消えない足跡
村の広場に給水魔導具が据えられ、共同井戸の周囲へ縄が張られたことを確認してから、テンカたちは次の祠へ向かった。
時刻は正午を回り、陽は西へ傾き始めている。
村を抜けた先には、畑の間を縫うように古い水路が伸びていた。石を積み上げて造られた細い流れで、長い年月の間に一部は崩れ、隙間から草が伸びている。
それでも水量は安定しており、下流の畑を潤す役目を今も果たしているようだった。
「この水路の先に祠があるのですね」
スズネが、村の老人から渡された簡素な地図を確かめる。
「うむ。村人の話では、林へ入って間もなくじゃ」
テンカは歩きながら、水路へ目を向けた。
流れる水は澄んでいる。井戸で感じた冷たさも、ここではまだ薄い。
だが、水路の下を通る地の流れへ意識を向けると、細い澱みが北東へ続いているのを感じた。井戸を通り過ぎ、さらに先へ進んでいる。
「姫さま」
キリカが小声で呼ぶ。
「また、澱みを感じるのですか?」
「うむ。じゃが、先ほどより遠い。わらわたちの少し先を流れておるようじゃ」
テンカの答えを聞き、前方を歩いていたラデルカが足を止めた。
「先を急ぎたいところだが、焦って足元を見落とすなよ」
褐色の犬耳が左右へ動く。
「獣の臭いがする」
ラデルカは水路脇の泥へ近づき、片膝をついた。
柔らかい土の上に、いくつもの足跡が残されている。
人のものではない。
丸い肉球と深く沈んだ爪痕。大きさは成獣の狼ほどだが、歩幅が不揃いで、左右へふらついている。
「狼か?」
テンカも足跡の手前へしゃがんだ。
「似ているが、少し違うな。大魔境に近い森へ棲む、獣型の魔物だろう」
ラデルカが土へ顔を近づけ、鼻を鳴らす。
「妙な臭いが混じっている。地下で嗅いだものほど強くはないが、冷えた泥のような……気持ちの悪い臭いだ」
テンカは足跡の一つへ目を凝らした。
窪んだ泥の底に、黒い色が沈んでいる。
水路から溢れた水が足跡へ流れ込み、濁った泥を少しずつ洗い流していた。だが、黒い滲みだけは薄くならない。
「水に流されておらぬ」
スズネが紙符を取り出し、足跡の上へかざした。
白い紙の端へ、淡い灰色が浮かぶ。
「祭祀石ほど濃くはありません。ですが、似た冷たさを感じます」
「この魔物どもが、澱みを運んだのか?」
テンカが尋ねると、スズネは首を横へ振った。
「まだ分かりません。澱みに触れた結果、足跡へ残った可能性もあります」
足跡は水路に沿って北東へ続いていた。
真っ直ぐ歩いているものは少ない。水辺へ近づいたり、畑との境を踏み荒らしたりしながら、それでも全体としては祠の方角へ向かっている。
ラデルカが立ち上がり、戦斧の柄へ手を掛けた。
「護衛は前後へ分かれろ。スズネは中央。姫さまとキリカも隊列から離れるな」
「承知した」
一行は足音を抑え、黒い足跡を追った。
水路の両脇には背の高い草が生い茂り、風が吹くたびに穂先が擦れ合っている。小鳥の声も、虫の羽音も聞こえた。
それだけなら、穏やかな農村の風景だった。
だが、足跡は少しずつ増えていた。
1頭ではない。少なくとも4頭。
そのうちいくつかは水路の中へ入り、浅い流れを横切って反対側の茂みへ続いている。
テンカは腰の継火へ手を添えた。
その時、水面が揺れた。
風による波とは違う。水路の中へ沈んでいた何かが、底を蹴った揺れだった。
「水の中じゃ!」
テンカの声と同時に、黒い影が水路から飛び出した。
狼に似た姿をしている。
だが、灰色の毛皮は泥と黒い筋に覆われ、白く濁った眼は獲物を見ていなかった。口を大きく開き、牙を剥いたまま、最も近くにいたスズネへ飛びかかる。
キリカが前へ出て、袖口から抜いた簡易符を投じた。
白い光が魔物の眼前で弾け、顔がわずかに逸れる。キリカはその隙に短刀を抜き、振り下ろされた前脚を受け流した。
「スズネ様、下がってください!」
別の茂みが揺れ、2体目が横から飛び出す。
ラデルカは戦斧の柄を両手で押し出し、魔物の胸を正面から受け止めた。勢いを殺さず、そのまま身体を水路の石壁へ叩きつける。
「4体いるぞ! 囲まれる前に片づける!」
護衛兵が槍を構えた。
3体目が畑側から回り込み、最後の1体は背の高い草へ身体を伏せたまま近づいている。
姿は見えない。
だが、水路の水面へわずかな波紋が広がった。泥が沈み、草の根元から雫が落ちる。
「右じゃ! 来るぞ!」
兵が槍を向けた直後、草の間から魔物が飛び出した。
穂先が肩へ突き刺さる。
通常の獣であれば、怯んで後退するはずだった。だが魔物は止まらず、自ら傷口を広げながら槍の柄へ沿って進み、兵の腕へ牙を届かせようとする。
「槍を離せ!」
ラデルカの号令に、兵が即座に手を放した。
テンカは継火を抜き、金行を薄く刃へ通す。
硬質な力が身体を駆け、頬をかすめた黒髪の一房が、視界の端で白銀へ染まった。
1歩踏み込み、魔物の首ではなく、地面を掻いていた前脚へ刃を走らせる。
白銀の軌跡が交差し、2本の前脚が断たれた。
体勢を失った魔物が泥の上へ倒れる。そこへ護衛兵が別の槍を突き込み、頭部を地面へ縫い止めた。
背後で低い唸り声が響く。
キリカが相手をしていた魔物が、短刀で脇腹を裂かれながらも、再びスズネへ向かおうとしていた。
「まだ動きます!」
スズネが紙符を地面へ放った。
淡い光が魔物の脚へ絡みつき、その動きを一瞬だけ止めた。
テンカは間合いへ入り、返した刃で喉元へ一閃を走らせる。魔物の身体が地面へ崩れた。
ラデルカが石壁へ叩きつけた1体へ戦斧を振り下ろし、残る1体も兵たちの槍によって仕留められた。
水路に、再び水音だけが戻った。
「全員、怪我は?」
ラデルカが周囲を見渡す。
「ありません!」
護衛兵たちが答えた。
キリカも短刀を構えたまま、テンカとスズネの姿を確かめていた。
「姫さま、ご無事ですか」
「うむ。そなたもな」
テンカは継火についた血を払い、鞘へ納めた。
戦いは短かった。
地下で遭遇した異形ほど強くはなく、異常な再生を見せることもなかった。それでも、傷を負っても怯まず、倒れるまで前へ進み続ける姿は、地下の異形を思い起こさせた。
ラデルカが倒れた魔物を仰向けにし、腹の毛を掻き分ける。皮膚には、腹から前脚にかけて黒い筋が浮かんでいた。特に濃いのは、泥に触れていた脚先と、牙の周囲だった。
「水を飲んだのか?」
護衛兵の一人が呟く。
「断定はできぬ」
テンカは魔物の口元へ目を向けた。
「水へ触れたのかもしれぬ。泥を舐めたのかもしれぬ。あるいは、別の場所で澱みに触れた可能性もある」
スズネが紙符を魔物の腹へかざすと、その端へ足跡を調べた時よりも濃い灰色が浮かんだ。
「この魔物たちは、澱みのある場所を通っています」
「井戸の封鎖は継続だな」
ラデルカが低く言う。
「原因が分からん以上、村の連中を同じものに触れさせるわけにはいかない」
テンカは水路を見た。
流れる水は、変わらず澄んでいる。
見た目だけでは、その下に何が潜んでいるのか分からなかった。
「先へ進もう」
ラデルカが戦斧を担ぎ直す。
「こいつらがどこから来たのか、足跡が残っているうちに確かめる」
黒い足跡は、倒した魔物たちが現れた茂みの奥へ続いていた。
林へ入ると、陽光は枝葉に遮られ、足元へ届く光が薄くなる。古い水路は苔に覆われ、所々で木の根に押し上げられていた。
やがて、木々の間に小さな鳥居が見えた。
その奥に、石造りの祠が建っている。
「ここです」
スズネが地図を畳んだ。
祠の周囲に人の姿はない。
魔除けの火は消えておらず、社殿にも目立った損傷は見当たらなかった。祭祀石を囲む石組みにも、ヒビや黒い滲みはない。
だが、地面には無数の足跡が残されていた。
倒した4体だけのものではない。
新しいものと古いものが重なり、水路側から祠の周囲へ集まっている。
「祭祀石へ寄ってきたのでしょうか」
キリカが尋ねる。
「まだ分かりません」
スズネは石囲いの手前へ膝をついた。
「祭祀石が地の乱れを引き受ける性質を持つため、澱みに触れた魔物が、結果として近づいた可能性はあります」
紙符を四方へ置き、祭祀石の状態を確かめる。
淡い光が灯った。
すぐには黒くならない。
だが、スズネの表情は晴れなかった。
「表面に異常はありません。ですが、内側へ冷たいものが入り始めています」
「まだ受け止めきれておるのか?」
「今は。ですが、このまま澱みが流れ込み続ければ、先ほどの分社と同じことが起きるかもしれません」
テンカは祠の周囲へ目を向けた。
黒い足跡は祭祀石の前で重なり、その多くは林の奥へ続いていた。
ただし、すべてではない。
いくつかの足跡が、祠の裏へ続いていた。
「向こうにも何かある」
一行が祠の裏手へ回る。
木々の根元に、苔に覆われた小さな石碑が並んでいた。文字の大半は風雨に削られているが、中央の石碑に刻まれた数文字だけは読み取れた。
「水害で亡くなった方々を弔う碑です」
スズネが苔を傷つけないよう、表面へそっと手を添えた。
「この地で、昔、大きな洪水があったのでしょう」
黒い足跡は、祭祀石の周囲だけでは終わっていなかった。
水路から続いてきたいくつもの跡が、古い慰霊碑の前へ集まっている。
そのうち数頭分の足跡は、石碑のすぐ手前で途切れていた。
雨にも、水路から溢れた水にも洗い流されず、黒い滲みだけが泥の底へ残っている。
テンカは、苔に覆われた慰霊碑を見上げた。
澱みが辿っているのは、本当に地の流れだけなのか。
答えのない疑問を残したまま、消えない足跡は死者を弔う石の前で途切れていた。
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