黎明に沈む神楽
夜明けには、まだ早かった。
社務所の一室には灯明が1つだけ残され、細い炎が薄暗い部屋を照らしている。
テンカは敷かれた寝具の上で目を開いた。
何かを聞いたわけではない。
誰かに呼ばれたわけでもなかった。
ただ、背中の下にある床板から、ごく小さな震えが伝わってきた。
「……揺れたか?」
隣で休んでいたキリカが、すぐに身を起こす。
「はい」
眠気の残らない声だった。
キリカは枕元に置いていた短刀を腰へ差し、立ち上がる。テンカも寝具を抜け出し、壁際に立てかけていた継火を手に取った。
灯明の油に、細かな波が残っている。
風ではない。
窓も閉じられていた。
「姫さま」
キリカが耳を澄ませる。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。
「神楽殿の観測符に反応!」
戸の外で兵の声が響く。
「地下より振動! 昨夜のものより強い!」
テンカとキリカは顔を見合わせた。
「行くぞ」
「はい」
上着を羽織り、戸を開ける。
廊下には、すでに何人もの神職が出ていた。祭主が落ち着いた声で人数を確かめ、境内へ出ようとする者を留めている。
その傍らには、白銀の髪を結い直したスズネの姿もあった。
「祭主様。奥の部屋には、もう誰も残っていません」
「灯明と祭具は置いていきなさい」
「はい」
スズネは神楽殿へ向かおうとはしていなかった。
不安を滲ませながらも、社務所に残る神職たちを東側の出口へ誘導している。
「テンカ様」
スズネがこちらに気づいた。
「神楽殿の下から、先ほどまでとは違う揺れが」
「分かっておる。そなたは祭主とともに、神職たちを退かせよ」
「承知しました」
返事に迷いはなかった。
テンカはキリカとともに縁側へ出る。
夜の境内には、幾つもの灯が動いていた。
第三討伐隊の兵たちが神楽殿との距離を保ちながら配置につき、外周を警戒していた者たちも、定められた持ち場へ戻っている。
誰も神楽殿へ駆け込まない。
誰も地面へ武器を突き立てない。
昨夜まで繰り返してきた通り、隣の者と退路を確かめながら動いている。
「北側、配置完了!」
「東側の道に異常なし!」
「観測符はすべて反応しています!」
報告が境内を行き交う。
物置の前にいたサイゾウが、帳面を兵へ渡した。
「記録は後だ。神楽殿周辺の者を、注連縄からさらに下げろ。東側の避難路へ人を通せるよう、道を空けておけ」
「了解!」
「休息中の者も起こしました」
若い槍兵が駆け寄る。
「全員、装備を整えて待機しています」
「半数は神職の誘導へ回れ。残りは持ち場を維持しろ」
「了解しました!」
兵が走り去る。
今も顔には緊張が残っている。それでも、自分が何をすべきかを見失ってはいなかった。
「姫さま」
キリカがテンカの半歩前へ出た。
境内の中央では、黒髪を結い上げたコトネが神楽殿を見据えている。その傍らにはクレハとトウマ、観測具を抱えたマリエラの姿もあった。
誰も眠っていたようには見えない。
あるいは、異変の知らせを受けた時点で、すでにその顔を捨てたのだろう。
「母上」
テンカが駆け寄る。
「神楽殿の状態は?」
「建物に目立った損傷はありません」
コトネはテンカの装いを一瞥した。
「ですが、近づいてはなりません」
「承知しております」
マリエラは神楽殿の外側に置かれた観測符を確かめていた。
符の中央に縫い付けられた透明な石が、揺れに合わせて灰色に曇っている。
1枚だけではない。
神楽殿を囲むすべての石に、同じ変化が現れていた。
「反応が途切れません」
マリエラが告げる。
「昨夜までは振動の直後に弱まっていました。ですが、今は地の下から力が押し上がり続けています」
「澱みが境内へ広がっているのですか?」
クレハが尋ねる。
「外周の符に大きな変化はありません。少なくとも、境内全体へ広がっているわけではないと思います」
マリエラは慎重に言葉を選んだ。
「神楽殿の真下か、さらに深い場所で、地盤そのものが動いている可能性があります」
「祭祀石から、澱みが広がっているのではないのですね」
トウマが確かめる。
「はい。観測符の反応は、さらに深い場所から押し上がっています」
マリエラは曇った観測石へ視線を落とした。
「石のヒビが異変を起こしたのではなく、下からの負荷に、祭祀石と神楽殿が耐えられなくなりつつあるのでしょう」
足元から、2度目の振動が伝わった。
先ほどよりも長い。
境内の砂利が震え、神楽殿の屋根で瓦がずれた。
「離れろ!」
サイゾウの声が飛ぶ。
第三討伐隊の兵たちが、注連縄の近くにいた術士を引き下がらせる。
遅れて、屋根の端から瓦が1枚落ちた。
地面へ砕けた音が、静まり返った境内へ響く。
「神職の避難を急がせてください」
コトネが祭主へ告げる。
「本殿側にも、誰も残してはなりません」
「承知しました」
祭主が社務所へ戻る。
スズネは外へ出てきた神職たちを数え、東側へ続く道を示した。
「走らないでください。足元の灯に沿って、前の方との間を空けずに進んでください」
声はわずかに震えていたが、言葉は明瞭だった。
昨夜、第三討伐隊が置いた灯が、暗い石段を麓までつないでいる。
若い槍兵が神職たちの先頭へ回った。
「道は確保しています。揺れがあっても立ち止まらず、手すりと縄を使って下りてください」
神職たちが順に動き始める。
テンカはその背を見送り、継火の鞘を握った。
今、刀を抜いても意味はない。
地の下にあるものは見えず、斬るべき場所すら分からない。
それでも、何もできずに待つことが、ひどく重く感じられた。
「テンカ」
コトネの声が届く。
「水行で、神楽殿の周囲だけを確かめなさい」
「よろしいのですか?」
「深く追ってはなりません。祭祀石にも、澱みにも触れず、地表に近い流れだけを読みなさい」
「承知しました」
テンカは神楽殿から距離を取ったまま、片膝をついた。
呼吸を整え、水行を薄く巡らせる。
夜露を含んだ土、白砂の下に残る湿り気、石畳の隙間を通る細い水の流れへ、テンカは意識を静かに沿わせていった。
地の下には幾つもの流れがあり、そのすべてが神楽殿を中心に歪んでいた。細いヒビの入った祭祀石は、流れに混じる冷たい澱みを今も受け止めている。
だが、昨日とは違う。石へ流れ込む澱みが増えたのではなく、祭祀石を含む地面全体が下から押し上げられ、整えられていた流れそのものが狭まっている。行き場を失った水は、そのたびに左右へ逸れていた。
「……近い」
テンカの口から言葉が漏れた。
「何がですか?」
キリカがすぐに尋ねる。
「分からぬ」
テンカは目を閉じたまま答えた。
「姿も、深さも拾えぬ。じゃが、下で何かが動くたび、地の流れが押し退けられておる」
「姫さま!」
外周からラデルカが戻ってきた。
大きな戦斧を肩へ担ぎ、褐色の犬耳を後ろへ伏せている。
「臭いはどうじゃ?」
「濃くなっている」
ラデルカは神楽殿へ近づかず、地面へ片膝をついた。
「冷たい泥の臭いが、境内の外から流れてきているわけじゃない。下から直接、染み出してきている」
「位置は分かるか?」
「無理だ。広すぎる」
ラデルカは片手を地面へ当てた。
「足音のように、1点から来ている揺れじゃない。地面の下を、何か大きなものが押しているように感じる」
意志や目的は分からない。
進んでいるのか、身じろぎしているだけなのかも、判断できない。
分かるのは、地の下にある何かが、これまでよりも近いということだけだった。
「水行を収めなさい」
コトネが告げる。
テンカはすぐに意識を地上へ戻した。
その直後。
3度目の振動が境内を突き上げた。
テンカの膝が浮く。
キリカが腕を掴み、倒れかけた身体を支えた。
神楽殿の柱が大きく軋み、屋根から複数の瓦が落ちる。注連縄を支えていた杭の1本が傾き、地面へ細い亀裂が走った。
「神楽殿から下がれ!」
クレハが命じる。
「第三討伐隊は東側の退路を維持! 術士は観測符を捨てて離れてください!」
「了解!」
兵たちが動く。
サイゾウは神楽殿と退路を見比べ、即座に配置を変えた。
「北側の者は東へ回れ! 外周の2人は石段へ下がり、避難中の神職を守れ!」
「了解!」
「隊列を崩すな! 走らなくていい、周囲を見て動け!」
怒鳴り声ではない。
それでも、境内の隅まで届く声だった。
兵たちは互いの位置を確かめながら下がっていく。
トウマは境内図を広げることなく、社務所と本殿、東側の石段へ順に視線を走らせた。
「神職の退避は?」
「残り4人です!」
若い槍兵が答える。
「祭主様とスズネさんが最後尾にいます!」
「第三討伐隊から2人、迎えに行ってください。残りは神楽殿へ近づかないように」
「了解しました!」
2人の兵が社務所へ向かう。
テンカも踏み出しかけたが、キリカの手が腕を離さなかった。
「姫さま」
「分かっておる」
今、自分が向かっても人手を増やすだけだ。
刀を持つ者が必要なのではない。
避難する者を導き、退路を保ち、地面の変化を見張る者が必要だった。
神楽殿の下から、石の擦れるような音が響く。
建物全体が、わずかに傾いた。
「マリエラ」
コトネが呼ぶ。
「建物の崩落は?」
「あり得ます」
マリエラは地面へ落ちた観測符を見た。
中央の石は、すべて灰色に濁っている。
「ですが、神楽殿だけでは済まないかもしれません。真下の地盤が――」
言葉を遮るように、さらに強い揺れが来た。
地面が激しく上下に動く。
社務所の戸が外れ、境内へ倒れた。テンカは咄嗟に腰を落とし、キリカがその肩を抱いて身体を支える。
軋みを上げる神楽殿の中央が、目に見えて沈んだ。
柱の根元から床板が離れ、細い隙間が生まれた。その奥から、冷たい空気と灰色の砂が噴き出す。
「母上!」
「全員、東へ退きなさい!」
コトネの声が響いた。
クレハとサイゾウが同時に兵たちへ指示を飛ばす。
テンカは下がりながらも、神楽殿から目を離せなかった。
床下にある祭祀石の流れが、急激に細くなる。
これまで澱みを受け止め続けていたものが、押し潰されるように歪んでいく。
その直後、地の下から乾いた音が届いた。
昨日、最初のヒビが入った時よりも大きい。
硬い石が、その内側から裂ける音だった。
テンカには、祭祀石が割れたのだと分かった。
次の瞬間、神楽殿の床が落ちた。
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