送り火の道
苔に覆われた慰霊碑の前で、黒い足跡は途切れていた。
スズネは石碑の表面を傷つけないよう、柔らかな布で苔の一部を拭った。風雨に削られた文字の下から、火を載せた小舟に似た印が姿を現す。
「この印を、ご存じなのですか?」
隣から石碑を覗き込んだテンカが尋ねる。
「天巡神社で、古い葬送の記録に使われていた印です」
スズネは懐から紙を取り出し、読み取れる文字と印の形を書き写していく。
「今はほとんど使われていません。ですが、送り火に関わる場所に刻まれていたと教わりました」
「送り火……死者を送る祭りか」
「はい」
スズネは頷いたものの、それ以上を断定しなかった。
慰霊碑と、消えない足跡。
その2つが同じ場所にあったからといって、澱みが死者を求めているとは限らない。偶然、古い水路や地の流れが重なっているだけという可能性もあった。
ラデルカは木々の隙間から空を見上げた。
陽はすでに傾き、林の中には夕暮れの影が広がり始めている。
「ここで調べられるのは、そのくらいだな」
戦斧を肩へ担ぎ、護衛兵たちへ視線を向ける。
「祠と慰霊碑の周囲を封鎖しろ。祭祀石には触れるな。倒した魔物も、回収班が来るまで動かさない方がいい」
「了解!」
「暗くなる前に戻るぞ。夜の林で、今度は何が寄ってくるか分からん」
スズネが書き写した紙を丁寧に畳む。
「天巡神社へ戻れば、古い祭務帳を確認できます」
「この印が、ほかの場所にも残っておるかもしれぬな」
「はい。祭主様なら、さらに古い記録もご存じのはずです」
テンカは最後に、黒い足跡へ目を向けた。
水にも雨にも消されず、死者を弔う石の前に残された跡。
答えは、まだ地の底に沈んでいた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
天巡神社の社務所には、古い祭務帳と地図がいくつも広げられていた。
普段、領内各地から届いた書状を整理している長机の上に、革紐で綴じられた帳面が積まれている。紙は黄ばみ、端の一部は崩れかけていた。
その中の1冊を、祭主が慎重に開く。
「この印で間違いありません」
昨日スズネが書き写したものと、祭務帳の端に描かれた印を見比べる。
火を載せた小舟。
形には多少の違いがあるものの、同じ印だった。
「かつて、この一帯には送り火の巡回路がありました」
「巡回路?」
テンカが聞き返す。
「今のように街道が整う前の話です」
祭主は祭務帳の文字を指で追った。
「送り火の時期になると、天巡神社の神職が領内の分社や祠を巡りました。慰霊碑の前で亡くなった方々の名を読み上げ、火を灯し、最後にこの神社へ戻ったのです」
「各地の火を、ここへ運んだのですか?」
キリカの問いに、祭主は首を横へ振る。
「実際の火を持ち運んだわけではありません。分社と祠を順に巡り、それぞれの土地で死者を送るための火を灯したのです」
祭主は開いた祭務帳の横に、古い地図を広げた。
「その順路が、送り火の道と呼ばれていました」
地図には現在の街道とは異なる、細い線が描かれている。
南西から北東へ。
山裾や古い水路を通り、点在する分社や祠を結びながら、最後は天巡神社へ行き着いていた。
テンカは、持ち帰った調査用の地図を隣に広げた。
地下遺構の推定範囲と、最初に黒く澱んだ祭祀石。
そこから先には、目の前でヒビが生じた分社と、水が冷たくなった村の井戸が並ぶ。
そして、黒い足跡が集まっていた水路沿いの祠。
「重なっておる」
異変が確認された場所を順に指で辿ると、古い送り火の道とほとんど同じ方向に並んでいた。
ラデルカが長机の端に両手をつき、地図を覗き込む。
「昔の道が残っているだけじゃないのか? 水路沿いや歩きやすい土地を選べば、似た道になることもあるだろ」
「その可能性はあります」
スズネが答えた。
「祭祀石も、地の流れが乱れやすい場所に置かれています。昔の神職たちが、同じ地形を利用して巡回路を定めたのかもしれません」
「では、死者を弔う場所だから澱みが集まっているとは限らぬのじゃな」
「はい。今の記録だけでは断定できません」
祭主も静かに頷いた。
「死者を弔う場所で異変が起きたからといって、死者が異変を起こしているとは限りません」
その声音は穏やかだったが、言葉には重みがあった。
「亡くなった方々を、分からないものの原因にしてはなりません」
テンカは慰霊碑の前に残っていた足跡を思い出した。
澱みが死者の場所を辿っているのか。祭祀石が置かれた場所を通る地の流れが、偶然送り火の道と重なっているのか。
あるいは、まだ見えていない別の理由があるのか。
答えは出ない。
だが、進む方向だけは分かる。
「送り火の道は、この先どこへ続く?」
テンカが尋ねると、祭主は古い地図の線を指で辿った。
分社や祠、古い墓地、そして水害や戦で亡くなった者たちを弔う碑。
細い線はそれらを結びながら領都へ入り、最後は天巡神社の印に重なっていた。
「終点は、ここです」
祭主の指が止まった。
「正確には、天巡神社の神楽殿です」
祭主は地図に置いた指を動かさずに続ける。
「送り火の夜、あの場所で鎮魂の舞を奉納します。死者を呼び戻すためではなく、生きる者が別れを告げ、亡き者を送るための舞です」
スズネの表情がわずかに強張った。
その舞を担うのは、スズネだった。
「神楽殿の下にも、祭祀石があるのか?」
テンカの問いに、祭主が頷く。
「天巡神社で最も古い祭祀石があります。神楽殿と、その周囲の地の巡りを整えるためのものです」
「ほかの祭祀石より、大きいのですか?」
キリカが尋ねる。
「大きさだけなら、さほど変わりません。ですが、長い年月にわたって祭祀を重ねてきた石です」
ラデルカが地図を睨む。
「このまま澱みが北東へ進むなら、その石へ行き着く可能性があるということか」
「可能性は高い」
テンカは古い道の上に指を置いた。
昨日の井戸で感じた流れ。
水路の下を通り、祠へ近づいていた冷たい澱み。
あれが進んでいた方向と、送り火の道は一致している。
「じゃが、澱みに意思があるかは分からぬ。この道の先に、神社があるというだけかもしれん」
「それで十分だ」
ラデルカは地図から顔を上げた。
「来るかもしれないなら、備える理由になる」
祭主もすぐに指示を出す。
「神楽殿への立ち入りを止めます。祭祀石の状態を確かめる神職以外は、近づけないようにしてください」
「はい」
控えていた神職が頭を下げた。
「送り火の道に沿う分社と祠へも、警戒を伝えなさい。祭祀石、井戸、水路に変化があれば、すぐに報告するように」
「承知しました」
「わたしは神楽殿を確認します」
スズネが立ち上がろうとした。
「待ちなさい」
祭主の声に、その動きが止まる。
「あなた1人で確かめることではありません」
「ですが、神楽殿はわたしが――」
「あなたが舞を担っていることと、原因の分からない澱みに不用意に触れることは別です」
スズネは一瞬だけ唇を結び、やがて静かに頭を下げた。
「……はい」
テンカはその横顔を見つめた。
穏やかで、現実的で、分からないことを分かったようには言わない少女。
それでも、自分が役目を担う場所へ危険が迫っていると知れば、平静ではいられないのだろう。
「スズネ」
呼びかけると、淡い翡翠色の瞳がこちらを向いた。
「わらわも行く」
「テンカ様」
「地下の澱みを知る者と、祭祀石を知る者。2人で見た方がよかろう」
スズネは少しだけ目を見開き、柔らかく頷いた。
「ありがとうございます」
「わたしも参ります」
キリカが間を置かずに告げる。
「無論じゃ」
「姫さまが、当然のように置いていこうとなさらなくて安心しました」
「そのような顔をしておったか?」
「少しだけ」
「では、私も護衛を出す」
ラデルカが身体を起こす。
「その前に本邸へ伝令だ。当主様と副長にも、この道のことを知らせる」
調査の方針が決まり、社務所の中が慌ただしく動き始めた。
古い祭務帳が閉じられ、地図に新たな印が加えられる。
その時。
社務所の外から、駆けてくる足音が聞こえた。
「祭主様!」
若い神職が、息を切らしながら入口に現れた。
「神楽殿で、異変がございます」
「何がありました」
「床が……冷たいのです」
神職は一度息を整え、続けた。
「それから、舞台の四隅へ置かれた火皿に、薄い霜が付いております」
スズネの顔から、血の気が引いた。
テンカは椅子から立ち上がり、継火の柄に手を添える。
「案内せよ」
一行が社務所を出る。
朝の天巡神社には、いつもと変わらず参拝者の姿があり、本殿からは静かな祈りの声が聞こえていた。
その奥。
地の底を進んできた澱みは、すでに神楽殿の足元まで迫っていた。
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