禍つ鬼
穴の縁へ掛かった巨大な指が、岩を砕いた。
もう一方の手が地上へ伸び、崩れた神楽殿の床を掴む。黒紫色の澱みを纏った腕が盛り上がり、その下から肩と頭部がゆっくりと現れた。
「下がれ! 穴から距離を取れ!」
サイゾウの号令で、防衛線が東へ退く。
地面へ両腕をついた何かが、自らの身体を引き上げた。岩盤が重みに耐えきれず崩れ、灰色の砂が滝のように穴へ流れ落ちる。
やがて、それは地上に立った。
見上げなければ、頭部を捉えることさえできない。
人に似た形をしていた。
だが、腕も脚も人のものとは比べようがないほど太く、全身は黒紫色の澱みに覆われている。肩と胸には朽ちた甲冑が肉へ埋まり込み、継ぎ目から赤黒い筋が脈打つように明滅していた。
砕けた兜と一体になった角が頭部から伸びている。左右で形の異なる角の下には黒く焼けた面頬があり、深く落ちくぼんだ眼窩の奥で、赤黒い光が燻っていた。
その右手には、異形の刀が握られている。
黒紫色の刀身は兵の身の丈を遥かに超え、骨と角を重ねたように歪んでいた。柄を握る指と鍔元の境目には澱みが絡みつき、刀と腕のどこまでが別のものなのか分からない。
巨鬼は咆哮しなかった。
右足を半歩引き、左肩を前へ出す。
妖刀の切っ先が下がり、刃が身体の脇へ収まった。
「……構えた?」
テンカの口から、声が漏れる。
「ああ」
ラデルカが戦斧を握り直した。
「あれは獣じゃない。刀の扱いを知っている」
巨鬼の顔が、半円に広がった兵たちへ向く。
「倒そうとするな!」
クレハが薙刀を構えたまま命じる。
「避難が終わるまで、穴の周囲から動かさないでください! 盾兵は間合いを取り、槍兵は左右へ!」
「東側より伝令!」
石段の方角から兵が駆けてきた。
「避難路の脇で新たな崩落! 地中から異形が複数出現し、外周隊が押されています!」
「避難している者たちとの距離は?」
トウマが問う。
「間もなく接触します! 負傷者を運んでいるため、退避が間に合いません!」
東側の木々の向こうで、太い幹が折れる音が響いた。
続いて、地面を揺らすほどの衝撃が伝わってくる。先ほど地上へ這い上がった異形だけが暴れているにしては、あまりにも重い。
クレハは東側へ一瞬だけ視線を向けたが、薙刀の切っ先を巨鬼から外さなかった。
「予備隊を東へ回してください。私はここに残ります」
「団長、東へ行ってください」
サイゾウが告げた。
クレハの深い青色の瞳が、わずかに細められる。
「この鬼を、あなたたちだけで止めるつもりですか?」
「倒す必要はありません。避難が終わるまで、ここへ釘づけにすればいい」
サイゾウは巨鬼から目を離さず、刀を構え直した。
「東はもう持ちません。あちらにいる者たちを今すぐ救えるのは、団長だけです」
「ですが」
「ここは俺たちに任せてください」
第三討伐隊の兵たちが、サイゾウの後ろで盾と槍を構える。
「俺たちは、敵を倒すためだけに鍛えてきたわけじゃない。守るべき者が逃げ切るまで、食い止めるためにいる」
クレハはサイゾウを見た。
それから、東側へ続く避難路へ視線を向ける。
再び大きな衝撃が響き、木々の向こうから兵の叫び声が届いた。
「……分かりました」
クレハは薙刀を返し、東側へ向き直る。
「ここを任せます、サイゾウさん」
「承知しました、団長」
「トウマさんはここに残り、両方の戦況をつないでください。東側の予備隊は私に続きなさい!」
「はい!」
コトネが短く頷く。
「クレハ。避難している者たちを頼みます」
「必ず守ります」
クレハは兵たちを率い、東側へ駆けていった。
「当主様も、東側へお下がりください」
トウマが進言する。
「いいえ」
コトネは巨鬼を見据えたまま答えた。
「クレハが東へ向かった以上、こちらの戦力まで減らすわけにはいきません。避難が終わるまで、私もここに残ります」
トウマは一瞬だけコトネの横顔を見たが、それ以上は言わなかった。
巨鬼の右肩が沈む。
「伏せろ!」
サイゾウが叫んだ。
妖刀が横へ走った。
刃の軌道にあった石灯籠が斜めに断たれ、残っていた神楽殿の柱がまとめて崩れ落ちる。盾兵たちは身を伏せたが、振り抜かれた刃が巻き起こした風に押され、数人が白砂の上を転がった。
「負傷者を後ろへ! 隊列を戻せ!」
サイゾウの声に、兵たちはすぐさま立ち上がる。
巨鬼は振り抜いた妖刀を止め、そのまま刃を返した。
大きさに任せて振り回しているのではない。最初の一撃は、兵たちが最も多く並ぶ場所を正確に薙いでいた。
「力任せじゃないな」
ラデルカが低く告げる。
「ああ。隊列を狙って斬ってやがる」
サイゾウは刀を正眼に構えた。
「右から崩す! 盾は正面で注意を引け! 槍兵は間合いへ入るな!」
盾兵が前へ出る。
巨鬼の妖刀が持ち上がり、その動きに合わせて隊列が左右へ割れた。空いた正面から投じられた3本の槍が、巨鬼の胸と肩へ突き立つ。
巨鬼が刃を返す。
槍の柄がまとめて断たれた。
「今だ!」
サイゾウが左側から走り込む。
反対側では、ラデルカが戦斧を低く構えていた。2人は巨鬼の死角へ同時に入り、サイゾウの刀が左膝の裏を、ラデルカの戦斧が右足首を斬る。
硬い肉の奥へ刃が沈んだ。
黒い体液が地面へ落ちる。
巨鬼の膝がわずかに折れた。
「離れろ!」
妖刀が地面へ突き立てられた。
白砂と石片が吹き上がり、サイゾウとラデルカの間を黒紫色の刃が裂く。2人は左右へ跳び、寸前で直撃を避けた。
傷ついた両脚へ澱みが流れ込む。
裂けた肉の内側から黒い筋が伸び、断たれた筋肉をつなぎ合わせていった。巨鬼が足を踏み直す頃には、サイゾウとラデルカが刻んだ傷は浅くなっている。
「地下の異形より速い」
マリエラが息を呑んだ。
「同じ場所を狙え!」
サイゾウが命じる。
「傷を広げる! 新しい傷を増やすな!」
第三討伐隊が動いた。
盾兵が妖刀の軌道を限定し、槍兵が左脚だけを狙う。巨鬼が彼らへ刃を向けた瞬間、サイゾウが踏み込み、塞がりかけた膝裏を再び斬った。
ラデルカの戦斧が同じ足首へ食い込む。
巨鬼の身体が左へ傾いた。
だが、倒れない。
妖刀の柄頭が横殴りに振るわれ、盾兵の1人が盾ごと弾き飛ばされた。
「回収!」
後列の兵が駆け、倒れた仲間を引きずって下がる。
その隙に、巨鬼が一歩進んだ。
足が地面へ下ろされただけで白砂が沈み、境内に残った石畳が割れる。半円に広がっていた防衛線が、巨体に押されるように後退した。
「姫さま、まだです」
キリカがテンカの前へ短刀を構える。
「分かっておる」
テンカは継火を握り、巨鬼の動きを見ていた。
斬撃は速い。
だが、巨体ゆえに足の運びまでは隠せない。妖刀を振る直前には腰が沈み、踏み込む側の足へ重みが集まる。
そこに道はある。
「サイゾウ! 右足へ重みが移るぞ!」
テンカが叫んだ。
巨鬼の右膝が曲がる。
「右へ散れ!」
兵たちが動いた直後、妖刀が斜めに振り下ろされた。刃は空いた白砂を深く抉り、地面へ長い裂け目を残す。
「姫さま!」
「今じゃ!」
キリカが袖口から紙符を放った。
白い光が巨鬼の眼前で弾ける。
眼窩の赤黒い光が揺れ、妖刀の切っ先がわずかに下がった。テンカは継火を抜き、その懐へ踏み込む。
刃へ火行を巡らせる。
鍔元に灯った炎が刀身を走り、赤い筋となって刃先へ届いた。
巨鬼の右脇へ一閃を放つ。
黒紫色の澱みが裂け、肉の表面が炎に焼かれた。テンカは斬り抜けると、振り戻された巨腕の下を潜って距離を取る。
「姫さま!」
「当たっておらぬ!」
キリカの傍らへ戻り、巨鬼を見上げる。
脇腹に刻んだ傷は浅い。
それでも、サイゾウたちが斬った両脚とは違っていた。傷口の周囲が黒く炭化し、流れ込んだ澱みが炎の残る場所で押し留められている。
「火が効いています!」
マリエラが声を上げた。
「傷の塞がる速度が落ちています!」
テンカは継火を鞘へ納めた。
「ならば、わらわが斬る!」
誰かの許可を待っている暇はない。
巨鬼を覆う澱みを焼き、その奥まで刃を届かせる。今、この場でそれができるのはテンカだけだった。
「――南天朱火」
腹の底へ封じていた火行を解き放つ。
肩へ落ちた黒髪の一房が緋色へ染まり、継火の鞘と鍔元に刻まれた紋様が赤く灯った。周囲の空気が熱に歪む。
「道を開け!」
サイゾウが即座に声を張る。
「両脚を潰せ! 拘束鎖を出せ!」
「任せろ!」
ラデルカが踏み込む。
戦斧の刃を覆うように魔力が凝縮し、厚い刃金が低く震えた。
「戦斧技――《剛破断》!」
全身を捻って振り抜かれた戦斧が、巨鬼の右足首へ叩き込まれる。
肉と骨をまとめて打ち砕く衝撃に、巨鬼の右脚が大きく沈んだ。
同時にサイゾウが左側へ回り込み、刀を膝裏へ深く走らせる。支えを失った巨体が傾き、白砂を踏み割った。
「禍ツ血潮を焼き祓え」
テンカは詠唱を続ける。
第三討伐隊の兵たちは、大型魔物の捕縛に用いる鉄鎖を左右から投じた。先端の鉤が巨鬼の左腕と肩の甲冑へ食い込み、兵たちが一斉に鎖を引く。
太い鉄鎖が張り詰め、巨鬼の左腕を後方へ引き留めた。
それでも、巨鬼は倒れない。
赤黒い眼光がテンカを捉えた。
妖刀を握る右腕が持ち上がり、黒紫色の切っ先が、詠唱を続けるテンカへ向けられる。
「此の身、此の太刀、紅蓮の理に捧ぐ」
テンカは巨鬼へ向かって駆けた。
両脚を潰され、左腕を鉄鎖で引かれながらも、巨鬼は妖刀を振り上げる。
あの刃が先に届く。
サイゾウもラデルカも、もう間に合わない。
その時、コトネが一歩前へ出た。
「《《止まれ》》」
声は大きくなかった。
だが、その一言が境内の空気を震わせ、見えない枷となって巨鬼の全身へ絡みついた。
振り下ろされようとしていた妖刀が、空中で止まりかける。
完全には止まらない。
黒紫色の刀身は重い抵抗を押し退けるように、少しずつテンカへ迫っていた。
「くっ……完全には、止まりませんか」
コトネの表情が歪む。
握り締めた指が震え、唇の端に細い血の筋が滲んだ。
それでも、その一言が生んだ遅れは十分だった。
サイゾウが斬り裂いた左膝裏。ラデルカが打ち砕いた右足首。
第三討伐隊が鉄鎖で封じた左腕。そして、コトネが鈍らせた妖刀。
皆が作った道の先に、火行で焼いた脇腹の傷があった。
テンカはその隙を縫い、巨鬼の懐へ踏み込む。
「――火行・緋皇断華」
抜刀。
緋色の刃が、巨鬼の右脇腹から左肩へ駆け抜けた。肉と朽ちた甲冑を断ち、その内側に滞る黒紫色の澱みへ継火の刃が届く。
刃の軌跡に沿って、緋色の炎が巨鬼の体内へ流れ込んだ。
黒い体液が沸き立ち、傷口へ流れ込んでいた澱みが焼け落ちる。右脇腹から左肩まで刻まれた斬線が大きく開き、朽ちた甲冑の隙間から緋色の炎が噴き上がった。
斬った。
確かな手応えが、継火を握る手へ残っている。
だが、巨鬼は倒れなかった。
眼窩の奥で赤黒い光が燃え上がり、巨体が大きく沈む。
次の瞬間、左腕が跳ねた。
張り詰めた鉄鎖が、甲冑へ食い込んだ鉤ごと引き千切られる。同時に、止まりかけていた右腕が見えない枷を押し破った。
「くっ……!」
コトネが息を詰める。
斬り裂かれた左膝裏も、砕かれた右足首もそのままに、巨鬼は地を踏み締めた。
妖刀へ黒紫色の澱みが奔る。
刃が返り、黒紫色の一閃がテンカへ迫った。
「姫さま!」
キリカの声が響く。
避けきれない。
テンカは継火を両手で構え、刃を斜めに合わせた。受け止めるのではない。水行を足元から腕へ巡らせ、妖刀の軌道に沿って身体ごと流す。
刃と刃が触れた。
直撃だけは逸らした。
それでも、巨鬼の膂力までは流しきれない。
継火を通して叩き込まれた衝撃が両腕を痺れさせ、テンカの身体を地面から弾き飛ばした。
「ぐ、ぅ……っ!」
視界の中で、空と地面が入れ替わる。
テンカは白砂へ肩から落ち、そのまま何度も地面を転がった。継火を手放さぬよう柄を握り締め、最後に刀を突いて身体を止める。
「姫さま!」
キリカが駆け寄る。
「大事、ない……!」
息が詰まり、両腕の感覚が薄い。
それでも、骨は折れていない。
テンカは継火を支えに顔を上げた。
緋色の炎は、まだ巨鬼の右脇腹から左肩にかけて燃えている。
火行は効いている。
傷も消えていない。
だが、穴の底から黒に近い灰色の澱みが溢れ出した。
崩れた岩の隙間と白砂の亀裂を通り、巨鬼の両脚へまとわりつく。そこから身体を這い上がり、燃え続ける傷へ黒紫色の層を重ねていった。
炎が消えたのではない。
緋色の火は、今も澱みの内側で燃えている。それでも地下から溢れる澱みは止まらず、幾重にも傷を覆い、巨鬼の輪郭を無理やり元の形へ戻していく。
巨鬼が妖刀を持ち上げた。
その切っ先は、倒れたテンカへ向けられてはいない。
神職と負傷者たちが下りている東側の石段。
サイゾウが顔色を変えた。
「退路を狙っている! 総員、散れ!」
巨鬼が妖刀を振り上げる。
刀身を覆う澱みが膨れ上がり、黒紫色の刃をさらに巨大なものへ変えていく。
そして、避難する者たちへ向けて振り下ろした。
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