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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第5章 連なる澱み
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止めきれぬもの

 陽が西へ傾き始めた頃、天巡神社へ続く石段の下から、幾つもの蹄の音が聞こえてきた。


 やがて音が止み、馬を預けた一団が石段を上ってくる。


 朝には参拝者の声が絶えなかった境内も、今は静まり返っている。正面の鳥居には神職が立ち、訪れた者を石段の下で帰していた。


 境内の奥では、神職たちが神楽殿の周囲へ新たな注連縄を張り、必要な祭具や記録を別の建物へ運んでいる。


 テンカは社務所の前へ立ち、石段を上ってくる一団を見つめた。


 先頭にいるのは、黒髪を結い上げたコトネだった。


 その後ろには、滅魔旅団団長のクレハ、副長のトウマ、調査・研究部副所長のマリエラが続いている。サイゾウの率いる第三討伐隊と、調査用の器具を背負った術士たちの姿もあった。


「母上」


 テンカが頭を下げる。


 コトネは足を止めると、まずテンカの顔と両腕を確かめた。


「怪我はありませんか」

「大事ありませぬ。水行を使った際、腕に冷たさが残りましたが、すでに消えております」

「スズネは?」

「社務所の奥で休んでおります。指先が冷えただけで、傷も黒い筋も残っておりませぬ」


 コトネは短く頷き、閉ざされた神楽殿へ視線を移した。


「報告を聞きます。確認した事実だけを、順に話しなさい」

「はい」


 テンカは神楽殿で起きたことを説明した。


 最古の祭祀石に、表面から分かる異常はなかったこと。

 水行で探ると、石の内側へ冷たい澱みが入り込んでいたこと。

 紙符を介して祭祀の積み重なりを確かめたスズネが、地の底を進む巨大な何かを感じたこと。


 そして神楽殿を出る直前、床下から2度の振動が伝わったこと。


 コトネは途中で口を挟まなかった。

 クレハも普段と変わらぬ穏やかな表情を保っていたが、深い青色の瞳は神楽殿から離れない。


「テンカ姫もスズネさんも、ご無事で何よりです」


 報告を聞き終えたクレハが言った。


「他の討伐隊は、大魔境外縁と領内各地の警戒から動かせません。ここには、現場を知る第三討伐隊を置きます」


 クレハはサイゾウへ向き直った。


「境内の北側と東側に、退路を確保してください。神楽殿の周囲には、許可のない者を近づけないように」

「承知しました」


「ラデルカさんは、境内と外周の地面をもう一度確認してください。地下から続く音や臭いに変化があれば、すぐに報告を」

「分かった」


「私たちは神楽殿へ入ります。トウマさん、周囲の配置をお願いします」

「はい、団長」


 トウマは銀縁の眼鏡を押し上げ、持参した境内図を開いた。


「神楽殿と本殿の間には防護の結界を置きます。地下の澱みを封じるものではなく、建物が崩れた場合に参拝者側へ被害を広げないためのものです」


「参拝者は、すでに境内から出ていただきました」


 祭主が社務所から出てくる。


「神職も、神楽殿へ近づく者を必要最低限に絞っています」

「ありがとうございます」


 コトネが祭主へ頭を下げた。


「こちらの都合だけで、天巡神社の祭祀を変えるつもりはありません。ですが、領民と神職の命を守るため、しばらく境内の一部をお借りします」

「もちろんです。当主様のご判断に従います」


 社務所の奥から、スズネも姿を現した。


 顔色はまだわずかに白い。それでも足取りは安定しており、右手にも包帯は巻かれていなかった。


「スズネ」


 祭主が振り返る。


「横になっていなさいと伝えたはずです」

「これ以上、祭祀石には近づきません。ですが、神楽殿の構造と祭祀の記録について、わたしから説明できることがあります」

「ならば、社務所で説明なさい。神楽殿へは行かせません」

「はい」


 スズネは素直に頭を下げた。


 役目から離れるつもりはないが、先ほどの危険を無視しているわけでもない。その姿を見て、テンカは胸の内で小さく息を吐いた。


 ◇  ◇  ◇


 神楽殿の前には、滅魔旅団の兵が配置されていた。


 サイゾウとラデルカは建物の外周を確認し、マリエラは術士たちとともに床板の上へ観測符を並べている。


 符は点検口を囲むように置かれ、それぞれの中央には、小さな透明の石が縫い付けられていた。


「この符で、何が分かるのじゃ?」


 テンカが尋ねる。


「地の下から伝わる力の強さと、広がる方向です」


 マリエラは最後の1枚を床へ置いた。


「正確な深さまでは測れません。ですが、力が神楽殿の外へ広がっているのか、祭祀石の周囲へ留まっているのかは判断できます」

「祭祀石には触れないのですね」


 キリカが確かめる。


「はい。スズネさんの紙符に起きた変化を考えれば、直接つなぐべきではありません」

 

「夜の警戒範囲を決めるには、澱みが今どこまで広がっているかを確かめる必要があります」


 トウマは点検口を囲む観測符へ視線を向けた。


「石には触れず、異常があればすぐに閉じます。それでも危険が増した場合は、調査を中止してください」

「承知しました」


 マリエラが答えた。


 その表情には慎重さがあり、器具を手にしても、いつものように前のめりにはなっていなかった。

 地下遺構で危険を経験したからなのか。それとも、スズネの指先まで黒い筋が迫ったと聞いたためなのか。


 どちらにせよ、慎重であることに異論はなかった。


「始めます」


 コトネの言葉で、神職たちが神楽殿の四隅へ移動した。


 霜を拭い取った火皿へ、小さな火が灯される。

 祭祀を行うためではない。神楽殿の空気と地の巡りに変化が起きた時、炎の揺れ方を確かめるためだった。


 四つの炎は、初めのうちは静かに燃えていた。


 トウマの指示で、兵たちが床板へ結んだ縄を引く。

 点検口を覆っていた板が、離れた位置からゆっくりと持ち上げられた。


 床下に据えられた祭祀石が姿を現す。


 朝に見た時と変わらず、灰白色の表面には黒い滲みもヒビもない。円環と祭文も、薄暗い床下に残っていた。


「見た目に変化はありません」


 マリエラが告げる。


「テンカ」


 コトネの視線が向けられた。


「触れてはなりません。周囲の流れだけを確かめなさい」

「承知しております」


 テンカは点検口から距離を取り、床へ膝をついた。


 呼吸を整え、水行を薄く巡らせる。


 黒髪の先が、淡い蒼を帯びた。


 テンカは床下の湿り気、白砂に残るわずかな水分、神楽殿の下を通って祭祀石へ重なる地の流れへ、順に意識を沿わせる。その中には、朝よりも濃い冷たさが混じっていた。


 澱みは祭祀石へ向かって流れ込んでいるのではない。地の下を通る流れへ混じったものが、祭祀石のある場所へ差しかかり、その内側へ食い込んでいる。


 石はそれを受け止めていたが、澱みそのものが消えたわけではなかった。石の内側で滞り、押し返された流れが、周囲へ押し広げられながら歪んでいる。


「朝より、重い」


 テンカは目を閉じたまま告げた。


「石はまだ堪えておる。じゃが、澱みは止まっておらぬ。下から、何度も押されておるようじゃ」


 その言葉に応じるように、床へ置かれた観測符の石が淡く曇った。


 1枚ではない。


 点検口を囲んだ符すべてに、薄い灰色が浮かんでいる。


「神楽殿の外側は?」


 トウマが尋ねる。


 術士の1人が、建物の外へ置いた符を確認する。


「外周の反応は、まだ弱いままです」

「つまり、澱みが境内全体へ広がっているわけではない」

「現時点では、そのように見えます」


 マリエラは点検口の祭祀石と、観測符を交互に見た。


「祭祀石が澱みを集めているのではありません。ここを通る地の流れに混じった澱みを、石が受け止め続けています」

「そのため、石の内側へ負荷が溜まっている?」


 コトネが問う。


「おそらくは」


 マリエラは断定を避けながらも、表情を曇らせた。


「このまま流れが強くなれば、祭祀石が耐えられなくなるか、澱みが別の場所へ抜ける可能性があります」

「地盤へ影響するということですか」

「分かりません。ですが、どちらであっても安全とは言えません」


 トウマは境内図へ視線を落とした。


「神楽殿の真下で地盤が崩れれば、建物だけでは済まない可能性があります。本殿側へ人を戻すのは避けるべきでしょう」


「祭祀石を補強することはできぬのか?」


 テンカが尋ねる。


 祭主は点検口の向こうにある石を見つめた。


「通常の祭祀で地の巡りを整えることはできます。ですが、澱みの正体が分からないまま、石へさらに力を重ねることはできません」

「流れを強くすれば、それだけ澱みまで石の内側へ押し込むおそれがあります」


 マリエラも続ける。


「今は、触れないことが最善です」


 何もせず待つことが最善。

 そう言われても、テンカの胸には重いものが残った。


 地の底に何かがいる。


 澱みは今も進み、祭祀石を内側から圧迫している。

 それでも、正体も深さも分からない以上、刀を振るうことも、五行を流すこともできない。


 床下から、低い振動が伝わった。


 観測符の石が一斉に揺れる。


「全員、下がってください!」


 マリエラの声に、テンカは水行を収めて立ち上がった。


 キリカがテンカの腕を取り、点検口から引き離す。コトネとクレハも後退し、兵たちは持ち上げられた床板へ結ばれた縄を握り直した。


 もう一度、振動が走る。


 今度は先ほどよりも近い。

 四隅の火皿に灯された炎が、神楽殿の中央へ向かって大きく傾いた。


 三度目の振動。


 四つの炎が、同時に消えた。

 暗くなった神楽殿に、乾いた音が響く。

 石と石が擦れたような音ではない。


 何か硬いものに、細い傷が入ったような音だった。


「床板を閉じろ!」


 サイゾウが命じる。


「待ってください」


 マリエラが片手を上げる。


 術士が灯りを掲げ、点検口の下を照らした。


 灰白色の祭祀石。

 その表面に刻まれた円環の端に、朝にはなかった細い線が走っている。


 黒い滲みではない。


 祭文の間を横切る、細いヒビだった。


「……石が」


 祭主の声が、わずかに掠れた。


「記録に残る限り、この祭祀石が傷ついたことはありません」


 テンカはヒビから目を離せなかった。


 最も古く、最も長く祭祀を重ねてきた石。

 黒い澱みが表面に現れてもおらず、朝には傷一つなかった石が、今、目の前で限界を示した。


「閉じてください」


 コトネが告げた。


 兵たちが縄を引き、床板を下ろす。

 点検口が閉じられ、金具が固定された。


「クレハ」

「はい、コトネ様」


「天巡神社の守りを、滅魔旅団へ任せます」

「承知しました」


 クレハは穏やかな微笑みを消していた。


「神社を戦場にするつもりはありません。ですが、戦場になってから備えるのでは遅すぎます」


 クレハがサイゾウたちへ向き直る。


「サイゾウさん。第三討伐隊は神楽殿周辺を警戒してください。隊の一部は境内の外周と、東側の避難路の確保を。ラデルカさんは、引き続き外周から地下の振動と臭いを探ってください。異変があっても、地下へは入りません」

「了解!」


「トウマ」


 コトネが続ける。


「領役所へ連絡し、天巡神社周辺の住民を避難させる準備を。分社と祠へも、祭祀石に触れないよう改めて通達してください」

「直ちに」


「マリエラ。石へ触れずに観測を続けられますか」

「はい。ただし、神楽殿の中には人を残しません。外から符の変化を確認します」

「それで構いません」


 コトネは最後にテンカへ向き直った。


「テンカ」

「はい」


「あなたの水行による感知は必要です。ですが、私か現場指揮官の許可なく、神楽殿へ近づくことを禁じます」

「……承知いたしました」

「不満ですか?」

「いいえ」


 テンカは首を横に振った。


「わらわが今できるのは、流れを読むことだけ。ならば、読むべき時まで待つことといたします」


 コトネはしばらくテンカを見つめ、静かに頷いた。


「よろしい」


 神楽殿の外では、滅魔旅団の兵たちが慌ただしく動き始めていた。


 夕暮れを知らせる鐘は鳴らされない。

 境内に参拝者の姿はなく、四隅の火皿からも炎が消えている。

 それでも、地の底の澱みは止まっていなかった。


 そして、それを受け止め続けてきた最古の祭祀石には、初めてのヒビが刻まれていた。

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