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幕間 祈りの灯

 その夜、天巡神社に夕暮れを告げる鐘は鳴らされなかった。


 参拝者のいなくなった境内には、滅魔旅団の兵と、必要な役目を任された神職だけが残っている。普段なら夜の訪れとともに閉じられる鳥居の前にも兵が立ち、石段の下へ続く道を見張っていた。


 神楽殿の周囲には幾重にも注連縄が張られている。


 四隅の火皿からは火が失われ、昼間まで祈りと鈴の音が響いていた舞台は、月明かりの中で暗く沈んでいた。


 社務所の一室で、スズネは小さな灯明の芯を整えていた。


 油を満たした皿に新しい芯を浸し、火を移すための細い木片を横へ並べる。今夜、境内を巡回する神職や、外周を警戒する兵たちへ渡すためのものだった。


 右手の指先には、まだわずかな冷たさが残っている。

 傷はなく、指先に黒い痕も残っていない。


 それでも祭祀石に重ねた手のひらには、あの時に触れたものの感覚が、薄い膜のように張り付いていた。


 声ではなかった。

 姿を見たわけでもなかった。


 ただ、祈りの積み重なった石のさらに奥に、途方もなく大きな何かがいた。

 それが地の底を進む気配だけが、今も忘れられない。


「まだ休んでいなかったのですか」


 背後から聞こえた声に、スズネは手を止めた。


 開かれた襖の向こうに、祭主が立っている。いつもと変わらぬ穏やかな顔だったが、その視線は真っ先にスズネの右手へ向けられた。


「申し訳ありません」

「謝る前に、質問へ答えなさい」

「……眠れませんでした」


 正直に答えると、祭主は小さく息を吐いた。


「灯明の支度は、ほかの神職にも任せられます」

「はい」

「あなたが無理をしてまで行うことではありません」

「分かっています」


 そう答えながらも、スズネは灯明へ視線を戻した。


「ですが、横になっているだけでは、余計なことばかり考えてしまいます」

「余計なこと?」

「わたしが、もう少し早く手を離せていれば、と」


 祭主は何も言わなかった。


 紙符に黒い筋が浮かんだ時、手を離すよう命じられた。返事もした。それなのに、指先は動かなかった。


 身体を掴まれていたわけではない。

 何かの声に誘われたわけでもない。


 祈りの下にある冷たさを、もう少しだけ確かめたいと思ってしまった。


 あの一瞬の迷いがなければ、テンカが水行を使う必要も、キリカに引き離される必要もなかったのかもしれない。


「怖かったのです」


 スズネは冷えの残る指を握った。


「とても大きな何かがいると分かった時、すぐに手を離さなければならないのに……正体を知りたいと思いました。神楽殿を守らなければならないと、そればかり考えてしまって」

「あの時、あなたは何を守ろうとしていたのですか」


 問いかけられ、スズネはすぐに頷くことができなかった。


 神楽殿は、幼い頃から舞を学んできた場所だった。

 祭主に叱られながら足運びを覚え、何度も鈴を落とし、送り火の夜には、領内で亡くなったすべての者へ鎮魂の舞を捧げてきた。


 大切な場所であることに間違いはない。


 けれど。


「……自分の役目を、失うのが怖かったのだと思います」


 言葉にしてしまえば、ひどく身勝手に聞こえた。


 祭主の孫娘。

 神楽を舞う巫女。

 いずれ、この神社の祭祀を取り仕切る者。


 そう期待されてきたからこそ、自分が何もできないと認めることが怖かった。


「神楽殿へ近づけず、祭祀石へも触れられず、祈ることすら止められたら……わたしには、何ができるのでしょう」


 祭主はしばらく黙っていた。


 やがて部屋へ入り、スズネの向かいへ腰を下ろす。


「今、何をしていますか」

「灯明の支度を」

「何のために?」

「夜番の方々が、暗い境内で足元を見失わないようにするためです」

「それでは、何もしていないことにはなりません」


 スズネは顔を上げた。


「神楽を舞うことだけが、あなたの役目ではありません。祭祀石へ触れることだけが、神社の務めでもありません」


 祭主は灯明の皿を1つ手に取り、傾いていた芯を指先で直した。


「祈りでは崩れた柱を支えられません。傷を負った者には薬と手当てが必要です。魔物が現れれば、それを退ける者も必要になる」

「はい」

「だからこそ、神職だけで解決しようとせず、領役所や滅魔旅団へ助けを求めたのでしょう」

「……はい」

「それでよいのです」


 祭主は整えた灯明を机へ戻した。


「祈りだけで、すべての者を救うことはできません」


 静かな言葉だった。


 厳しさはなかったが、慰めるために事実を曲げる響きもなかった。


「ですが、祈りが無意味であることとは違います」


 祭主は立ち上がる。


「今夜は、そこまでにして休みなさい。残りは私が神職へ任せます」

「祭主様」

「休むことも、役目のうちです」


 先ほどと同じ言葉を繰り返され、スズネはようやく小さく頷いた。


「承知しました」


 祭主は部屋を出ていく。


 廊下へ消える背中を見送ってから、スズネは机に残された灯明を見つめた。


 祈りだけでは、すべてを救えない。

 そのことは、以前から分かっていたはずだった。


 雨を願う祭祀を行っても、雨が降らない年はある。

 旅立つ者の無事を祈っても、戻らない者はいる。

 鎮魂の舞を捧げても、亡くなった人が生き返るわけではない。


 だから神社は、祈るだけではなかった。


 日照りが続けば領役所へ報告し、病が広がれば薬師へ知らせる。道が崩れれば人を近づけず、分からない異変が起きれば、分かる者へ助けを求める。


 それでも人々は、祈るために神社を訪れる。


 どうしてなのだろう。


 幼い頃から何度も考えてきた問いだった。


「まだ起きておったのか」


 今度は、聞き覚えのある幼い声がした。


 襖の向こうに、テンカが立っている。その半歩後ろには、いつものようにキリカが控えていた。


「テンカ様」


 スズネは姿勢を正した。


「お身体は、もうよろしいのですか?」

「わらわは水行を少し使っただけじゃ。それより、そなたの方が祭祀石の澱みに深く触れておったであろう」

「わたしも、指先が冷えた以外は問題ありません」

「そのように申す者ほど信用できぬと、キリカが言っておった」

「姫さまも、つい先ほどまで同じことを仰っていました」


 キリカが間を置かずに告げる。


 テンカが振り返った。


「そなたは、どちらの味方なのじゃ」

「姫さまが休んでくださる方の味方です」

「むう」


 頬をわずかに膨らませるテンカを見て、スズネの口元に小さな笑みが浮かんだ。


 今日になって初めて、自然に笑えた気がした。


「それは、夜番へ渡す灯か?」


 テンカが机の上へ目を向ける。


「はい。神楽殿の周囲は普段より暗くなっていますので、巡回する方々が足元を見失わないように」

「祈りに用いるものではないのじゃな」

「今夜は違います。ただの灯です」

「ただの、か」


 テンカは灯明を見つめたまま、少しだけ考え込んだ。


「スズネ」

「はい」

「祈れば、地の底にいるものを止められると思うか?」


 まっすぐな問いだった。


 試すような響きも、嘲るような気配もない。


 だからスズネも、迷わず答えた。


「いいえ」


 テンカの暗紅の瞳が、わずかに見開かれる。


「祈りだけで止められるとは思いません。あれが何であるかを調べ、危険があれば人を避難させ、必要なら滅魔旅団の方々に戦っていただかなければなりません」

「神楽や祭祀でも、どうにもならぬと?」

「どうにかなるかもしれない、と分かったうえで行うのであれば別です。ですが、今は何も分かっていません」


 分からないものへ、分かったふりをして祈りを重ねることはできない。


 それは信仰ではなく、願望へ縋ることだとスズネは思っていた。


「では、なぜ祈るのじゃ?」


 テンカが尋ねた。


 スズネはすぐには答えず、机の上で消えたままの灯明へ目を落とした。


「怖くて、動けなくなることがあるからです」


 昼間の自分が、そうだった。


 役目を失うことを恐れ、手を離すべき時を見失った。


「大切な人を失えば、何をすればよいのか分からなくなることがあります。何もできなかった自分を責めて、前へ進めなくなることもあります」


 祭祀石に積み重なっていた、無数の祈りを思い出す。


 雨を願った人。

 旅立つ者の無事を願った人。

 帰らなかった者の名を呼び、せめて安らかであるようにと願った人。


「祈ったからといって、失ったものが戻るわけではありません。けれど、自分が何を大切にしていたのかを、忘れずにいられます」


 スズネは胸元で両手を重ねた。


「亡くなった方へ別れを告げ、残された人が、もう一度立ち上がるための助けにはなります」

「立ち上がるための、助け」

「はい。ほんの小さなものですけれど」


 テンカはしばらく黙っていた。


 その右手は、腰に佩いた継火の柄へ添えられている。


 やがて小さな姫は、机に並ぶ灯明の1つを指した。


「それと同じかもしれぬな」

「同じ、ですか?」

「この灯だけで、夜そのものを消すことはできぬ」


 テンカは窓の外へ目を向ける。


 暗い境内。


 注連縄に囲まれた神楽殿。


 その周囲を巡る兵たちの灯が、木々の隙間をゆっくりと動いている。


「じゃが、足元くらいは見える。次にどこへ踏み出せばよいかもな」


 スズネは灯明を見つめた。


 暗闇をすべて消すほどの光ではない。

 遠くまで照らすこともできない。


 それでも、目の前にある道を見失わないためには、十分な光だった。


「テンカ様」

「何じゃ」

「火をお借りしてもよろしいでしょうか」


 テンカが目を瞬かせる。


「火行を使うほどのものではありません」


 スズネが付け加えると、キリカが小さく笑った。


「姫さまが火行で灯されたら、灯明の皿ごと燃えてしまいそうです」

「わらわとて、それくらいの加減はできる」

「本当ですか?」

「……普通の火を使うとしよう」


 テンカは不満そうにしながらも、机の端に置かれていた細い木片を手に取った。


 スズネが火鉢の炭を熾す。テンカは手にした木片の先へ炎を移し、それを灯明の芯へ近づけた。


 小さな火が静かに灯る。

 初めは細く。

 やがて油を吸い上げ、丸みのある炎へ育っていく。


「これを、どこへ置くのじゃ?」

「社務所の縁側へ。石段を上ってくる方から見える場所です」

「今夜、参拝者は来ぬぞ」

「参拝者でなくても構いません」


 スズネは灯明を両手で持ち上げた。


「報告を運ぶ方や、夜番を終えて戻る方が、この場所を見失わないための灯です」


 3人で廊下を進み、社務所の縁側へ出る。


 夜気は冷たかったが、昼間に神楽殿で感じたものとは違う。木々を抜けてきた、ごく普通の夜の風だった。


 縁側の端に灯明を置く。


 境内の暗がりに、小さな光が加わった。


 遠くで警戒に立つ兵たちの影が、わずかにこちらを向いた。やがて、そのうちの1人が手にした灯を掲げ、すぐに持ち場へ戻していく。


「役に立ったようじゃな」


 テンカが言う。


「はい」


 スズネは灯を見つめた。


 地の底に何がいるのかは分からない。

 祭祀石に入ったヒビを、今すぐ消すこともできない。


 明日、何が起こるのかも分からなかった。

 それでも、今夜ここにいる人たちの足元を照らすことはできる。

 今の自分にできることを、1つずつ行えばよい。


 足元から、ごくかすかな振動が伝わった。


 テンカの手が継火の柄へ伸び、キリカが周囲へ視線を走らせる。


 縁側の灯が、細く揺れた。


 だが、消えない。


 スズネは両手で夜風を遮り、傾いた炎が再びまっすぐ立つのを見届けた。


 暗い境内で、祈りの灯が静かに燃えていた。

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