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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第1章 黒き鬼と緋色の姫
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姫さまとキリカ②

 午後の刀剣術の稽古は、いつもの訓練場で行われた。


 ただし、五行の使用は禁止。

 魔力も極力使わず、純粋な身体の動きと、刀の型だけを確認する時間である。


「姫さま、お疲れではありませんか?」


 木刀を手にしたキリカが尋ねる。


「疲れてはおる」

「でしたら、今日はお休みになられても」

「嫌じゃ」


 テンカは即答した。

 キリカが目を瞬かせる。


「嫌、ですか」

「うむ。水滴ひとつに振り回されたまま一日を終えるなど、わらわの矜持が許さぬ」

「ですが、母上様より無理は禁じられております」

「無理はせぬ。型の確認だけじゃ」

「本当に?」

「そなた、わらわを疑っておるな」

「少し」

「正直者め」


 テンカは木刀を構える。

 キリカも向かい合った。


 風が吹く。

 訓練場の端に植えられた木々が、さわさわと揺れた。


「では、参ります」

「来い」


 キリカが踏み込む。


 速い。


 3歳年上とはいえ、彼女はただのメイドではない。

 戦闘メイドとして訓練を受けており、護衛としての技量も磨いている。


 テンカはその一撃を受けようとして、途中で思い直した。


 ――受けるな。

 ――流せ。


 午前中に母から言われた言葉が、頭をよぎる。

 テンカは木刀の角度を変えた。


 打ち込まれた木刀を正面から受け止めず、斜めに滑らせる。

 乾いた音。

 キリカの木刀が逸れた。


「っ」


 キリカの目がわずかに見開かれる。

 テンカはその隙に踏み込もうとした。


 しかし、足がもつれた。


「あ」


 次の瞬間、キリカの木刀がテンカの肩口で止まっていた。


「姫さま」

「……今のは惜しかったであろう」

「はい。ですが、足が追いついておりませんでした」

「分かっておる」


 テンカは少しむくれた。

 だが内心では驚いていた。


 今の受け流し。

 ほんの一瞬だが、水行の修練で掴んだ感覚と似ていた。

 魔力を使ったわけではない。


 けれど、力を真正面から受け止めず、流すという考え方は、剣にも通じる。


「もう一本じゃ」

「はい」


 再び構える。

 キリカが打ち込み、テンカは受け流そうとするが、今度は早すぎた。

 木刀の軌道を外しきれず、手首に軽く当てられる。


「早いです」

「むう」

「もう少し、相手の力が乗る瞬間を見てください」

「簡単に言うでない」

「姫さまならできます」

「そなたのその信頼は、時々重い」

「レイナ様ほどではありません」

「それはそうじゃな」


 思わず二人で笑った。


 稽古は続く。


 受ける。

 流す。

 失敗する。

 また構える。


 派手な五行術はなく、炎も水も出ない。

 それでも、テンカは確かに前へ進んでいる感覚があった。

 五行は刀と別のものではない。


 身体の使い方。

 呼吸。

 間合い。

 視線。

 心の置き方。


 それらすべてと繋がっている。

 何度目かの打ち合いの後、テンカは膝に手をついた。


 息が上がっている。


「姫さま、今日はここまでにしましょう」

「まだ……」

「ここまでです」


 キリカの声が少し強くなった。

 テンカが顔を上げると、キリカは真剣な表情でこちらを見ていた。


「姫さまが強くなりたいと願っておられることは、わたしにも分かります。ですが、倒れるまで続けることが強さではありません」

「……」

「姫さまが倒れたら、わたしは悲しいです」


 その一言に、テンカは黙った。

 昨日、キリカは泣きそうな顔で自分の部屋に駆け込んできた。


 あの顔を思い出す。


 自分の身体は、自分だけのものではない。

 そう考えると少し不思議だが、今のテンカには、自分を心配してくれる人たちがいる。

 無茶をすれば、その人たちを傷つける。


「……分かった」


 テンカは木刀を下ろした。


「今日はここまでにする」

「はい」

「だが、キリカ」

「何でしょう」

「そなたも、もっと強くなれ」


 キリカが目を瞬かせた。

 テンカは真っ直ぐに彼女を見る。


「わらわは強くなる。五行も、刀も、必ず己のものにする。だが、わらわ一人で全てを背負うつもりはない」

「姫さま……」

「そなたは、わらわの護衛であろう?」

「はい」

「ならば、置いていかれるな」


 少し挑発するように言う。

 キリカは驚いた顔をした後、ふっと表情を引き締めた。


「承知いたしました」

「うむ」

「では、わたしも明日から鍛錬量を増やします」

「いや、無理はするなと言ったばかりではないか」

「姫さまも増やすのでしょう?」

「……少しだけじゃ」

「では、わたしも少しだけ」

「その少しが信用ならぬ」

「お互い様です」


 キリカは珍しく、少しだけ悪戯っぽく笑った。

 テンカは目を丸くし、それから笑った。


「言うようになったのう、キリカ」

「姫さまの影響です」

「わらわのせいか」

「はい」

「ならば仕方あるまい」


 二人は並んで訓練場を後にした。

 夕暮れの光が、屋敷の瓦屋根を赤く染めている。

 テンカの黒髪も、その光を受けてわずかに赤みを帯びた。


 まだ、緋色ではない。


 火行を纏うには早すぎる。

 五行の道は始まったばかりだ。

 水滴ひとつに苦戦し、木刀一本に振り回され、母に叱られ、キリカに止められる。


 それでも。


 テンカは不思議と、胸の奥が高鳴るのを感じていた。

 前世のゲームで作った理想の姫武者。

 それは画面の中だけの存在だったが、今は違う。

 この世界で、この身体で、この手で、自分は本当にそこへ近づいていける。


「キリカ」

「はい、姫さま」

「いつか、わらわは五行を纏って刀を振るう」

「はい」

「その時、そなたは隣におれ」


 キリカは一瞬だけ言葉を失った。

 そして、深く頭を下げる。


「必ず」

「うむ」


 テンカは満足げに頷いた。


 その姿は、まだ幼い少女のものだ。

 だが、夕暮れの中でまっすぐ前を見据える暗紅の瞳には、確かな意志が宿っていた。

 後に五行姫と呼ばれる少女は、まだ己の力を知らない。


 けれど、その隣にはすでに、彼女を支え、共に歩もうとする者がいた。

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