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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第6章 禍つ鬼と蒼き姫
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黎明に沈む神楽

 夜明けには、まだ早かった。


 社務所の一室には灯明が1つだけ残され、細い炎が薄暗い部屋を照らしている。


 テンカは敷かれた寝具の上で目を開いた。


 何かを聞いたわけではない。

 誰かに呼ばれたわけでもなかった。


 ただ、背中の下にある床板から、ごく小さな震えが伝わってきた。


「……揺れたか?」


 隣で休んでいたキリカが、すぐに身を起こす。


「はい」


 眠気の残らない声だった。


 キリカは枕元に置いていた短刀を腰へ差し、立ち上がる。テンカも寝具を抜け出し、壁際に立てかけていた継火を手に取った。


 灯明の油に、細かな波が残っている。


 風ではない。

 窓も閉じられていた。


「姫さま」


 キリカが耳を澄ませる。


 廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。


「神楽殿の観測符に反応!」


 戸の外で兵の声が響く。


「地下より振動! 昨夜のものより強い!」


 テンカとキリカは顔を見合わせた。


「行くぞ」

「はい」


 上着を羽織り、戸を開ける。


 廊下には、すでに何人もの神職が出ていた。祭主が落ち着いた声で人数を確かめ、境内へ出ようとする者を留めている。

 その傍らには、白銀の髪を結い直したスズネの姿もあった。


「祭主様。奥の部屋には、もう誰も残っていません」

「灯明と祭具は置いていきなさい」

「はい」


 スズネは神楽殿へ向かおうとはしていなかった。


 不安を滲ませながらも、社務所に残る神職たちを東側の出口へ誘導している。


「テンカ様」


 スズネがこちらに気づいた。


「神楽殿の下から、先ほどまでとは違う揺れが」

「分かっておる。そなたは祭主とともに、神職たちを退かせよ」

「承知しました」


 返事に迷いはなかった。


 テンカはキリカとともに縁側へ出る。


 夜の境内には、幾つもの灯が動いていた。


 第三討伐隊の兵たちが神楽殿との距離を保ちながら配置につき、外周を警戒していた者たちも、定められた持ち場へ戻っている。


 誰も神楽殿へ駆け込まない。

 誰も地面へ武器を突き立てない。


 昨夜まで繰り返してきた通り、隣の者と退路を確かめながら動いている。


「北側、配置完了!」

「東側の道に異常なし!」

「観測符はすべて反応しています!」


 報告が境内を行き交う。


 物置の前にいたサイゾウが、帳面を兵へ渡した。


「記録は後だ。神楽殿周辺の者を、注連縄からさらに下げろ。東側の避難路へ人を通せるよう、道を空けておけ」

「了解!」


「休息中の者も起こしました」


 若い槍兵が駆け寄る。


「全員、装備を整えて待機しています」

「半数は神職の誘導へ回れ。残りは持ち場を維持しろ」

「了解しました!」


 兵が走り去る。

 今も顔には緊張が残っている。それでも、自分が何をすべきかを見失ってはいなかった。


「姫さま」


 キリカがテンカの半歩前へ出た。


 境内の中央では、黒髪を結い上げたコトネが神楽殿を見据えている。その傍らにはクレハとトウマ、観測具を抱えたマリエラの姿もあった。


 誰も眠っていたようには見えない。

 あるいは、異変の知らせを受けた時点で、すでにその顔を捨てたのだろう。


「母上」


 テンカが駆け寄る。


「神楽殿の状態は?」

「建物に目立った損傷はありません」


 コトネはテンカの装いを一瞥した。


「ですが、近づいてはなりません」

「承知しております」


 マリエラは神楽殿の外側に置かれた観測符を確かめていた。


 符の中央に縫い付けられた透明な石が、揺れに合わせて灰色に曇っている。


 1枚だけではない。


 神楽殿を囲むすべての石に、同じ変化が現れていた。


「反応が途切れません」


 マリエラが告げる。


「昨夜までは振動の直後に弱まっていました。ですが、今は地の下から力が押し上がり続けています」

「澱みが境内へ広がっているのですか?」


 クレハが尋ねる。


「外周の符に大きな変化はありません。少なくとも、境内全体へ広がっているわけではないと思います」


 マリエラは慎重に言葉を選んだ。


「神楽殿の真下か、さらに深い場所で、地盤そのものが動いている可能性があります」

「祭祀石から、澱みが広がっているのではないのですね」


 トウマが確かめる。


「はい。観測符の反応は、さらに深い場所から押し上がっています」


 マリエラは曇った観測石へ視線を落とした。


「石のヒビが異変を起こしたのではなく、下からの負荷に、祭祀石と神楽殿が耐えられなくなりつつあるのでしょう」


 足元から、2度目の振動が伝わった。


 先ほどよりも長い。


 境内の砂利が震え、神楽殿の屋根で瓦がずれた。


「離れろ!」


 サイゾウの声が飛ぶ。


 第三討伐隊の兵たちが、注連縄の近くにいた術士を引き下がらせる。


 遅れて、屋根の端から瓦が1枚落ちた。

 地面へ砕けた音が、静まり返った境内へ響く。


「神職の避難を急がせてください」


 コトネが祭主へ告げる。


「本殿側にも、誰も残してはなりません」

「承知しました」


 祭主が社務所へ戻る。


 スズネは外へ出てきた神職たちを数え、東側へ続く道を示した。


「走らないでください。足元の灯に沿って、前の方との間を空けずに進んでください」


 声はわずかに震えていたが、言葉は明瞭だった。


 昨夜、第三討伐隊が置いた灯が、暗い石段を麓までつないでいる。

 若い槍兵が神職たちの先頭へ回った。


「道は確保しています。揺れがあっても立ち止まらず、手すりと縄を使って下りてください」


 神職たちが順に動き始める。


 テンカはその背を見送り、継火の鞘を握った。


 今、刀を抜いても意味はない。

 地の下にあるものは見えず、斬るべき場所すら分からない。


 それでも、何もできずに待つことが、ひどく重く感じられた。


「テンカ」


 コトネの声が届く。


「水行で、神楽殿の周囲だけを確かめなさい」

「よろしいのですか?」

「深く追ってはなりません。祭祀石にも、澱みにも触れず、地表に近い流れだけを読みなさい」

「承知しました」


 テンカは神楽殿から距離を取ったまま、片膝をついた。


 呼吸を整え、水行を薄く巡らせる。


 夜露を含んだ土、白砂の下に残る湿り気、石畳の隙間を通る細い水の流れへ、テンカは意識を静かに沿わせていった。


 地の下には幾つもの流れがあり、そのすべてが神楽殿を中心に歪んでいた。細いヒビの入った祭祀石は、流れに混じる冷たい澱みを今も受け止めている。


 だが、昨日とは違う。石へ流れ込む澱みが増えたのではなく、祭祀石を含む地面全体が下から押し上げられ、整えられていた流れそのものが狭まっている。行き場を失った水は、そのたびに左右へ逸れていた。


「……近い」


 テンカの口から言葉が漏れた。


「何がですか?」


 キリカがすぐに尋ねる。


「分からぬ」


 テンカは目を閉じたまま答えた。


「姿も、深さも拾えぬ。じゃが、下で何かが動くたび、地の流れが押し退けられておる」


「姫さま!」


 外周からラデルカが戻ってきた。


 大きな戦斧を肩へ担ぎ、褐色の犬耳を後ろへ伏せている。


「臭いはどうじゃ?」

「濃くなっている」


 ラデルカは神楽殿へ近づかず、地面へ片膝をついた。


「冷たい泥の臭いが、境内の外から流れてきているわけじゃない。下から直接、染み出してきている」

「位置は分かるか?」

「無理だ。広すぎる」


 ラデルカは片手を地面へ当てた。


「足音のように、1点から来ている揺れじゃない。地面の下を、何か大きなものが押しているように感じる」


 意志や目的は分からない。

 進んでいるのか、身じろぎしているだけなのかも、判断できない。


 分かるのは、地の下にある何かが、これまでよりも近いということだけだった。


「水行を収めなさい」


 コトネが告げる。


 テンカはすぐに意識を地上へ戻した。


 その直後。


 3度目の振動が境内を突き上げた。


 テンカの膝が浮く。

 キリカが腕を掴み、倒れかけた身体を支えた。


 神楽殿の柱が大きく軋み、屋根から複数の瓦が落ちる。注連縄を支えていた杭の1本が傾き、地面へ細い亀裂が走った。


「神楽殿から下がれ!」


 クレハが命じる。


「第三討伐隊は東側の退路を維持! 術士は観測符を捨てて離れてください!」

「了解!」


 兵たちが動く。


 サイゾウは神楽殿と退路を見比べ、即座に配置を変えた。


「北側の者は東へ回れ! 外周の2人は石段へ下がり、避難中の神職を守れ!」

「了解!」

「隊列を崩すな! 走らなくていい、周囲を見て動け!」


 怒鳴り声ではない。

 それでも、境内の隅まで届く声だった。


 兵たちは互いの位置を確かめながら下がっていく。


 トウマは境内図を広げることなく、社務所と本殿、東側の石段へ順に視線を走らせた。


「神職の退避は?」

「残り4人です!」


 若い槍兵が答える。


「祭主様とスズネさんが最後尾にいます!」

「第三討伐隊から2人、迎えに行ってください。残りは神楽殿へ近づかないように」

「了解しました!」


 2人の兵が社務所へ向かう。


 テンカも踏み出しかけたが、キリカの手が腕を離さなかった。


「姫さま」

「分かっておる」


 今、自分が向かっても人手を増やすだけだ。


 刀を持つ者が必要なのではない。

 避難する者を導き、退路を保ち、地面の変化を見張る者が必要だった。


 神楽殿の下から、石の擦れるような音が響く。

 建物全体が、わずかに傾いた。


「マリエラ」


 コトネが呼ぶ。


「建物の崩落は?」

「あり得ます」


 マリエラは地面へ落ちた観測符を見た。


 中央の石は、すべて灰色に濁っている。


「ですが、神楽殿だけでは済まないかもしれません。真下の地盤が――」


 言葉を遮るように、さらに強い揺れが来た。


 地面が激しく上下に動く。

 社務所の戸が外れ、境内へ倒れた。テンカは咄嗟に腰を落とし、キリカがその肩を抱いて身体を支える。

 軋みを上げる神楽殿の中央が、目に見えて沈んだ。


 柱の根元から床板が離れ、細い隙間が生まれた。その奥から、冷たい空気と灰色の砂が噴き出す。


「母上!」

「全員、東へ退きなさい!」


 コトネの声が響いた。


 クレハとサイゾウが同時に兵たちへ指示を飛ばす。

 テンカは下がりながらも、神楽殿から目を離せなかった。


 床下にある祭祀石の流れが、急激に細くなる。

 これまで澱みを受け止め続けていたものが、押し潰されるように歪んでいく。


 その直後、地の下から乾いた音が届いた。


 昨日、最初のヒビが入った時よりも大きい。

 硬い石が、その内側から裂ける音だった。


 テンカには、祭祀石が割れたのだと分かった。


 次の瞬間、神楽殿の床が落ちた。

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