地の底より
神楽殿の床が落ちた。
柱と床板が瓦礫となって地下へ呑まれ、灰色の砂と土埃が境内へ噴き上がる。残った屋根が大きく傾き、軒を支えていた柱も、根元から引きずられるように倒れていった。
「姫さま!」
キリカがテンカの肩を抱いたまま、倒れてきた戸の陰へ身体を引く。
土埃が視界を覆った。
何かが砕ける音と、瓦が地面へ落ちる音が幾重にも重なる。冷たい風が穴の中から吹き上がり、テンカの頬へ細かな砂を叩きつけた。
「声を出せ!」
サイゾウの声が境内を貫く。
「持ち場ごとに人数を報告しろ! 東側から!」
「神職の避難、継続中! 護衛4人、全員無事!」
「社務所側、異常なし!」
「南側、3人とも無事です!」
続けて報告が上がる。
神楽殿へ向かって走り出す者はいない。兵たちは土埃の中でも隣にいる者を確かめ、決められた持ち場から声を返していた。
「北側!」
サイゾウが呼ぶ。
返事がない。
「北側の者、聞こえるなら応えろ!」
「……こちらです!」
崩れかけた神楽殿の向こうから、掠れた声が届いた。
「術士が梁に挟まれています! 自分は動けます!」
テンカは土埃の向こうへ目を凝らした。
北側に残っていた屋根の一部が地面へ傾き、折れた柱と床板が幾重にも重なっている。隙間から兵の腕が見えたが、その傍らにいるはずの術士の姿は確認できなかった。
「クレハ」
コトネが団長へ視線を向ける。
「救助を」
「はい」
クレハは即座に頷いた。
「サイゾウさん、救助を任せます。トウマさんは東側の退路と本殿側の安全確認を。残りの者は、崩落範囲へ近づかないでください」
「承知しました」
サイゾウは神楽殿跡と周囲の地面を見渡した。
「第三討伐隊から4人、縄と梃子を持て! ラデルカ、足場を見てくれ!」
「ああ」
ラデルカが戦斧を背負い直し、腰を落として地面に片手をつく。
揺れは収まっていた。
だが、白砂には幾つもの亀裂が走り、その隙間から冷たい空気が漏れている。崩れた神楽殿の近くでは、踏み固められていたはずの地面まで、わずかに沈んでいた。
「正面から行くな」
ラデルカは耳を伏せたまま、地面の臭いを確かめる。
「中央の下は空洞だ。北側へ真っ直ぐ進めば、救助する側まで落ちる」
「別の道は?」
「西から回れば、まだ石組みが残っている。だが、確かめながら進む必要がある」
「分かった。先導を頼む」
ラデルカが長い杖を受け取り、地面を突きながら西側へ進む。その後ろにサイゾウと救助班が続いた。
「サイゾウ!」
東側の避難路から、スズネの声が届く。
祭主や神職たちとともに注連縄の外まで退いている。こちらへ戻ろうとはせず、崩れた神楽殿を見ながら声を張っていた。
「北側の柱の下には、古い石組みがあります! 舞台裏の横梁は、西側の柱へつながっているはずです!」
「梁を動かせば、残った屋根も崩れるか?」
「分かりません! ですが、床下の支えは中央より深くありません!」
「助かる!」
サイゾウは返事をすると、救助班へ手で合図を送った。
スズネは神楽殿を熟知している。
危険な場所へ戻らなくても、彼女の知識が救助隊の進む道を作っていた。
「母上」
テンカは継火の鞘を握った。
「わらわにも、足場を確かめさせてください」
「その場から動かずにできますか?」
「はい。地表に近い水の流れだけを読みます」
コトネは神楽殿跡とテンカを見比べた。
「許可します。異常を感じたら、すぐに収めなさい」
「承知しました」
テンカはキリカとともに距離を保ったまま、片膝をついた。
呼吸を整え、水行を薄く巡らせる。
朝露を含んだ白砂。石畳の下に残る湿り気。崩れた床板から落ちた雨水の名残。
それらへ意識を沿わせると、神楽殿の下に広がる流れが見えてきた。
水は地面の中を進んでいない。
幾つもの場所で流れが途切れ、そのまま下へ落ちている。祭祀石を含む地盤が崩れ、地下に大きな空間が開いていた。
それでも、西側にはまだ流れの続く場所がある。
石組みが残り、上から掛かる重みを支えているのだ。
「ラデルカ、その先は左へ寄れ」
テンカは目を閉じたまま告げた。
「右側の下には水が残っておらぬ。地面が抜けておる」
ラデルカが杖で右側を突いた。
表面は硬く見えたが、力を加えると白砂が崩れ、細い穴が開く。その奥から小石が落ち、しばらくして下の岩へ当たる音が返ってきた。
「姫さまの言うとおりだ。左から回るぞ」
救助班が進路を変える。
テンカは地の流れを追いながら、石組みの残る場所を示していった。
「そこは進める。じゃが、2人以上で同じ場所へ乗るでない」
「聞いたな!」
サイゾウが救助班へ告げる。
「間隔を空けろ! 助ける者まで落ちれば、救助にはならん!」
「了解!」
サイゾウたちは瓦礫の近くへ辿り着いた。
傾いた屋根の下に、第三討伐隊の兵が片膝をついている。その隣では、術士の右脚が折れた梁の下へ挟まれていた。
「隊長」
「怪我は?」
「自分はありません。術士は意識がありますが、脚から血が出ています」
「分かった。よく残った」
サイゾウは梁の位置と、その上へ重なった瓦礫を確かめた。
「切れば屋根が落ちる。縄を回して持ち上げるぞ。西側の柱を支点に使え」
救助班が動く。
縄を梁へ回し、残った石組みの上へ梃子を置く。若い槍兵も縄を握り、隣の兵と足の位置を揃えた。
顔は強張っている。
それでも、手は止まらなかった。
「引け!」
サイゾウの合図で、救助班が一斉に縄を引く。
梁がわずかに持ち上がった。
「今だ! 術士を抜け!」
瓦礫の下に残っていた兵が術士の身体を抱え、脚を引き抜く。治療役の兵が駆け寄り、傷口へ布を巻いた。
「担架へ乗せろ! 来た道を戻れ!」
術士が運ばれていく。
最後に残った兵が立ち上がった直後、支えを失った梁が沈み、屋根の一部が瓦礫の上へ崩れ落ちた。
「下がれ!」
サイゾウと救助班が西側へ退く。
地面が揺れ、白砂に新たな亀裂が走った。テンカは水行を収め、立ち上がろうとする。
「姫さま」
キリカの手が肩へ添えられた。
「もう大丈夫じゃ」
「揺れが止まるまでは、そのままで」
反論するより先に、崩れた神楽殿から大量の砂が地下へ流れ落ちた。
土埃が薄れていく。
その向こうに現れたものを見て、テンカは言葉を失った。
神楽殿の中央に、巨大な穴が開いている。
舞台の床下にあった低い空間ではない。そのさらに下へ、地面そのものが抜け落ちていた。
夜明け前の空はわずかに白み始めていたが、穴の底までは光が届かない。崩れた床板や祭具の一部が闇へ落ち、はるか下で岩へ当たる音だけが返ってくる。
穴の内壁には、自然の岩とは異なる直線が残っていた。
積み重ねられた石。
半ば崩れた柱。
土の中へ埋もれた古い通路のようなもの。
「これは……」
マリエラが穴から距離を保ったまま、内壁へ目を凝らす。
「自然にできた空洞だけではありません。人の手が入っています」
「地下遺構と同じものか?」
クレハが尋ねる。
「石の組み方は似ています。ですが、今は断定できません」
マリエラは崩れた地面へ近づこうとはしなかった。
「少なくとも、神楽殿よりも古いものです」
冷たい風が、再び穴の中から吹き上がった。
ラデルカの犬耳が立つ。
「この臭いだ」
戦斧を握り、暗闇を睨む。
「大魔境の地下で嗅いだものと同じ、冷たい泥の臭いがする」
テンカも継火の柄へ手を掛けた。
水行を使うまでもない。
肌へまとわりつく冷たさも、息を吸うたびに胸の奥へ残る濁りも、あの地下空洞で感じたものと同じだった。
穴の底から、岩を穿つ音が届く。
一度ではない。
幾つもの指が、岩壁へ食い込む音だった。
「全員、穴から離れてください!」
マリエラが叫ぶ。
クレハはすぐに武器を抜いた。
「第三討伐隊、神職と負傷者を東側へ! ここには防衛線だけを残します!」
「サイゾウ」
コトネが呼ぶ。
「異形が出た場合、本殿側へ通してはなりません」
「承知しました」
サイゾウは刀を抜き、救助から戻った兵たちへ向き直る。
「盾を前へ! 槍はその後ろだ! 退路を塞ぐな!」
異形の腕が、穴の縁へ掛かった。
灰白色の皮膚。
人のものより長く、幾重にも折れ曲がった四肢。石へ食い込んだ指は硬く、爪ではなく、削れた骨の先端にも見えた。
白く濁った眼が地上へ現れる。
胸元まで裂けた口が開き、冷たい息を吐き出した。
「地下の異形じゃ!」
テンカの声に、兵たちの槍が一斉に構えられる。
異形は穴の縁へ身体を引き上げると、兵たちを見回すこともなく、地面を這って東側へ進もうとした。
「止めろ!」
サイゾウの号令で、盾兵が進路を塞ぐ。
異形は盾へ肩からぶつかり、前衛を押し退けようとする。槍が灰白色の胸と肩を貫いたが、黒い体液を流しながらも動きを止めなかった。
「頭を狙え! 地下で戦った時と同じだ!」
ラデルカの戦斧が横から振るわれる。
異形の側頭部へ刃が食い込み、その身体が地面へ叩きつけられた。倒れた頭部へ兵の槍が突き下ろされ、白く濁った眼から光が消える。
その背後から、2体目が這い上がった。
続いて3体目。
異形たちは互いを押し退け、崩れた岩を掴みながら地上へ出ようとしている。
「姫さま、下がってください」
キリカが短刀を抜き、テンカの半歩前へ出る。
「下がっておる」
テンカは継火を鞘に収めたまま、腰を落とした。
「じゃが、ここより後ろには通せぬ」
3体目の異形が、槍兵の隙間へ身体を投げ出した。
折れ曲がった腕が盾の縁を掴み、兵を引き倒そうとする。その脇を抜け、別の異形が負傷者を運ぶ担架へ向きを変えた。
テンカは柄を握る。
刃へ薄く金行を巡らせ、一歩踏み込んだ。
抜刀。
白い刃が、伸ばされた異形の腕を肘から断つ。
黒い体液が散るより早く、テンカは足を返した。斬り落とされた腕を踏み越えようとした異形の横へ回り込み、返す刃を濁った眼へ突き入れる。
手の内へ、硬い骨を断つ感触が返った。
異形の身体が傾く。
テンカは刀を引き抜き、その胸を蹴って穴の方へ倒した。
「案ずるでない。ここは、わらわたちが守る」
担架を運ぶ兵たちが東側へ走る。
キリカはテンカの背後へ回り、別の異形から伸びた指を短刀で弾いた。
「姫さま、右です!」
「見えておる!」
テンカが右へ踏み込み、異形の首へ刃を走らせる。浅い傷が開いたが、裂けた肉は黒い澱みに縫われるように塞がり始めた。
止まらない。
地下で戦った時と同じだった。
「頭を!」
サイゾウの刀が異形の膝裏を斬り、身体を崩す。
テンカは倒れた頭部へ継火を振り下ろした。
刃が頭蓋を割り、異形の四肢から力が抜ける。
さらに奥から、硬い指が岩を掴む音が重なっていた。
「数が多い」
クレハが薙刀を構え、穴の周囲を見渡す。
「ここで長く戦えば、防衛線が崩れます。東側への退避を続けながら、少しずつ下がってください」
「団長」
ラデルカが穴の奥へ鼻先を向ける。
「こいつら、俺たちを狙って上がってきたんじゃない」
異形たちは地上へ現れると、近くにいる者へ襲い掛かる。
だが、穴から這い上がる時には、こちらを見ていなかった。互いを踏みつけ、崩れる岩へ指を突き立て、ただ上へ出ようとしている。
「下から逃げているのか?」
サイゾウが尋ねる。
「そう見える。何かに追われているというより、下にいられなくなったようだ」
穴の奥で、これまでよりも大きな振動が起きた。
這い上がろうとしていた異形の1体が足場を失い、暗闇へ落ちていく。その直後、下から押し上げられた岩盤が、別の異形を壁との間へ挟み込んだ。
灰白色の身体が潰れ、黒い体液が岩肌を流れる。
それでも、異形たちは止まらなかった。
次々と地上へ指を伸ばす。
「全員、さらに下がれ!」
サイゾウが命じる。
兵たちは倒した異形を穴の側へ押し戻しながら、防衛線を東へ移す。
テンカも継火を構えたまま下がった。
暗闇の奥で、何かが動いている。
水行を巡らせなくても分かった。
地面を押し上げ、流れを歪め、祭祀石と神楽殿を壊したものが、すぐ下まで来ている。
穴の奥で、赤黒い斬光が一閃した。
次の瞬間、その軌跡に沿って厚い岩盤が音もなくずれ落ちる。
斬られたのだ。
崩れた岩の向こうから、黒紫色の刃が現れる。
刀に似ていた。
だが、刀身は骨や角を無理に重ねたように歪み、刃の表面には血管にも似た赤黒い筋が走っている。まとわりつく澱みが煙のように揺れ、その輪郭を絶えず変えていた。
異形の刀だけでも、兵の身の丈を遥かに超えている。
その柄を握る巨大な指が、穴の縁へ掛かった。
テンカは継火を握り直す。
あれを振るっているものは、ただの獣ではない。
地の底から、何かが這い上がろうとしていた。
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