大魔境の地下
最初に戻ってきたのは、痛みだった。
左の脇腹が脈打つように痛み、息を吸うたび、土と埃が喉へ入り込む。身体の上には何か柔らかな重みがあり、鼻先にはキリカの髪が触れていた。
「……キリカ」
声を出した途端、激しく咳き込んだ。
「姫さま!」
耳元で声が響き、テンカを覆っていた身体が動いた。
暗くて、何も見えない。
キリカの手がテンカの頬へ触れ、額から肩、腕へと怪我の有無を確かめていく。
「どこか痛む場所はございますか?」
「脇腹を打ったようじゃ。じゃが、骨は折れておらぬと思う」
「お立ちになれますか?」
「試してみる」
テンカは土へ手をつき、ゆっくりと上体を起こした。
腰の継火は失われていない。鞘にも大きな損傷はなかった。
そのことに安堵した直後、キリカの額から血が流れていることに気づく。
「そなた、怪我をしておるではないか」
「浅い傷です。問題ございません」
「わらわを庇ったせいであろう」
「護衛ですので」
キリカは当然のことのように答えた。
その時、暗闇の向こうから低い声が飛ぶ。
「動ける者は返事をしろ! 声だけでいい!」
サイゾウだった。
すぐに、別の場所から応答が返った。
「ラデルカ、無事だ!」
「マリエラです。動けます!」
「こちらも無事です!」
咳や呻き声に混じりながら、一人、また一人と声が上がる。
最後まで返事がなかった者へサイゾウが呼びかけると、土砂の奥から苦しげな声が返った。
「……生きています。右足を、捻ったようです」
「位置を知らせろ。声を出し続けろ」
暗闇の中で、淡い光が灯った。
調査・研究部の術士が震える手を掲げ、照明術を使った。拳ほどの光が浮かび上がり、土煙に覆われた地下空間を僅かに照らした。
テンカたちが落ちた場所には、崩れた土や岩、引き千切られた木の根が斜面を作っていた。
その下には、平らな石床が覗いている。
自然の洞窟ではない。
四方には、同じ大きさに削られた石が積まれ、天井を支えていたと思われる太い石柱が途中から折れていた。
地上から見えた石壁の、内側だった。
「姫さま、立てますか?」
サイゾウが土砂を乗り越え、こちらへやってきた。
「問題ない。キリカも額に傷を負っただけじゃ」
「だけ、ではございません」
キリカが言うと、サイゾウは僅かに表情を緩めた。
「それだけ話せるなら、お二人とも意識ははっきりしているようですね」
「皆は?」
「確認中です」
サイゾウは光の下へ移動し、改めて人数を数えた。
数えられたのは12人。地下へ落ちた者は、誰一人欠けていなかった。
術士の一人が右足首を捻り、第三討伐隊の兵が左腕へ深い切り傷を負っている。ほかの者も打ち身や擦り傷はあったが、自力で動けないほどの怪我ではない。
「負傷者の手当てを優先する。術士は瘴気の濃度を測れ。残っている灯具も確認しろ」
「「了解」」
兵たちは互いの装備を確かめ、土砂に埋もれた荷を掘り出し始めた。
マリエラは捻挫した術士の足首を触診し、添え木と布で固定する。その間に、別の術士が測定器具を取り出した。
器具に灯った淡い黄色の光は、地表で見た時よりも黒ずんでいる。
「瘴気は濃いですが、今すぐ身体へ異常を及ぼすほどではありません」
術士は一度言葉を切り、器具の揺れを見つめた。
「ただ、少しずつ濃くなっています」
「ここへ留まるのは危険か?」
サイゾウが尋ねる。
「長時間留まるのであれば、危険です」
マリエラが術士に代わって答えた。
「落下によって上の瘴気が流れ込んだだけかもしれません。ですが、地下の奥からも同じ流れを感じます」
頭上から、小石が転がり落ちてきた。
全員の視線が上へ向く。
照明術の光を高く上げても、地上は見えなかった。崩れた土と木々が幾重にも重なり、先ほどまで開いていたはずの空間を塞いでいる。
サイゾウは斥候と兵を連れ、土砂の斜面を登った。
途中までは進めたが、上部へ近づくほど足場が崩れ、僅かな動きでも土や石が降ってくる。
「無理だ」
戻ってきたサイゾウが告げた。
「登ろうとすれば、残っている地盤まで崩れる。縄も土砂の奥だ」
「土行で支えられぬか?」
テンカは頭上へ意識を向けた。
土の気はある。
だが、あまりにも乱れていた。
崩れた地層と折り重なった木の根、石壁や岩盤が複雑に重なり、そのすべてが不安定なまま押し合っている。
「今のわらわでは、どこを支えれば崩れぬのか分からぬ。力を流せば、かえって均衡を壊すやもしれん」
サイゾウは即座に答えた。
「では、術は使わないでください。分からないものへ、無理に手を出す必要はありません」
テンカは唇を結び、小さく頷いた。
地下へ入るつもりなどなかった。
それでも今は、頭上にある大地そのものが、地上へ戻るための最大の障害となっていた。
「救援を待つことはできるか?」
ラデルカが尋ねた。
「俺たちが戻らなければ、第三結界柱から捜索隊が出る」
「じゃが、いつ異常に気づく?」
「早くても、帰還予定を過ぎてからでしょう」
サイゾウは周囲を見渡した。
「その頃まで、ここが崩れずに残っている保証はない。瘴気も濃くなっている」
再び、小さな振動が伝わった。
上からではない。
石床のさらに下を、低い波が通り過ぎたような震えだった。
積み重なった土砂の一部が崩れ、乾いた音を立てて斜面を滑り落ちていく。
「移動した方がいい」
ラデルカの犬耳が、暗がりの奥へ向けられた。
「向こうから風が流れている。強くはないが、空気が動いている」
彼女が示した先には、石壁の一部が崩れてできた大きな裂け目があった。
地上から灯具を下ろした時に見つけたものと同じだ。
黒き鬼ほどの巨体でも通れそうな幅を持ち、その奥には暗い通路が続いている。
「黒き鬼の臭いは?」
サイゾウが問う。
「ある。地上よりも濃い」
ラデルカは眉を寄せた。
「それ以外にも、何かが混じっている。腐臭ではない。血とも違う。嗅いだ覚えのない臭いだ」
「裂け目以外に道は?」
「あります」
マリエラが、土砂から少し離れた壁へ光を向けた。
そこには、人が二人並んで歩けるほどの通路があった。
入口の上部には、文字とも模様ともつかない線が刻まれている。だが、通路の奥は崩れた石で塞がれ、僅かな隙間すら残っていない。
もう一方には、地上から確認した石段があった。
しかし、落下した土砂と木の根が上半分を埋め、天井も大きく崩れている。
「今使える道は、あの裂け目だけか」
サイゾウの呟きに、誰も反論できなかった。
テンカは裂け目の奥へ意識を向けた。
土行と木行が、暗闇の先へ流れている。
地上で感じた時よりも、はっきりしていた。
それだけではない。
流れ込んだ土行と木行の中には、ほかの行まで混じっていた。本来なら互いを生かし、巡るはずの気が地下の奥で複雑に絡まり合い、その流れを止めている。五行のどれか一つが強いのではなく、巡りそのものが歪んでいた。
だが、その正体までは分からない。
「姫さま?」
「地下の巡りは、あの先へ続いておる」
テンカは裂け目から目を離さず答えた。
「地上へ向かう流れは感じぬ。じゃが、ここに留まるよりは、空気の動く方へ進むべきであろう」
サイゾウはしばらく考えた後、全員を見渡した。
「ここから先は、調査ではない」
声に迷いはなかった。
「目的は、全員で地上へ戻ることだ。未知のものを見つけても、立ち止まって調べるな。出口へつながる道だけを探す」
「承知しました」
マリエラが真っ先に答えた。
その瞳には地下遺構への興味が浮かんでいたが、手帳へ手を伸ばすことはなかった。
「負傷者は隊列の中央。ラデルカと斥候は先行しろ。俺がその後ろにつく。最後尾は第三討伐隊で固める」
サイゾウがテンカへ目を向ける。
「姫さまとキリカ殿も中央へ。異常を感じた場合は、すぐに知らせてください」
「うむ」
「撤退と言いたいところですが、今は引き返す道がありません」
「ならば、進むしかあるまい」
テンカは継火の柄へ触れた。
「案ずるでない。此度は勝手に先へは出ぬ」
「そこまで心配していたわけではありません」
「少しは心配しておった顔じゃな」
「否定はしません」
サイゾウが僅かに笑った。
短いやり取りの間にも、兵たちは準備を整えていく。
残った縄を裂け目の入口へ結び、帰路の目印とした。通路の壁には、一定の間隔で淡く光る符を貼りつける。
捻挫した術士は、兵の肩を借りれば歩けた。腕を負傷した兵も、剣は握れなかったが、自分の足で進むことはできた。
「出発する」
ラデルカと斥候が、裂け目へ足を踏み入れた。
その後を、調査隊が一列になって進んでいった。
捻挫した術士の呼吸は浅く、腕を負傷した兵の顔にも疲労が滲んでいた。それでも、誰一人として弱音を吐く者はいなかった。
裂け目の内側には、砕けた石が散乱していた。
壁は力任せに押し広げられたように崩れ、積まれていた石の一部が通路の奥へ食い込んでいる。ところどころには黒ずんだ染みが残され、湿った鉄に似た臭いを放っていた。
「黒き鬼のものか?」
テンカが小声で尋ねた。
「可能性は高い」
ラデルカが壁へ顔を近づけることなく答えた。
「臭いは奥へ続いている。だが、古い。今すぐ近くにいるわけではない」
「ほかの臭いは?」
「それも奥だ」
通路は少し進んだ先で、人が使うために造られた幅へ戻っていた。
石床の上には、長い年月をかけて積もった黒い埃が広がっている。
だが、すべてが均一ではない。
何か大きなものが通った場所だけ、埃が左右へ押し退けられ、石の表面が露出していた。壁にも爪で引っ掻いたような傷が残され、角を擦ったと思われる跡が、テンカの頭よりも遥かに高い位置へ続いていた。
「黒き鬼は、ここを通ったようですね」
マリエラが囁いた。
「石段ではなく、壁を崩して入ったのか。あるいは、出ていったのか」
サイゾウは足跡らしき窪みへ光を向ける。
「向きまでは分かりません。ただ、あの巨体がここにいたのは確かでしょう」
テンカたちが命懸けで倒した黒き鬼が、この地下を通っていた。その事実だけで空気が重くなった。
ここで何をしていたのか。なぜ、地上へ姿を現したのか。
答えを考えるより先に、ラデルカが片手を上げて隊列を止めた。前方へ向けた犬耳が僅かに動き、鼻が空気を探った。
「何かいる」
囁くような声だった。
全員が武器へ手を伸ばした。
照明術の光は、通路の途中までしか届いていない。その先には、形のない闇が淀んでいた。
「数は?」
サイゾウが尋ねた。
「分からん。臭いが散っている」
ラデルカは戦斧をゆっくりと構えた。
「ただ、動いている」
しばらく、何も聞こえなかった。
やがて暗闇の向こうから、湿ったものが石床を擦る音が届いた。
ゆっくりと。
何かを引きずりながら、こちらへ近づいてくる。
サイゾウが刀を抜き、兵たちが負傷者を囲む。
キリカはテンカの前へ半歩出た。
「姫さま」
「分かっておる」
テンカは継火の鯉口を切った。
石床を擦る音が止まった次の瞬間、照明術の光が届くぎりぎりの場所へ、濡れた指のようなものが伸びてきた。
人のものよりも長く、関節の数まで異なるそれは、あり得ない方向へ折れ曲がりながら石床を掴んだ。
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