姫さまとキリカ②
午後の刀剣術の稽古は、いつもの訓練場で行われた。
ただし、五行の使用は禁止。
魔力も極力使わず、純粋な身体の動きと、刀の型だけを確認する時間である。
「姫さま、お疲れではありませんか?」
木刀を手にしたキリカが尋ねる。
「疲れてはおる」
「でしたら、今日はお休みになられても」
「嫌じゃ」
テンカは即答した。
キリカが目を瞬かせる。
「嫌、ですか」
「うむ。水滴ひとつに振り回されたまま一日を終えるなど、わらわの矜持が許さぬ」
「ですが、母上様より無理は禁じられております」
「無理はせぬ。型の確認だけじゃ」
「本当に?」
「そなた、わらわを疑っておるな」
「少し」
「正直者め」
テンカは木刀を構える。
キリカも向かい合った。
風が吹く。
訓練場の端に植えられた木々が、さわさわと揺れた。
「では、参ります」
「来い」
キリカが踏み込む。
速い。
3歳年上とはいえ、彼女はただのメイドではない。
戦闘メイドとして訓練を受けており、護衛としての技量も磨いている。
テンカはその一撃を受けようとして、途中で思い直した。
――受けるな。
――流せ。
午前中に母から言われた言葉が、頭をよぎる。
テンカは木刀の角度を変えた。
打ち込まれた木刀を正面から受け止めず、斜めに滑らせる。
乾いた音。
キリカの木刀が逸れた。
「っ」
キリカの目がわずかに見開かれる。
テンカはその隙に踏み込もうとした。
しかし、足がもつれた。
「あ」
次の瞬間、キリカの木刀がテンカの肩口で止まっていた。
「姫さま」
「……今のは惜しかったであろう」
「はい。ですが、足が追いついておりませんでした」
「分かっておる」
テンカは少しむくれた。
だが内心では驚いていた。
今の受け流し。
ほんの一瞬だが、水行の修練で掴んだ感覚と似ていた。
魔力を使ったわけではない。
けれど、力を真正面から受け止めず、流すという考え方は、剣にも通じる。
「もう一本じゃ」
「はい」
再び構える。
キリカが打ち込み、テンカは受け流そうとするが、今度は早すぎた。
木刀の軌道を外しきれず、手首に軽く当てられる。
「早いです」
「むう」
「もう少し、相手の力が乗る瞬間を見てください」
「簡単に言うでない」
「姫さまならできます」
「そなたのその信頼は、時々重い」
「レイナ様ほどではありません」
「それはそうじゃな」
思わず二人で笑った。
稽古は続く。
受ける。
流す。
失敗する。
また構える。
派手な五行術はなく、炎も水も出ない。
それでも、テンカは確かに前へ進んでいる感覚があった。
五行は刀と別のものではない。
身体の使い方。
呼吸。
間合い。
視線。
心の置き方。
それらすべてと繋がっている。
何度目かの打ち合いの後、テンカは膝に手をついた。
息が上がっている。
「姫さま、今日はここまでにしましょう」
「まだ……」
「ここまでです」
キリカの声が少し強くなった。
テンカが顔を上げると、キリカは真剣な表情でこちらを見ていた。
「姫さまが強くなりたいと願っておられることは、わたしにも分かります。ですが、倒れるまで続けることが強さではありません」
「……」
「姫さまが倒れたら、わたしは悲しいです」
その一言に、テンカは黙った。
昨日、キリカは泣きそうな顔で自分の部屋に駆け込んできた。
あの顔を思い出す。
自分の身体は、自分だけのものではない。
そう考えると少し不思議だが、今のテンカには、自分を心配してくれる人たちがいる。
無茶をすれば、その人たちを傷つける。
「……分かった」
テンカは木刀を下ろした。
「今日はここまでにする」
「はい」
「だが、キリカ」
「何でしょう」
「そなたも、もっと強くなれ」
キリカが目を瞬かせた。
テンカは真っ直ぐに彼女を見る。
「わらわは強くなる。五行も、刀も、必ず己のものにする。だが、わらわ一人で全てを背負うつもりはない」
「姫さま……」
「そなたは、わらわの護衛であろう?」
「はい」
「ならば、置いていかれるな」
少し挑発するように言う。
キリカは驚いた顔をした後、ふっと表情を引き締めた。
「承知いたしました」
「うむ」
「では、わたしも明日から鍛錬量を増やします」
「いや、無理はするなと言ったばかりではないか」
「姫さまも増やすのでしょう?」
「……少しだけじゃ」
「では、わたしも少しだけ」
「その少しが信用ならぬ」
「お互い様です」
キリカは珍しく、少しだけ悪戯っぽく笑った。
テンカは目を丸くし、それから笑った。
「言うようになったのう、キリカ」
「姫さまの影響です」
「わらわのせいか」
「はい」
「ならば仕方あるまい」
二人は並んで訓練場を後にした。
夕暮れの光が、屋敷の瓦屋根を赤く染めている。
テンカの黒髪も、その光を受けてわずかに赤みを帯びた。
まだ、緋色ではない。
火行を纏うには早すぎる。
五行の道は始まったばかりだ。
水滴ひとつに苦戦し、木刀一本に振り回され、母に叱られ、キリカに止められる。
それでも。
テンカは不思議と、胸の奥が高鳴るのを感じていた。
前世のゲームで作った理想の姫武者。
それは画面の中だけの存在だったが、今は違う。
この世界で、この身体で、この手で、自分は本当にそこへ近づいていける。
「キリカ」
「はい、姫さま」
「いつか、わらわは五行を纏って刀を振るう」
「はい」
「その時、そなたは隣におれ」
キリカは一瞬だけ言葉を失った。
そして、深く頭を下げる。
「必ず」
「うむ」
テンカは満足げに頷いた。
その姿は、まだ幼い少女のものだ。
だが、夕暮れの中でまっすぐ前を見据える暗紅の瞳には、確かな意志が宿っていた。
後に五行姫と呼ばれる少女は、まだ己の力を知らない。
けれど、その隣にはすでに、彼女を支え、共に歩もうとする者がいた。
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