黒き澱みの祭祀石
机の上に広げられた地図には、地面の下が描かれていなかった。
領都から南西へ伸びる街道。
悠久なる大魔境の外縁部を守る結界柱。
開拓地と周辺の村々。
そして、第三結界柱の先に記された小さな黒い印。
数日前、テンカたちが地中へ落ちた場所だった。
だが、その下に広がっていた石造りの通路も、巨大な空洞も、数え切れぬほど蠢いていた異形たちも、地図のどこにも記されていない。
「……何度見ても、何も分からぬのう」
テンカは椅子へ座ったまま、地図を睨んだ。
地下遺構への再侵入は、母コトネによって禁じられている。
滅魔旅団は地表から周辺を監視しているが、今のところ新たな崩落や、異形が地上へ現れた痕跡は確認されていない。
異常がないのではない。
見えていないだけかもしれない。
「姫さま」
背後から、キリカの声が届いた。
「地図へ穴が開いてしまいます」
「開けば、地下が見えるやもしれぬぞ」
「その前に、当主様からお叱りを受けます」
キリカは湯気の立つ茶を机へ置くと、地図の端を静かに押さえた。
「今は休むよう命じられていたはずです」
「座っておる」
「休んでいる方は、そのようなお顔で地図を睨みません」
「では、どのような顔で見ればよいのじゃ」
「少なくとも、今にも地図を斬りそうなお顔ではなく」
テンカは腰の継火へ伸びかけていた手を止めた。
「……抜かぬぞ」
「当然です」
きっぱりと言い切られ、テンカは茶へ手を伸ばした。
キリカの言うことは正しい。
地図を見つめ続けたところで、地下の様子が分かるわけではない。
それでも、何もせずにはいられなかった。
空洞の奥にあった、ひときわ大きな影。
傷ついても死ねず、壊れながら動き続けていた異形たち。
地上へ戻った今も、あれらは地下にいる。
その時、執務室の扉が控えめに叩かれた。
「テンカ様」
扉の外から、屋敷の侍女が告げる。
「当主様がお呼びです。天巡神社より、祭主様の名代がお見えになっております」
「天巡神社から?」
「南西部の祭祀石に生じた異変について、お話があるとのことです」
南西部。
その一言で、テンカの意識が引き締まった。
「すぐに参る」
テンカは立ち上がり、キリカとともに執務室を出た。
◇ ◇ ◇
応接室には、すでにコトネが座っていた。
その向かいには、白と緋の巫女装束を纏った少女がいる。
月光を溶かしたような白銀の髪。
若葉を光へ透かしたような、淡い翡翠色の瞳。
年齢はレイナよりも上に見えるが、落ち着いた佇まいのせいか、それ以上に大人びて感じられた。
テンカが部屋へ入ると、少女は静かに立ち上がり、深く頭を下げる。
「お初にお目にかかります、テンカ様。天巡神社で神楽巫女を務めております、スズネと申します」
「うむ。テンカ=ハヅキじゃ」
テンカも礼を返し、コトネの隣へ腰を下ろした。
キリカは一礼し、テンカの後ろへ控える。
「祭主様の名代として、スズネが報告に来てくれました」
コトネの視線が、机の上に置かれた小さな木箱へ向けられる。
「テンカ。あなたにも見てもらいます」
「わらわに?」
「地下で感じた五行の乱れと、似たものがないかを確かめなさい」
スズネが木箱の蓋へ手を添えた。
「こちらは、南西部の分社から届けられた祭祀石の欠片です」
蓋が開かれる。
白い布の上に、灰白色の石片が置かれていた。
手のひらへ収まるほどの大きさしかない。
だが、その表面には細いヒビが走り、ヒビの奥には、墨を水へ落としたような黒い滲みが沈んでいた。
ただ汚れているのではない。
石の表面ではなく、内側から黒ずんでいるように見える。
「昨夜、分社の境内で魔除けの火が不自然に揺れました」
スズネが説明する。
「風はなく、周辺で地震も確認されておりません。結界にも大きな損傷はありませんでしたが、地中へ埋められていた祭祀石の一つにヒビが生じていました」
「魔物に壊された痕跡は?」
テンカが尋ねる。
「確認されておりません」
「では、この黒ずみは?」
「分かりません」
スズネは迷わず答えた。
「大魔境の瘴気である可能性はあります。ですが、現段階では断定できません」
分からないことを、分かったようには言わない。
その答え方に、テンカはわずかに目を細めた。
「祭祀石とは、どのようなものなのじゃ?」
「地を巡る力の乱れを受け止め、周囲へ広がる前に鎮めるためのものです」
スズネは石片へ視線を落とす。
「本来であれば、石へ流れ込んだ気配は、時間とともに薄れ、地へ還ります。ですが、この欠片には消えきらなかったものが残っています」
「澱んでおるのか」
「はい」
スズネが静かに頷いた。
「流れる先を失い、石の内側へ押し込められているように感じます」
地下遺構で感じたものと、よく似た言葉だった。
テンカは石片へ手を伸ばしかけ、止める。
「触れてもよいか?」
スズネはすぐには答えず、コトネへ視線を向けた。
「危険は?」
コトネが尋ねる。
「強く力を流さず、表面に残るものを読むだけであれば、問題はないと思われます」
「思われる、ですか」
「原因が分からない以上、安全だとは申し切れません」
スズネの声は穏やかだった。
だが、曖昧に誤魔化す様子はない。
「少しでも違和感があれば、すぐに手を離してください」
「承知した」
テンカは指先を、祭祀石の欠片へ触れさせた。
冷たい。
朝露に濡れた石とは違う、長い間日の差さない水底へ沈められていたような冷気が、指先から伝わってくる。
テンカは水行の感覚を薄く広げ、力を流し込むのではなく、石の内側に残る流れを外側から探った。
祭祀石へ染み込んだ気配は、本来ならば、ゆっくりと薄まりながら地へ還るはずだ。だが、この石の内側にあるものは流れず、細いヒビの周囲へ絡みついたまま、同じ場所に留まり続けている。
出口を探しているのではない。外へ出ることを拒むように、石の奥へ沈み続けていた。
その感覚に触れた瞬間、地下遺構の光景が脳裏へ蘇る。
関節を増やしながら伸びる腕。頭部を潰されるまで動き続けた異形。石床を這っていた、切断された指。
木は際限なく伸び、土は固まり、金は歪み、水は澱む。
五行は互いに巡ることなく、壊れた身体の中へ留まり続けていた。
「姫さま」
キリカの声が届いた。
テンカは石片から指を離した。
「大丈夫ですか?」
「うむ」
答えながら、自分の指先を見る。
黒く変色してはいない。
痛みもない。
ただ、触れていた場所に冷たさだけが残っていた。
「どうでしたか」
コトネが尋ねる。
テンカはすぐには答えなかった。
同じものだと断じるには、分からないことが多すぎる。
祭祀石の欠片と、地下で見た異形。
形も、場所も、現れ方も違う。
それでも。
「地下で感じたものと、よく似ております」
テンカは石片を見据えた。
「同じものなのですか?」
スズネが尋ねる。
「そこまでは申せぬ」
テンカは首を横へ振った。
「じゃが、どちらも流れが途切れておる。本来ならば巡り、薄まり、地へ還るはずのものが、その場へ留まり続けておる」
「やはり、澱みが……」
「うむ。それも、ただ溜まっておるのではない」
テンカはヒビの奥に沈んだ黒い滲みへ目を向けた。
「周囲へ広がらず、内側へ沈み続けておる。地下の異形も、傷つくたびに壊れながら、すべてを身体の内へ留めておった」
スズネは淡い翡翠色の瞳をわずかに伏せた。
「祭祀石は、乱れを受け止めるためのものです」
「それが受け止めきれなかったのか。それとも、受け止めたものを地へ還せなかったのか」
コトネが静かに続けた。
「現時点では、どちらとも判断できません」
「はい」
スズネが頷く。
「ですから、神社だけで判断せず、こちらへお持ちしました」
祈りだけで解決しようとしない。
原因が分からなければ、分かる者へ繋ぐ。
その姿勢は、テンカにとって好ましいものだった。
コトネは石片を見つめたまま、キリカへ告げる。
「トウマを呼びなさい」
「承知しました、当主様」
「南西部にある分社と祠、祭祀石の位置を、結界柱および地下遺構の推定範囲と照合します。異常の有無にかかわらず、すべて調査させなさい」
「はい」
「スズネ」
「何でしょう」
「現地の祭祀石には、これ以上直接触れさせないでください。残された祭祀石も動かさず、周囲を封じなさい」
「承知しました。天巡神社から神官と巫女を派遣し、領役所と連携します」
スズネの返答にも迷いはなかった。
テンカはもう一度、机の上の石片を見た。
細いヒビの奥に沈んだ黒い滲みは、消えも広がりもせず、地下で感じた澱みを不気味なほど鮮明に思い起こさせた。
悠久なる大魔境の地の底で起きている異変は、すでに森の外へ滲み始めているのかもしれない。
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