大魔境の異変①
咆哮が、森を震わせた。
低く、重く、腹の底を掻き回すような声。
それは獣の遠吠えではなく、魔物の威嚇でもない。
もっと原始的で、もっと暴力的なものだった。
鬼の声。
そう呼ぶしかない音だった。
「隊列を組め!」
サイゾウの声が飛ぶ。
滅魔旅団第三討伐隊の者たちが、即座に動いた。
盾を持つ者が前に出る。
槍兵がその隙間を埋める。
弓兵が後方に下がり、術士が符を手に結界の準備へ入る。
無駄がなく、たった一つの号令で、隊は巡回の列から戦闘陣形へ変わった。
テンカはその中央で、右手を刀の柄に添えた。
心臓が早鐘を打っている。
怖い。
はっきりと、そう思った。
前世のゲームなら、敵の咆哮は演出だったし、画面が揺れ、音が鳴り、敵の名前と体力ゲージが表示されるだけだった。
だが、今は違う。
森の奥から響く声には、体温があった。
湿った土の匂いと、瘴気の重さと、肌を刺す殺気があった。
これは現実だ。
失敗すれば、死ぬ。
「姫さま」
隣でキリカが低く呼んだ。
腰の短刀に手をかけ、袖口の隠し針をいつでも抜けるようにしているが、その表情は硬い。
「大丈夫じゃ」
テンカは小さく答えた。
「怖くないわけではないが、足は動く」
「……はい」
「そなたも、わらわの後ろに隠れてばかりではつまらぬであろう?」
「姫さまの後ろに隠れた覚えはありません」
「ふふ、そうであったな」
軽口を叩く。
自分を落ち着かせるためでもあり、キリカを安心させるためでもあった。
もっとも、内心では前世のおじさんが盛大に叫んでいる。
『いや、無理だろ!』
『なんで11歳でオーガと遭遇しそうになってるんだ? ゲームならまだチュートリアル終盤くらいだぞ。……この世界にはチュートリアルなんてないんだけどな!』
いかぬ。呑まれるでない、わらわ。
テンカは息を吐き、母の言葉を思い出す。
――恐れを恥じてはなりません。
――大魔境を前に恐れぬ者は、勇敢なのではなく、己の未熟を知らぬだけです。
――恐れ、警戒し、斬るべき時にのみ刀を抜きなさい。
恐怖は消えない。
けれど、その言葉を思い出した瞬間、胸の奥で暴れていたものが、すとんと腹の底へ落ちた気がした。
怖いままでいい。
怖いからこそ、慎重になれる。
怖いからこそ、見落とさずに済む。
テンカは息を整え、刀の柄を握る手から余計な力を抜いた。
「姫さま」
サイゾウが振り返らずに言った。
「隊列中央から出ないでください」
「分かっておる」
「五行の使用は?」
「感知補助のみ。勝手に斬り込むつもりはない」
「ならば結構」
短い確認。
それだけで十分だった。
サイゾウはテンカを子供扱いしすぎないが、だからといって、過信もしない。
その距離感が、テンカにはありがたかった。
「斥候、状況」
サイゾウの声に、木の上から軽装の旅団員が降りてきた。
「南西方向、距離およそ二百。木々をなぎ倒しながら接近中。数は……八、いや九。うち一体が大型です」
「オーガか」
「足跡と臭気から見て、間違いありません」
旅団員の顔には緊張の色が浮かんでいたが、怯えはない。
滅魔旅団は、大魔境と戦うための集団だ。
オーガは危険な相手だが、想定外ではない。
ただし。
「妙です」
斥候が続けた。
「通常、オーガはこの辺りまで出てきません。しかも集団で、まっすぐ外縁へ向かっています」
「追われている、か」
サイゾウが呟く。
テンカはその言葉に、森の奥を見た。
先ほどから嫌な感覚が消えない。
水行の感知を薄く広げると、空気の流れが濁っているのが分かる。
瘴気が乱れ、森の気配がざわついている。
まるで、水面に黒い泥を垂らしたような違和感があり、オーガの気配は大きい。
荒々しく、熱く、獣臭い。
だが、その背後に別のものがある。
もっと暗く、もっと冷たい。
そして、妙に粘つく気配。
「サイゾウ」
「何でしょう」
「オーガの後ろに、何かおる」
サイゾウが初めてこちらを振り返った。
「感知できるのですか」
「はっきりとは分からぬ。ただ、気配が濁っておる。オーガのものとは違う」
サイゾウは一瞬だけ考え、すぐに指示を出した。
「術士、瘴気観測。後方の気配を探れ。弓兵は木の上へ。盾前進、槍は構えろ。第三結界柱への進路を塞がせるな」
「「了解!」」
旅団員たちが一斉に応じ、隊列が即座に動き出した。
テンカは奥歯を噛んだ。
自分の言葉ひとつで、隊が動いた。
その重さが、肩に乗る。
間違いだったらどうするのか?……ただの気のせいだったら。
わらわの勘で、精鋭部隊の判断を乱しただけだったら。
そんな考えが脳裏をよぎる。
しかし、サイゾウは迷わなかった。
「姫さま」
「何じゃ」
「今の報告、助かります」
「……信じるのか?」
「大魔境では、違和感を捨てた者から死にます」
サイゾウは静かに言った。
「まして、ハヅキの姫が水行で拾った違和感なら、聞く価値はあります」
「そうか」
「ええ。ただし、間違っていたとしても構いません」
「構わぬのか?」
「間違いを恐れて黙るよりは、遥かに良い」
その言葉に、テンカは少しだけ息を吐いた。
この男は強い。
腕が立つだけではなく、判断が早く、他人の報告を使う度量がある。
滅魔旅団の隊長とは、こういう者なのだろう。
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