突き刺さった。
「サイゾウ!」
ラデルカが叫ぶ。
サイゾウは折れた刀を握ったまま、後ろへ跳んだ。着地した途端、左脇腹から血が噴き出し、片膝が地面へ落ちる。
「もう限界だ!」
ラデルカが戦斧で妖刀を受け流しながら怒鳴った。
「お前が死んだら、誰が隊を動かす!」
「お前がいる」
「俺は第三討伐隊の隊長じゃない!」
「今からやれ」
「ふざけるな!」
「命令だ!」
鋭い声が境内を打った。
ラデルカの動きが一瞬だけ止まる。
「西側が開いたら、負傷者を下へ運べ。降りた者を麓まで誘導しろ」
「お前はどうする」
「ここを守る」
「その身体でか」
「この身体だからだ」
サイゾウは立ち上がろうとした。
一度では立てなかった。
折れた刀の柄を地面へ突き、もう一度力を込める。右脚が震え、それでも最後には自分の足で立った。
「俺はもう、縄を伝って下りられん」
「担いでいけばいい!」
「その間、誰があれを止める」
ラデルカは答えなかった。
答えられなかった。
「退路、確保できました!」
西側からマリエラの声が届く。
「縄を3本固定しました! 動ける者から下ろせます!」
「負傷者を先に!」
トウマが指示を引き継ぐ。
「自力で動けない者は兵2人で支えてください! 神職を続かせます!」
兵たちが本殿前へ集めていた負傷者を西側へ運び始める。
境内の端に下ろされた縄へ、1人ずつ身体を預けていく。
巨鬼の顔が再び西へ向いた。
サイゾウは折れた刀を鞘へ戻し、若い槍兵へ右手を差し出した。
その兵は、巨鬼と退路の間に立っている。盾を失った仲間を支えながら、短くなった槍を片手に構えていた。
「槍を借りるぞ」
「隊長、その傷では」
若い兵は一瞬ためらい、槍を握る手へ力を込めた。
「でしたら、自分も残ります」
「駄目だ」
「なぜです!」
「お前は下へ行け」
若い兵は首を横に振った。
「眠れなくても休めと、隊長は仰いました」
震えていた夜の声が、テンカの記憶に蘇る。
「必要な時に動けるようにと。今が、その時です」
「なら、命令を聞け」
サイゾウは若い兵を見た。
「負傷者を守って下りろ。下まで動ける者が必要だ」
「ですが」
「休息も任務だと言った。撤退も任務だ」
若い兵の唇が震えた。
「生きて帰るところまでが、お前の役目だ」
「……了解しました」
若い兵は槍から手を離した。
その時、巨鬼が地を蹴った。
「西へ行かせるな!」
サイゾウが受け取った槍を構える。
ラデルカが右足首へ戦斧を振るい、第三討伐隊の兵たちも進路へ割り込んだ。
しかし、巨鬼は妖刀を振らなかった。
黒紫色の澱みを纏った左肩を前へ出し、そのまま兵たちへ突っ込む。
「散れ!」
間に合わない。
槍兵の1人が肩に弾かれ、白砂へ叩きつけられた。別の兵は踏み出した巨脚を避けきれず、甲冑ごと地面へ押し潰される。
若い槍兵は、支えていた負傷者を横へ突き飛ばし、自らも反対側へ身を投げた。
直後、巨鬼の左腕が2人の間へ振り下ろされ、白砂を大きく抉る。
若い兵は肩から地面へ転がったが、すぐに身体を起こした。倒れた負傷者の腕を取り、再び肩を貸す。
「そのまま西へ行け!」
サイゾウの声が響く。
若い兵は唇を噛み、負傷者を支えながら退路へ走った。
サイゾウは続けて怒声を張り上げた。
「全員、西へ! 倒れた者を回収できる者だけ残れ!」
第三討伐隊が動いた。
2人の兵が、踏み潰された仲間の身体を、先に運ばれていた盾兵の隣へ横たえる。
縄を使って下ろせるのは、生きている者が先だった。
残りの者は負傷者を支え、西側の退路へ向かった。
「姫さまも下がってください」
サイゾウが言った。
「断る」
テンカはキリカの腕を振りほどこうとした。
「そなたを置いていけるものか!」
「現場では、俺の指示に従うと約束されたはずです」
「それは皆で生きて戻るための約束じゃ!」
「今も同じです」
「どこが同じじゃ!」
声が震えた。
「そなたは、戻るつもりがないではないか!」
サイゾウは答えなかった。
その沈黙が、何より明確な答えだった。
「姫さまが残れば、キリカ殿も残る」
サイゾウは巨鬼へ槍を向けたまま続ける。
「姫さまを守ろうとする兵も残ります」
かつて地下から脱出した時と同じだった。
自分が残れば、守るために残る者が増える。それは勇気ではない。隊列を乱し、助かるはずの命まで危険へ晒す我が儘だ。
分かっている。
あの時は、サイゾウも戻ると信じられた。
今は違う。
「姫さま」
サイゾウの声が少しだけ低くなった。
「隊列を乱さないでください」
テンカは継火の柄を握り締めた。
指が震える。
視界が滲み、サイゾウの背中がぼやけた。
「……必ず戻れ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
「命令じゃ、サイゾウ」
サイゾウは振り返らなかった。
「承知しました」
それが嘘であることを、テンカは知っていた。
巨鬼が妖刀を持ち上げる。
狙いはサイゾウではない。
西側の石垣へ集まる負傷者と兵たち。
「行かせるか」
サイゾウは槍を低く構えた。
左脇腹から落ちる血が、白砂へ点々と道を作っている。
ラデルカが隣へ並ぼうとする。
「お前も行け」
「まだ降りていない者がいる」
「だからだ。下で受け取れ」
「サイゾウ」
「頼む」
命令ではなかった。
ラデルカの褐色の犬耳が、痛みに耐えるように伏せられた。
「……死ぬなよ」
「ああ」
また、嘘だった。
ラデルカは戦斧を握り締めたまま後退し、テンカたちのいる場所まで戻った。
「キリカ、姫さまを頼む」
「はい」
「ラデルカ!」
テンカは叫んだ。
「離せ! わらわも戦える!」
「今のお前は戦えない!」
ラデルカがテンカの身体を抱き上げた。
「そなたまで、わらわを置いていくのか!」
「逆だ!」
怒鳴った声が震えている。
「あいつが守ろうとしているものを、俺たちが連れて帰るんだ!」
巨鬼が踏み込んだ。
妖刀が西側へ向けて振り上げられる。
サイゾウは残る力を振り絞って白砂を蹴り、巨鬼の右側へ回り込んだ。右足首に残る傷へ槍を突き入れ、そのまま全身の重みを柄へ掛けた。
穂先が黒紫色の澱みを裂き、傷の奥へ沈む。
巨鬼の右脚が外側へ流れた。
それでも妖刀は止まらない。
西側へ向けて振り下ろされる。
「サイゾウ!」
テンカの声が響く。
サイゾウは槍を放し、鞘から折れた刀を抜いた。
残った半分の刃を、左膝裏へ突き立てる。
両脚を同時に崩された巨鬼の身体が傾いた。
妖刀の軌道が西側から逸れ、境内中央へ落ちる。白砂と石畳が吹き飛び、巨大な裂け目が走った。
「今だ、行け!」
サイゾウが叫んだ。
巨鬼の左腕が動く。
傾いた身体を支えるのではなく、足元にいるサイゾウへ向けて振り下ろされた。
サイゾウは刀を引き抜こうとした。
だが、柄から右手が離れた。
巨腕がその身体を捉え、白砂へ叩きつける。
鈍い衝撃が、境内を揺らした。
「サイゾウ!」
巨鬼が身体を起こす。
その足元で、サイゾウが動いた。
左腕は上がらない。右手にも、もう刀はない。
それでも片膝を立て、巨鬼と西側の退路の間へ身体を起こした。
巨鬼の妖刀が持ち上がる。それでもサイゾウは逃げず、退路を背にしてただ前を見ていた。
黒紫色の刃が振り下ろされる。
サイゾウの身体を、胸元から斜めに斬り裂いた。
鮮血が白砂へ広がる。
それでも、サイゾウはすぐには倒れなかった。
片膝をつき、右手を地面へ押し当てる。退路へ背を向けることなく、最後まで巨鬼の前に残った。
「行け……!」
掠れた声が、境内へ届いた。
次の瞬間、支えていた右腕から力が抜けた。
サイゾウの身体が、白砂へ崩れ落ちる。
「サイゾウ!」
テンカの叫びが響いた。
返事はなかった。
退路を守るように倒れたサイゾウは、もう動かなかった。
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