表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第1章 黒き鬼と緋色の姫
10/25

大魔境の異変①

 咆哮が、森を震わせた。

 低く、重く、腹の底を掻き回すような声。

 それは獣の遠吠えではなく、魔物の威嚇でもない。

 もっと原始的で、もっと暴力的なものだった。


 鬼の声。


 そう呼ぶしかない音だった。


「隊列を組め!」


 サイゾウの声が飛ぶ。

 滅魔旅団第三討伐隊の者たちが、即座に動いた。


 盾を持つ者が前に出る。

 槍兵がその隙間を埋める。

 弓兵が後方に下がり、術士が符を手に結界の準備へ入る。

 無駄がなく、たった一つの号令で、隊は巡回の列から戦闘陣形へ変わった。


 テンカはその中央で、右手を刀の柄に添えた。

 心臓が早鐘を打っている。


 怖い。


 はっきりと、そう思った。

 前世のゲームなら、敵の咆哮は演出だったし、画面が揺れ、音が鳴り、敵の名前と体力ゲージが表示されるだけだった。


 だが、今は違う。

 森の奥から響く声には、体温があった。

 湿った土の匂いと、瘴気の重さと、肌を刺す殺気があった。


 これは現実だ。

 失敗すれば、死ぬ。


「姫さま」


 隣でキリカが低く呼んだ。

 腰の短刀に手をかけ、袖口の隠し針をいつでも抜けるようにしているが、その表情は硬い。


「大丈夫じゃ」


 テンカは小さく答えた。


「怖くないわけではないが、足は動く」

「……はい」

「そなたも、わらわの後ろに隠れてばかりではつまらぬであろう?」

「姫さまの後ろに隠れた覚えはありません」

「ふふ、そうであったな」


 軽口を叩く。

 自分を落ち着かせるためでもあり、キリカを安心させるためでもあった。


 もっとも、内心では前世のおじさんが盛大に叫んでいる。

 『いや、無理だろ!』

 『なんで11歳でオーガと遭遇しそうになってるんだ? ゲームならまだチュートリアル終盤くらいだぞ。……この世界にはチュートリアルなんてないんだけどな!』


 いかぬ。呑まれるでない、()()()

 テンカは息を吐き、母の言葉を思い出す。


 ――恐れを恥じてはなりません。

 ――大魔境を前に恐れぬ者は、勇敢なのではなく、己の未熟を知らぬだけです。

 ――恐れ、警戒し、斬るべき時にのみ刀を抜きなさい。

 

 恐怖は消えない。

 けれど、その言葉を思い出した瞬間、胸の奥で暴れていたものが、すとんと腹の底へ落ちた気がした。


 怖いままでいい。

 怖いからこそ、慎重になれる。

 怖いからこそ、見落とさずに済む。


 テンカは息を整え、刀の柄を握る手から余計な力を抜いた。


「姫さま」


 サイゾウが振り返らずに言った。


「隊列中央から出ないでください」

「分かっておる」

「五行の使用は?」

「感知補助のみ。勝手に斬り込むつもりはない」

「ならば結構」


 短い確認。

 それだけで十分だった。


 サイゾウはテンカを子供扱いしすぎないが、だからといって、過信もしない。

 その距離感が、テンカにはありがたかった。


「斥候、状況」


 サイゾウの声に、木の上から軽装の旅団員が降りてきた。


「南西方向、距離およそ二百。木々をなぎ倒しながら接近中。数は……八、いや九。うち一体が大型です」

「オーガか」

「足跡と臭気から見て、間違いありません」


 旅団員の顔には緊張の色が浮かんでいたが、怯えはない。

 滅魔旅団は、大魔境と戦うための集団だ。

 オーガは危険な相手だが、想定外ではない。


 ただし。


「妙です」


 斥候が続けた。


「通常、オーガはこの辺りまで出てきません。しかも集団で、まっすぐ外縁へ向かっています」

「追われている、か」


 サイゾウが呟く。

 テンカはその言葉に、森の奥を見た。

 先ほどから嫌な感覚が消えない。


 水行の感知を薄く広げると、空気の流れが濁っているのが分かる。

 瘴気が乱れ、森の気配がざわついている。


 まるで、水面に黒い泥を垂らしたような違和感があり、オーガの気配は大きい。

 荒々しく、熱く、獣臭い。

 だが、その背後に別のものがある。


 もっと暗く、もっと冷たい。

 そして、妙に粘つく気配。


「サイゾウ」

「何でしょう」

「オーガの後ろに、何かおる」


 サイゾウが初めてこちらを振り返った。


「感知できるのですか」

「はっきりとは分からぬ。ただ、気配が濁っておる。オーガのものとは違う」


 サイゾウは一瞬だけ考え、すぐに指示を出した。


「術士、瘴気観測。後方の気配を探れ。弓兵は木の上へ。盾前進、槍は構えろ。第三結界柱への進路を塞がせるな」

「「了解!」」


 旅団員たちが一斉に応じ、隊列が即座に動き出した。

 テンカは奥歯を噛んだ。

 自分の言葉ひとつで、隊が動いた。


 その重さが、肩に乗る。

 間違いだったらどうするのか?……ただの気のせいだったら。

 わらわの勘で、精鋭部隊の判断を乱しただけだったら。

 そんな考えが脳裏をよぎる。


 しかし、サイゾウは迷わなかった。


「姫さま」

「何じゃ」

「今の報告、助かります」

「……信じるのか?」

「大魔境では、違和感を捨てた者から死にます」


 サイゾウは静かに言った。


「まして、ハヅキの姫が水行で拾った違和感なら、聞く価値はあります」

「そうか」

「ええ。ただし、間違っていたとしても構いません」

「構わぬのか?」

「間違いを恐れて黙るよりは、遥かに良い」


 その言葉に、テンカは少しだけ息を吐いた。

 この男は強い。

 腕が立つだけではなく、判断が早く、他人の報告を使う度量がある。


 滅魔旅団の隊長とは、こういう者なのだろう。

評価やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになりますのでよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ