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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第5章 連なる澱み
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黒き澱みの祭祀石

 机の上に広げられた地図には、地面の下が描かれていなかった。


 領都から南西へ伸びる街道。

 悠久なる大魔境の外縁部を守る結界柱。

 開拓地と周辺の村々。


 そして、第三結界柱の先に記された小さな黒い印。


 数日前、テンカたちが地中へ落ちた場所だった。

 だが、その下に広がっていた石造りの通路も、巨大な空洞も、数え切れぬほど蠢いていた異形たちも、地図のどこにも記されていない。


「……何度見ても、何も分からぬのう」


 テンカは椅子へ座ったまま、地図を睨んだ。


 地下遺構への再侵入は、母コトネによって禁じられている。

 滅魔旅団は地表から周辺を監視しているが、今のところ新たな崩落や、異形が地上へ現れた痕跡は確認されていない。


 異常がないのではない。

 見えていないだけかもしれない。


「姫さま」


 背後から、キリカの声が届いた。


「地図へ穴が開いてしまいます」

「開けば、地下が見えるやもしれぬぞ」

「その前に、当主様からお叱りを受けます」


 キリカは湯気の立つ茶を机へ置くと、地図の端を静かに押さえた。


「今は休むよう命じられていたはずです」

「座っておる」

「休んでいる方は、そのようなお顔で地図を睨みません」

「では、どのような顔で見ればよいのじゃ」

「少なくとも、今にも地図を斬りそうなお顔ではなく」


 テンカは腰の継火へ伸びかけていた手を止めた。


「……抜かぬぞ」

「当然です」


 きっぱりと言い切られ、テンカは茶へ手を伸ばした。


 キリカの言うことは正しい。


 地図を見つめ続けたところで、地下の様子が分かるわけではない。

 それでも、何もせずにはいられなかった。


 空洞の奥にあった、ひときわ大きな影。

 傷ついても死ねず、壊れながら動き続けていた異形たち。

 地上へ戻った今も、あれらは地下にいる。


 その時、執務室の扉が控えめに叩かれた。


「テンカ様」


 扉の外から、屋敷の侍女が告げる。


「当主様がお呼びです。天巡神社より、祭主様の名代がお見えになっております」

「天巡神社から?」

「南西部の祭祀石に生じた異変について、お話があるとのことです」


 南西部。


 その一言で、テンカの意識が引き締まった。


「すぐに参る」


 テンカは立ち上がり、キリカとともに執務室を出た。


 ◇  ◇  ◇


 応接室には、すでにコトネが座っていた。


 その向かいには、白と緋の巫女装束を纏った少女がいる。

 月光を溶かしたような白銀の髪。

 若葉を光へ透かしたような、淡い翡翠色の瞳。

 年齢はレイナよりも上に見えるが、落ち着いた佇まいのせいか、それ以上に大人びて感じられた。


 テンカが部屋へ入ると、少女は静かに立ち上がり、深く頭を下げる。


「お初にお目にかかります、テンカ様。天巡神社で神楽巫女を務めております、スズネと申します」


「うむ。テンカ=ハヅキじゃ」


 テンカも礼を返し、コトネの隣へ腰を下ろした。


 キリカは一礼し、テンカの後ろへ控える。


「祭主様の名代として、スズネが報告に来てくれました」


 コトネの視線が、机の上に置かれた小さな木箱へ向けられる。


「テンカ。あなたにも見てもらいます」

「わらわに?」

「地下で感じた五行の乱れと、似たものがないかを確かめなさい」


 スズネが木箱の蓋へ手を添えた。


「こちらは、南西部の分社から届けられた祭祀石の欠片です」


 蓋が開かれる。


 白い布の上に、灰白色の石片が置かれていた。

 手のひらへ収まるほどの大きさしかない。


 だが、その表面には細いヒビが走り、ヒビの奥には、墨を水へ落としたような黒い滲みが沈んでいた。


 ただ汚れているのではない。

 石の表面ではなく、内側から黒ずんでいるように見える。


「昨夜、分社の境内で魔除けの火が不自然に揺れました」


 スズネが説明する。


「風はなく、周辺で地震も確認されておりません。結界にも大きな損傷はありませんでしたが、地中へ埋められていた祭祀石の一つにヒビが生じていました」

「魔物に壊された痕跡は?」


 テンカが尋ねる。


「確認されておりません」

「では、この黒ずみは?」

「分かりません」


 スズネは迷わず答えた。


「大魔境の瘴気である可能性はあります。ですが、現段階では断定できません」


 分からないことを、分かったようには言わない。


 その答え方に、テンカはわずかに目を細めた。


「祭祀石とは、どのようなものなのじゃ?」

「地を巡る力の乱れを受け止め、周囲へ広がる前に鎮めるためのものです」


 スズネは石片へ視線を落とす。


「本来であれば、石へ流れ込んだ気配は、時間とともに薄れ、地へ還ります。ですが、この欠片には消えきらなかったものが残っています」

「澱んでおるのか」

「はい」


 スズネが静かに頷いた。


「流れる先を失い、石の内側へ押し込められているように感じます」


 地下遺構で感じたものと、よく似た言葉だった。


 テンカは石片へ手を伸ばしかけ、止める。


「触れてもよいか?」


 スズネはすぐには答えず、コトネへ視線を向けた。


「危険は?」


 コトネが尋ねる。


「強く力を流さず、表面に残るものを読むだけであれば、問題はないと思われます」

「思われる、ですか」

「原因が分からない以上、安全だとは申し切れません」


 スズネの声は穏やかだった。


 だが、曖昧に誤魔化す様子はない。


「少しでも違和感があれば、すぐに手を離してください」

「承知した」


 テンカは指先を、祭祀石の欠片へ触れさせた。


 冷たい。


 朝露に濡れた石とは違う、長い間日の差さない水底へ沈められていたような冷気が、指先から伝わってくる。


 テンカは水行の感覚を薄く広げ、力を流し込むのではなく、石の内側に残る流れを外側から探った。


 祭祀石へ染み込んだ気配は、本来ならば、ゆっくりと薄まりながら地へ還るはずだ。だが、この石の内側にあるものは流れず、細いヒビの周囲へ絡みついたまま、同じ場所に留まり続けている。


 出口を探しているのではない。外へ出ることを拒むように、石の奥へ沈み続けていた。


 その感覚に触れた瞬間、地下遺構の光景が脳裏へ蘇る。

 関節を増やしながら伸びる腕。頭部を潰されるまで動き続けた異形。石床を這っていた、切断された指。


 木は際限なく伸び、土は固まり、金は歪み、水は澱む。

 五行は互いに巡ることなく、壊れた身体の中へ留まり続けていた。


「姫さま」


 キリカの声が届いた。


 テンカは石片から指を離した。


「大丈夫ですか?」

「うむ」


 答えながら、自分の指先を見る。


 黒く変色してはいない。

 痛みもない。

 ただ、触れていた場所に冷たさだけが残っていた。


「どうでしたか」


 コトネが尋ねる。


 テンカはすぐには答えなかった。


 同じものだと断じるには、分からないことが多すぎる。

 祭祀石の欠片と、地下で見た異形。

 形も、場所も、現れ方も違う。


 それでも。


「地下で感じたものと、よく似ております」


 テンカは石片を見据えた。


「同じものなのですか?」


 スズネが尋ねる。


「そこまでは申せぬ」


 テンカは首を横へ振った。


「じゃが、どちらも流れが途切れておる。本来ならば巡り、薄まり、地へ還るはずのものが、その場へ留まり続けておる」


「やはり、澱みが……」

「うむ。それも、ただ溜まっておるのではない」


 テンカはヒビの奥に沈んだ黒い滲みへ目を向けた。


「周囲へ広がらず、内側へ沈み続けておる。地下の異形も、傷つくたびに壊れながら、すべてを身体の内へ留めておった」


 スズネは淡い翡翠色の瞳をわずかに伏せた。


「祭祀石は、乱れを受け止めるためのものです」

「それが受け止めきれなかったのか。それとも、受け止めたものを地へ還せなかったのか」


 コトネが静かに続けた。


「現時点では、どちらとも判断できません」

「はい」


 スズネが頷く。


「ですから、神社だけで判断せず、こちらへお持ちしました」


 祈りだけで解決しようとしない。

 原因が分からなければ、分かる者へ繋ぐ。

 その姿勢は、テンカにとって好ましいものだった。


 コトネは石片を見つめたまま、キリカへ告げる。


「トウマを呼びなさい」

「承知しました、当主様」

「南西部にある分社と祠、祭祀石の位置を、結界柱および地下遺構の推定範囲と照合します。異常の有無にかかわらず、すべて調査させなさい」

「はい」


「スズネ」

「何でしょう」

「現地の祭祀石には、これ以上直接触れさせないでください。残された祭祀石も動かさず、周囲を封じなさい」

「承知しました。天巡神社から神官と巫女を派遣し、領役所と連携します」


 スズネの返答にも迷いはなかった。


 テンカはもう一度、机の上の石片を見た。


 細いヒビの奥に沈んだ黒い滲みは、消えも広がりもせず、地下で感じた澱みを不気味なほど鮮明に思い起こさせた。


 悠久なる大魔境の地の底で起きている異変は、すでに森の外へ滲み始めているのかもしれない。

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