澱みの奥のもの
神楽殿の前には、すでに注連縄が渡されていた。
2人の神職が参道側に立ち、事情を知らない参拝者が近づかないよう、本殿へ続く道へ案内している。朝の境内にはいつもと変わらぬ祈りの声が流れていたが、神楽殿へ近づくにつれて、テンカの頬を撫でる空気は冷たくなっていった。
「こちらです」
先ほど社務所へ駆け込んできた神職が、開かれた戸の前で足を止める。
神楽殿の中には、朝の光が斜めに差し込んでいた。磨かれた床板も、舞台を囲む柱も、目に見える範囲では壊れていない。
異常があるのは、四隅に置かれた火皿だった。
火の入っていない芯と灰の表面を、白い霜が薄く覆っている。近くの柱や床には霜がなく、火皿だけが冬の朝へ取り残されたように冷えていた。
「夜のうちに火を使ったのか?」
ラデルカが尋ねる。
「いいえ。昨日の稽古を終えてから、火は入れておりません」
答えた神職の声には、隠しきれない戸惑いがあった。
ラデルカは神楽殿へ入ると、床に片膝をついた。板の隙間や柱の根元を確かめ、鼻先をわずかに動かす。
「魔物が入り込んだ臭いはない。血も腐りもなし」
戦斧の柄頭で床を軽く叩き、返ってくる音を聞き分ける。
「だが、あの水路で嗅いだ冷たい泥の臭いがする。下からだな」
「わらわにも、そう感じる」
テンカは床の中央へ視線を向けた。
神楽殿に足を踏み入れた時から、継火の鞘を握る左手に冷気がまとわりついている。空気そのものが冷えているのではない。床板の下を通る何かが、狭い隙間から滲み出しているような冷たさだった。
「祭祀石を確認します」
祭主が告げると、控えていた神職たちが神楽殿の奥へ進んだ。
舞台の端にある敷板を外し、その下に納められていた金具を引き上げる。床板の一部が静かに持ち上がり、点検用の口が現れた。
その下には、人が入り込めないほど低い空間があり、白砂の中央に灰白色の石が据えられている。
大きさは、これまで見てきた祭祀石とさほど変わらない。表面には五行の巡りを示す円環と、長い年月によって角の取れた祭文が刻まれていたが、黒い滲みもヒビも見当たらなかった。
「見た目には、無事じゃな」
テンカの言葉に、祭主が頷く。
「ですが、異常がないとは限りません。この石は、神楽殿と周囲の地の巡りを整えるもの。表面に変化が現れる前に、内側で受け止めている可能性があります」
「まず、わらわが流れを確かめる」
テンカは点検口の前に膝をついた。
「姫さま、触れられるのですか?」
背後からキリカが尋ねる。
「いや。今は触れぬ」
地下遺構の石壁を満たしていた澱みも、村の井戸の下を通っていた冷気も、直接触れずに流れを読むことはできた。ここで急いで手を伸ばす理由はない。
テンカは呼吸を整え、水行を薄く巡らせた。
黒髪の先が、淡い蒼を帯びる。
床下の湿り気。白砂の間に残るわずかな水分。石の内側を通る、細い魔力の巡り。
それらを乱さぬよう、意識だけを静かに沿わせていく。
祭祀石の中には、穏やかな流れが残っていた。長い年月をかけて整えられた緩やかな巡りの底へ、冷たい濁りが食い込み、流れを狭めている。
「受け止めておる」
テンカは目を閉じたまま告げた。
「石はまだ、澱みを外へ漏らさぬよう堪えておる。じゃが、鎮めきれてはおらぬ」
「澱みは、石の中に集められているのですか?」
キリカの問いに、テンカは首を横に振った。
「そうではない。地の下を通る流れに石が重なり、入り込んできた濁りを受け止めておるだけじゃ」
祭祀石が澱みを呼び寄せたわけではない。
送り火の道が、澱みをここまで運んだわけでもない。
ただ、澱みの流れと送り火の道が、同じ一帯を通っている。その重なりが神楽殿の下で、これまでより濃くなっていた。
「流れは、まだ奥へ続いていますか?」
スズネが点検口の向こうを見つめながら尋ねる。
「うむ。じゃが、深い。ここからでは輪郭まで拾えぬ」
テンカが水行を収めると、髪の先に宿っていた蒼が黒へ戻っていった。
祭主はしばらく祭祀石を見つめ、やがて袖から1枚の白い紙符を取り出した。
「スズネ。あなたは、祭祀の積み重なりを確かめなさい」
「はい」
「ただし、奥まで追ってはなりません。違和感があれば、何を感じてもすぐに手を離すこと」
「承知しました」
祭主は紙符を祭祀石の上に置いた。円環を覆わぬよう端に沿わせ、その上からスズネが右手を重ねる。
キリカがスズネのすぐ後ろへ回り、いつでも身体を引ける位置に立つ。ラデルカは点検口の反対側で戦斧を構え、2人の護衛兵には神楽殿の出入口を守らせた。
テンカも再び水行へ意識を向ける。
澱みを探るためではない。
紙符を介してスズネへ流れる力が乱れた時、すぐに断てるよう見張るためだった。
スズネがゆっくりと目を閉じる。
白い紙符に、淡い光が灯った。
祭祀石の内側に残る穏やかな巡りが、わずかに明るさを増す。送り火の夜だけではなく、雨を願った日も、旅立つ者の無事を祈った日も、長い年月の祭祀が幾重にも重なっているのだろう。
その光の底へ、黒に近い灰色が混じった。
スズネの眉がわずかに寄る。
「スズネ?」
祭主が呼びかけた。
「石に重ねられた祈りは、残っています」
目を閉じたまま、スズネが答える。
「消されてはいません。ただ、その下を……冷たいものが通っています」
「それ以上は追わなくてよい。手を離しなさい」
「はい」
返事はあった。
だが、スズネの右手は紙符の上から動かなかった。紙符の石に触れた側から黒い筋が浮かび、指先の下へじわりと広がっていく。
「スズネ!」
祭主の声が強まった。
次の瞬間、祭祀石から白い霜が広がった。円環の溝をなぞり、紙符の周囲を覆い、スズネの指先へ迫る。
テンカは水行を強めた。
澱みに正面から抗うのではなく、紙符を伝ってスズネ側へ流れる力に横から水行を沿わせ、その向きを一瞬だけ逸らす。
刺すような冷たさが腕を駆け上がり、黒髪の先が淡い蒼へ染まった。
「今じゃ、キリカ!」
「はい!」
キリカがスズネの肩と腰を抱え、祭祀石から引き離した。
白い紙符が裂け、黒ずんだ半分が石の上に残る。スズネの身体は糸が切れたように傾いたが、キリカがそのまま抱き留めた。
「スズネ!」
祭主が駆け寄る。
ラデルカは持ち上げられていた床板へ手を掛け、いつでも点検口を閉じられるよう支えた。
「閉じるぞ」
「待て」
テンカは荒くなった呼吸を整えながら、床下の流れを確かめた。
霜はそれ以上広がっていない。石の上には、黒ずんだ紙符の半分が残っていた。
「もうよい。閉じよ」
「任せろ」
ラデルカと神職たちが床板を戻し、金具を固定する。
神楽殿の中に静けさが戻った。
だが、四隅の火皿を覆う霜は消えていない。
「スズネ、聞こえますか」
祭主が頬に手を添えると、スズネの瞼がゆっくりと開いた。
「……祭主様」
「痛むところは?」
「ありません。ただ、手が少し冷たいです」
キリカに支えられながら、スズネは右手を見下ろした。指先の血色は薄いものの、黒い筋や傷はない。
テンカは胸の奥に残る冷たさを押さえ、スズネの前に膝をつく。
「何を感じた?」
問いかけると、スズネはすぐには答えなかった。
淡い翡翠色の瞳が、閉じられた床板へ向く。
「声ではありませんでした」
ようやく出た声は、いつもより掠れていた。
「誰かの姿を見たわけでもありません。けれど……澱みの奥に、何かがいます」
「何か?」
ラデルカが聞き返す。
「はい」
スズネは両手を胸元で重ね、冷えた指先を包んだ。
「たくさんではありません。1つです。とても大きな、何かが……地の底を進んでいました」
神楽殿の空気が、さらに冷えたように感じられた。
テンカは閉ざされた床下へ意識を向ける。
水行で捉えられたのは、祭祀石の下を通る濁った流れだけだった。その先に何があるかまでは見えない。
だが、流れはまっすぐではなかった。
はるか深い場所で、何か大きなものを避けるように歪み、その周囲で重く滞っている。
「わらわにも、奥までは分からぬ」
テンカは継火の柄を握った。
「じゃが、澱みの先に何かがおる。それだけは、疑いようがない」
祭主は立ち上がると、神楽殿の入口に控える神職へ向き直った。
「この場所を完全に封鎖します。祭祀石には、誰も触れてはなりません」
「承知しました」
「参拝者は本殿の手前で別の道へ。騒ぎにならないよう、境内の整備と伝えてください」
「はい」
「本邸への伝令には、今のことも加えろ」
ラデルカが護衛兵に命じる。
「祭祀石の内側まで澱みが入り込んでいる。それから、地下に大きな何かがいる可能性があるとな」
「了解!」
護衛兵の1人が神楽殿を出ていく。
スズネはキリカの腕から離れようとしたが、足元がわずかにふらついた。
「わたしは、ここに残ります」
「なりません」
祭主が即座に退ける。
「ですが、神楽殿はわたしが――」
「役目を果たすことと、危険に身を差し出すことは違います。今のあなたが残っても、できることはありません」
「……はい」
スズネは悔しさを飲み込むように唇を結び、静かに頭を下げた。
「キリカ。スズネを社務所へ」
「承知しました」
キリカは答えたものの、すぐにテンカへ視線を向けた。
「姫さまは?」
「わらわも戻る。今ここで、さらに探るつもりはない」
「安心いたしました」
「その顔は、わらわが止められぬと思っておったな?」
「少しだけ」
「そなたは本当に正直じゃな」
短いやり取りにも、キリカの表情は緩まなかった。
一行が神楽殿を出ようとした、その時だった。
足元から、低い振動が伝わった。
音と呼ぶには遠く、揺れと呼ぶには小さい。それでも、磨かれた床板の上に置かれた火皿が、かすかに震えた。
1度。
長い間を置いて、もう1度。
テンカは振り返り、閉ざされた神楽殿の中央を見据えた。
声ではない。
呼びかけでもない。
ただ、地の底にある何かが、今も進み続けている。
そのことだけが、冷たい振動となって伝わってきた。
評価やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになりますのでよろしくお願いいたします!




