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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第6章 禍つ鬼と蒼き姫
84/125

白砂に散る

 サイゾウの身体が大きく揺れる。

 左肩から脇腹へ走った傷口が開き、裂けた鎧の隙間から血が溢れ出した。


「サイゾウ!」


 テンカは手を伸ばした。


 だが、澱みに乱された五行は戻らない。踏み出そうとした足が白砂を滑り、身体が前へ傾いた。

 サイゾウは片膝をつきながらも、折れかけた刀を地面へ突いて踏みとどまった。


 巨鬼が妖刀を引き戻す。


「離れろ!」


 ラデルカが横から踏み込み、戦斧を右足首へ叩き込んだ。


 黒い体液が飛び散り、巨鬼の右脚がわずかに傾く。第三討伐隊の槍兵たちも左右から槍を突き出し、妖刀を振るうための間合いを作らせない。


「姫さま、こちらへ!」


 キリカがテンカの腰を抱え、巨鬼から引き離した。


「待て! サイゾウが!」

「今の姫さまでは、近づく方が危険です!」


 その言葉を否定できなかった。


 両腕は上がらず、足元も覚束ない。無理に水行を巡らせようとするたび、胸の奥へ入り込んだ冷たさが五つの流れを乱していく。


 テンカが動けずにいる間にも、サイゾウの足元へ血が広がっていた。


「隊長!」


 槍兵の1人が駆け寄ろうとする。


「前を見ろ!」


 サイゾウの声が飛んだ。


 膝をついたまま、巨鬼から視線を外していない。


「俺の傷を見て、あれが止まるのか!」

「……止まりません!」

「ならば持ち場を守れ!」

「了解!」


 槍兵は歯を食いしばり、巨鬼へ向き直った。


 巨鬼が右足を踏み直す。


 ラデルカに斬られた傷へ黒紫色の澱みがまとわりつき、開いた肉を外側からつなぎ止めていく。完全には塞がっていない。それでも巨体を支えるには十分だった。


「サイゾウ、動くな!」


 ラデルカが巨鬼との間へ立つ。


「その傷で戦えるわけがない!」

「戦えるかどうかは、俺が決める」

「見れば分かる!」

「なら、見ていろ」


 サイゾウは刀を杖に立ち上がった。


 左腕は力なく下がっている。裂けた鎧の内側からは、立ち上がっただけで新たな血が流れ出した。


 それでも右手は、刀の柄を放していない。


「西側はどうなっている!」


 サイゾウが叫ぶ。


「石垣の上部を崩しています!」


 マリエラが術士たちのいる西側から答えた。


「縄を固定できれば、1人ずつ下ろせます! ですが、負傷者を運ぶには支えが足りません!」

「動ける兵を回せ! 盾と槍を支柱に使え!」

「承知しました!」


 マリエラが術士たちへ指示を出す。


 石垣の前では、兵たちが崩れた石を運び、斜面へ縄を下ろす準備を進めていた。境内の外へ続く細い道が、少しずつ作られている。


 だが、退路が完成するまで巨鬼が待つはずもない。


 赤黒い眼光が西側へ動いた。


「退路に気づいたぞ!」


 トウマが叫ぶ。


 背中の傷を兵に押さえられながらも、本殿前に立っている。


「正面へ引き戻してください! 西側へ近づけてはなりません!」

「聞いたな!」


 サイゾウが刀を構える。


「左脚を狙え! 正面へ向けさせろ!」


 第三討伐隊が動いた。


 盾兵が巨鬼の正面へ並び、槍兵たちが左側へ回る。ラデルカが傷ついた右足首を狙い、巨体の進路を塞いだ。


 巨鬼の妖刀が横へ走る。


「伏せろ!」


 兵たちが身を沈める。


 刃は盾の上を通過し、その後ろに残っていた石灯籠を断ち切った。切断された石が白砂へ落ち、破片が周囲へ弾け飛ぶ。


 遅れた盾兵の肩へ、石片が突き刺さった。


「ぐっ!」


 盾兵がよろめく。


 隣の兵が腕を掴み、後ろへ引こうとする。だが、巨鬼はその動きを見逃さなかった。


 妖刀を返す。

 横薙ぎではない。


 柄頭が、負傷した盾兵へ向けて突き出された。


「避けろ!」


 サイゾウの声より早く、鈍い衝撃が響いた。


 盾兵の身体が盾ごと宙へ浮かび、本殿側まで弾き飛ばされる。地面へ落ちた身体は一度だけ跳ね、そのまま動かなくなった。


「回収しろ!」


 後列の兵が駆け寄る。


 首元へ指を当てた兵の顔が、強張った。


「……息がありません」


 サイゾウの表情は変わらなかった。


「本殿前へ運べ」

「隊長」

「ここへ置いておけば踏まれる。早くしろ」

「了解……!」


 兵たちは倒れた仲間を抱え、後方へ運んだ。


 テンカはその姿を見つめることしかできなかった。


 朝まで生きていた。


 同じ境内で、同じ灯を守っていた者だ。名を聞いたことはなくても、サイゾウの命令に応じて走る姿を何度も見ている。


 それが今は、力の抜けた腕を白砂へ垂らしている。


 腹の底で火が揺れた。


 だが、火行へ触れようとした途端、胸に残る澱みが巡りを濁らせた。熱は刃へ届かず、痛みとなって身体の内側へ散っていく。


「姫さま、無理をなさらないでください」


 キリカがテンカの肩を支える。


「無理をせねば、皆が死ぬ」

「今、姫さまが倒れれば、守る者が増えます」


 テンカは唇を噛んだ。


 分かっている。


 正しい。


 それでも、目の前で兵が命を落としているのに、自分だけが支えられていることを受け入れられなかった。


 巨鬼が西側へ一歩進む。


「押し返せ!」


 サイゾウが踏み込んだ。


 折れかけた刀を右手だけで振るい、左膝裏へ刃を走らせる。浅く塞がり始めていた傷が再び開き、巨鬼の膝が沈んだ。


 ラデルカの戦斧が右足首へ食い込む。


 巨体が傾く。


「今だ!」


 槍兵たちが一斉に槍を突き出した。


 穂先が傷ついた左脚へ集中し、巨鬼の進路を境内中央へ押し戻す。


 だが、巨鬼は倒れない。


 左腕を横へ振るい、槍の柄をまとめて払いのけた。兵たちが体勢を崩したところへ、妖刀の切っ先が落ちる。


「下がれ!」


 サイゾウが刀を差し込み、軌道を逸らす。


 刃と刃が触れた瞬間、刀に入っていたヒビが一気に広がった。


 刀身が半ばから折れ、先端が宙を舞い、白砂へ突き刺さった。


「サイゾウ!」


 ラデルカが叫ぶ。


 サイゾウは折れた刀を握ったまま、後ろへ跳んだ。着地した途端、左脇腹から血が噴き出し、片膝が地面へ落ちる。


「もう限界だ!」


 ラデルカが戦斧で妖刀を受け流しながら怒鳴った。


「お前が死んだら、誰が隊を動かす!」

「お前がいる」

「俺は第三討伐隊の隊長じゃない!」

「今からやれ」

「ふざけるな!」

「命令だ!」


 鋭い声が境内を打った。


 ラデルカの動きが一瞬だけ止まる。


「西側が開いたら、負傷者を下へ運べ。降りた者を麓まで誘導しろ」

「お前はどうする」

「ここを守る」

「その身体でか」

「この身体だからだ」


 サイゾウは立ち上がろうとした。


 一度では立てなかった。


 折れた刀の柄を地面へ突き、もう一度力を込める。右脚が震え、それでも最後には自分の足で立った。


「俺はもう、縄を伝って下りられん」

「担いでいけばいい!」

「その間、誰があれを止める」


 ラデルカは答えなかった。


 答えられなかった。


「退路、確保できました!」


 西側からマリエラの声が届く。


「縄を3本固定しました! 動ける者から下ろせます!」

「負傷者を先に!」


 トウマが指示を引き継ぐ。


「自力で動けない者は兵2人で支えてください! 神職を続かせます!」


 兵たちが本殿前へ集めていた負傷者を西側へ運び始める。


 境内の端に下ろされた縄へ、1人ずつ身体を預けていく。


 巨鬼の顔が再び西へ向いた。


 サイゾウは折れた刀を鞘へ戻し、若い槍兵へ右手を差し出した。


 その兵は、巨鬼と退路の間に立っている。盾を失った仲間を支えながら、短くなった槍を片手に構えていた。


「槍を借りるぞ」

「隊長、その傷では」


 若い兵は一瞬ためらい、槍を握る手へ力を込めた。


「でしたら、自分も残ります」

「駄目だ」

「なぜです!」

「お前は下へ行け」


 若い兵は首を横に振った。


「眠れなくても休めと、隊長は仰いました」


 震えていた夜の声が、テンカの記憶に蘇る。


「必要な時に動けるようにと。今が、その時です」

「なら、命令を聞け」


 サイゾウは若い兵を見た。


「負傷者を守って下りろ。下まで動ける者が必要だ」

「ですが」

「休息も任務だと言った。撤退も任務だ」


 若い兵の唇が震えた。


「生きて帰るところまでが、お前の役目だ」

「……了解しました」


 若い兵は槍から手を離した。


 その時、巨鬼が地を蹴った。


「西へ行かせるな!」


 サイゾウが受け取った槍を構える。


 ラデルカが右足首へ戦斧を振るい、第三討伐隊の兵たちも進路へ割り込んだ。


 しかし、巨鬼は妖刀を振らなかった。


 黒紫色の澱みを纏った左肩を前へ出し、そのまま兵たちへ突っ込む。


「散れ!」


 間に合わない。


 槍兵の1人が肩に弾かれ、白砂へ叩きつけられた。別の兵は踏み出した巨脚を避けきれず、甲冑ごと地面へ押し潰される。


 若い槍兵は、支えていた負傷者を横へ突き飛ばし、自らも反対側へ身を投げた。


 直後、巨鬼の左腕が2人の間へ振り下ろされ、白砂を大きく抉る。


 若い兵は肩から地面へ転がったが、すぐに身体を起こした。倒れた負傷者の腕を取り、再び肩を貸す。


「そのまま西へ行け!」


 サイゾウの声が響く。


 若い兵は唇を噛み、負傷者を支えながら退路へ走った。


 サイゾウは続けて怒声を張り上げた。


「全員、西へ! 倒れた者を回収できる者だけ残れ!」


 第三討伐隊が動いた。


 2人の兵が、踏み潰された仲間の身体を、先に運ばれていた盾兵の隣へ横たえる。

 縄を使って下ろせるのは、生きている者が先だった。


 残りの者は負傷者を支え、西側の退路へ向かった。


「姫さまも下がってください」


 サイゾウが言った。


「断る」


 テンカはキリカの腕を振りほどこうとした。


「そなたを置いていけるものか!」

「現場では、俺の指示に従うと約束されたはずです」

「それは皆で生きて戻るための約束じゃ!」

「今も同じです」

「どこが同じじゃ!」


 声が震えた。


「そなたは、戻るつもりがないではないか!」


 サイゾウは答えなかった。


 その沈黙が、何より明確な答えだった。


「姫さまが残れば、キリカ殿も残る」


 サイゾウは巨鬼へ槍を向けたまま続ける。


「姫さまを守ろうとする兵も残ります」


 かつて地下から脱出した時と同じだった。


 自分が残れば、守るために残る者が増える。それは勇気ではない。隊列を乱し、助かるはずの命まで危険へ晒す我が儘だ。


 分かっている。


 あの時は、サイゾウも戻ると信じられた。


 今は違う。


「姫さま」


 サイゾウの声が少しだけ低くなった。


「隊列を乱さないでください」


 テンカは継火の柄を握り締めた。


 指が震える。


 視界が滲み、サイゾウの背中がぼやけた。


「……必ず戻れ」


 絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。


「命令じゃ、サイゾウ」


 サイゾウは振り返らなかった。


「承知しました」


 それが嘘であることを、テンカは知っていた。


 巨鬼が妖刀を持ち上げる。


 狙いはサイゾウではない。

 西側の石垣へ集まる負傷者と兵たち。


「行かせるか」


 サイゾウは槍を低く構えた。


 左脇腹から落ちる血が、白砂へ点々と道を作っている。


 ラデルカが隣へ並ぼうとする。


「お前も行け」

「まだ降りていない者がいる」

「だからだ。下で受け取れ」

「サイゾウ」

「頼む」


 命令ではなかった。


 ラデルカの褐色の犬耳が、痛みに耐えるように伏せられた。


「……死ぬなよ」

「ああ」


 また、嘘だった。


 ラデルカは戦斧を握り締めたまま後退し、テンカたちのいる場所まで戻った。


「キリカ、姫さまを頼む」

「はい」

「ラデルカ!」


 テンカは叫んだ。


「離せ! わらわも戦える!」

「今のお前は戦えない!」


 ラデルカがテンカの身体を抱き上げた。


「そなたまで、わらわを置いていくのか!」

「逆だ!」


 怒鳴った声が震えている。


「あいつが守ろうとしているものを、俺たちが連れて帰るんだ!」


 巨鬼が踏み込んだ。


 妖刀が西側へ向けて振り上げられる。


 サイゾウは残る力を振り絞って白砂を蹴り、巨鬼の右側へ回り込んだ。右足首に残る傷へ槍を突き入れ、そのまま全身の重みを柄へ掛けた。


 穂先が黒紫色の澱みを裂き、傷の奥へ沈む。

 巨鬼の右脚が外側へ流れた。


 それでも妖刀は止まらない。


 西側へ向けて振り下ろされる。


「サイゾウ!」


 テンカの声が響く。


 サイゾウは槍を放し、鞘から折れた刀を抜いた。


 残った半分の刃を、左膝裏へ突き立てる。

 両脚を同時に崩された巨鬼の身体が傾いた。


 妖刀の軌道が西側から逸れ、境内中央へ落ちる。白砂と石畳が吹き飛び、巨大な裂け目が走った。


「今だ、行け!」


 サイゾウが叫んだ。


 巨鬼の左腕が動く。


 傾いた身体を支えるのではなく、足元にいるサイゾウへ向けて振り下ろされた。


 サイゾウは刀を引き抜こうとした。


 だが、柄から右手が離れた。


 巨腕がその身体を捉え、白砂へ叩きつける。

 鈍い衝撃が、境内を揺らした。


「サイゾウ!」


 巨鬼が身体を起こす。


 その足元で、サイゾウが動いた。


 左腕は上がらない。右手にも、もう刀はない。

 それでも片膝を立て、巨鬼と西側の退路の間へ身体を起こした。


 巨鬼の妖刀が持ち上がる。それでもサイゾウは逃げず、退路を背にしてただ前を見ていた。


 黒紫色の刃が振り下ろされる。


 サイゾウの身体を、胸元から斜めに斬り裂いた。


 鮮血が白砂へ広がる。


 それでも、サイゾウはすぐには倒れなかった。

 片膝をつき、右手を地面へ押し当てる。退路へ背を向けることなく、最後まで巨鬼の前に残った。


「行け……!」


 掠れた声が、境内へ届いた。


 次の瞬間、支えていた右腕から力が抜けた。


 サイゾウの身体が、白砂へ崩れ落ちる。


「サイゾウ!」


 テンカの叫びが響いた。


 返事はなかった。


 退路を守るように倒れたサイゾウは、もう動かなかった。

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