幕間 天巡神社
天巡神社の朝は、玉砂利を掃く箒の音と、領内各地から届く祈りとともに始まる。
豊作や航海の安全、病の快癒、そして亡き者の安らかな眠り。
本殿へ続く長い石段の下では、早朝から馬車が行き交い、各地の神社や祠から運ばれてきた書状と奉納品が、社務所へ次々と運び込まれていた。
「こちらは東部の村から、秋の収穫祭の日取りについてです」
「祭務帳へ記して、東部を担当する宮司へ回してください」
「こちらは海沿いの町から、漁の安全祈願を早めてほしいとのことです」
「出航の日取りを確認してから、祈祷の日を決めましょう」
「それから、こちらは……」
年若い巫女が、一枚の書状を手に首を傾げた。
「子供の夜泣きが治まるよう、祈祷をお願いしたいそうです。病気平癒として扱えばよいでしょうか」
「そのまま記してください」
「そのまま、ですか?」
「はい。無理に名前を付けてしまえば、願い主が本当に困っていることを見落とします」
答えた少女は、積み上げられた書状へ目を通しながら筆を走らせていた。
月光を溶かしたような白銀の髪。
窓から差し込む光を受けるたび、その髪は淡い青や紫を帯び、輪郭さえ透けて見えるような透明感を纏っている。
伏せられた瞳は、若葉を光へ透かしたような淡い翡翠色だった。
少女の名はスズネ。
16歳にして、天巡神社で神楽を担う巫女である。
「ご家族へは、まず医師に診せるようお伝えしましょう。そのうえで、眠りを妨げるものがないか、家の周りも調べてもらってください」
「祈祷はしないのですか?」
「もちろん行います」
スズネは書状を丁寧に畳んだ。
「ですが、祈りは医師の代わりにはなりません。診てもらえる病であれば、まず診てもらうべきです」
年若い巫女が、少しだけ困ったように眉を下げる。
「では、祈祷にはどのような意味があるのでしょう」
「不安を抱えたままでは、できることさえ見失ってしまいます」
スズネは書状を、ほかのものと混ざらぬよう別の箱へ収めた。
「祈りは、前を向くための心を支えるものです」
「なるほど……」
「それに、願い事に大きいも小さいもありません。書いた方にとっては、どれも一つしかない願いです。雑に扱わないようにしてください」
「はい」
年若い巫女が書状を抱え直し、背筋を伸ばした。
天巡神社は、ハヅキ領で最も大きな神社というだけではない。
領内に点在する神社や祠を束ね、季節ごとの祭事、祈祷、魔除け、結界の維持、葬送に関わる儀式までを取り仕切る総社である。
領民が生まれた時も。
婚姻を結ぶ時も。
旅へ出る時も。
そして、死者を送る時も。
その暮らしの傍らには、天巡神社から受け継がれた祭祀があった。
「スズネ様、こちらもお願いいたします」
新たな書状が差し出される。
西部の農村から、雨乞いの祈祷を求めるものだった。
「今年は雨が少なく、畑の土が乾き始めているそうです」
「水路の状態について、何か書かれていますか?」
「水路、ですか?」
「上流に土砂が詰まっているのなら、雨を待つより先に取り除かなければなりません」
スズネは書状の余白へ、確認するべき内容を書き加えた。
「領役所にも連絡を。村の方々へは、水を無駄にしないよう伝えてください。祈祷の日取りは、水路の状況を確認してから決めます」
「はい」
年若い巫女は、今度は迷わず頷いた。
その背中を見送り、スズネは小さく息を吐く。
「相変わらず、夢のない教え方をしていますね」
穏やかな声が、社務所の入口から届いた。
スズネが顔を上げる。
白髪を隙なく結い上げた老女が立っていた。
天巡神社の祭主。
そして、スズネの祖母である。
「誤った期待を抱かせないことも、神社の務めだと教わりました」
「確かに教えました。ですが、もう少し柔らかく伝えてもよいでしょう」
「気をつけます」
「あなたは昔から、真面目すぎるのです」
祭主はそう言いながら、机の上へ一通の書状を置いた。
ほかの書状とは異なり、封へ結ばれた紐が黒ずんでいる。
「南西部の分社からです」
スズネの表情がわずかに引き締まった。
南西部。
悠久なる大魔境に近く、結界柱や開拓地が点在する地域である。
封を開き、書状へ目を通す。
昨夜、境内に灯されていた魔除けの火が、不自然に揺れた。
周囲に強い風はなく、結界にも目立った損傷はなかった。
だが、地中へ埋められていた祭祀石の一つに、細いヒビが生じていたという。
「魔物の襲撃でしょうか」
「その痕跡はないそうです」
「地震は?」
「周辺の村では、揺れを感じた者はいません」
祭主は机の上へ、小さな石片を置いた。
書状とともに送られてきた、祭祀石の欠片だった。
灰白色の表面には、髪の毛ほど細い黒い筋が残っている。
スズネは石片へ指先で触れた。
冷たい。
ただの石が持つ冷たさとは違う。
長い間、日の差さない水底へ沈められていたような冷気が、指先から静かに伝わってくる。
「……淀んでいます」
「分かりますか」
「わずかですが」
スズネは目を閉じた。
祭祀石は、地を巡る力の乱れを受け止め、周囲へ広がる前に鎮めるためのものだ。
本来ならば、外から流れ込んだ気配は、石の内側でゆっくりと薄れていく。
だが、この欠片には消えきらなかったものが残っていた。
水とも、土ともつかない濁り。
流れる先を失い、狭い場所へ押し込められているような気配だった。
「大魔境の瘴気でしょうか」
「まだ決めつけてはいけません」
祭主の声は静かだった。
「原因が分からない時ほど、分かったつもりになることが最も危険です」
「はい」
「予備の祭祀石と魔除け札を届けなさい。周囲の祠も確認させるように。それから、現地の領役所と結界柱へも報告を」
「承知しました」
神社だけで抱え込まない。
祈祷だけで解決しようとしない。
それもまた、祭主から教えられてきたことだった。
スズネは新しい書状を取り出し、必要な指示を書き始める。
黒い筋の残る石片は、机の端で沈黙していた。
◇ ◇ ◇
午後。
天巡神社の奥にある神楽殿には、柔らかな日差しが差し込んでいた。
磨かれた板張りの中央に、スズネが立っている。
白と緋を基調とした巫女装束。
透明感のある白銀の髪は普段より高い位置で結われ、五色の組紐と小さな鈴飾りが添えられている。
右手には神楽鈴。
左手には白い扇。
神楽殿の周囲には幾つもの火皿が置かれ、まだ火の入っていない芯が静かに並んでいた。
「始めなさい」
祭主の声が響いた。
スズネは一礼し、静かに足を踏み出す。
神楽鈴が鳴る。
澄んだ音が、神楽殿の隅々へ広がった。
一歩。
扇を開く。
もう一歩。
身体を巡らせ、神楽鈴を高く掲げる。
送り火の夜に奉納される、鎮魂の舞。
大魔境で命を落とした兵士。
海から戻らなかった漁師。
病に倒れた者。
旅の途中で、名も残せず亡くなった者。
身分も、生まれも、死んだ場所も問わない。
送り火が灯される夜、天巡神社では、すべての死者へ同じ舞が捧げられる。
鈴の音に合わせ、スズネの白銀の髪が柔らかく揺れた。
だが、足運びがわずかに早い。
「止めなさい」
祭主の声に、スズネは動きを止めた。
「急いでいます」
「申し訳ありません」
「誰を追いかけているのですか」
問われ、スズネは答えられなかった。
誰かを思い浮かべていたわけではない。
ただ、送り出すという言葉に引かれ、前へ進むことばかりを意識していた。
「舞は、死者を急かすためのものではありません」
祭主は、並べられた火皿の一つへ歩み寄る。
「そして、呼び戻すためのものでもない」
「では、誰のために舞うのでしょう」
「別れを告げられず、立ち止まっている者のためです」
祭主は、火の入っていない芯へ視線を落とした。
「死者を取り戻すことはできません。悲しみを消すこともできない」
スズネは黙って、その言葉を聞いていた。
「それでも、悲しみを抱いたまま歩き出すための場所を作ることはできます」
「残された者が、前へ進むために……」
「ええ」
祭主は静かに頷いた。
「死者だけを見て舞ってはなりません。その死を受け入れられずにいる者にも、目を向けなさい」
スズネは神楽鈴を握り直した。
祈りを捧げたからといって、亡くなった者が戻るわけではない。
舞を奉納したからといって、悲しみが消えるわけでもない。
それでも、人が別れの言葉を告げる場所は必要なのだ。
「もう一度、お願いいたします」
祭主が頷く。
再び、鈴が鳴った。
今度は急がない。
一歩ごとに、足の裏で板の感触を確かめる。
扇を開き、閉じる。
見送るように手を伸ばし、ゆっくりと胸元へ戻す。
神楽殿を巡る空気が、少しずつ整っていく。
死者の姿が見えるわけではない。
声が聞こえるわけでもない。
それでも、乱れていた場の気配が鎮まり、澄んでいくことだけは分かった。
舞が終わる。
最後の鈴の音が消え、神楽殿へ静寂が戻った。
「先ほどよりは、よくなりました」
「まだ、先ほどよりは、なのですね」
「送り火まで時間はあります」
祭主の口元へ、わずかな笑みが浮かぶ。
「何度でも舞いなさい」
「はい」
スズネは頭を下げた。
祭主が神楽殿を出た後も、しばらくその場に残る。
並べられた火皿には、まだ炎は灯されていない。
未来は見えない。
誰の祈りが、いつ必要になるのかも分からない。
だからこそ、備えるのだ。
誰かが喜びを願う時も。
助けを求める時も。
そして、大切な者へ別れを告げる時も。
天巡神社が、その祈りを受け止められるように。
スズネはわずかにずれていた火皿の位置を整え、神楽鈴を両手で胸元へ抱いた。
神楽殿の外では、夕暮れを告げる鐘が静かに鳴り始めていた。
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