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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第5章 連なる澱み
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送り火の道

 苔に覆われた慰霊碑の前で、黒い足跡は途切れていた。


 スズネは石碑の表面を傷つけないよう、柔らかな布で苔の一部を拭った。風雨に削られた文字の下から、火を載せた小舟に似た印が姿を現す。


「この印を、ご存じなのですか?」


 隣から石碑を覗き込んだテンカが尋ねる。


「天巡神社で、古い葬送の記録に使われていた印です」


 スズネは懐から紙を取り出し、読み取れる文字と印の形を書き写していく。


「今はほとんど使われていません。ですが、送り火に関わる場所に刻まれていたと教わりました」

「送り火……死者を送る祭りか」

「はい」


 スズネは頷いたものの、それ以上を断定しなかった。


 慰霊碑と、消えない足跡。


 その2つが同じ場所にあったからといって、澱みが死者を求めているとは限らない。偶然、古い水路や地の流れが重なっているだけという可能性もあった。


 ラデルカは木々の隙間から空を見上げた。

 陽はすでに傾き、林の中には夕暮れの影が広がり始めている。


「ここで調べられるのは、そのくらいだな」


 戦斧を肩へ担ぎ、護衛兵たちへ視線を向ける。


「祠と慰霊碑の周囲を封鎖しろ。祭祀石には触れるな。倒した魔物も、回収班が来るまで動かさない方がいい」

「了解!」


「暗くなる前に戻るぞ。夜の林で、今度は何が寄ってくるか分からん」


 スズネが書き写した紙を丁寧に畳む。


「天巡神社へ戻れば、古い祭務帳を確認できます」

「この印が、ほかの場所にも残っておるかもしれぬな」

「はい。祭主様なら、さらに古い記録もご存じのはずです」


 テンカは最後に、黒い足跡へ目を向けた。


 水にも雨にも消されず、死者を弔う石の前に残された跡。

 答えは、まだ地の底に沈んでいた。


 ◇  ◇  ◇


 翌朝。

 天巡神社の社務所には、古い祭務帳と地図がいくつも広げられていた。


 普段、領内各地から届いた書状を整理している長机の上に、革紐で綴じられた帳面が積まれている。紙は黄ばみ、端の一部は崩れかけていた。


 その中の1冊を、祭主が慎重に開く。


「この印で間違いありません」


 昨日スズネが書き写したものと、祭務帳の端に描かれた印を見比べる。


 火を載せた小舟。


 形には多少の違いがあるものの、同じ印だった。


「かつて、この一帯には送り火の巡回路がありました」

「巡回路?」


 テンカが聞き返す。


「今のように街道が整う前の話です」


 祭主は祭務帳の文字を指で追った。


「送り火の時期になると、天巡神社の神職が領内の分社や祠を巡りました。慰霊碑の前で亡くなった方々の名を読み上げ、火を灯し、最後にこの神社へ戻ったのです」

「各地の火を、ここへ運んだのですか?」


 キリカの問いに、祭主は首を横へ振る。


「実際の火を持ち運んだわけではありません。分社と祠を順に巡り、それぞれの土地で死者を送るための火を灯したのです」


 祭主は開いた祭務帳の横に、古い地図を広げた。


「その順路が、送り火の道と呼ばれていました」


 地図には現在の街道とは異なる、細い線が描かれている。

 南西から北東へ。

 山裾や古い水路を通り、点在する分社や祠を結びながら、最後は天巡神社へ行き着いていた。


 テンカは、持ち帰った調査用の地図を隣に広げた。


 地下遺構の推定範囲と、最初に黒く澱んだ祭祀石。

 そこから先には、目の前でヒビが生じた分社と、水が冷たくなった村の井戸が並ぶ。


 そして、黒い足跡が集まっていた水路沿いの祠。


「重なっておる」


 異変が確認された場所を順に指で辿ると、古い送り火の道とほとんど同じ方向に並んでいた。


 ラデルカが長机の端に両手をつき、地図を覗き込む。


「昔の道が残っているだけじゃないのか? 水路沿いや歩きやすい土地を選べば、似た道になることもあるだろ」


「その可能性はあります」


 スズネが答えた。


「祭祀石も、地の流れが乱れやすい場所に置かれています。昔の神職たちが、同じ地形を利用して巡回路を定めたのかもしれません」

「では、死者を弔う場所だから澱みが集まっているとは限らぬのじゃな」

「はい。今の記録だけでは断定できません」


 祭主も静かに頷いた。


「死者を弔う場所で異変が起きたからといって、死者が異変を起こしているとは限りません」


 その声音は穏やかだったが、言葉には重みがあった。


「亡くなった方々を、分からないものの原因にしてはなりません」


 テンカは慰霊碑の前に残っていた足跡を思い出した。


 澱みが死者の場所を辿っているのか。祭祀石が置かれた場所を通る地の流れが、偶然送り火の道と重なっているのか。

 あるいは、まだ見えていない別の理由があるのか。


 答えは出ない。


 だが、進む方向だけは分かる。


「送り火の道は、この先どこへ続く?」


 テンカが尋ねると、祭主は古い地図の線を指で辿った。


 分社や祠、古い墓地、そして水害や戦で亡くなった者たちを弔う碑。

 細い線はそれらを結びながら領都へ入り、最後は天巡神社の印に重なっていた。


「終点は、ここです」


 祭主の指が止まった。


「正確には、天巡神社の神楽殿です」


 祭主は地図に置いた指を動かさずに続ける。


「送り火の夜、あの場所で鎮魂の舞を奉納します。死者を呼び戻すためではなく、生きる者が別れを告げ、亡き者を送るための舞です」


 スズネの表情がわずかに強張った。


 その舞を担うのは、スズネだった。


「神楽殿の下にも、祭祀石があるのか?」


 テンカの問いに、祭主が頷く。


「天巡神社で最も古い祭祀石があります。神楽殿と、その周囲の地の巡りを整えるためのものです」

「ほかの祭祀石より、大きいのですか?」


 キリカが尋ねる。


「大きさだけなら、さほど変わりません。ですが、長い年月にわたって祭祀を重ねてきた石です」


 ラデルカが地図を睨む。


「このまま澱みが北東へ進むなら、その石へ行き着く可能性があるということか」

「可能性は高い」


 テンカは古い道の上に指を置いた。


 昨日の井戸で感じた流れ。

 水路の下を通り、祠へ近づいていた冷たい澱み。


 あれが進んでいた方向と、送り火の道は一致している。


「じゃが、澱みに意思があるかは分からぬ。この道の先に、神社があるというだけかもしれん」

「それで十分だ」


 ラデルカは地図から顔を上げた。


「来るかもしれないなら、備える理由になる」


 祭主もすぐに指示を出す。


「神楽殿への立ち入りを止めます。祭祀石の状態を確かめる神職以外は、近づけないようにしてください」

「はい」


 控えていた神職が頭を下げた。


「送り火の道に沿う分社と祠へも、警戒を伝えなさい。祭祀石、井戸、水路に変化があれば、すぐに報告するように」

「承知しました」


「わたしは神楽殿を確認します」


 スズネが立ち上がろうとした。


「待ちなさい」


 祭主の声に、その動きが止まる。


「あなた1人で確かめることではありません」

「ですが、神楽殿はわたしが――」

「あなたが舞を担っていることと、原因の分からない澱みに不用意に触れることは別です」


 スズネは一瞬だけ唇を結び、やがて静かに頭を下げた。


「……はい」


 テンカはその横顔を見つめた。


 穏やかで、現実的で、分からないことを分かったようには言わない少女。

 それでも、自分が役目を担う場所へ危険が迫っていると知れば、平静ではいられないのだろう。


「スズネ」


 呼びかけると、淡い翡翠色の瞳がこちらを向いた。


「わらわも行く」

「テンカ様」

「地下の澱みを知る者と、祭祀石を知る者。2人で見た方がよかろう」


 スズネは少しだけ目を見開き、柔らかく頷いた。


「ありがとうございます」


「わたしも参ります」


 キリカが間を置かずに告げる。


「無論じゃ」

「姫さまが、当然のように置いていこうとなさらなくて安心しました」

「そのような顔をしておったか?」

「少しだけ」


「では、私も護衛を出す」


 ラデルカが身体を起こす。


「その前に本邸へ伝令だ。当主様と副長にも、この道のことを知らせる」


 調査の方針が決まり、社務所の中が慌ただしく動き始めた。

 古い祭務帳が閉じられ、地図に新たな印が加えられる。


 その時。


 社務所の外から、駆けてくる足音が聞こえた。


「祭主様!」


 若い神職が、息を切らしながら入口に現れた。


「神楽殿で、異変がございます」

「何がありました」

「床が……冷たいのです」


 神職は一度息を整え、続けた。


「それから、舞台の四隅へ置かれた火皿に、薄い霜が付いております」


 スズネの顔から、血の気が引いた。


 テンカは椅子から立ち上がり、継火の柄に手を添える。


「案内せよ」


 一行が社務所を出る。


 朝の天巡神社には、いつもと変わらず参拝者の姿があり、本殿からは静かな祈りの声が聞こえていた。


 その奥。


 地の底を進んできた澱みは、すでに神楽殿の足元まで迫っていた。

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