エピローグ 泡沫夢幻の世
???視点です。
城門が崩れた。
積み上げられていた石が内側へ雪崩れ込み、立ち上った土煙が視界を覆う。その向こうから、黒い霧を纏った軍勢が押し寄せてきた。
人の形をしている。
甲冑を纏い、剣や槍を手にしている。
だが、その顔には生者の色がなかった。落ち窪んだ眼には濁った光だけが灯り、朽ちた唇からは、声とも呼べぬ呻きが漏れている。
黄泉路底根國より溢れ出した、死者の軍勢。
「将軍閣下!」
すぐ横で、血に濡れた兵が叫んだ。
「城門は破られました! 敵はすでに大路へ――」
言葉の途中で、その胸から黒い刃が突き出した。
兵の口から血が溢れる。背後に立っていた死兵が刃を引き抜くと、その身体は石畳へ崩れ落ちた。
剣を振るう。
死兵の首が落ちた。
返す刃で、さらに奥から迫った槍を弾き、踏み込んできたもう1体の胴を断つ。
「陣を崩すな! 民を王城へ通せ!」
声に応じ、残った兵たちが大路に盾を並べた。
その背後を、民が走っていく。荷を捨て、幼子の手を引き、傷ついた者を支えながら、誰もが王城を目指していた。
だが、すべての者がそこまで辿り着けたわけではない。
道の端に、何人もの民が倒れている。
荷車の陰には、母親らしい女が座り込んでいた。
胸元には、布に包まれた赤子が抱かれている。女は赤子を庇うように背を丸めたまま、額をその小さな頭へ寄せていた。
どちらも動かない。
死してなお、その腕だけは緩んでいなかった。
足を止めることはできなかった。
盾を砕かれた兵が後ろへ倒れ、その隙間から死兵が入り込んでくる。振り下ろされた刃を受け流し、喉元へ剣を突き入れた。
刃を引き抜くと、黒い霧が噴き出した。
「右から来ます!」
若い兵の声が飛ぶ。
振り向いた先では、路地から現れた死兵の群れへ、数人の兵士が槍を向けていた。その後ろには、逃げ遅れた老人と子供たちがいる。
「ここは通さん!」
先頭の兵が槍を突き出す。
穂先は死兵の胸を貫いたが、敵は止まらなかった。槍の柄を掴み、そのまま兵の身体を引き寄せる。
別の死兵が剣を振り下ろした。
助けに入るには遠すぎた。
兵は肩口から深く斬られ、それでも槍を放さなかった。
「走れ!」
倒れながら、後ろの民へ叫ぶ。
「振り返るな!」
老人が子供たちを連れて路地の奥へ消える。
残った兵たちは一歩も退かなかった。
死兵の群れが彼らを呑み込む。
最後まで槍が振るわれていた。
だが、それもやがて見えなくなった。
大路を進む。
黄泉路の軍勢を斬り、王城へ続く道を塞がせないよう、ただ前へ出る。
石畳は血に濡れていた。
燃えた家屋からは黒煙が立ち上り、窓から身を乗り出した死者が炎に包まれたまま動かない。崩れた壁の下では、幼い姉らしい少女が弟を覆うように倒れていた。
少女の背には、瓦礫が積み重なっている。
弟は姉の胸元へ顔を埋め、小さな手で衣を握っていた。
助けを求める声はない。
互いを庇い合ったまま、2人とも息絶えていた。
「……将軍閣下」
隣を歩いていた副官の声が震えた。
視線の先には、壊れた家があった。
その入口で、年老いた男女が倒れている。副官は2人を見つめたまま立ち尽くしかけたが、すぐに剣を握り直した。
「父と母です」
それだけを口にした。
「お許しを。一目、見られただけで十分です」
副官は前を向いた。
「最後まで、お供いたします」
答えるより早く、正面から矢が飛んできた。
副官が身を寄せる。
鈍い音がした。
その肩を、黒い矢が貫いている。
「まだ、動けます」
矢を折り、副官は剣を構えた。
死兵たちが迫る。
並んで斬った。
1体。
また1体。
刃を受け、弾き、鎧の隙間へ剣を通す。倒しても倒しても、黒い霧の向こうから新たな軍勢が現れた。
背後から悲鳴が響く。
王城へ続く道にも、死兵が入り込んだのだ。
「将軍閣下! 西の通りも破られました!」
「王城の門は!」
「閉じております! ですが、城内にも敵が――」
城内にも。
その言葉が胸の底へ沈んだ。
王城には、まだ民がいる。
国を預かる者たちがいる。
負傷者がいる。
戦えぬ子供たちがいる。
守らなければならない。
まだ終わってはいない。
「道を開ける! 続け!」
黄泉の霧へ斬り込んだ。
背後から兵たちの声が重なる。
誰も逃げなかった。
誰も武器を捨てなかった。
死者の軍勢へ向かい、傷ついた身体で前へ出た。
剣が欠ける。
槍が折れる。
盾が砕ける。
それでも兵たちは倒れた仲間の武器を拾い、何度でも陣を組み直した。
「我らが国は、まだ滅びておらぬ!」
古参の兵が叫んだ。
「我らが立っている限り、ここは我らの国だ!」
黄泉の槍が、その腹を貫いた。
兵は血を吐きながら柄を掴み、敵を引き寄せる。
「将軍閣下、今です!」
振り下ろした剣が、死兵の頭を割った。
古参兵の身体が崩れ落ちる。
その目は、最後までこちらを見ていた。
感謝を告げる時間すらなかった。
新たな敵が迫る。
斬る。
また斬る。
前へ進むたび、見知った者が倒れていった。
若い兵が首を斬られた。
旗手が軍旗を抱いたまま、無数の槍に貫かれた。
負傷した仲間を背負っていた兵が矢を受け、2人一緒に石段から転がり落ちた。
それでも王城を目指した。
守るべき者が、まだいるはずだった。
だが、王城の門をくぐった先に、生者の声はなかった。
広場を埋め尽くすほどの死者が倒れている。
兵士。
役人。
侍女。
老人。
子供。
互いを抱き締めた者。
倒れた誰かの手を、最後まで握っていた者。
王城まで辿り着きながら、助からなかった者たち。
風が吹き抜けた。
血と煙の臭いだけが残っている。
「間に……合わなかった」
副官が掠れた声を漏らした。
副官の膝が、石畳へ落ちた。
先ほど肩を貫いた矢の周囲から、黒い筋が広がっていた。黄泉の穢れが身体の内側へ入り込んでいる。
「将軍閣下」
副官がこちらを見上げた。
「お願いが、ございます」
その眼から、生者の光が失われ始めていた。
「私が、私であるうちに」
震える手が剣を差し出す。
「どうか」
言葉は最後まで続かなかった。
副官の身体が大きく跳ねる。
俯いていた顔が上がった時、眼には黄泉の濁りが宿っていた。
剣が振り上げられる。
受け止める。
刃と刃がぶつかり合う。
何度も背中を預けた。
何度も戦場から生きて帰った。
国を守ると、共に誓った。
その剣が、今はこちらの喉を狙っている。
副官だったものが踏み込む。
身体は傷ついているはずなのに、動きに迷いがない。
一撃をかわし、懐へ入る。
剣を振るった。
副官だったものの胸を、刃が貫いた。
一瞬だけ。
濁った眼に、かつての光が戻ったように見えた。
唇がわずかに動くが、声は聞こえなかった。
剣を抜くと、副官の身体は静かに倒れた。
周囲で、別の音がした。
石畳に横たわっていた兵士の指が動く。
1人ではない。
広場を埋めていた死者たちが、黒い霧に包まれながら立ち上がっていく。
首の折れた者。
胸を貫かれた者。
家族を抱いたまま死んだ者。
皆が濁った眼を開き、こちらへ顔を向ける。
黄泉路の軍勢は、国を滅ぼすだけではなかった。
奪った命を、新たな兵へ変えていく。
守れなかった民が。
共に戦った兵が。
己の国そのものが、敵となって立ち上がる。
剣を構えた。
退く場所はない。
退く理由もない。
守るべき者は、もうどこにも見えなかった。
それでも、敵はいる。
「来い」
声が広場へ響いた。
「我が国を奪った者どもよ」
無数の死者が押し寄せる。
「最後の一兵となろうとも、貴様らを斬る」
剣を振るった。
誰を斬ったのか、もう分からなかった。
かつての部下か。
守るべき民か。
黄泉から現れた最初の死兵か。
ただ、こちらへ迫るものを斬り続けた。
刃が欠けても。
腕が上がらなくなっても。
視界が血に染まっても。
戦い続けた。
国は滅びた。
城は焼けた。
共に立つ兵は、もう誰もいない。
それでも戦いは終わらなかった。
足元の石畳が割れ、黒い霧が裂け目から噴き上がり、視界を覆う。
地の底から、無数の手が伸びてくる。
足を掴まれる。
剣を突き立てても、次の手が伸びる。
幾重にも絡みつき、暗い裂け目の奥へ引きずり込んでいく。
燃える王城が遠ざかった。
空が細くなる。
最後に見えたのは、黒煙に覆われた都と、死者となって彷徨う民の姿だった。
守れなかった。
何一つ。
暗闇が閉じる。
闇の奥で、意味を失った叫びが幾重にも重なった。
誰のものかは分からない。
死者の呻き。
兵たちの叫び。
泣き声。
怨み。
怒り。
悲しみ。
無数の感情が流れ込み、自分のものと混じり合う。
国の名が薄れていく。
王の顔が消えていく。
共に戦った兵たちの声も、抱いた忠義も、守ろうとした人々の姿も、長い闇の中へ沈んでいく。
それでも、消えないものがあった。
奪われた。
殺された。
滅ぼされた。
敵は、まだいる。
戦いは終わっていない。
◇ ◇ ◇
どれほどの時が流れたのか。
大空洞の底に、光は届かない。
岩盤の隙間を冷たい澱みが巡り、長い眠りの中へ、遠い地上の気配を運んでくる。
人の声。
鐘の音。
祈り。
火の灯り。
白い壁と、瓦屋根。
街道を行き交う人々。
地上には、穏やかな人の営みがあった。
だが、壊れた記憶には、別のものとして映っていた。
白い壁は、国を滅ぼした黄泉路の城郭に。
人々の声は、死者の呻きに。
祈りは、地の底から響いた呪いに。
灯された火は、都を焼いた炎に見えた。
あの日が、まだ続いている。
国を滅ぼした者どもが、今も地上を埋め尽くしている。
守るべき者は、もういない。
共に戦う兵もいない。
ただ、敵だけが残っている。
怨みが膨れ上がった。
長い時の中で積み重なった無数の声が、黒い澱みを震わせる。
奪われた。
殺された。
滅ぼされた。
ならば、滅ぼさなければならない。
敵が1人も残らぬまで。
戦いが、終わるまで。
大空洞の壁面に、幾筋ものヒビが走った。
天井から岩片が落ち、地の底を満たしていた澱みが大きく波打つ。
滅ぼす。
今度こそ、すべてを。
長い眠りの底から、足を踏み出す。
大空洞が揺れた。
これにて第5章完となります。
この後は第5章時点版の登場人物紹介ならびに設定集を投稿しつつ、幕間を挟んで第6章を開始できればと思います。
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