井戸の底の澱み
伝令の兵が坂を下り始めた頃、丘の下から別の蹄の音が近づいてきた。
街道を駆けてきた1頭の馬が、分社へ続く坂道を上ってくる。乗っていたのは鎧を身につけた兵ではなく、土に汚れた作業着姿の男だった。
「宮司様!」
男は境内へ駆け込むと、肩で息をしながら頭を下げた。
「村の井戸を見ていただけませんか。今朝から、水の様子がおかしいのです」
「水が濁ったのですか?」
宮司の問いに、男は首を横へ振る。
「見た目はいつもと変わりません。臭いもしません。ただ、ひどく冷たいのです。それに、家畜が飲もうとしなくて」
ラデルカがテンカへ視線を向けた。
男が来た方角は、澱みが続いている北東だった。
「村はどこだ?」
ラデルカが尋ねる。
「この先の街道沿いです。馬なら、それほど掛かりません」
「井戸の水を飲んだ者は?」
「おります。ですが、今のところ具合を悪くした者はいません」
ラデルカは短く考え、すぐに護衛の兵たちへ指示を出した。
「予定を変える。伝令はこのまま本邸へ向かえ。もう1人はここに残り、宮司とともに祭祀石を見張れ」
「了解!」
「助けに向かうのと、何も考えずに飛び込むのは別だ。村へ入る前に、井戸の使用を止めさせろ」
村から来た男が戸惑った顔をする。
「しかし、今日はこれから暑くなります。水がなければ――」
「代わりは手配します」
スズネが穏やかに告げた。
「領役所へ、水の魔石を使う給水魔導具を運ぶよう依頼します。それまでは、分社に備蓄してある水を村へ回してください」
「承知しました」
宮司が頷く。
スズネは村の男へ向き直った。
「井戸の水を飲んだ方の名前と、飲んだ時刻を確認してください。体調に変化があれば、どれほど小さなことでも知らせるように」
「分かりました」
◇ ◇ ◇
村へ到着すると、そこには普段と変わらない暮らしがあった。
畑では農具を手にした者たちが働き、家々の軒先には洗濯物が揺れている。道の端では子供たちが走り回り、遠くからは家畜の鳴き声も聞こえた。
目に見える異変はどこにもない。
共同井戸の周りにだけ、10人ほどの村人が集まっていた。
「こちらです」
村のまとめ役らしい老人が、石造りの井戸へ一行を案内する。
井戸の脇には、汲み上げたばかりの水が木桶へ満たされていた。陽光を受けた水面は透き通り、濁りも浮遊物も見当たらない。
ラデルカは桶へ顔を近づけ、鼻を動かした。
「腐った臭いも、瘴気の臭いもないな」
スズネは小さな紙符を取り出し、水面へかざした。
符には淡い光が灯ったが、黒く変色することも、燃え上がることもない。
「強い瘴気や毒が混じっている様子はありません」
「なら、飲んでも平気なのですか?」
老人の問いに、スズネは首を横へ振った。
「安全だと確認できたわけではありません。調査が終わるまで、この井戸の水は使わないでください」
「ですが、村中の水を止めるとなると……」
「すでに代わりの水を手配しています」
スズネは周囲の村人たちを見渡した。
「水の魔石を核にした給水魔導具を、領役所から運んでもらいます。魔石の力には限りがありますが、飲み水と炊事に必要な分は賄えるはずです」
村人たちの顔に、僅かな安堵が広がった。
テンカは木桶の前へ膝をついた。
水面へ手を伸ばそうとすると、キリカがすぐ傍らへ寄る。
「姫さま、触れるおつもりですか?」
「いや。水へ直接触れる必要はない」
テンカは桶ではなく、井戸を囲む石へ手を添えた。
ひやりとした感触が掌へ伝わる。
日の当たる石が持つ冷たさではない。
地の底から、染み上がってくるような冷気だった。
「井戸の周りを空けてくれ」
テンカが告げると、村人たちは数歩下がった。
水行の感覚を薄く広げる。
井戸の底には、地中を通って集まった水がある。
雨が土へ染み込み、細い流れとなって重なり、石壁の奥から少しずつ湧き出している。水そのものに、目立った濁りは感じられない。
だが、そのさらに下。
井戸へ流れ込む水とは異なる冷たさが、地の奥に横たわっていた。
澱みは水へ溶け込んでいるのではない。
地下水の流れに沿うように絡みつき、その下を通り抜けている。
「姫さま?」
キリカの声が遠く感じられた。
テンカは意識を沈めすぎないよう、呼吸を整える。
南西から北東へ。
祭祀石で感じたものと同じ方向に、細い澱みが続いていた。
「水が澱んでおるのではない」
テンカは井戸から手を離した。
「では、この冷たさは?」
スズネが尋ねる。
「井戸の下を通っておるものじゃ。水へ混じっておるようには感じぬが、まったく影響がないとも申せぬ」
井戸水が冷たくなったのは、地の底を通る澱みが地下水へ触れているからかもしれない。
だが、今分かるのはそこまでだった。
「水脈に沿っているのでしょうか」
「断じるには早い」
テンカは首を横へ振った。
「水と同じ方向へ続いてはおる。じゃが、水脈を伝っているのか、別の流れが偶然重なっておるのかまでは分からぬ」
スズネが静かに頷く。
「分からない以上、井戸は封じたままにします」
その時、村人たちの隙間から、小さな女の子が木桶を抱えて歩いてきた。
「お母さんに、お水を汲んでくるように言われたの」
井戸へ近づこうとした少女の前へ、キリカがしゃがみ込む。
「今日は、この井戸のお水は使えません」
「どうして?」
「少しだけ、井戸にお休みしてもらうのです」
キリカは少女の抱えていた桶へ手を添えた。
「代わりのお水がもうすぐ届きます。お母様にも、ここでは汲まないよう伝えてください」
「うん」
少女は素直に頷き、来た道を戻っていった。
その小さな背中を、テンカは黙って見送る。
地図の上では、村はただの印にすぎない。
だが、ここには井戸で水を汲み、畑を耕し、家族と暮らす者たちがいる。
異変が届いているのは、祭祀石だけではなかった。
「次の祠は、どこにある?」
テンカが尋ねる。
村の老人が、街道の先を指した。
「村を抜け、古い水路に沿って進んだ先です。小さな林の中にあります」
「水路の近くなのですね」
スズネが確かめる。
「はい。昔、この辺りで水が何度も溢れたため、地を鎮める祠を建てたと聞いております」
スズネは懐から簡素な地図を取り出し、井戸と祠の位置を書き込んだ。
第2の祭祀石。
村の共同井戸。
その先にある祠。
三つは、ほとんど同じ方向へ並んでいる。
「このまま祠へ向かうか?」
ラデルカの問いに、スズネは村人たちを見た。
「給水魔導具が到着し、井戸を封じる準備が整うまでは残ります」
テンカも異論はなかった。
異変を追うことだけが、調査ではない。
その場に残された者たちが困らぬよう道筋をつけることも、ハヅキ領を守る者の役目だった。
しばらくして、街道の向こうから1台の荷馬車が現れた。
荷台には、金属の枠で覆われた大きな筒状の魔導具が積まれている。中央には蒼い水の魔石が嵌め込まれ、その周囲を幾重もの術式が囲んでいた。
領役所の職員と兵たちが装置を広場へ下ろし、脚部を地面へ固定する。
術式が起動すると、水の魔石に蒼い光が灯った。
低い駆動音とともに、魔導具に接続された容器へ清水が注がれていく。
無尽蔵に生み出せるわけではない。
魔石に蓄えられた力が尽きれば交換が必要で、短時間に作れる量にも限りがある。それでも、井戸を使えない村の暮らしを支えるには十分だった。
村人たちが順番に桶を並べ始める。
スズネは給水量と魔石の残量を領役所の職員へ確認し、分社の宮司へ井戸の封鎖を依頼する書状をしたため、ラデルカは護衛の兵へ村の警戒を引き継ぎ、次の祠へ向かう準備を整えていた。
テンカは最後に、共同井戸を振り返った。
水面は変わらず澄んでいる。
だが、その遥か下を通る冷たい澱みは、村へ留まることなく北東へ続いていた。
次に待つ祭祀石が、それを受け止められる保証はなかった。
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