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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第5章 連なる澱み
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連なる澱み

 翌朝、ハヅキ辺境伯邸の作戦室には、四枚の地図が広げられていた。


 悠久なる大魔境の外縁部を記した地図。

 第三結界柱周辺の詳細図。

 天巡神社が管理する分社と祠の配置図。

 そして、調査隊の証言から作られた地下遺構の推定図。


 トウマはそれらを一枚ずつ確かめ、印を写した薄紙を上から重ねていく。


「異常が確認された祭祀石は、こちらです」


 銀縁の眼鏡の奥で、黒に近い藍色の瞳が地図を追う。


 トウマが指したのは、第三結界柱から北東へ離れた場所にある分社だった。


「地下遺構へ落下した地点はここ。その後、調査隊が進んだ方角と、おおよその距離を当てはめると――」


 マリエラは地上の街道と落下地点を基準に、地下遺構の推定図をわずかにずらした。


 地下で歩いた距離も、通路の向きも正確ではない。曲がり角や傾斜も多く、地上のどこに当たるのかは推測にすぎなかった。


 それでも、落下地点と黒く澱んだ祭祀石の位置を細い紐で結ぶと、その線は地下遺構の推定範囲を横切っていた。


「偶然、という可能性もあります」


 トウマはそう断ったうえで、紐の先をさらに北東へ伸ばした。


「ですが、この方向には、ほかにも分社と祠が三か所あります」


 次の印は、異変が起きた分社から、街道を進んで半日ほどの場所にあった。


 大魔境からは遠ざかり、開拓地や農村へ近づいている。


「こちらの分社からは、今朝の時点で異常なしとの報告が届いております」


 スズネが告げた。


「魔除けの火、結界、祭祀石のいずれにも、目立った変化は確認されていません」

「今朝の時点では、ですか」


 コトネが静かに聞き返す。


「はい。昨日届けられた祭祀石も、異変が報告される前日までは正常だったそうです」


 作戦室に沈黙が落ちた。


 一つならば、その場所だけで起きた偶発的な異常かもしれない。祭祀石そのものの劣化や、局所的な瘴気の影響も考えられる。


 だが、同じ方向に並ぶ別の石でも異変が起きれば、意味は変わる。


「祭祀石は、互いに繋がっておるのか?」


 テンカが尋ねると、スズネは少し考えてから答えた。


「石同士が直接、力を送り合っているわけではありません」


 スズネは分社と祠の位置を指でなぞった。


「祭祀石は、地を巡る力が乱れやすい場所へ置かれています。一つの石で受け止めきれなかったものを、別の石が引き受けることはありますが、それも地の流れを通じてのことです」

「では、この印が並んでおるのは」

「同じ地の流れに沿って置かれているからでしょう」


 テンカは地図へ目を落とした。


 地下遺構の推定範囲。

 黒い澱みが残った祭祀石。

 その先に並ぶ分社と祠。


 地図の上では、まだ細い紐で結ばれただけだった。


「次の祭祀石を調べます」


 コトネが告げる。


「異常がないのであれば、それを確認するだけでも意味があります。ですが、少しでも変化が見られた場合は、直ちに周辺を封鎖しなさい」

「承知しました」


 スズネが頭を下げる。


「わらわも同行いたします」


 テンカが申し出ると、背後に控えていたキリカがわずかに息を吐いた。


 驚いてはいない。

 むしろ、言うと思っていた顔だった。


「理由を聞きましょう」


 コトネの視線が向けられる。


「スズネは祭祀石の状態を読むことができる。じゃが、地下遺構で五行の澱みを直接感じた者は、わらわしかおりませぬ」


 テンカは地図の上に置かれた紐を見つめた。


「同じ流れがあるのかを確かめるには、わらわも行くべきかと」


 コトネはすぐには答えなかった。


 その間に、トウマが眼鏡の位置を直す。


「現地は大魔境の外、開拓地の手前です。今朝までの巡回報告に、魔物の痕跡はありません」

「安全だと言い切れますか」

「いいえ」


 コトネの問いに、トウマは即答した。


「ですので、ラデルカを同行させます。現地の警戒と、異変が確認された場合の撤退判断を任せます」

「わらわも異存はありませぬ」


 テンカが答えると、コトネは短く頷いた。


「許可します。ただし、祭祀石へ無理に力を流してはなりません」

「承知しております」

「キリカ」

「はい、当主様」

「テンカから目を離さないように」

「承知しました」


 キリカの返事は、テンカのものよりも力強かった。


 ◇  ◇  ◇


 調査へ向かう一行が分社へ到着したのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 大魔境から領都へ続く街道を外れ、緩やかな丘を上った先に、小さな社が建っている。


 周囲には畑が広がり、その向こうには農村の屋根が見えた。大魔境の木々は遠く、空気に瘴気の重さも感じられない。


 境内も静かなものだった。


 魔除けの火は風に揺れながら、橙色の炎を保っている。鳥居にも社殿にも傷はなく、魔物が近づいた痕跡も見当たらなかった。


「昨夜から、変わったことはありません」


 分社を預かる宮司が、一行を社殿の裏へ案内しながら説明した。


「火が消えたことも、結界が乱れたこともございません。祭祀石も、朝の確認では異常ありませんでした」

「触れてはいませんね?」


 スズネが尋ねる。


「祭主様からのお達しどおり、周囲を確かめただけです」


 社殿の裏には、低い石囲いが設けられていた。


 その中央に祭祀石が埋められている。地上へ出ているのは上端だけで、表面には五行の巡りを示す円環が浅く刻まれていた。


 昨日見た石片とは違い、灰白色の表面は滑らかだった。

 ヒビも、黒い滲みもない。

 ラデルカは石囲いの外側を歩き、褐色の犬耳を動かしながら周囲の臭いを探った。


「魔物の臭いはないな。土を掘り返した跡もない」


 戦斧には手を掛けていないが、その視線は境内の外まで油断なく巡っている。


 スズネは祭祀石から一歩離れた場所へ膝をつき、白い紙符を石囲いの四方へ置いた。


 淡い光が順に灯る。


「表面に異常はありません」


 スズネは目を閉じ、しばらく石の気配を確かめた。


「石の内側にも、強い澱みは感じられません」

「では、何も起きておらぬのか?」


 テンカの問いに、スズネはすぐには頷かなかった。


「祭祀石そのものは、正常に見えます。ですが……」


 淡い翡翠色の瞳が、石ではなく、その下の地面へ向けられる。


「地の流れが、少し冷たいように感じます」


 テンカは石囲いの手前へしゃがんだ。


 祭祀石には触れず、地面へ指先を添える。


「姫さま」


 キリカがすぐ隣へ膝をついた。


「無理はせぬ」


 テンカは小さく答え、水行の感覚を地表へ薄く広げた。


 土の中には水分がある。


 雨の名残。

 草木の根が吸い上げるもの。

 地中をゆっくりと伝う、小さな流れ。


 それらを直接動かすのではなく、どこへ向かい、何に遮られているのかを探っていく。


 初めは、何も感じなかった。

 穏やかな流れが、丘の傾斜に沿って下っているだけだった。


 だが、さらに意識を沈めると、その底に異なる冷たさが混じっていた。


 水ではない。

 土の湿り気でもない。


 ごく細い濁りが、地中の流れへ絡みついている。


「……ある」


 テンカが呟いた。


「何がです?」


 スズネが身を寄せる。


「昨日の石に残っておったものと、よく似た澱みじゃ。まだ薄いが、この地の下まで来ておる」


 テンカは目を閉じたまま、濁りの流れを追う。


 南西から近づき、祭祀石の下でわずかに滞っている。石が地の乱れを受け止めようとしているのだろう。


 だが、そのすべてを留めてはいない。


 細い流れの一部は、さらに北東へ続いていた。


「この場で生まれたものではない」


 テンカは地面から指を離さずに告げた。


「南西から流れてきておる。それに――」


 石の内側で、乾いた音がした。


 テンカは目を開けた。

 祭祀石の表面に、髪の毛ほどの細いヒビが走っている。


 先ほどまでは、確かに何もなかった。


「姫さま、離れてください!」


 キリカがテンカの肩を抱き、石囲いから引き離す。


 ラデルカも一歩前へ出て戦斧の柄へ手を掛けたが、境内に魔物の気配はない。


 風も変わらず吹いている。

 魔除けの火も消えていない。


 それでも、祭祀石のヒビはゆっくりと伸びていった。


 灰白色の表面を横切り、刻まれた円環の一部へ達したところで止まる。


 ヒビの奥へ、黒い色が滲んだ。


「そんな……」


 分社の宮司が息を呑む。


「今朝までは、何もなかったのです」


 スズネは石へ近づこうとしたが、直前で足を止めた。


 手は伸ばさない。


 ヒビの奥を見つめたまま、静かに息を整える。


「祭祀石が、澱みを受け止めたのですね」

「受け止めきれたのか?」


 テンカは再び地面の流れへ意識を向けた。


 祭祀石の下で、確かに濁りの一部は止まっている。


 だが、それだけだった。


「いや」


 テンカは北東へ顔を向ける。


 丘の先には畑が広がり、その向こうに街道と農村が見える。


「この石が留めたのは、ほんの一部じゃ。残りは、まだ先へ流れておる」


 スズネの表情が強張った。


「次の祭祀石は?」

「この先の祠です」


 分社の宮司が答える。


「街道沿いの村を越えた場所にあります」


 ラデルカはすぐに振り返り、護衛の兵へ告げた。


「一人、本邸へ戻れ。祭祀石に異変を確認。澱みは北東へ移動中の可能性あり、と伝えろ」

「了解!」


 兵が馬へ駆けていく。

 残った者たちは、ヒビの入った祭祀石を囲んだまま、誰も言葉を発しなかった。


 今朝まで正常だった石が、テンカたちの目の前で黒く澱んだ。

 地図の上に引かれた細い紐は、もはやただの推測ではない。


 澱みは今、テンカたちの足元を通り、ハヅキ領の内側へ伸びていた。

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