幕間 火の番①
天巡神社の東側には、境内から麓へ下りる細い道があった。
普段は神職や出入りの商人が使う裏道だが、今夜は滅魔旅団が避難路として確保している。道を塞ぐ枝は払われ、滑りやすい場所には縄が張られ、曲がり角には目印の灯が置かれていた。
ラデルカは石段の途中で足を止め、鼻先を夜風へ向けた。
湿った土。
木の根。
油を含んだ灯明の煙。
境内へ運び込まれた兵糧と、煮炊きに使われた根菜の匂い。
それらに混じり、冷たい泥の臭いが残っている。
昼間より強くなった様子はない。だが、消えてもいなかった。
ラデルカは褐色の犬耳を動かし、足の裏へ意識を向ける。
振動はない。
地の下を何かが通れば、必ず揺れが伝わるとは限らない。それでも、臭いと音の両方に変化がないことは、報告する価値があった。
「東側、異常なし」
後ろに控えていた兵へ告げる。
「縄の緩みもない。目印の灯を絶やすな。交代が来るまで、道の上と下を半分ずつ見ろ」
「了解しました」
若い兵が背筋を伸ばす。
顔には緊張が残っていた。大魔境の外縁で魔物を相手にするのとは違い、今夜の脅威は姿が見えない。
地の下に何かがいる。
それ以上のことは、誰にも分かっていなかった。
「副長補佐」
兵が呼び止める。
「何だ」
「もし、下から出てきた場合は……」
言葉が途中で止まった。
出てきたものが何かも分からない以上、何をすべきか尋ねることさえ難しいのだろう。
ラデルカは道の下を見た。
木々の間から、麓の家々にともされた明かりが見える。その一帯では、領役所の者たちが住民へ避難の準備を伝えているはずだった。
「まず合図を上げろ」
ラデルカは答えた。
「ここだけで止めようとするな。下の見張りへ知らせ、境内へ伝えろ。その後は決められた場所まで下がる」
「戦わなくても、よいのですか」
「戦わなければ誰かが逃げられない時は戦え。そうでないなら、余計なことはするな」
若い兵は少し目を見開いたが、すぐに頷いた。
「了解しました」
「それから、分からないものを勝手に魔物と決めつけるな。地面が崩れるだけかもしれん」
「はい」
ラデルカは兵の肩を軽く叩き、石段を上った。
恐怖を消してやることはできない。
危険はないと断言することもできない。
ならば、何をするべきかだけは迷わせない方がいい。
境内へ戻ると、神楽殿の周囲には第三討伐隊の兵が配置されていた。
正面と左右に見張りを置き、建物から距離を取って巡回路を作っている。注連縄の内側には誰も入らず、外側に置かれた観測符だけを術士が定期的に確かめていた。
神楽殿の四隅に火はない。
本来なら祭祀の灯があるはずの場所が暗く沈み、月明かりだけが屋根と柱を照らしていた。
その東側にある小さな物置が、今夜だけ第三討伐隊の詰め所として使われている。
戸は開け放たれ、入口の前には小さな火鉢が置かれていた。火を大きくしないよう灰が厚く被せられ、その上で湯の入った鉄鍋が温められている。
持ち場を交代した者から、握り飯と根菜の汁を受け取っていた。
「戻ったか」
物置の前で、サイゾウが帳面から顔を上げた。
「ああ。東側に変化はない。冷たい泥の臭いは残っているが、強くはなっていない」
「振動は?」
「今のところはない」
サイゾウは帳面へ書き加え、近くにいた兵へ渡した。
「次の巡回へ引き継げ。臭いに変化がなくても省略するな」
「了解!」
兵が帳面を抱えて立ち去る。
ラデルカは物置の中を見回した。
壁際では、先ほどまで神楽殿の北側を守っていた兵たちが食事を取っている。装備は身体から外していないが、兜と手甲だけは脇へ置き、束の間の休息を取っていた。
一方、サイゾウの手には何もない。
「お前の食事は?」
「まだだ」
「またか」
ラデルカが眉を寄せると、サイゾウは帳面の次の頁を開いた。
「交代の確認が残っている」
「確認しながら食べればいい」
「帳面に汁をこぼす」
「器用に戦うくせに、汁物は持てないのか?」
「戦場で汁物を持ったことはない」
真顔で返され、ラデルカは鼻から息を吐いた。
昔からこういう男だった。
自分の役割を放り出すことはないが、終わるまで自分のことを後回しにしようとする。
「隊長」
物置の中から声がした。
若い槍兵が、湯気の立つ器を両手に持っている。
「こちらを」
「お前の分だろう」
「もう食べました」
「その器に口をつけているところを見ていないが」
「……見ていたのですか」
槍兵の視線が泳いだ。
ラデルカは腕を組む。
「隊長へ渡せば、自分は食べなくていいと思ったか?」
「そういうわけでは」
「なら、座って食べろ」
槍兵はまだ何か言いたそうだったが、サイゾウが物置の内側を示した。
「命令だ。食べ終わるまで持ち場へ戻るな」
「ですが、隊長も」
「私は後で食べる」
「それでは説得力がないな」
ラデルカが横から口を挟む。
近くにいた兵たちの視線が、サイゾウへ集まった。
誰も笑ってはいない。
だが、誰もが同じような表情を浮かべていた。
「……分かりました」
サイゾウは帳面を閉じる。
「俺も食べる。これでいいか」
「最初からそうしろ」
火鉢の番をしていた兵が、根菜の汁を器へよそう。
サイゾウはそれを受け取り、物置の入口に置かれた木箱へ腰を下ろした。若い槍兵も、その少し奥へ座る。
「握り飯もあります」
兵が差し出す。
「1つでいい」
「2つ食べてください」
「なぜ増えた」
「昼から何も召し上がっていないでしょう」
サイゾウは握り飯を見た。
「誰から聞いた」
「隊長が食事を取ったかどうかくらい、全員が見ています」
「お前たちは、もう少し持ち場へ集中しろ」
「隊長が倒れれば持ち場が増えます」
若い槍兵が真顔で答えた。
物置の中から、控えめな笑いが漏れる。
サイゾウはしばらく黙っていたが、やがて2つとも受け取った。
「食べ終わった者から装備を確認しろ。次の交代まで休める者は横になれ」
「了解」
兵たちが返事をする。
見張りを続ける者。
食事を取る者。
壁際へ外套を敷き、身体を横たえる者。
各々が自分のすべきことへ戻っていく。
ラデルカは火鉢の近くへ座った。
差し出された汁を受け取ると、根菜と味噌の香りが鼻へ届く。戦場や野営で口にするものより、ずっと丁寧に出汁が取られていた。
「神社の神職が作ったのか?」
ラデルカが尋ねる。
「社務所の方々が用意してくださいました」
火の番をしていた兵が答えた。
「こんな時でも食事を出してくれるとは、ありがたいな」
「自分たちにできることを、と仰っていました」
ラデルカは器へ口をつけた。
温かい。
東側の道で嗅いだ冷たい泥の臭いが、まだ鼻の奥へ残っている。それでも、湯気に混じる味噌と根菜の香りを確かめると、身体からわずかに力が抜けた。
食べられる時に食べる。
眠れる時に眠る。
武器を研げる時に研ぐ。
どれも、戦うことと同じくらい大切な仕事だった。
「隊長」
若い槍兵が、握り飯を食べながら口を開いた。
「何だ」
「眠れそうにありません」
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