異形の巣
石床を掴んだ指に続き、異形の腕が照明術の光へ現れた。
人のものよりも長く、灰白色の皮膚は濡れたように光っている。表面には幾筋もの黒い線が走り、その下では細い何かが脈打つように蠢いていた。
肘らしき関節が、一つではない。
曲がるはずのない方向へ腕を折り畳みながら、異形はゆっくりと暗闇から這い出してきた。
成人男性ほどの身体を持ちながら、脚は短く、腕だけが異様に長い。背中から突き出した骨が皮膚を持ち上げ、白く濁った眼は調査隊の誰にも焦点を合わせていなかった。
裂けるように開いた口から、湿った息だけが漏れている。
「動くな」
ラデルカが低い声で告げた。
戦斧を構えたまま、異形の指先を見つめている。
「あれは床の振動を探っている」
異形は首を傾け、石床へ長い指を這わせた。
視線は定まっていない。
だが、指先だけが床へ強く押しつけられ、僅かな震えを拾おうとしていた。
誰も動かなかった。
呼吸さえ殺すような静寂の中、異形の指がゆっくりと左右へ滑っていく。
テンカは継火の柄を握ったまま、目の前の存在へ意識を向けた。
異形の中にも、五行は存在している。
しかし、巡ってはいなかった。
複数の行が身体の中で絡まり合い、狭い場所へ無理やり押し込められている。生き物の内にあるはずの流れが、どこにも抜けることなく淀んでいた。
捻挫した術士の身体が、僅かに揺れた。
傷めた右足へ痛みが走ったのか、靴底が石床を擦る。
異形の首が、音のした方へ跳ねるように向いた。
次の瞬間、その姿が照明術の光から消えた。
「来るぞ!」
サイゾウの声と同時に、異形が壁を蹴った。
灰白色の身体が横から飛び込み、長い腕が隊列の中央へ伸びる。
狙いは、負傷した術士だった。
ラデルカが踏み込み、戦斧の柄で異形の腕を受け止めた。
人の腕とは思えない衝撃が響き、ラデルカの足が半歩だけ後ろへ滑る。
「重いな!」
異形は止まらなかった。
関節を歪に折り曲げ、戦斧へ絡みつくように腕を伸ばす。黒く濡れた指が、ラデルカの肩へ迫った。
サイゾウの刀が走る。
刃が異形の肘を深く裂き、黒い体液が床へ飛び散った。
それでも異形は、痛みに反応しなかった。
裂けた腕を振り回し、通常なら届かないはずの距離から、もう一方の手を負傷者へ伸ばす。
「下がれ!」
キリカが術士の肩を引き、兵とともに後方へ退かせた。
ラデルカの脇を抜けた長い腕が、隊列の中央まで迫る。
テンカはその場で腰を落とし、継火を抜いた。
金行を薄く刃へ纏わせる。
艶やかな黒髪の一房が、白銀へ染まった。
白銀の斬線が走り、異形の手首を断った。
切り離された手が石床へ落ちる。
だが、床へ転がった指は動きを止めず、獲物を探すように何度も石を掻いた。
「まだ動くぞ!」
ラデルカが異形を押し返した。
サイゾウがその脚を斬り、体勢を崩した異形の首へ刀を振り下ろした。
刃は首の半ばまで食い込み、異形の身体が石床へ倒れた。
それでも、長い腕は動いていた。
身体から離れかけた頭が不自然に持ち上がり、裂けた口が大きく開かれた。
声は出ない。
代わりに、黒い液体が喉の奥から溢れ出す。
首の傷口から肉が盛り上がり、裂け目を塞ごうとしていた。
だが、それは元の姿へ戻ろうとする再生ではなかった。
肉は別の方向へ膨れ、皮膚の下から細い骨が突き出していく。傷を治すのではなく、壊れた部分を別の何かへ作り替えようとしていた。
「観察は後だ!」
サイゾウが異形の頭を蹴り、首を石床へ押しつけた。
「動かなくなるまで仕留めろ!」
ラデルカが戦斧を振り上げた。
厚い刃が異形の頭部へ叩き込まれ、石床へ重い衝撃が響く。
異形の身体が激しく痙攣した。
ラデルカは再び戦斧を振り下ろす。
二度目の一撃で頭部が潰れ、長い四肢が石床を掻きむしった。
しばらく動き続けていた指先も、やがて糸が切れたように力を失った。
「……黒き鬼と同じです」
完全に沈黙した異形を見下ろし、マリエラが息を呑むように言った。
「傷口から感じる瘴気が、あの残滓と似ています」
テンカは継火を構えたまま、倒れた異形へ意識を向けた。
木行が、壊れた肉体を無理に生かそうとしていた。
土行は、その歪な形を支え続けている。
水行は黒い体液とともに滞り、金行と火行は本来の働きを失っていた。
五つの行が互いを生かすことなく、同じ身体の中で食い合っていた。
「姫さま?」
キリカが呼びかけた。
「生きておったのではない」
テンカは異形から目を離さず答えた。
「死ねぬまま、壊れ続けておったのじゃ」
その言葉に、周囲の兵たちが息を呑んだ。
マリエラは異形を見つめていたが、手帳へ手を伸ばすことはなかった。
「黒き鬼も、同じ状態だったのでしょうか」
「分からぬ」
テンカは静かに答えた。
「似てはおる。じゃが、あやつの淀みは、これよりも遥かに強かった」
「原因が近い可能性はあります」
マリエラの声には、研究者としての熱よりも警戒が滲んでいた。
「ですが、今は確かめている場合ではありません」
「ああ」
ラデルカが戦斧についた黒い液体を布で拭った。
「まだいる」
その言葉と同時に、通路の奥から石を擦る音が聞こえた。
一つではない。
右の壁。
天井の向こう。
さらに奥の暗がり。
複数の場所から、長い指が石を探るような音が重なっている。
「数は分かるか?」
サイゾウが尋ねた。
「無理だ。臭いも音も重なっている」
ラデルカの犬耳が忙しなく動く。
「少なくとも、三や四ではない」
背後からも、小さく石が転がる音が響いた。
全員が振り返る。
落下地点へ続く通路に姿は見えない。
だが、壁の隙間から細い指が一瞬だけ現れ、すぐに暗闇へ引っ込んだ。
「囲まれ始めています」
キリカが短刀を抜いた。
「ここで戦えば、負傷者を守りきれん」
サイゾウは迷わなかった。
「風の流れを追う。止まるな。だが走るな。隊列を崩せば、奴らに引きずられるぞ」
負傷者を中央へ置き、調査隊は再び進み始めた。
先ほどよりも歩みは速い。
ラデルカと斥候が前方を確認し、サイゾウが続く。テンカとキリカは負傷者の近くを進み、後方では第三討伐隊の兵たちが、暗がりへ武器を向けていた。
通路には、異形たちの残した痕跡が増えていった。
壁を這った黒い筋。
石床に刻まれた無数の爪痕。
途中で折れた獣の角や、砕けた骨。
人の足跡に似たものもあれば、蹄のような跡もあった。細長い尾を引きずったような線や、何本もの脚が同じ場所を踏んだ跡も残されている。
「先ほどのものとは、身体の作りが違う痕跡もあります」
マリエラが足元を見ながら言った。
「すべてが同じ種類とは限りません」
「臭いも違う」
ラデルカが答える。
「混じっている瘴気は似ているが、元は別の生き物だった可能性がある」
別々の生き物が、この地下で同じように壊された。
そう考えれば、異なる足跡や臭いにも説明がつく。
だが、その原因までは分からない。
テンカは継火の柄を握り直した。
通路の先から流れてくる風が、少しずつ強くなっていった。
音の響きも変わる。
狭い石壁の間で反射していた足音が、前方へ吸い込まれるように消えていった。
「広い場所へ出るぞ」
ラデルカが足を止めた。
斥候が照明術の光を前へ差し出す。
その先で、通路は突然途切れていた。
調査隊が立っているのは、巨大な空洞の壁面から突き出した石造りの回廊だった。
照明術の光では、天井まで届かない。
対岸も見えず、底さえ闇に沈んでいる。
遥か下には黒い水が流れ、石壁へぶつかる音だけが遠く響いていた。
天井からは大木よりも太い根が幾重にも垂れ下がり、空洞の壁面には、崩れかけた石造建築が張りつくように残されている。
階段や柱、橋の残骸が、上下も分からぬほど複雑に重なっていた。
空洞の中央よりさらに奥には、ひときわ大きな影があった。
建物なのか、岩なのかも分からない。
濃い瘴気が霧のように漂い、その輪郭を覆い隠していた。
「これほどのものが、大魔境の地下に……」
マリエラが呟いた。
誰も続きを口にできなかった。
驚きに足を止めている場合ではない。
出口を探さなければならない。
「風はどちらからだ?」
サイゾウが尋ねた。
ラデルカが鼻先を上げ、褐色の犬耳を動かした。
「右だ。壁沿いに空気が流れている。だが――」
言葉が途中で止まった。
「どうした?」
「静かすぎる」
ラデルカの視線が、空洞の壁へ向けられた。
照明術の光が届く範囲に、白い岩のようなものがいくつも並んでいる。
最初は、石灰質の岩肌に見えた。
だが、その一つが僅かに動いた。
長い腕が石壁を掴み、灰白色の身体がゆっくりと向きを変える。
異形だった。
その隣にも。
さらに上にも。
壁へ張りつき、柱の陰にうずくまり、天井から逆さにぶら下がっている。
形も大きさも異なる異形が、巨大な空洞の至るところに潜んでいた。
「見えているだけで、二十……いや」
ラデルカの声が低くなる。
「数えきれん」
照明術の光が僅かに揺れた。
腕を負傷した兵の包帯には、すでに新しい血が滲んでいた。
その時、通路を抜けてきた冷たい風が、調査隊の汗と血の臭いを巨大な空洞へ運んでいく。
誰かの靴底が、小石を一つ弾いた。
乾いた音が回廊から闇へ落ち、見えない壁の間を幾重にも反響した。
空洞の異形たちの頭が、一斉に持ち上がる。
白く濁った眼。
裂けた口。
幾重にも折れ曲がる四肢。
無数の指が、石壁を掴んだ。
「空洞を離れ、手前の通路へ退け!」
サイゾウの号令が飛んだ。
「走るな! 負傷者を中央に置き、隊列を崩すな!」
調査隊が回廊から通路へ退き始める。
テンカは最後に空洞を振り返った。
異形の群れが、壁や柱を這い下りてくる。
硬い指が石を掴む音が重なり、巨大な空洞全体へ広がっていった。
その音は、遠くから押し寄せる雨にも似ていた。
サイゾウとラデルカが通路の入口で武器を構えた。
テンカも継火を握り直した。
最初の異形が回廊を蹴り、調査隊のいる通路へ飛び込んできた。
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