連なる澱み
翌朝、ハヅキ辺境伯邸の作戦室には、四枚の地図が広げられていた。
悠久なる大魔境の外縁部を記した地図。
第三結界柱周辺の詳細図。
天巡神社が管理する分社と祠の配置図。
そして、調査隊の証言から作られた地下遺構の推定図。
トウマはそれらを一枚ずつ確かめ、印を写した薄紙を上から重ねていく。
「異常が確認された祭祀石は、こちらです」
銀縁の眼鏡の奥で、黒に近い藍色の瞳が地図を追う。
トウマが指したのは、第三結界柱から北東へ離れた場所にある分社だった。
「地下遺構へ落下した地点はここ。その後、調査隊が進んだ方角と、おおよその距離を当てはめると――」
マリエラは地上の街道と落下地点を基準に、地下遺構の推定図をわずかにずらした。
地下で歩いた距離も、通路の向きも正確ではない。曲がり角や傾斜も多く、地上のどこに当たるのかは推測にすぎなかった。
それでも、落下地点と黒く澱んだ祭祀石の位置を細い紐で結ぶと、その線は地下遺構の推定範囲を横切っていた。
「偶然、という可能性もあります」
トウマはそう断ったうえで、紐の先をさらに北東へ伸ばした。
「ですが、この方向には、ほかにも分社と祠が三か所あります」
次の印は、異変が起きた分社から、街道を進んで半日ほどの場所にあった。
大魔境からは遠ざかり、開拓地や農村へ近づいている。
「こちらの分社からは、今朝の時点で異常なしとの報告が届いております」
スズネが告げた。
「魔除けの火、結界、祭祀石のいずれにも、目立った変化は確認されていません」
「今朝の時点では、ですか」
コトネが静かに聞き返す。
「はい。昨日届けられた祭祀石も、異変が報告される前日までは正常だったそうです」
作戦室に沈黙が落ちた。
一つならば、その場所だけで起きた偶発的な異常かもしれない。祭祀石そのものの劣化や、局所的な瘴気の影響も考えられる。
だが、同じ方向に並ぶ別の石でも異変が起きれば、意味は変わる。
「祭祀石は、互いに繋がっておるのか?」
テンカが尋ねると、スズネは少し考えてから答えた。
「石同士が直接、力を送り合っているわけではありません」
スズネは分社と祠の位置を指でなぞった。
「祭祀石は、地を巡る力が乱れやすい場所へ置かれています。一つの石で受け止めきれなかったものを、別の石が引き受けることはありますが、それも地の流れを通じてのことです」
「では、この印が並んでおるのは」
「同じ地の流れに沿って置かれているからでしょう」
テンカは地図へ目を落とした。
地下遺構の推定範囲。
黒い澱みが残った祭祀石。
その先に並ぶ分社と祠。
地図の上では、まだ細い紐で結ばれただけだった。
「次の祭祀石を調べます」
コトネが告げる。
「異常がないのであれば、それを確認するだけでも意味があります。ですが、少しでも変化が見られた場合は、直ちに周辺を封鎖しなさい」
「承知しました」
スズネが頭を下げる。
「わらわも同行いたします」
テンカが申し出ると、背後に控えていたキリカがわずかに息を吐いた。
驚いてはいない。
むしろ、言うと思っていた顔だった。
「理由を聞きましょう」
コトネの視線が向けられる。
「スズネは祭祀石の状態を読むことができる。じゃが、地下遺構で五行の澱みを直接感じた者は、わらわしかおりませぬ」
テンカは地図の上に置かれた紐を見つめた。
「同じ流れがあるのかを確かめるには、わらわも行くべきかと」
コトネはすぐには答えなかった。
その間に、トウマが眼鏡の位置を直す。
「現地は大魔境の外、開拓地の手前です。今朝までの巡回報告に、魔物の痕跡はありません」
「安全だと言い切れますか」
「いいえ」
コトネの問いに、トウマは即答した。
「ですので、ラデルカを同行させます。現地の警戒と、異変が確認された場合の撤退判断を任せます」
「わらわも異存はありませぬ」
テンカが答えると、コトネは短く頷いた。
「許可します。ただし、祭祀石へ無理に力を流してはなりません」
「承知しております」
「キリカ」
「はい、当主様」
「テンカから目を離さないように」
「承知しました」
キリカの返事は、テンカのものよりも力強かった。
◇ ◇ ◇
調査へ向かう一行が分社へ到着したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
大魔境から領都へ続く街道を外れ、緩やかな丘を上った先に、小さな社が建っている。
周囲には畑が広がり、その向こうには農村の屋根が見えた。大魔境の木々は遠く、空気に瘴気の重さも感じられない。
境内も静かなものだった。
魔除けの火は風に揺れながら、橙色の炎を保っている。鳥居にも社殿にも傷はなく、魔物が近づいた痕跡も見当たらなかった。
「昨夜から、変わったことはありません」
分社を預かる宮司が、一行を社殿の裏へ案内しながら説明した。
「火が消えたことも、結界が乱れたこともございません。祭祀石も、朝の確認では異常ありませんでした」
「触れてはいませんね?」
スズネが尋ねる。
「祭主様からのお達しどおり、周囲を確かめただけです」
社殿の裏には、低い石囲いが設けられていた。
その中央に祭祀石が埋められている。地上へ出ているのは上端だけで、表面には五行の巡りを示す円環が浅く刻まれていた。
昨日見た石片とは違い、灰白色の表面は滑らかだった。
ヒビも、黒い滲みもない。
ラデルカは石囲いの外側を歩き、褐色の犬耳を動かしながら周囲の臭いを探った。
「魔物の臭いはないな。土を掘り返した跡もない」
戦斧には手を掛けていないが、その視線は境内の外まで油断なく巡っている。
スズネは祭祀石から一歩離れた場所へ膝をつき、白い紙符を石囲いの四方へ置いた。
淡い光が順に灯る。
「表面に異常はありません」
スズネは目を閉じ、しばらく石の気配を確かめた。
「石の内側にも、強い澱みは感じられません」
「では、何も起きておらぬのか?」
テンカの問いに、スズネはすぐには頷かなかった。
「祭祀石そのものは、正常に見えます。ですが……」
淡い翡翠色の瞳が、石ではなく、その下の地面へ向けられる。
「地の流れが、少し冷たいように感じます」
テンカは石囲いの手前へしゃがんだ。
祭祀石には触れず、地面へ指先を添える。
「姫さま」
キリカがすぐ隣へ膝をついた。
「無理はせぬ」
テンカは小さく答え、水行の感覚を地表へ薄く広げた。
土の中には水分がある。
雨の名残。
草木の根が吸い上げるもの。
地中をゆっくりと伝う、小さな流れ。
それらを直接動かすのではなく、どこへ向かい、何に遮られているのかを探っていく。
初めは、何も感じなかった。
穏やかな流れが、丘の傾斜に沿って下っているだけだった。
だが、さらに意識を沈めると、その底に異なる冷たさが混じっていた。
水ではない。
土の湿り気でもない。
ごく細い濁りが、地中の流れへ絡みついている。
「……ある」
テンカが呟いた。
「何がです?」
スズネが身を寄せる。
「昨日の石に残っておったものと、よく似た澱みじゃ。まだ薄いが、この地の下まで来ておる」
テンカは目を閉じたまま、濁りの流れを追う。
南西から近づき、祭祀石の下でわずかに滞っている。石が地の乱れを受け止めようとしているのだろう。
だが、そのすべてを留めてはいない。
細い流れの一部は、さらに北東へ続いていた。
「この場で生まれたものではない」
テンカは地面から指を離さずに告げた。
「南西から流れてきておる。それに――」
石の内側で、乾いた音がした。
テンカは目を開けた。
祭祀石の表面に、髪の毛ほどの細いヒビが走っている。
先ほどまでは、確かに何もなかった。
「姫さま、離れてください!」
キリカがテンカの肩を抱き、石囲いから引き離す。
ラデルカも一歩前へ出て戦斧の柄へ手を掛けたが、境内に魔物の気配はない。
風も変わらず吹いている。
魔除けの火も消えていない。
それでも、祭祀石のヒビはゆっくりと伸びていった。
灰白色の表面を横切り、刻まれた円環の一部へ達したところで止まる。
ヒビの奥へ、黒い色が滲んだ。
「そんな……」
分社の宮司が息を呑む。
「今朝までは、何もなかったのです」
スズネは石へ近づこうとしたが、直前で足を止めた。
手は伸ばさない。
ヒビの奥を見つめたまま、静かに息を整える。
「祭祀石が、澱みを受け止めたのですね」
「受け止めきれたのか?」
テンカは再び地面の流れへ意識を向けた。
祭祀石の下で、確かに濁りの一部は止まっている。
だが、それだけだった。
「いや」
テンカは北東へ顔を向ける。
丘の先には畑が広がり、その向こうに街道と農村が見える。
「この石が留めたのは、ほんの一部じゃ。残りは、まだ先へ流れておる」
スズネの表情が強張った。
「次の祭祀石は?」
「この先の祠です」
分社の宮司が答える。
「街道沿いの村を越えた場所にあります」
ラデルカはすぐに振り返り、護衛の兵へ告げた。
「一人、本邸へ戻れ。祭祀石に異変を確認。澱みは北東へ移動中の可能性あり、と伝えろ」
「了解!」
兵が馬へ駆けていく。
残った者たちは、ヒビの入った祭祀石を囲んだまま、誰も言葉を発しなかった。
今朝まで正常だった石が、テンカたちの目の前で黒く澱んだ。
地図の上に引かれた細い紐は、もはやただの推測ではない。
澱みは今、テンカたちの足元を通り、ハヅキ領の内側へ伸びていた。
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