止めきれぬもの
陽が西へ傾き始めた頃、天巡神社へ続く石段の下から、幾つもの蹄の音が聞こえてきた。
やがて音が止み、馬を預けた一団が石段を上ってくる。
朝には参拝者の声が絶えなかった境内も、今は静まり返っている。正面の鳥居には神職が立ち、訪れた者を石段の下で帰していた。
境内の奥では、神職たちが神楽殿の周囲へ新たな注連縄を張り、必要な祭具や記録を別の建物へ運んでいる。
テンカは社務所の前へ立ち、石段を上ってくる一団を見つめた。
先頭にいるのは、黒髪を結い上げたコトネだった。
その後ろには、滅魔旅団団長のクレハ、副長のトウマ、調査・研究部副所長のマリエラが続いている。サイゾウの率いる第三討伐隊と、調査用の器具を背負った術士たちの姿もあった。
「母上」
テンカが頭を下げる。
コトネは足を止めると、まずテンカの顔と両腕を確かめた。
「怪我はありませんか」
「大事ありませぬ。水行を使った際、腕に冷たさが残りましたが、すでに消えております」
「スズネは?」
「社務所の奥で休んでおります。指先が冷えただけで、傷も黒い筋も残っておりませぬ」
コトネは短く頷き、閉ざされた神楽殿へ視線を移した。
「報告を聞きます。確認した事実だけを、順に話しなさい」
「はい」
テンカは神楽殿で起きたことを説明した。
最古の祭祀石に、表面から分かる異常はなかったこと。
水行で探ると、石の内側へ冷たい澱みが入り込んでいたこと。
紙符を介して祭祀の積み重なりを確かめたスズネが、地の底を進む巨大な何かを感じたこと。
そして神楽殿を出る直前、床下から2度の振動が伝わったこと。
コトネは途中で口を挟まなかった。
クレハも普段と変わらぬ穏やかな表情を保っていたが、深い青色の瞳は神楽殿から離れない。
「テンカ姫もスズネさんも、ご無事で何よりです」
報告を聞き終えたクレハが言った。
「他の討伐隊は、大魔境外縁と領内各地の警戒から動かせません。ここには、現場を知る第三討伐隊を置きます」
クレハはサイゾウへ向き直った。
「境内の北側と東側に、退路を確保してください。神楽殿の周囲には、許可のない者を近づけないように」
「承知しました」
「ラデルカさんは、境内と外周の地面をもう一度確認してください。地下から続く音や臭いに変化があれば、すぐに報告を」
「分かった」
「私たちは神楽殿へ入ります。トウマさん、周囲の配置をお願いします」
「はい、団長」
トウマは銀縁の眼鏡を押し上げ、持参した境内図を開いた。
「神楽殿と本殿の間には防護の結界を置きます。地下の澱みを封じるものではなく、建物が崩れた場合に参拝者側へ被害を広げないためのものです」
「参拝者は、すでに境内から出ていただきました」
祭主が社務所から出てくる。
「神職も、神楽殿へ近づく者を必要最低限に絞っています」
「ありがとうございます」
コトネが祭主へ頭を下げた。
「こちらの都合だけで、天巡神社の祭祀を変えるつもりはありません。ですが、領民と神職の命を守るため、しばらく境内の一部をお借りします」
「もちろんです。当主様のご判断に従います」
社務所の奥から、スズネも姿を現した。
顔色はまだわずかに白い。それでも足取りは安定しており、右手にも包帯は巻かれていなかった。
「スズネ」
祭主が振り返る。
「横になっていなさいと伝えたはずです」
「これ以上、祭祀石には近づきません。ですが、神楽殿の構造と祭祀の記録について、わたしから説明できることがあります」
「ならば、社務所で説明なさい。神楽殿へは行かせません」
「はい」
スズネは素直に頭を下げた。
役目から離れるつもりはないが、先ほどの危険を無視しているわけでもない。その姿を見て、テンカは胸の内で小さく息を吐いた。
◇ ◇ ◇
神楽殿の前には、滅魔旅団の兵が配置されていた。
サイゾウとラデルカは建物の外周を確認し、マリエラは術士たちとともに床板の上へ観測符を並べている。
符は点検口を囲むように置かれ、それぞれの中央には、小さな透明の石が縫い付けられていた。
「この符で、何が分かるのじゃ?」
テンカが尋ねる。
「地の下から伝わる力の強さと、広がる方向です」
マリエラは最後の1枚を床へ置いた。
「正確な深さまでは測れません。ですが、力が神楽殿の外へ広がっているのか、祭祀石の周囲へ留まっているのかは判断できます」
「祭祀石には触れないのですね」
キリカが確かめる。
「はい。スズネさんの紙符に起きた変化を考えれば、直接つなぐべきではありません」
「夜の警戒範囲を決めるには、澱みが今どこまで広がっているかを確かめる必要があります」
トウマは点検口を囲む観測符へ視線を向けた。
「石には触れず、異常があればすぐに閉じます。それでも危険が増した場合は、調査を中止してください」
「承知しました」
マリエラが答えた。
その表情には慎重さがあり、器具を手にしても、いつものように前のめりにはなっていなかった。
地下遺構で危険を経験したからなのか。それとも、スズネの指先まで黒い筋が迫ったと聞いたためなのか。
どちらにせよ、慎重であることに異論はなかった。
「始めます」
コトネの言葉で、神職たちが神楽殿の四隅へ移動した。
霜を拭い取った火皿へ、小さな火が灯される。
祭祀を行うためではない。神楽殿の空気と地の巡りに変化が起きた時、炎の揺れ方を確かめるためだった。
四つの炎は、初めのうちは静かに燃えていた。
トウマの指示で、兵たちが床板へ結んだ縄を引く。
点検口を覆っていた板が、離れた位置からゆっくりと持ち上げられた。
床下に据えられた祭祀石が姿を現す。
朝に見た時と変わらず、灰白色の表面には黒い滲みもヒビもない。円環と祭文も、薄暗い床下に残っていた。
「見た目に変化はありません」
マリエラが告げる。
「テンカ」
コトネの視線が向けられた。
「触れてはなりません。周囲の流れだけを確かめなさい」
「承知しております」
テンカは点検口から距離を取り、床へ膝をついた。
呼吸を整え、水行を薄く巡らせる。
黒髪の先が、淡い蒼を帯びた。
テンカは床下の湿り気、白砂に残るわずかな水分、神楽殿の下を通って祭祀石へ重なる地の流れへ、順に意識を沿わせる。その中には、朝よりも濃い冷たさが混じっていた。
澱みは祭祀石へ向かって流れ込んでいるのではない。地の下を通る流れへ混じったものが、祭祀石のある場所へ差しかかり、その内側へ食い込んでいる。
石はそれを受け止めていたが、澱みそのものが消えたわけではなかった。石の内側で滞り、押し返された流れが、周囲へ押し広げられながら歪んでいる。
「朝より、重い」
テンカは目を閉じたまま告げた。
「石はまだ堪えておる。じゃが、澱みは止まっておらぬ。下から、何度も押されておるようじゃ」
その言葉に応じるように、床へ置かれた観測符の石が淡く曇った。
1枚ではない。
点検口を囲んだ符すべてに、薄い灰色が浮かんでいる。
「神楽殿の外側は?」
トウマが尋ねる。
術士の1人が、建物の外へ置いた符を確認する。
「外周の反応は、まだ弱いままです」
「つまり、澱みが境内全体へ広がっているわけではない」
「現時点では、そのように見えます」
マリエラは点検口の祭祀石と、観測符を交互に見た。
「祭祀石が澱みを集めているのではありません。ここを通る地の流れに混じった澱みを、石が受け止め続けています」
「そのため、石の内側へ負荷が溜まっている?」
コトネが問う。
「おそらくは」
マリエラは断定を避けながらも、表情を曇らせた。
「このまま流れが強くなれば、祭祀石が耐えられなくなるか、澱みが別の場所へ抜ける可能性があります」
「地盤へ影響するということですか」
「分かりません。ですが、どちらであっても安全とは言えません」
トウマは境内図へ視線を落とした。
「神楽殿の真下で地盤が崩れれば、建物だけでは済まない可能性があります。本殿側へ人を戻すのは避けるべきでしょう」
「祭祀石を補強することはできぬのか?」
テンカが尋ねる。
祭主は点検口の向こうにある石を見つめた。
「通常の祭祀で地の巡りを整えることはできます。ですが、澱みの正体が分からないまま、石へさらに力を重ねることはできません」
「流れを強くすれば、それだけ澱みまで石の内側へ押し込むおそれがあります」
マリエラも続ける。
「今は、触れないことが最善です」
何もせず待つことが最善。
そう言われても、テンカの胸には重いものが残った。
地の底に何かがいる。
澱みは今も進み、祭祀石を内側から圧迫している。
それでも、正体も深さも分からない以上、刀を振るうことも、五行を流すこともできない。
床下から、低い振動が伝わった。
観測符の石が一斉に揺れる。
「全員、下がってください!」
マリエラの声に、テンカは水行を収めて立ち上がった。
キリカがテンカの腕を取り、点検口から引き離す。コトネとクレハも後退し、兵たちは持ち上げられた床板へ結ばれた縄を握り直した。
もう一度、振動が走る。
今度は先ほどよりも近い。
四隅の火皿に灯された炎が、神楽殿の中央へ向かって大きく傾いた。
三度目の振動。
四つの炎が、同時に消えた。
暗くなった神楽殿に、乾いた音が響く。
石と石が擦れたような音ではない。
何か硬いものに、細い傷が入ったような音だった。
「床板を閉じろ!」
サイゾウが命じる。
「待ってください」
マリエラが片手を上げる。
術士が灯りを掲げ、点検口の下を照らした。
灰白色の祭祀石。
その表面に刻まれた円環の端に、朝にはなかった細い線が走っている。
黒い滲みではない。
祭文の間を横切る、細いヒビだった。
「……石が」
祭主の声が、わずかに掠れた。
「記録に残る限り、この祭祀石が傷ついたことはありません」
テンカはヒビから目を離せなかった。
最も古く、最も長く祭祀を重ねてきた石。
黒い澱みが表面に現れてもおらず、朝には傷一つなかった石が、今、目の前で限界を示した。
「閉じてください」
コトネが告げた。
兵たちが縄を引き、床板を下ろす。
点検口が閉じられ、金具が固定された。
「クレハ」
「はい、コトネ様」
「天巡神社の守りを、滅魔旅団へ任せます」
「承知しました」
クレハは穏やかな微笑みを消していた。
「神社を戦場にするつもりはありません。ですが、戦場になってから備えるのでは遅すぎます」
クレハがサイゾウたちへ向き直る。
「サイゾウさん。第三討伐隊は神楽殿周辺を警戒してください。隊の一部は境内の外周と、東側の避難路の確保を。ラデルカさんは、引き続き外周から地下の振動と臭いを探ってください。異変があっても、地下へは入りません」
「了解!」
「トウマ」
コトネが続ける。
「領役所へ連絡し、天巡神社周辺の住民を避難させる準備を。分社と祠へも、祭祀石に触れないよう改めて通達してください」
「直ちに」
「マリエラ。石へ触れずに観測を続けられますか」
「はい。ただし、神楽殿の中には人を残しません。外から符の変化を確認します」
「それで構いません」
コトネは最後にテンカへ向き直った。
「テンカ」
「はい」
「あなたの水行による感知は必要です。ですが、私か現場指揮官の許可なく、神楽殿へ近づくことを禁じます」
「……承知いたしました」
「不満ですか?」
「いいえ」
テンカは首を横に振った。
「わらわが今できるのは、流れを読むことだけ。ならば、読むべき時まで待つことといたします」
コトネはしばらくテンカを見つめ、静かに頷いた。
「よろしい」
神楽殿の外では、滅魔旅団の兵たちが慌ただしく動き始めていた。
夕暮れを知らせる鐘は鳴らされない。
境内に参拝者の姿はなく、四隅の火皿からも炎が消えている。
それでも、地の底の澱みは止まっていなかった。
そして、それを受け止め続けてきた最古の祭祀石には、初めてのヒビが刻まれていた。
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