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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第5章 連なる澱み
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井戸の底の澱み

 伝令の兵が坂を下り始めた頃、丘の下から別の蹄の音が近づいてきた。


 街道を駆けてきた1頭の馬が、分社へ続く坂道を上ってくる。乗っていたのは鎧を身につけた兵ではなく、土に汚れた作業着姿の男だった。


「宮司様!」


 男は境内へ駆け込むと、肩で息をしながら頭を下げた。


「村の井戸を見ていただけませんか。今朝から、水の様子がおかしいのです」

「水が濁ったのですか?」


 宮司の問いに、男は首を横へ振る。


「見た目はいつもと変わりません。臭いもしません。ただ、ひどく冷たいのです。それに、家畜が飲もうとしなくて」


 ラデルカがテンカへ視線を向けた。


 男が来た方角は、澱みが続いている北東だった。


「村はどこだ?」


 ラデルカが尋ねる。


「この先の街道沿いです。馬なら、それほど掛かりません」

「井戸の水を飲んだ者は?」

「おります。ですが、今のところ具合を悪くした者はいません」


 ラデルカは短く考え、すぐに護衛の兵たちへ指示を出した。


「予定を変える。伝令はこのまま本邸へ向かえ。もう1人はここに残り、宮司とともに祭祀石を見張れ」

「了解!」

「助けに向かうのと、何も考えずに飛び込むのは別だ。村へ入る前に、井戸の使用を止めさせろ」


 村から来た男が戸惑った顔をする。


「しかし、今日はこれから暑くなります。水がなければ――」

「代わりは手配します」


 スズネが穏やかに告げた。


「領役所へ、水の魔石を使う給水魔導具を運ぶよう依頼します。それまでは、分社に備蓄してある水を村へ回してください」

「承知しました」


 宮司が頷く。


 スズネは村の男へ向き直った。


「井戸の水を飲んだ方の名前と、飲んだ時刻を確認してください。体調に変化があれば、どれほど小さなことでも知らせるように」

「分かりました」


 ◇  ◇  ◇


 村へ到着すると、そこには普段と変わらない暮らしがあった。


 畑では農具を手にした者たちが働き、家々の軒先には洗濯物が揺れている。道の端では子供たちが走り回り、遠くからは家畜の鳴き声も聞こえた。


 目に見える異変はどこにもない。


 共同井戸の周りにだけ、10人ほどの村人が集まっていた。


「こちらです」


 村のまとめ役らしい老人が、石造りの井戸へ一行を案内する。


 井戸の脇には、汲み上げたばかりの水が木桶へ満たされていた。陽光を受けた水面は透き通り、濁りも浮遊物も見当たらない。


 ラデルカは桶へ顔を近づけ、鼻を動かした。


「腐った臭いも、瘴気の臭いもないな」


 スズネは小さな紙符を取り出し、水面へかざした。

 符には淡い光が灯ったが、黒く変色することも、燃え上がることもない。


「強い瘴気や毒が混じっている様子はありません」

「なら、飲んでも平気なのですか?」


 老人の問いに、スズネは首を横へ振った。


「安全だと確認できたわけではありません。調査が終わるまで、この井戸の水は使わないでください」

「ですが、村中の水を止めるとなると……」

「すでに代わりの水を手配しています」


 スズネは周囲の村人たちを見渡した。


「水の魔石を核にした給水魔導具を、領役所から運んでもらいます。魔石の力には限りがありますが、飲み水と炊事に必要な分は賄えるはずです」


 村人たちの顔に、僅かな安堵が広がった。


 テンカは木桶の前へ膝をついた。

 水面へ手を伸ばそうとすると、キリカがすぐ傍らへ寄る。


「姫さま、触れるおつもりですか?」

「いや。水へ直接触れる必要はない」


 テンカは桶ではなく、井戸を囲む石へ手を添えた。


 ひやりとした感触が掌へ伝わる。


 日の当たる石が持つ冷たさではない。

 地の底から、染み上がってくるような冷気だった。


「井戸の周りを空けてくれ」


 テンカが告げると、村人たちは数歩下がった。


 水行の感覚を薄く広げる。

 井戸の底には、地中を通って集まった水がある。

 雨が土へ染み込み、細い流れとなって重なり、石壁の奥から少しずつ湧き出している。水そのものに、目立った濁りは感じられない。


 だが、そのさらに下。


 井戸へ流れ込む水とは異なる冷たさが、地の奥に横たわっていた。

 澱みは水へ溶け込んでいるのではない。

 地下水の流れに沿うように絡みつき、その下を通り抜けている。


「姫さま?」


 キリカの声が遠く感じられた。


 テンカは意識を沈めすぎないよう、呼吸を整える。


 南西から北東へ。

 祭祀石で感じたものと同じ方向に、細い澱みが続いていた。


「水が澱んでおるのではない」


 テンカは井戸から手を離した。


「では、この冷たさは?」


 スズネが尋ねる。


「井戸の下を通っておるものじゃ。水へ混じっておるようには感じぬが、まったく影響がないとも申せぬ」


 井戸水が冷たくなったのは、地の底を通る澱みが地下水へ触れているからかもしれない。


 だが、今分かるのはそこまでだった。


「水脈に沿っているのでしょうか」

「断じるには早い」


 テンカは首を横へ振った。


「水と同じ方向へ続いてはおる。じゃが、水脈を伝っているのか、別の流れが偶然重なっておるのかまでは分からぬ」


 スズネが静かに頷く。


「分からない以上、井戸は封じたままにします」


 その時、村人たちの隙間から、小さな女の子が木桶を抱えて歩いてきた。


「お母さんに、お水を汲んでくるように言われたの」


 井戸へ近づこうとした少女の前へ、キリカがしゃがみ込む。


「今日は、この井戸のお水は使えません」

「どうして?」

「少しだけ、井戸にお休みしてもらうのです」


 キリカは少女の抱えていた桶へ手を添えた。


「代わりのお水がもうすぐ届きます。お母様にも、ここでは汲まないよう伝えてください」

「うん」


 少女は素直に頷き、来た道を戻っていった。


 その小さな背中を、テンカは黙って見送る。


 地図の上では、村はただの印にすぎない。

 だが、ここには井戸で水を汲み、畑を耕し、家族と暮らす者たちがいる。

 異変が届いているのは、祭祀石だけではなかった。


「次の祠は、どこにある?」


 テンカが尋ねる。


 村の老人が、街道の先を指した。


「村を抜け、古い水路に沿って進んだ先です。小さな林の中にあります」

「水路の近くなのですね」


 スズネが確かめる。


「はい。昔、この辺りで水が何度も溢れたため、地を鎮める祠を建てたと聞いております」


 スズネは懐から簡素な地図を取り出し、井戸と祠の位置を書き込んだ。


 第2の祭祀石。

 村の共同井戸。

 その先にある祠。


 三つは、ほとんど同じ方向へ並んでいる。


「このまま祠へ向かうか?」


 ラデルカの問いに、スズネは村人たちを見た。


「給水魔導具が到着し、井戸を封じる準備が整うまでは残ります」


 テンカも異論はなかった。


 異変を追うことだけが、調査ではない。

 その場に残された者たちが困らぬよう道筋をつけることも、ハヅキ領を守る者の役目だった。


 しばらくして、街道の向こうから1台の荷馬車が現れた。


 荷台には、金属の枠で覆われた大きな筒状の魔導具が積まれている。中央には蒼い水の魔石が嵌め込まれ、その周囲を幾重もの術式が囲んでいた。


 領役所の職員と兵たちが装置を広場へ下ろし、脚部を地面へ固定する。

 術式が起動すると、水の魔石に蒼い光が灯った。

 低い駆動音とともに、魔導具に接続された容器へ清水が注がれていく。


 無尽蔵に生み出せるわけではない。


 魔石に蓄えられた力が尽きれば交換が必要で、短時間に作れる量にも限りがある。それでも、井戸を使えない村の暮らしを支えるには十分だった。


 村人たちが順番に桶を並べ始める。


 スズネは給水量と魔石の残量を領役所の職員へ確認し、分社の宮司へ井戸の封鎖を依頼する書状をしたため、ラデルカは護衛の兵へ村の警戒を引き継ぎ、次の祠へ向かう準備を整えていた。


 テンカは最後に、共同井戸を振り返った。


 水面は変わらず澄んでいる。

 だが、その遥か下を通る冷たい澱みは、村へ留まることなく北東へ続いていた。


 次に待つ祭祀石が、それを受け止められる保証はなかった。

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