幕間 姫さまとサイゾウ
第三結界柱で迎えた朝は、静かだった。
昨夜まで大魔境を覆っていた雲は流れ去り、見張り台の向こうから淡い朝日が差し込んでいる。
地下から戻った調査隊には休息が命じられていた。
負傷者は治療所に残り、傷の浅い者も今日一日は任務を外されている。
テンカも同様だった。
鍛錬は禁止。
大魔境へ近づくことも許されず、昼までは宿舎で休むよう言い渡されている。
だからといって、素直に寝台へ横になっていられるほど、テンカは大人しくなかった。
「……おらぬと思えば」
宿舎の裏手にある小さな作業小屋。
開け放たれた戸の向こうに、サイゾウの背中があった。
肩へ包帯を巻き、片脚を投げ出すようにして木箱へ腰掛けている。
手元には、昨日の地下で振るっていた刀。
刃には幾つもの欠けが生じ、峰にも歪みが残っていた。
サイゾウは小さな砥石を手に、刃こぼれの縁を整えていた。
「負傷者は休めと命じられたはずじゃが」
テンカが声を掛けると、サイゾウは手を止めた。
「姫さまも同じだったと記憶しております」
「わらわは散歩じゃ」
「私も似たようなものです」
「刀を研ぐ散歩があるか」
テンカは小屋の中へ入り、サイゾウの正面に置かれた木箱へ腰掛けた。
「その刀は、直るのか?」
「この場では応急処置までです。刃こぼれが深い。領都へ戻ったら、武具方に預けます」
サイゾウは刀身を朝日にかざした。
昨日の地下で、異形を斬り続けた刀。
黒い体液は拭われているが、刃に刻まれた傷までは消えていない。
「ずいぶんと無理をさせたのう」
「道具は使ってこそです」
「壊れては使えぬぞ」
「壊れる前に戻れたので、まだ使えます」
さらりと言って、サイゾウは刀を布の上へ戻した。
その言葉に、テンカは少しだけ眉を寄せる。
「そなたは、何でも帰ることへ結びつけるのじゃな」
「隊長ですから」
「隊長ならば、敵を斬ることが仕事ではないのか?」
「それも仕事の一つです」
サイゾウは砥石を置き、包帯の巻かれた肩を軽く回した。
僅かに顔が歪む。
「ですが、一番ではありません」
「では、何が一番なのじゃ」
「出した者を、連れて帰ることです」
迷いのない答えだった。
「任務を果たす。敵を倒す。情報を持ち帰る。どれも重要です。ですが、帰らなければ次はありません」
昨日の地下が、テンカの脳裏へ蘇る。
空洞を埋め尽くしていた異形。
退路へ伸びてきた腕。
最後まで通路へ残り、全員を先に地上へ上げたサイゾウ。
「だから、わらわたちを先に出したのか」
「姫さまに限った話ではありません。負傷者、術士、調査官。残るべき者と、先に退かせるべき者を決めただけです」
「そなた自身は、最後に残ったではないか」
「命令を出した者が、真っ先に逃げるわけにはいきません」
「それは少々、都合がよすぎるのではないか?」
テンカが睨むと、サイゾウは僅かに目を逸らした。
「……否定はできません」
「やはりな」
昨日のサイゾウは、テンカへ隊列を乱すなと告げた。
勇気と我が儘を取り違えるなと、言葉と態度で示した。
それは正しい。
正しかったからこそ、テンカは先に地上へ出た。
だが。
「次に同じことがあったとしても、そなたは最後に残るのであろう」
「隊長である限りは」
「ならば、わらわが先に出るとは限らぬぞ」
「それは困ります」
即答だった。
「姫さまが残れば、キリカ殿が残ります。姫さまを守ろうと、ほかの兵も残るでしょう」
「分かっておる」
「でしたら――」
「分かっておるが、それとこれとは別じゃ」
テンカは腕を組んだ。
「そなたがわらわを守ろうとするように、わらわとて、そなたを失いたくはない」
サイゾウの表情が止まった。
作業小屋の外から、朝の見張りを交代する兵たちの声が聞こえる。
遠くでは、炊事場の鍋が鳴っていた。
「……ありがたいお言葉です」
しばらくして、サイゾウが静かに答えた。
「ですが、隊長とはそういう役目です」
「皆を帰すためならば、自分は帰れずともよいと?」
「そうは申しません」
サイゾウは首を横へ振った。
「私も帰るつもりで動いています。死ぬために殿を務める者など、足手まといにしかなりません」
「ならば、昨日も帰るつもりでおったのじゃな」
「もちろんです」
「本当か?」
「姫さまは疑り深くなられましたな」
「そなたが素直に申さぬからじゃ」
サイゾウが小さく笑った。
普段、旅団員たちの前ではほとんど見せない、力の抜けた表情だった。
「探索者だった頃、帰ることを軽く考えていた時期がありました」
サイゾウは、傷ついた刀へ視線を落とす。
「奥へ進めば、より珍しいものがある。強い魔物を倒せば、名が上がる。危険を恐れる者は臆病者だと、そう思っていたこともあります」
「今のそなたからは、想像できぬな」
「若かったのです」
「今は老いておるのか?」
「姫さまから見れば、十分に」
「自分で申したくせに、少し傷ついた顔をするでない」
サイゾウは咳払いをした。
「帰れなかった者を、何人も見ました」
その声から、先ほどまでの軽さが消える。
「力が足りなかった者ばかりではありません。強い者も、賢い者もいた。それでも、引き返す時を誤れば帰れない」
テンカは何も言わず、その横顔を見つめた。
「だから、滅魔旅団へ入ったのか?」
「理由の一つではあります」
サイゾウは刀の峰へ指を添え、残された歪みを確かめた。
「大魔境では、誰か一人の強さだけで生き残ることはできません」
「耳が痛いのう」
「姫さまは、昨日それを理解されたでしょう」
「うむ」
テンカは素直に頷いた。
自分の刀だけでは、地上へ続く道を見つけられなかった。
ラデルカの嗅覚とマリエラの風が地上への道を見つけ、サイゾウの指揮のもと、兵たちが退路を切り開いた。
そしてキリカは、最後までテンカの隣にいた。
誰か一人でも欠けていれば、12人全員では戻れなかったかもしれない。
「だからこそ、そなたも帰ってこなければならぬ」
テンカはサイゾウを真っ直ぐに見た。
「姫さま」
「隊長の役目は、出した者を連れて帰ることであろう」
「はい」
「ならば、その数には、そなた自身も含めよ」
サイゾウが目を瞬かせた。
「己だけ数えぬのは、数え間違いというものじゃ」
「……なるほど」
「わらわからの命令じゃ」
テンカは小さな胸を張った。
「次も、全員で帰るぞ」
無茶な命令だということは、テンカにも分かっている。
戦いに絶対などない。
大魔境を相手に、誰一人失わないと約束することが、どれほど難しいことなのかも。
それでも。
初めから誰かを数から外すことなど、テンカにはできなかった。
サイゾウはしばらく黙っていた。
やがて、傷ついた刀を作業台に広げた布の上へ置き、姿勢を正す。
「承知しました」
いつもと変わらない返事。
だが、その声音は、いつもより少しだけ穏やかだった。
「隊長として、可能な限り、その命令を果たします」
「可能な限り、ではない」
「では、必ずと?」
「うむ」
「ずいぶんと難しい命令ですな」
「そなたならば、できよう」
テンカが当然のように言うと、サイゾウは困ったように笑った。
「姫さまは、時折ひどく無茶を仰る」
「無茶を現実にするのが、隊長の仕事ではないのか?」
「いつの間に、そのような仕事が増えたのでしょう」
「今じゃ」
「それは困りました」
言葉とは裏腹に、サイゾウの表情はどこか楽しげだった。
その時、砂利を踏む足音が作業小屋へ近づいてきた。
「姫さま! こちらにいらっしゃるのですか!」
キリカの声が響く。
「見つかったか」
「休むよう命じられていたのでは?」
「散歩をしていただけじゃ」
「私も同じことを申し上げました」
「そなたと一緒にするでない」
テンカは木箱から立ち上がった。
小屋の戸口まで進み、一度だけ振り返る。
「サイゾウ」
「はい」
「忘れるでないぞ」
何を、とは言わなかった。
サイゾウも聞き返さない。
「承知しております、姫さま」
テンカは満足げに頷き、キリカの待つ宿舎へ歩き出した。
朝日が、第三結界柱の防壁を照らしている。
その光を受けて、作業台の上に置かれた刀の傷が、細く白く光っていた。
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