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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第4章 大魔境に眠るもの
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異形の巣

 石床を掴んだ指に続き、異形の腕が照明術の光へ現れた。


 人のものよりも長く、灰白色の皮膚は濡れたように光っている。表面には幾筋もの黒い線が走り、その下では細い何かが脈打つように蠢いていた。


 肘らしき関節が、一つではない。

 曲がるはずのない方向へ腕を折り畳みながら、異形はゆっくりと暗闇から這い出してきた。


 成人男性ほどの身体を持ちながら、脚は短く、腕だけが異様に長い。背中から突き出した骨が皮膚を持ち上げ、白く濁った眼は調査隊の誰にも焦点を合わせていなかった。


 裂けるように開いた口から、湿った息だけが漏れている。


「動くな」


 ラデルカが低い声で告げた。


 戦斧を構えたまま、異形の指先を見つめている。


「あれは床の振動を探っている」


 異形は首を傾け、石床へ長い指を這わせた。

 視線は定まっていない。


 だが、指先だけが床へ強く押しつけられ、僅かな震えを拾おうとしていた。


 誰も動かなかった。

 呼吸さえ殺すような静寂の中、異形の指がゆっくりと左右へ滑っていく。


 テンカは継火の柄を握ったまま、目の前の存在へ意識を向けた。

 異形の中にも、五行は存在している。


 しかし、巡ってはいなかった。


 複数の行が身体の中で絡まり合い、狭い場所へ無理やり押し込められている。生き物の内にあるはずの流れが、どこにも抜けることなく淀んでいた。


 捻挫した術士の身体が、僅かに揺れた。

 傷めた右足へ痛みが走ったのか、靴底が石床を擦る。


 異形の首が、音のした方へ跳ねるように向いた。


 次の瞬間、その姿が照明術の光から消えた。


「来るぞ!」


 サイゾウの声と同時に、異形が壁を蹴った。


 灰白色の身体が横から飛び込み、長い腕が隊列の中央へ伸びる。

 狙いは、負傷した術士だった。


 ラデルカが踏み込み、戦斧の柄で異形の腕を受け止めた。

 人の腕とは思えない衝撃が響き、ラデルカの足が半歩だけ後ろへ滑る。


「重いな!」


 異形は止まらなかった。

 関節を歪に折り曲げ、戦斧へ絡みつくように腕を伸ばす。黒く濡れた指が、ラデルカの肩へ迫った。


 サイゾウの刀が走る。


 刃が異形の肘を深く裂き、黒い体液が床へ飛び散った。

 それでも異形は、痛みに反応しなかった。

 裂けた腕を振り回し、通常なら届かないはずの距離から、もう一方の手を負傷者へ伸ばす。


「下がれ!」


 キリカが術士の肩を引き、兵とともに後方へ退かせた。


 ラデルカの脇を抜けた長い腕が、隊列の中央まで迫る。


 テンカはその場で腰を落とし、継火を抜いた。


 金行を薄く刃へ纏わせる。

 艶やかな黒髪の一房が、白銀へ染まった。


 白銀の斬線が走り、異形の手首を断った。


 切り離された手が石床へ落ちる。


 だが、床へ転がった指は動きを止めず、獲物を探すように何度も石を掻いた。


「まだ動くぞ!」


 ラデルカが異形を押し返した。


 サイゾウがその脚を斬り、体勢を崩した異形の首へ刀を振り下ろした。

 刃は首の半ばまで食い込み、異形の身体が石床へ倒れた。


 それでも、長い腕は動いていた。


 身体から離れかけた頭が不自然に持ち上がり、裂けた口が大きく開かれた。


 声は出ない。


 代わりに、黒い液体が喉の奥から溢れ出す。

 首の傷口から肉が盛り上がり、裂け目を塞ごうとしていた。


 だが、それは元の姿へ戻ろうとする再生ではなかった。


 肉は別の方向へ膨れ、皮膚の下から細い骨が突き出していく。傷を治すのではなく、壊れた部分を別の何かへ作り替えようとしていた。


「観察は後だ!」


 サイゾウが異形の頭を蹴り、首を石床へ押しつけた。


「動かなくなるまで仕留めろ!」


 ラデルカが戦斧を振り上げた。


 厚い刃が異形の頭部へ叩き込まれ、石床へ重い衝撃が響く。

 異形の身体が激しく痙攣した。


 ラデルカは再び戦斧を振り下ろす。

 二度目の一撃で頭部が潰れ、長い四肢が石床を掻きむしった。

 しばらく動き続けていた指先も、やがて糸が切れたように力を失った。


「……黒き鬼と同じです」


 完全に沈黙した異形を見下ろし、マリエラが息を呑むように言った。


「傷口から感じる瘴気が、あの残滓と似ています」


 テンカは継火を構えたまま、倒れた異形へ意識を向けた。


 木行が、壊れた肉体を無理に生かそうとしていた。

 土行は、その歪な形を支え続けている。

 水行は黒い体液とともに滞り、金行と火行は本来の働きを失っていた。


 五つの行が互いを生かすことなく、同じ身体の中で食い合っていた。


「姫さま?」


 キリカが呼びかけた。


「生きておったのではない」


 テンカは異形から目を離さず答えた。


「死ねぬまま、壊れ続けておったのじゃ」


 その言葉に、周囲の兵たちが息を呑んだ。


 マリエラは異形を見つめていたが、手帳へ手を伸ばすことはなかった。


「黒き鬼も、同じ状態だったのでしょうか」

「分からぬ」


 テンカは静かに答えた。


「似てはおる。じゃが、あやつの淀みは、これよりも遥かに強かった」

「原因が近い可能性はあります」


 マリエラの声には、研究者としての熱よりも警戒が滲んでいた。


「ですが、今は確かめている場合ではありません」

「ああ」


 ラデルカが戦斧についた黒い液体を布で拭った。


「まだいる」


 その言葉と同時に、通路の奥から石を擦る音が聞こえた。


 一つではない。


 右の壁。

 天井の向こう。

 さらに奥の暗がり。


 複数の場所から、長い指が石を探るような音が重なっている。


「数は分かるか?」


 サイゾウが尋ねた。


「無理だ。臭いも音も重なっている」


 ラデルカの犬耳が忙しなく動く。


「少なくとも、三や四ではない」


 背後からも、小さく石が転がる音が響いた。


 全員が振り返る。


 落下地点へ続く通路に姿は見えない。

 だが、壁の隙間から細い指が一瞬だけ現れ、すぐに暗闇へ引っ込んだ。


「囲まれ始めています」


 キリカが短刀を抜いた。


「ここで戦えば、負傷者を守りきれん」


 サイゾウは迷わなかった。


「風の流れを追う。止まるな。だが走るな。隊列を崩せば、奴らに引きずられるぞ」


 負傷者を中央へ置き、調査隊は再び進み始めた。


 先ほどよりも歩みは速い。


 ラデルカと斥候が前方を確認し、サイゾウが続く。テンカとキリカは負傷者の近くを進み、後方では第三討伐隊の兵たちが、暗がりへ武器を向けていた。


 通路には、異形たちの残した痕跡が増えていった。


 壁を這った黒い筋。

 石床に刻まれた無数の爪痕。

 途中で折れた獣の角や、砕けた骨。


 人の足跡に似たものもあれば、蹄のような跡もあった。細長い尾を引きずったような線や、何本もの脚が同じ場所を踏んだ跡も残されている。


「先ほどのものとは、身体の作りが違う痕跡もあります」


 マリエラが足元を見ながら言った。


「すべてが同じ種類とは限りません」

「臭いも違う」


 ラデルカが答える。


「混じっている瘴気は似ているが、元は別の生き物だった可能性がある」


 別々の生き物が、この地下で同じように壊された。

 そう考えれば、異なる足跡や臭いにも説明がつく。


 だが、その原因までは分からない。

 テンカは継火の柄を握り直した。


 通路の先から流れてくる風が、少しずつ強くなっていった。


 音の響きも変わる。

 狭い石壁の間で反射していた足音が、前方へ吸い込まれるように消えていった。


「広い場所へ出るぞ」


 ラデルカが足を止めた。


 斥候が照明術の光を前へ差し出す。


 その先で、通路は突然途切れていた。

 調査隊が立っているのは、巨大な空洞の壁面から突き出した石造りの回廊だった。


 照明術の光では、天井まで届かない。

 対岸も見えず、底さえ闇に沈んでいる。


 遥か下には黒い水が流れ、石壁へぶつかる音だけが遠く響いていた。


 天井からは大木よりも太い根が幾重にも垂れ下がり、空洞の壁面には、崩れかけた石造建築が張りつくように残されている。


 階段や柱、橋の残骸が、上下も分からぬほど複雑に重なっていた。


 空洞の中央よりさらに奥には、ひときわ大きな影があった。

 建物なのか、岩なのかも分からない。

 濃い瘴気が霧のように漂い、その輪郭を覆い隠していた。


「これほどのものが、大魔境の地下に……」


 マリエラが呟いた。


 誰も続きを口にできなかった。

 驚きに足を止めている場合ではない。


 出口を探さなければならない。


「風はどちらからだ?」


 サイゾウが尋ねた。


 ラデルカが鼻先を上げ、褐色の犬耳を動かした。


「右だ。壁沿いに空気が流れている。だが――」


 言葉が途中で止まった。


「どうした?」

「静かすぎる」


 ラデルカの視線が、空洞の壁へ向けられた。


 照明術の光が届く範囲に、白い岩のようなものがいくつも並んでいる。


 最初は、石灰質の岩肌に見えた。

 だが、その一つが僅かに動いた。


 長い腕が石壁を掴み、灰白色の身体がゆっくりと向きを変える。


 異形だった。

 その隣にも。

 さらに上にも。


 壁へ張りつき、柱の陰にうずくまり、天井から逆さにぶら下がっている。

 形も大きさも異なる異形が、巨大な空洞の至るところに潜んでいた。


「見えているだけで、二十……いや」


 ラデルカの声が低くなる。


「数えきれん」


 照明術の光が僅かに揺れた。


 腕を負傷した兵の包帯には、すでに新しい血が滲んでいた。


 その時、通路を抜けてきた冷たい風が、調査隊の汗と血の臭いを巨大な空洞へ運んでいく。


 誰かの靴底が、小石を一つ弾いた。

 乾いた音が回廊から闇へ落ち、見えない壁の間を幾重にも反響した。


 空洞の異形たちの頭が、一斉に持ち上がる。


 白く濁った眼。

 裂けた口。

 幾重にも折れ曲がる四肢。


 無数の指が、石壁を掴んだ。


「空洞を離れ、手前の通路へ退け!」


 サイゾウの号令が飛んだ。


「走るな! 負傷者を中央に置き、隊列を崩すな!」


 調査隊が回廊から通路へ退き始める。


 テンカは最後に空洞を振り返った。


 異形の群れが、壁や柱を這い下りてくる。

 硬い指が石を掴む音が重なり、巨大な空洞全体へ広がっていった。


 その音は、遠くから押し寄せる雨にも似ていた。


 サイゾウとラデルカが通路の入口で武器を構えた。

 テンカも継火を握り直した。


 最初の異形が回廊を蹴り、調査隊のいる通路へ飛び込んできた。

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