幕間 火の番②
若い槍兵の言葉に、サイゾウは汁の器を下ろした。
「横になれ」
「眠れなくても、ですか」
「目を閉じて身体を休めろ。それだけでも違う」
「ですが、何か起きたら」
「起きた時には呼ぶ」
若い槍兵は神楽殿の方角を見た。
「本当に、眠ってもよいのでしょうか」
周囲が静かになる。
食事を取っていた者たちも手を止め、暗く沈む神楽殿へ視線を向けていた。
地の底に何かがいると分かっている場所で、目を閉じる。言葉にすれば、それだけのことが難しく感じられる。
サイゾウは若い兵を見た。
「お前が眠らないことで、地下のものが止まるのか?」
「……止まりません」
「ならば休め」
声は厳しくなかった。
ただ、迷う余地を残さない言い方だった。
「今夜だけで終わるとは限らん。次の夜も、その次も警戒が必要になるかもしれない。初日に全員が疲れ切れば、必要な時に動けなくなる」
「はい」
「休息も任務だ。忘れるな」
「了解しました」
若い槍兵は食事を終えると、壁際に敷かれた外套へ向かった。
横になる前に、装備の留め具を確かめ、槍を手の届く位置へ置く。
目を閉じても、身体の力はしばらく抜けなかった。
だが、誰も急かさない。
眠れと言われて、すぐに眠れる者ばかりではない。横になっているだけでもいいと、ここにいる者たちは知っていた。
「相変わらずだな」
ラデルカが小声で言う。
「何がだ」
「お前は、命令する時だけは正しいことを言う」
「それ以外は間違っているように聞こえるぞ」
「自分に同じ命令を出さないところが間違っている」
サイゾウは握り飯を一口食べた。
「食べている」
「食べ終わったら?」
「次の配置を確認する」
「その後だ」
「観測符の報告を聞く」
「さらにその後」
「休む」
返答まで、わずかな間があった。
ラデルカの耳が片方だけ動く。
「本当だろうな」
「休まなければ、お前が帳面へ余計なことを書く」
「よく分かっているではないか」
「副長へ出す報告書に、隊長が命令を守らないと書かれては困る」
「事実なら仕方がない」
「昔から、お前は報告だけは正直だな」
「報告以外も正直だ」
サイゾウは小さく笑った。
物置の外では、見張りの兵が一定の間隔で行き交っている。
足音。
装備が触れるわずかな音。
遠くで交わされる短い合図。
そのすべてが、今夜の境内を守るために重ねられていた。
ラデルカは汁を飲み終え、空になった器を火鉢の横へ置いた。
「地下のものについて、どう思う?」
サイゾウが尋ねる。
「何も分からん」
「お前にしては、随分はっきり言うな」
「分からないものを分かったように言う方が嫌いだ」
ラデルカは犬耳を夜風へ向けた。
「臭いは冷たい泥に近い。大魔境の地下で嗅いだものとも似ている。だが、同じものだとは断定できない」
「振動の間隔は?」
「一定ではない。足音とも、地脈の動きとも決められん」
「そうか」
サイゾウはそれ以上尋ねなかった。
現時点で分からないことを、無理に言葉へ変えても意味はない。
「怖くはないのか?」
ラデルカが尋ねる。
サイゾウは握り飯を食べ終え、指についた米粒を払った。
「怖いさ」
「そうは見えないな」
「見せても何も変わらん」
「隠しても変わらないぞ」
「なら、どちらでも同じだ」
いかにもサイゾウらしい返答だった。
ラデルカは口元をわずかに緩める。
「隊員には、怖くないと言わないのだな」
「俺が怖くないと言ったところで、あいつらの恐怖が消えるわけではない」
サイゾウは火鉢の向こうへ視線を向けた。
横になった若い槍兵は、まだ眠っていない。だが、先ほどよりは肩の力が抜けている。
「何をすべきか分かっていれば、人は動ける。今はそれでいい」
「当主様と、似たようなことを言う」
「比べるな。恐れ多い」
「では、姫さまと似てきたか?」
「それも恐れ多い」
サイゾウが眉を寄せたので、ラデルカは声を抑えて笑った。
その時、境内の向こうに小さな明かりがともった。
社務所の縁側。
石段を上る者から見える位置に、灯明が1つ置かれている。
大きな灯ではない。
神楽殿の暗がりを照らすことも、境内の隅まで光を届けることもできない。それでも、木々の間に浮かぶ明かりは、離れた詰め所からもはっきりと見えた。
「新しい灯です」
見張りの兵が言う。
「あれは、社務所か」
「ああ」
ラデルカには、火に混じってわずかに新しい油の匂いが届いていた。
火の番をしていた兵が、手元の灯を掲げる。
遠くの灯へ、こちらの位置を知らせるように。
それから、すぐに元の高さへ戻した。
「何の合図だ?」
近くの兵が尋ねる。
「決められた合図ではありません」
灯を掲げた兵は、少し気まずそうに答えた。
「ただ、こちらからも見えていると伝えた方がよいかと思いまして」
「勝手な合図を増やすな」
サイゾウが言う。
兵の背筋が伸びた。
「申し訳ありません」
「だが、今の灯は目印にする」
サイゾウは社務所の明かりを指した。
「外周から戻る者は、あの位置を見失うな。暗がりで道を外れた時は、無理に近道をせず、灯の見える場所まで戻れ」
「了解しました」
兵たちの視線が、遠くの小さな灯へ向く。
戦うための火ではない。
魔を祓う炎でも、祭祀のための明かりでもない。
ただ、人のいる場所を示す灯だった。
「悪くないな」
ラデルカが言う。
「何がだ」
「あれなら、戻る道を見失わずに済む」
サイゾウは何も答えなかった。
だが、否定もしなかった。
夜風が境内を抜ける。
神楽殿の周囲に張られた注連縄が揺れ、物置の前に置かれた火鉢の灰がわずかに動いた。
ラデルカの犬耳が立つ。
風とは違う。
足元から、ごく小さな震えが伝わってきた。
火鉢の上で温められていた鍋の水面に、細い波紋が広がる。
「総員、確認!」
サイゾウの声が飛ぶ。
休んでいた者が身を起こし、食事をしていた者が器を置く。見張りの兵たちは神楽殿と避難路へ向き直り、術士が観測符の変化を確かめるために走った。
ラデルカは戦斧を掴み、地面へ片膝をついた。
鼻を近づける必要はない。
冷たい泥の臭いが、先ほどよりわずかに濃くなっている。
もう一度、振動が伝わった。
短い。
だが、今度は物置の壁もわずかに揺れた。
「神楽殿の符に反応!」
術士の声が響く。
「外周は?」
「現時点では変化なし!」
「東側の避難路は!」
サイゾウが問う。
石段の方角から、見張りの返答が届く。
「異常なし! 道に崩れはありません!」
サイゾウは境内を見渡した。
「持ち場を維持しろ。神楽殿へ近づくな。次の振動に備え、退路を再確認!」
「「了解!」」
命令が伝わり、第三討伐隊が動き出す。
誰も地下へ走らない。
誰も姿の見えないものへ、武器を振り上げない。
決められた場所に立ち、隣にいる者と退路を確かめ、自分の役割を果たしていく。
しばらく待っても、3度目の振動は来なかった。
観測符にも、それ以上の変化はない。
サイゾウは警戒を解かなかったが、声を張り上げることもしなかった。
「休息中だった者は戻れ」
「しかし、隊長」
「警戒は交代の者が引き継ぐ。全員で立っていても、見えるものは増えん」
「……了解」
兵たちは装備を確かめてから、再び物置へ戻っていく。
先ほど横になっていた若い槍兵も、何度か神楽殿を振り返りながら、外套の上へ身体を横たえた。
今度は、目を閉じるまでに時間はかからなかった。
ラデルカは戦斧を肩へ担ぎ、東側の道へ向かおうとした。
「どこへ行く」
サイゾウに呼び止められる。
「避難路をもう一度見てくる」
「次の巡回は交代の者だ」
「臭いが濃くなった」
「なら、お前が確認した方がいいな」
サイゾウは近くの斥候へ顔を向けた。
「一緒に行け」
「了解」
「1人で足りるぞ」
「その1人を連れていけば、2人になる」
以前にも聞いた言葉だった。
ラデルカは眉を寄せる。
「覚えていたのか」
「役に立つことは覚えている」
「なら、自分も休むという言葉を忘れるな」
「この報告を終えたら休む」
「戻った時に起きていたら、報告書へ書くぞ」
「それは困るな」
言葉とは裏腹に、サイゾウは少し笑っていた。
ラデルカは斥候を連れ、東側の石段へ向かう。
背後では、第三討伐隊が再び夜番の形へ戻っていた。
見張りは立ち続ける。
休む者は休む。
火の番を任された兵は、火鉢の灰を整え、消えかけた炭へ新しい炭を1つ足した。
境内の向こうでは、社務所の灯が静かに燃えている。
地の下に何がいるのかは、まだ分からない。
それでも、暗い夜の中で守るべき道と、帰るべき場所だけは見失わずにいられた。
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