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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第6章 禍つ鬼と蒼き姫
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崩れる退路

 黒紫色の刃が、東側の石段へ落ちた。


 石を断つ重い衝撃が境内を揺らし、長く続いていた石段の上部が斜めに砕ける。手すりと道沿いの灯がまとめて吹き飛び、崩れた石と土砂が斜面を呑み込みながら麓へ雪崩れ落ちた。


「伏せろ!」


 先頭を下りていた兵が神職を抱え、石段の脇へ身を投げる。すでに下まで退いていた者たちは崩落から逃れたが、境内側に残っていた数人は足場を失い、兵たちに引き戻された。


 巻き上がった灰色の砂が、東側の視界を覆う。


「石段から離れろ! 縁が崩れるぞ!」


 サイゾウの声に、境内側へ残っていた兵たちが負傷者を抱えて後退した。


 テンカは継火を支えに立ち上がり、砂煙の向こうへ目を凝らす。

 東へ続いていた石段が、途中から消えていた。


 崩落の下から兵たちの声が聞こえる。しかし、こちらへ上がれる道はなく、境内から下へ向かうこともできない。


「下にいる者は無事か!」


 ラデルカが叫ぶ。


「負傷者を確認中! こちら側へ戻る道はありません!」


 遠くから返事が届く。


 さらに木々の向こうでは、クレハたちが交戦する音が続いていた。重い衝撃が響くたび、砂煙の向こうで枝葉が揺れ、兵の号令が途切れ途切れに聞こえてくる。


「残っている者を本殿側へ集めてください!」


 トウマが境内を見渡しながら指示を飛ばす。


「負傷者を先に! 石段の縁と神楽殿跡には近づかないように!」


 動ける兵たちが、倒れた仲間や残っていた神職を支えて下がる。キリカもテンカの前へ立ち、袖口から新しい紙符を取り出した。


 巨鬼は、砕けた石段へ食い込んだ妖刀を引き抜いた。

 黒紫色の刃から石片がこぼれ落ちる。


 赤黒い眼光が境内をゆっくりと巡り、本殿側へ集まり始めた人々を捉えた。


「来るぞ!」


 サイゾウとラデルカが前へ出る。


 だが、巨鬼はすぐには追わなかった。

 両脚を広げ、妖刀を逆手に持ち替える。


 切っ先が、足元へ向いた。


「何をするつもりじゃ……」


 テンカが息を呑む。


 巨鬼は妖刀を白砂へ突き立てた。


 刃が地面へ深く沈み、刀身を覆っていた黒紫色の澱みが一気に下へ流れ込む。妖刀を中心に地面へ黒い筋が走り、白砂の下を這うように四方へ広がっていった。


 黒い筋は瞬く間に兵たちの足元を通り抜け、石畳の隙間と崩れた神楽殿の床下へ入り込んでいく。


「地面から離れろ!」


 サイゾウが叫んだ。


 兵たちが跳ぶ。


 だが、負傷者を抱えている者と、神職たちは間に合わない。


 テンカは継火の切っ先を白砂へ突き立てた。火行ではない。


 地を走る力を止めるなら、地の流れへ触れるしかない。足元から土行を巡らせると、黒髪の一房が山吹色へ染まった。


「皆、わらわの近くへ!」


 キリカが倒れていた兵の腕を取り、テンカの背後へ引き寄せる。近くにいた第三討伐隊の兵たちも、神職と負傷者を支えながら集まった。


 テンカは柄を両手で握り、土行を地中へ流し込んだ。


 押さえつけるのではない。

 白砂の下にある土と砕けた石を固め、地面を走る衝撃が周囲へ抜けるよう、幾つもの道を作る。


 黒い筋が、テンカの足元へ届いた。


 地中で土行と澱みがぶつかる。


「ぐっ……!」


 継火を握る両腕へ重い振動が突き上がった。


 次の瞬間、妖刀を中心に黒紫色の衝撃が噴き上がった。


 境内の地面が大きく波打つ。

 白砂が弾け、石畳が下から砕かれた。神楽殿跡に残っていた柱が折れ、社務所の軒から瓦が落ちる。


 兵たちは地面から突き上げられ、何人も宙へ投げ出された。


「当主様!」


 トウマがコトネの前へ飛び込んだ。


 コトネの肩を抱いて自らの身体を盾にし、背中を向ける。直後、砕けた石片と黒紫色の衝撃がトウマを打ち、2人の身体を白砂の上へ押し倒した。


「トウマ!」


 コトネの声が響く。


 テンカの周囲でも、固めた地面へ幾つものヒビが走った。


 土行で受け止め切れる力ではない。

 それでも、足元の土が崩れなければ、地面から直接突き上げられることだけは防げる。


「持て……!」


 テンカは歯を食いしばった。


 山吹色に染まった髪が大きく揺れ、継火の切っ先が土の中で軋む。背後へ集まった者たちは身を伏せ、キリカがテンカの身体を支えた。


 黒紫色の衝撃が、境内を駆け抜ける。


 やがて地面の揺れが弱まり、立ち上っていた白砂が雨のように落ち始めた。


 テンカは土行を収めた。


 山吹色の髪が黒へ戻る。

 同時に両膝から力が抜けかけたが、キリカの腕が背中を支えた。


「姫さま」

「大事ない。皆は?」


 周囲では、兵たちが負傷者の状態を確かめていた。


 テンカの土行が届いた場所にいた者たちは、倒れてはいるものの意識がある。だが、その外側では何人もの兵が地面へ投げ出され、装備の破片と血が白砂へ散っていた。


「救護を急げ!」


 サイゾウが即座に命じる。


「動ける者は返事をしろ! 倒れた者を本殿側へ運べ!」


 ラデルカが戦斧を杖にして立ち上がる。額から血を流していたが、足取りに大きな乱れはない。


「姫さまの周りは無事だ! こっちは俺が見る!」


 キリカはテンカの傍らを離れず、短刀を構え直した。


 少し離れた場所では、コトネがトウマの身体を抱き起こしている。


「トウマ。聞こえますか」

「……はい」


 トウマが掠れた声で答えた。


 銀縁の眼鏡は片側の硝子が割れ、背中から左肩にかけて衣服が裂けている。石片に切られた傷から血が滲んでいたが、自力で片膝を立てた。


「当主様に、お怪我は」

「私は無事です。あなたがかばってくれたおかげで」

「それなら、よかった」


 トウマは息を整え、割れた眼鏡を外した。


 負傷してなお、その視線は境内全体を追っている。


「東側の石段は使えません。北側も神楽殿の崩落と地割れで通れないままです」


 トウマは本殿側へ運ばれていく負傷者を確認する。


「境内に残った者だけで、別の道を確保する必要があります」

「どこか下りられそうな場所はないのですか」


 コトネの問いに、マリエラが崩れた石垣へ視線を向けた。


「西側の石垣なら、一部を崩して縄を下ろせるかもしれません。ですが、負傷者を運べる道にするには時間が必要です」

「どれほどです」

「分かりません。地面がまた揺れれば、途中で崩れる可能性もあります」


「それでもやるしかありません」


 トウマは立ち上がろうとして、傷の痛みに顔を歪めた。コトネがその腕を支える。


「術士と動ける兵を西側へ。負傷者を運ぶ者は本殿前で待機してください」

「承知しました」


 マリエラが術士たちを連れて走る。


 境内から外へ出る道は失われた。


 だが、立ち止まっている余裕はない。

 巨鬼が妖刀を地面から引き抜いた。


 黒紫色の澱みが刀身を伝い、空中へ細い筋を引く。全方位へ放たれた衝撃で境内は崩れているというのに、巨鬼の構えには乱れがなかった。


 眼窩の奥にある赤黒い光が、テンカへ向く。


「姫さま」


 キリカが半歩前へ出た。


「下がってください」

「駄目じゃ」


 テンカは継火を地面から抜き、刃についた土を振り落とした。


「あやつは、わらわを見ておる。ここで下がれば、本殿側へ向かうぞ」

「ですが、先ほどの一撃で」

「腕は動く」


 嘘ではない。


 だが、万全でもなかった。


 先ほど、妖刀の返し斬りを流した時の痺れが、まだ両腕に残っている。そこへ土行で地面からの衝撃を受け止めたため、柄を握る指先は熱を失ったように鈍い。


 それでも、刀を手放すわけにはいかなかった。


「姫さまだけで受ける必要はありません」


 サイゾウがテンカの右側へ並ぶ。


「第三討伐隊で注意を引きます。姫さまは距離を」

「間に合わぬ」


 巨鬼の右足が沈んだ。


 妖刀を覆う澱みが刀身へ押し固められ、黒紫色の刃が一回り太くなる。


 次に踏み出した時、巨体が視界から消えた。


「来るぞ!」


 テンカは継火を両手で構える。


 巨鬼が白砂を蹴り砕き、一直線に迫っていた。


 一歩ごとに境内が揺れる。傷ついているはずの右足首も左膝裏も、外側を覆う澱みに支えられ、突進の勢いを失っていない。


 黒紫色の妖刀が、右上から斜めに振り下ろされた。


「水行――蒼流!」


 水行を足元から腕へ巡らせる。


 継火の刃を妖刀へ斜めに合わせ、真正面から受け止めず、その軌道へ沿わせた。


 刃と刃が触れる。


 押し潰すような重さが継火へ乗った。


 テンカは腰を捻り、身体ごと横へ流す。妖刀の切っ先が肩先をかすめ、背後の白砂へ深く突き刺さった。


 直撃は避けた。


 だが、両腕を走った衝撃に息が詰まる。


 巨鬼は地面へ触れた妖刀を止めず、腰を回して刃を返した。


 速い。


 テンカは後ろへ跳ばず、逆に半歩踏み込んだ。


 遠ざかれば、兵の身の丈を超える刃の先端に捉えられる。懐へ入れば、刃が最も速く走る場所だけは外せる。


 返された妖刀の根元へ継火を重ねる。


 2度目の衝撃が刀身を通り、肩と肘へ突き抜けた。


「ぬ、ぅ……!」


 足元が白砂を削る。


 水行で刃の向きを逸らしながら、テンカは妖刀の下を潜った。黒紫色の切っ先が黒髪を数本断ち、背後に残っていた石灯籠の台座を薙ぎ払う。


 巨鬼の懐へ入った。


 右脇腹には、《緋皇断華》で刻んだ傷が残っている。黒紫色の澱みに覆われながらも、その内側では緋色の炎がまだ燃えていた。


 今なら届く。


 テンカが継火を引いた、その時だった。


 妖刀を覆う澱みが大きく脈打つ。


「姫さま、離れて!」


 キリカの声が聞こえた。


 黒紫色の波が、至近距離で噴き出した。


 避ける間はなかった。


 澱みの奔流がテンカの身体を正面から呑み込む。


「がっ……!」


 息が止まった。


 冷たい泥を口と鼻から流し込まれたような感覚が、胸の奥へ広がる。土行も、水行も、腹の底に残る火行も含め、身体を巡る五行の流れすべてが一斉に濁った。


 視界が黒く霞む。

 継火を握っているはずの指先が遠い。


 テンカは後ろへ数歩よろめき、片足を白砂へ取られた。


「姫さま!」


 キリカが駆け出す。


 だが、その前へ巨鬼の左腕が振るわれた。キリカは足を止め、短刀で受けることを避けて横へ跳ぶ。


 巨鬼の眼光は、テンカから外れない。


 右手だけで握っていた妖刀の柄へ、左手が重ねられた。


 両手持ち。


 人が刀を振るう時と同じ形で、巨鬼は黒紫色の刃を頭上へ振り上げた。


 テンカは継火を構えようとする。


 だが、両腕が上がらない。


 乱された五行を巡らせようとしても、冷たい澱みが身体の内側へ貼りつき、流れをせき止めている。


 巨鬼の腰が沈む。

 これまでの斬撃よりも深く、重い踏み込み。


 受ければ、今度こそ流し切れない。


 分かっているのに、足が動かなかった。


「姫さま!」


 サイゾウの声が響いた。


 巨鬼が妖刀を振り下ろす。


 黒紫色の刃が、テンカへ落ちた。


 その視界を、黒い背中が遮る。


 サイゾウがテンカの前へ踏み込み、振り下ろされる妖刀の側面へ刀を打ち込んだ。


 刃と刃が激突する。


 サイゾウの刀にヒビが走った。


 真正面から止めるのではなく、斜めに受けて軌道を外す。それでも巨鬼の膂力は押し流せず、黒紫色の妖刀がサイゾウの刀を滑り落ちた。


 刃が、左肩から脇腹へ走る。


「サイゾウ!」


 鮮血が、テンカの頬へ散った。

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