崩れる退路
黒紫色の刃が、東側の石段へ落ちた。
石を断つ重い衝撃が境内を揺らし、長く続いていた石段の上部が斜めに砕ける。手すりと道沿いの灯がまとめて吹き飛び、崩れた石と土砂が斜面を呑み込みながら麓へ雪崩れ落ちた。
「伏せろ!」
先頭を下りていた兵が神職を抱え、石段の脇へ身を投げる。すでに下まで退いていた者たちは崩落から逃れたが、境内側に残っていた数人は足場を失い、兵たちに引き戻された。
巻き上がった灰色の砂が、東側の視界を覆う。
「石段から離れろ! 縁が崩れるぞ!」
サイゾウの声に、境内側へ残っていた兵たちが負傷者を抱えて後退した。
テンカは継火を支えに立ち上がり、砂煙の向こうへ目を凝らす。
東へ続いていた石段が、途中から消えていた。
崩落の下から兵たちの声が聞こえる。しかし、こちらへ上がれる道はなく、境内から下へ向かうこともできない。
「下にいる者は無事か!」
ラデルカが叫ぶ。
「負傷者を確認中! こちら側へ戻る道はありません!」
遠くから返事が届く。
さらに木々の向こうでは、クレハたちが交戦する音が続いていた。重い衝撃が響くたび、砂煙の向こうで枝葉が揺れ、兵の号令が途切れ途切れに聞こえてくる。
「残っている者を本殿側へ集めてください!」
トウマが境内を見渡しながら指示を飛ばす。
「負傷者を先に! 石段の縁と神楽殿跡には近づかないように!」
動ける兵たちが、倒れた仲間や残っていた神職を支えて下がる。キリカもテンカの前へ立ち、袖口から新しい紙符を取り出した。
巨鬼は、砕けた石段へ食い込んだ妖刀を引き抜いた。
黒紫色の刃から石片がこぼれ落ちる。
赤黒い眼光が境内をゆっくりと巡り、本殿側へ集まり始めた人々を捉えた。
「来るぞ!」
サイゾウとラデルカが前へ出る。
だが、巨鬼はすぐには追わなかった。
両脚を広げ、妖刀を逆手に持ち替える。
切っ先が、足元へ向いた。
「何をするつもりじゃ……」
テンカが息を呑む。
巨鬼は妖刀を白砂へ突き立てた。
刃が地面へ深く沈み、刀身を覆っていた黒紫色の澱みが一気に下へ流れ込む。妖刀を中心に地面へ黒い筋が走り、白砂の下を這うように四方へ広がっていった。
黒い筋は瞬く間に兵たちの足元を通り抜け、石畳の隙間と崩れた神楽殿の床下へ入り込んでいく。
「地面から離れろ!」
サイゾウが叫んだ。
兵たちが跳ぶ。
だが、負傷者を抱えている者と、神職たちは間に合わない。
テンカは継火の切っ先を白砂へ突き立てた。火行ではない。
地を走る力を止めるなら、地の流れへ触れるしかない。足元から土行を巡らせると、黒髪の一房が山吹色へ染まった。
「皆、わらわの近くへ!」
キリカが倒れていた兵の腕を取り、テンカの背後へ引き寄せる。近くにいた第三討伐隊の兵たちも、神職と負傷者を支えながら集まった。
テンカは柄を両手で握り、土行を地中へ流し込んだ。
押さえつけるのではない。
白砂の下にある土と砕けた石を固め、地面を走る衝撃が周囲へ抜けるよう、幾つもの道を作る。
黒い筋が、テンカの足元へ届いた。
地中で土行と澱みがぶつかる。
「ぐっ……!」
継火を握る両腕へ重い振動が突き上がった。
次の瞬間、妖刀を中心に黒紫色の衝撃が噴き上がった。
境内の地面が大きく波打つ。
白砂が弾け、石畳が下から砕かれた。神楽殿跡に残っていた柱が折れ、社務所の軒から瓦が落ちる。
兵たちは地面から突き上げられ、何人も宙へ投げ出された。
「当主様!」
トウマがコトネの前へ飛び込んだ。
コトネの肩を抱いて自らの身体を盾にし、背中を向ける。直後、砕けた石片と黒紫色の衝撃がトウマを打ち、2人の身体を白砂の上へ押し倒した。
「トウマ!」
コトネの声が響く。
テンカの周囲でも、固めた地面へ幾つものヒビが走った。
土行で受け止め切れる力ではない。
それでも、足元の土が崩れなければ、地面から直接突き上げられることだけは防げる。
「持て……!」
テンカは歯を食いしばった。
山吹色に染まった髪が大きく揺れ、継火の切っ先が土の中で軋む。背後へ集まった者たちは身を伏せ、キリカがテンカの身体を支えた。
黒紫色の衝撃が、境内を駆け抜ける。
やがて地面の揺れが弱まり、立ち上っていた白砂が雨のように落ち始めた。
テンカは土行を収めた。
山吹色の髪が黒へ戻る。
同時に両膝から力が抜けかけたが、キリカの腕が背中を支えた。
「姫さま」
「大事ない。皆は?」
周囲では、兵たちが負傷者の状態を確かめていた。
テンカの土行が届いた場所にいた者たちは、倒れてはいるものの意識がある。だが、その外側では何人もの兵が地面へ投げ出され、装備の破片と血が白砂へ散っていた。
「救護を急げ!」
サイゾウが即座に命じる。
「動ける者は返事をしろ! 倒れた者を本殿側へ運べ!」
ラデルカが戦斧を杖にして立ち上がる。額から血を流していたが、足取りに大きな乱れはない。
「姫さまの周りは無事だ! こっちは俺が見る!」
キリカはテンカの傍らを離れず、短刀を構え直した。
少し離れた場所では、コトネがトウマの身体を抱き起こしている。
「トウマ。聞こえますか」
「……はい」
トウマが掠れた声で答えた。
銀縁の眼鏡は片側の硝子が割れ、背中から左肩にかけて衣服が裂けている。石片に切られた傷から血が滲んでいたが、自力で片膝を立てた。
「当主様に、お怪我は」
「私は無事です。あなたがかばってくれたおかげで」
「それなら、よかった」
トウマは息を整え、割れた眼鏡を外した。
負傷してなお、その視線は境内全体を追っている。
「東側の石段は使えません。北側も神楽殿の崩落と地割れで通れないままです」
トウマは本殿側へ運ばれていく負傷者を確認する。
「境内に残った者だけで、別の道を確保する必要があります」
「どこか下りられそうな場所はないのですか」
コトネの問いに、マリエラが崩れた石垣へ視線を向けた。
「西側の石垣なら、一部を崩して縄を下ろせるかもしれません。ですが、負傷者を運べる道にするには時間が必要です」
「どれほどです」
「分かりません。地面がまた揺れれば、途中で崩れる可能性もあります」
「それでもやるしかありません」
トウマは立ち上がろうとして、傷の痛みに顔を歪めた。コトネがその腕を支える。
「術士と動ける兵を西側へ。負傷者を運ぶ者は本殿前で待機してください」
「承知しました」
マリエラが術士たちを連れて走る。
境内から外へ出る道は失われた。
だが、立ち止まっている余裕はない。
巨鬼が妖刀を地面から引き抜いた。
黒紫色の澱みが刀身を伝い、空中へ細い筋を引く。全方位へ放たれた衝撃で境内は崩れているというのに、巨鬼の構えには乱れがなかった。
眼窩の奥にある赤黒い光が、テンカへ向く。
「姫さま」
キリカが半歩前へ出た。
「下がってください」
「駄目じゃ」
テンカは継火を地面から抜き、刃についた土を振り落とした。
「あやつは、わらわを見ておる。ここで下がれば、本殿側へ向かうぞ」
「ですが、先ほどの一撃で」
「腕は動く」
嘘ではない。
だが、万全でもなかった。
先ほど、妖刀の返し斬りを流した時の痺れが、まだ両腕に残っている。そこへ土行で地面からの衝撃を受け止めたため、柄を握る指先は熱を失ったように鈍い。
それでも、刀を手放すわけにはいかなかった。
「姫さまだけで受ける必要はありません」
サイゾウがテンカの右側へ並ぶ。
「第三討伐隊で注意を引きます。姫さまは距離を」
「間に合わぬ」
巨鬼の右足が沈んだ。
妖刀を覆う澱みが刀身へ押し固められ、黒紫色の刃が一回り太くなる。
次に踏み出した時、巨体が視界から消えた。
「来るぞ!」
テンカは継火を両手で構える。
巨鬼が白砂を蹴り砕き、一直線に迫っていた。
一歩ごとに境内が揺れる。傷ついているはずの右足首も左膝裏も、外側を覆う澱みに支えられ、突進の勢いを失っていない。
黒紫色の妖刀が、右上から斜めに振り下ろされた。
「水行――蒼流!」
水行を足元から腕へ巡らせる。
継火の刃を妖刀へ斜めに合わせ、真正面から受け止めず、その軌道へ沿わせた。
刃と刃が触れる。
押し潰すような重さが継火へ乗った。
テンカは腰を捻り、身体ごと横へ流す。妖刀の切っ先が肩先をかすめ、背後の白砂へ深く突き刺さった。
直撃は避けた。
だが、両腕を走った衝撃に息が詰まる。
巨鬼は地面へ触れた妖刀を止めず、腰を回して刃を返した。
速い。
テンカは後ろへ跳ばず、逆に半歩踏み込んだ。
遠ざかれば、兵の身の丈を超える刃の先端に捉えられる。懐へ入れば、刃が最も速く走る場所だけは外せる。
返された妖刀の根元へ継火を重ねる。
2度目の衝撃が刀身を通り、肩と肘へ突き抜けた。
「ぬ、ぅ……!」
足元が白砂を削る。
水行で刃の向きを逸らしながら、テンカは妖刀の下を潜った。黒紫色の切っ先が黒髪を数本断ち、背後に残っていた石灯籠の台座を薙ぎ払う。
巨鬼の懐へ入った。
右脇腹には、《緋皇断華》で刻んだ傷が残っている。黒紫色の澱みに覆われながらも、その内側では緋色の炎がまだ燃えていた。
今なら届く。
テンカが継火を引いた、その時だった。
妖刀を覆う澱みが大きく脈打つ。
「姫さま、離れて!」
キリカの声が聞こえた。
黒紫色の波が、至近距離で噴き出した。
避ける間はなかった。
澱みの奔流がテンカの身体を正面から呑み込む。
「がっ……!」
息が止まった。
冷たい泥を口と鼻から流し込まれたような感覚が、胸の奥へ広がる。土行も、水行も、腹の底に残る火行も含め、身体を巡る五行の流れすべてが一斉に濁った。
視界が黒く霞む。
継火を握っているはずの指先が遠い。
テンカは後ろへ数歩よろめき、片足を白砂へ取られた。
「姫さま!」
キリカが駆け出す。
だが、その前へ巨鬼の左腕が振るわれた。キリカは足を止め、短刀で受けることを避けて横へ跳ぶ。
巨鬼の眼光は、テンカから外れない。
右手だけで握っていた妖刀の柄へ、左手が重ねられた。
両手持ち。
人が刀を振るう時と同じ形で、巨鬼は黒紫色の刃を頭上へ振り上げた。
テンカは継火を構えようとする。
だが、両腕が上がらない。
乱された五行を巡らせようとしても、冷たい澱みが身体の内側へ貼りつき、流れをせき止めている。
巨鬼の腰が沈む。
これまでの斬撃よりも深く、重い踏み込み。
受ければ、今度こそ流し切れない。
分かっているのに、足が動かなかった。
「姫さま!」
サイゾウの声が響いた。
巨鬼が妖刀を振り下ろす。
黒紫色の刃が、テンカへ落ちた。
その視界を、黒い背中が遮る。
サイゾウがテンカの前へ踏み込み、振り下ろされる妖刀の側面へ刀を打ち込んだ。
刃と刃が激突する。
サイゾウの刀にヒビが走った。
真正面から止めるのではなく、斜めに受けて軌道を外す。それでも巨鬼の膂力は押し流せず、黒紫色の妖刀がサイゾウの刀を滑り落ちた。
刃が、左肩から脇腹へ走る。
「サイゾウ!」
鮮血が、テンカの頬へ散った。
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