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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第5章 連なる澱み
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澱みの奥のもの

 神楽殿の前には、すでに注連縄が渡されていた。


 2人の神職が参道側に立ち、事情を知らない参拝者が近づかないよう、本殿へ続く道へ案内している。朝の境内にはいつもと変わらぬ祈りの声が流れていたが、神楽殿へ近づくにつれて、テンカの頬を撫でる空気は冷たくなっていった。


「こちらです」


 先ほど社務所へ駆け込んできた神職が、開かれた戸の前で足を止める。


 神楽殿の中には、朝の光が斜めに差し込んでいた。磨かれた床板も、舞台を囲む柱も、目に見える範囲では壊れていない。


 異常があるのは、四隅に置かれた火皿だった。


 火の入っていない芯と灰の表面を、白い霜が薄く覆っている。近くの柱や床には霜がなく、火皿だけが冬の朝へ取り残されたように冷えていた。


「夜のうちに火を使ったのか?」


 ラデルカが尋ねる。


「いいえ。昨日の稽古を終えてから、火は入れておりません」


 答えた神職の声には、隠しきれない戸惑いがあった。


 ラデルカは神楽殿へ入ると、床に片膝をついた。板の隙間や柱の根元を確かめ、鼻先をわずかに動かす。


「魔物が入り込んだ臭いはない。血も腐りもなし」


 戦斧の柄頭で床を軽く叩き、返ってくる音を聞き分ける。


「だが、あの水路で嗅いだ冷たい泥の臭いがする。下からだな」

「わらわにも、そう感じる」


 テンカは床の中央へ視線を向けた。


 神楽殿に足を踏み入れた時から、継火の鞘を握る左手に冷気がまとわりついている。空気そのものが冷えているのではない。床板の下を通る何かが、狭い隙間から滲み出しているような冷たさだった。


「祭祀石を確認します」


 祭主が告げると、控えていた神職たちが神楽殿の奥へ進んだ。


 舞台の端にある敷板を外し、その下に納められていた金具を引き上げる。床板の一部が静かに持ち上がり、点検用の口が現れた。


 その下には、人が入り込めないほど低い空間があり、白砂の中央に灰白色の石が据えられている。


 大きさは、これまで見てきた祭祀石とさほど変わらない。表面には五行の巡りを示す円環と、長い年月によって角の取れた祭文が刻まれていたが、黒い滲みもヒビも見当たらなかった。


「見た目には、無事じゃな」


 テンカの言葉に、祭主が頷く。


「ですが、異常がないとは限りません。この石は、神楽殿と周囲の地の巡りを整えるもの。表面に変化が現れる前に、内側で受け止めている可能性があります」


「まず、わらわが流れを確かめる」


 テンカは点検口の前に膝をついた。


「姫さま、触れられるのですか?」


 背後からキリカが尋ねる。


「いや。今は触れぬ」


 地下遺構の石壁を満たしていた澱みも、村の井戸の下を通っていた冷気も、直接触れずに流れを読むことはできた。ここで急いで手を伸ばす理由はない。


 テンカは呼吸を整え、水行を薄く巡らせた。


 黒髪の先が、淡い蒼を帯びる。


 床下の湿り気。白砂の間に残るわずかな水分。石の内側を通る、細い魔力の巡り。

 それらを乱さぬよう、意識だけを静かに沿わせていく。


 祭祀石の中には、穏やかな流れが残っていた。長い年月をかけて整えられた緩やかな巡りの底へ、冷たい濁りが食い込み、流れを狭めている。


「受け止めておる」


 テンカは目を閉じたまま告げた。


「石はまだ、澱みを外へ漏らさぬよう堪えておる。じゃが、鎮めきれてはおらぬ」

「澱みは、石の中に集められているのですか?」


 キリカの問いに、テンカは首を横に振った。


「そうではない。地の下を通る流れに石が重なり、入り込んできた濁りを受け止めておるだけじゃ」


 祭祀石が澱みを呼び寄せたわけではない。

 送り火の道が、澱みをここまで運んだわけでもない。


 ただ、澱みの流れと送り火の道が、同じ一帯を通っている。その重なりが神楽殿の下で、これまでより濃くなっていた。


「流れは、まだ奥へ続いていますか?」


 スズネが点検口の向こうを見つめながら尋ねる。


「うむ。じゃが、深い。ここからでは輪郭まで拾えぬ」


 テンカが水行を収めると、髪の先に宿っていた蒼が黒へ戻っていった。


 祭主はしばらく祭祀石を見つめ、やがて袖から1枚の白い紙符を取り出した。


「スズネ。あなたは、祭祀の積み重なりを確かめなさい」

「はい」


「ただし、奥まで追ってはなりません。違和感があれば、何を感じてもすぐに手を離すこと」

「承知しました」


 祭主は紙符を祭祀石の上に置いた。円環を覆わぬよう端に沿わせ、その上からスズネが右手を重ねる。


 キリカがスズネのすぐ後ろへ回り、いつでも身体を引ける位置に立つ。ラデルカは点検口の反対側で戦斧を構え、2人の護衛兵には神楽殿の出入口を守らせた。


 テンカも再び水行へ意識を向ける。


 澱みを探るためではない。

 紙符を介してスズネへ流れる力が乱れた時、すぐに断てるよう見張るためだった。


 スズネがゆっくりと目を閉じる。

 白い紙符に、淡い光が灯った。


 祭祀石の内側に残る穏やかな巡りが、わずかに明るさを増す。送り火の夜だけではなく、雨を願った日も、旅立つ者の無事を祈った日も、長い年月の祭祀が幾重にも重なっているのだろう。


 その光の底へ、黒に近い灰色が混じった。


 スズネの眉がわずかに寄る。


「スズネ?」


 祭主が呼びかけた。


「石に重ねられた祈りは、残っています」


 目を閉じたまま、スズネが答える。


「消されてはいません。ただ、その下を……冷たいものが通っています」

「それ以上は追わなくてよい。手を離しなさい」

「はい」


 返事はあった。


 だが、スズネの右手は紙符の上から動かなかった。紙符の石に触れた側から黒い筋が浮かび、指先の下へじわりと広がっていく。


「スズネ!」


 祭主の声が強まった。


 次の瞬間、祭祀石から白い霜が広がった。円環の溝をなぞり、紙符の周囲を覆い、スズネの指先へ迫る。


 テンカは水行を強めた。


 澱みに正面から抗うのではなく、紙符を伝ってスズネ側へ流れる力に横から水行を沿わせ、その向きを一瞬だけ逸らす。

 刺すような冷たさが腕を駆け上がり、黒髪の先が淡い蒼へ染まった。


「今じゃ、キリカ!」

「はい!」


 キリカがスズネの肩と腰を抱え、祭祀石から引き離した。


 白い紙符が裂け、黒ずんだ半分が石の上に残る。スズネの身体は糸が切れたように傾いたが、キリカがそのまま抱き留めた。


「スズネ!」


 祭主が駆け寄る。


 ラデルカは持ち上げられていた床板へ手を掛け、いつでも点検口を閉じられるよう支えた。


「閉じるぞ」

「待て」


 テンカは荒くなった呼吸を整えながら、床下の流れを確かめた。

 霜はそれ以上広がっていない。石の上には、黒ずんだ紙符の半分が残っていた。


「もうよい。閉じよ」

「任せろ」


 ラデルカと神職たちが床板を戻し、金具を固定する。


 神楽殿の中に静けさが戻った。


 だが、四隅の火皿を覆う霜は消えていない。


「スズネ、聞こえますか」


 祭主が頬に手を添えると、スズネの瞼がゆっくりと開いた。


「……祭主様」

「痛むところは?」

「ありません。ただ、手が少し冷たいです」


 キリカに支えられながら、スズネは右手を見下ろした。指先の血色は薄いものの、黒い筋や傷はない。


 テンカは胸の奥に残る冷たさを押さえ、スズネの前に膝をつく。


「何を感じた?」


 問いかけると、スズネはすぐには答えなかった。


 淡い翡翠色の瞳が、閉じられた床板へ向く。


「声ではありませんでした」


 ようやく出た声は、いつもより掠れていた。


「誰かの姿を見たわけでもありません。けれど……澱みの奥に、何かがいます」

「何か?」


 ラデルカが聞き返す。


「はい」


 スズネは両手を胸元で重ね、冷えた指先を包んだ。


「たくさんではありません。1つです。とても大きな、何かが……地の底を進んでいました」


 神楽殿の空気が、さらに冷えたように感じられた。


 テンカは閉ざされた床下へ意識を向ける。


 水行で捉えられたのは、祭祀石の下を通る濁った流れだけだった。その先に何があるかまでは見えない。


 だが、流れはまっすぐではなかった。

 はるか深い場所で、何か大きなものを避けるように歪み、その周囲で重く滞っている。


「わらわにも、奥までは分からぬ」


 テンカは継火の柄を握った。


「じゃが、澱みの先に何かがおる。それだけは、疑いようがない」


 祭主は立ち上がると、神楽殿の入口に控える神職へ向き直った。


「この場所を完全に封鎖します。祭祀石には、誰も触れてはなりません」

「承知しました」

「参拝者は本殿の手前で別の道へ。騒ぎにならないよう、境内の整備と伝えてください」

「はい」


「本邸への伝令には、今のことも加えろ」


 ラデルカが護衛兵に命じる。


「祭祀石の内側まで澱みが入り込んでいる。それから、地下に大きな何かがいる可能性があるとな」

「了解!」


 護衛兵の1人が神楽殿を出ていく。


 スズネはキリカの腕から離れようとしたが、足元がわずかにふらついた。


「わたしは、ここに残ります」

「なりません」


 祭主が即座に退ける。


「ですが、神楽殿はわたしが――」

「役目を果たすことと、危険に身を差し出すことは違います。今のあなたが残っても、できることはありません」

「……はい」


 スズネは悔しさを飲み込むように唇を結び、静かに頭を下げた。


「キリカ。スズネを社務所へ」

「承知しました」


 キリカは答えたものの、すぐにテンカへ視線を向けた。


「姫さまは?」

「わらわも戻る。今ここで、さらに探るつもりはない」

「安心いたしました」

「その顔は、わらわが止められぬと思っておったな?」

「少しだけ」

「そなたは本当に正直じゃな」


 短いやり取りにも、キリカの表情は緩まなかった。


 一行が神楽殿を出ようとした、その時だった。


 足元から、低い振動が伝わった。


 音と呼ぶには遠く、揺れと呼ぶには小さい。それでも、磨かれた床板の上に置かれた火皿が、かすかに震えた。


 1度。


 長い間を置いて、もう1度。


 テンカは振り返り、閉ざされた神楽殿の中央を見据えた。


 声ではない。

 呼びかけでもない。


 ただ、地の底にある何かが、今も進み続けている。


 そのことだけが、冷たい振動となって伝わってきた。

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