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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第1章 黒き鬼と緋色の姫
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滅魔旅団②

 ハヅキ辺境伯領の南西部から南方にかけて、巨大な森が広がっている。


 ただの森ではない。

 『悠久なる大魔境』

 古くからそう呼ばれるその地は、皇国の地図においても広大な空白として記されている。


 魔物が棲み、瘴気が満ち、地形が変わる。

 踏み込んだ者が帰らぬことも珍しくない。


 大魔境は、単なる未開の地ではない。

 人の支配を拒む、異界にも等しい領域だった。

 その外縁部には、ハヅキ家が築いた監視拠点や防壁、結界柱が点在している。


 滅魔旅団は、それらを巡回しながら異常がないか確認する。

 今回テンカが同行するのは、その中でも比較的安全とされる外縁巡回任務だった。


 もちろん、比較的、である。

 大魔境に絶対安全など存在しない。


「姫さま、足元にお気をつけください」

「分かっておる」


 テンカは森の中を歩きながら、周囲へ意識を広げていた。


 湿った土の匂い。

 木々のざわめき。

 遠くで鳴く獣の声。

 肌にまとわりつく、薄い瘴気。


 ハヅキ領の森とは違う。

 大魔境の空気は、どこか重い。

 前世のゲームにも、危険地帯や高難度フィールドはあった。


 だが、これは違う。


 画面越しではない。

 音も匂いも湿度も、すべてが現実だ。


 死ぬかもしれない場所。


 そう思うと、腹の奥が冷えると同時に、手は自然と刀の柄へ伸びていた。


「緊張されていますか?」


 キリカが小声で尋ねる。


「しておる」

「意外です」

「わらわを何だと思っておる」

「怖いもの知らずの姫さまかと」

「買いかぶりじゃ。わらわは怖いものだらけよ」


 テンカは小さく笑った。


「だが、恐れを知らぬ者は早死にすると母上も仰せであった」

「はい」

「ならば、これでよい」


 恐怖はある。


 だが、足は止まらない。

 それで十分だ。

 前方でサイゾウが手を上げると、隊列が止まる。


 旅団員たちの空気が一瞬で変わった。


 雑談は消え、視線が周囲へ散る。

 槍を持つ者が前に出る。

 弓を持つ者が後方の高所を確認する。

 術士が符を取り出し、瘴気の流れを読む。


 無駄がない。

 これが滅魔旅団。

 皇国最強とも言われる対魔境戦力。

 テンカはその動きを目で追いながら、素直に感心していた。


 強い。


 単純な個人の戦闘力だけではない。

 連携、判断、警戒、間合い。

 すべてが実戦のために磨かれている。


「姫さま」


 サイゾウが低い声で呼んだ。

 テンカは歩み寄る。


「何かあったか?」

「足跡です」


 サイゾウが指した先に、泥が抉れた跡があった。

 大きい。

 人間のものではない。


 テンカは膝をつき、痕跡を見る。


 指の数。

 爪の深さ。

 踏み込みの重さ。


「……ゴブリンではないな」

「はい。コボルトでもありません」

「オークか?」

「その可能性はありますが」


 サイゾウの声は硬い。

 テンカは顔を上げた。


「何かおかしいのか?」

「大きすぎます」


 彼は足跡の横に自分の手を置いた。

 比べるまでもなく、人の手などすっぽり収まるほど巨大な足跡だった。


「この大きさなら、オーガ級です」


 オーガ。


 その名を聞いた瞬間、キリカの表情が引き締まった。

 テンカも思わず息を呑む。


 オーガは大魔境に棲む大型の鬼種だ。


 膂力に優れ、皮膚は厚く、簡単な武器では傷をつけることすら難しい。

 さらに再生力も高く、浅い傷であれば短時間で塞がってしまう。

 知性は低いが、その分、本能的な戦闘能力が高い。


 ただし、通常なら大魔境の外縁部で遭遇する魔物ではない。

 オーガはもっと奥にいる。

 少なくとも、今日の巡回範囲で見かけるような存在ではないはずだった。


「単独か?」

「いえ」


 サイゾウは周囲を見渡す。


「足跡は複数あります。こちらへ」


 少し進むと、さらに痕跡が増えた。


 折れた枝。

 踏み潰された下草。

 木の幹に残った爪痕。


 明らかに複数体。


 しかも、一方向へ移動している。

 外縁部へ向かって。


「……なぜじゃ」


 テンカは呟いた。


 オーガは大魔境中央部に近い場所を縄張りとする。

 餌を求めて移動することはあるが、集団で外縁部まで下りてくるのは異常だ。


 それに、痕跡が荒すぎる。

 逃げているようにも見える。


「サイゾウ」

「はい」

「この足跡、狩りではないな」


 サイゾウがわずかに目を細めた。


「姫さまもそう見ますか」

「獲物を追っているにしては、周囲を気にしておらぬ。進路も乱れている。まるで……何かから離れようとしているようじゃ」

「同感です」


 旅団員たちの間に緊張が走った。

 オーガの集団が、何かから逃げている。

 もしそうなら、問題はオーガだけではない。

 オーガを動かすほどの何かが、大魔境の奥で起きているということだ。


「隊長」


 斥候役の旅団員が戻ってきた。

 表情が険しい。


「南西に新しい痕跡。数は……少なくとも八。大きな個体が混ざっています」

「距離は?」

「まだあります。ですが、進路次第では第三結界柱に接近します」


 第三結界柱。


 大魔境外縁部に設置された防衛結界の一つ。

 そこを破られれば、近くの開拓村へ魔物が流れる恐れがある。

 サイゾウの判断は早かった。


「任務を変更する。第三結界柱へ向かう。斥候二名を先行。術士は伝令符を準備しろ。姫さま、申し訳ありませんが、安全圏まで後退を」

「断る」


 即答だった。

 サイゾウが眉を動かす。


「姫さま」

「わらわは見習いとして同行しておる。独断で前に出るつもりはない。だが、この目で見ずに帰るつもりもない」

「しかし」

「足手まといになるなら退く。そう判断したなら、そなたが命じよ。隊長はそなただ」


 テンカは真っ直ぐにサイゾウを見た。


「だが、まだそうではあるまい?」


 サイゾウはしばらく黙っていたが、やがて、短く息を吐く。


「……分かりました。ただし、隊列中央から出ないでください。キリカ殿も、姫さまの護衛を最優先に」

「承知しました」


 キリカが即座に答え、テンカが頷いた。


「感謝する」

「礼は不要です。危険と判断したら、すぐに下がっていただきます」

「うむ」


 空気が変わり、滅魔旅団が移動を開始した。

 先ほどまでの巡回ではなく、戦闘を想定した進軍。

 テンカは隊列中央で歩きながら、右手を刀の柄に添えた。


 内側で、水の流れが静かに揺れている。


 ――火は使うな。


 母の言葉が頭をよぎる。

 分かっている。

 今の自分に、火行の全力は早すぎる。


 だが、胸の奥で何かがざわめいていた。

 大魔境の奥から流れてくる、重く濁った気配。


 それは、まだ遠い。


 けれど確かに、こちらへ近づいている。


「姫さま」


 キリカが小さく呼んだ。


「顔色が」

「……少し、嫌な感じがしただけじゃ」

「嫌な感じ、ですか」

「うむ」


 テンカは南西の森を見た。

 木々の奥は暗い。

 昼だというのに、そこだけ光が沈んでいるように見える。


「何かがおる」


 自分でも驚くほど低い声だった。


「オーガだけではない。もっと、別の何かが」


 その言葉に、キリカの手が短刀へ伸びる。

 サイゾウもちらりとこちらを見た。


 風が止む。


 森が静まり返る。

 次の瞬間、遠くで鳥の群れが一斉に飛び立った。


 そして。


 大魔境の奥から、腹の底を震わせるような咆哮が響いた。

 それは獣の声ではなかった。


 鬼の声だった。


 テンカの黒髪が、風もないのに微かに揺れる。

 暗い紅玉の瞳が、森の奥を見据えた。


「……来るぞ」


 誰に言うでもなく、テンカは呟いた。

 滅魔旅団の者たちが武器を構える。

 第三結界柱へ向かう道の先。


 大魔境の影が、ゆっくりと動き始めていた。

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