森の底へ続く道②
吹き上がった瘴気が、崩落で立ちこめた土煙を押し流した。
「全員、さらに下がれ!」
サイゾウの指示に従い、先行班は命綱をたどって崩落地点から距離を取った。
「負傷者は?」
「いません」
斥候の返答を受け、サイゾウは先行班の全員へ目を配った。
テンカのすぐ後ろでは、キリカがその肩へ手を添えている。
「姫さま、お怪我はございませんか?」
「問題ない。そなたこそ、どこか打っておらぬか?」
「わたしも無事です」
そう答えながらも、キリカはテンカの側を離れようとしなかった。
崩落口の縁では、土と小石が今も暗がりへこぼれ続けている。地中のどこまで空洞が広がっているのか分からない以上、不用意に近づくことはできない。
「術士は瘴気を測れ。ただし、崩落口へ近づくな」
「「了解!」」
本隊に残っていた術士たちが、安全な場所から測定を始めた。
淡い黄色の光を灯した器具が細かく揺れ、やがて黒ずんだ色へ変わった。
「地表よりも濃い反応です」
術士の報告を聞き、マリエラの表情が険しくなった。
「瘴気は内部から流れ出ています。それに、この風……」
「奥へ続いているな」
ラデルカが鼻先を僅かに上げた。
褐色の犬耳が、暗がりへ向けられている。
「一度吹き上がっただけではない。今も下から空気が流れている。地中に広い空間があるか、どこか別の場所へ通じている可能性が高い」
「中を確かめられるか?」
サイゾウが尋ねると、マリエラは崩落口から目を離さないまま頷いた。
「人が近づかず、灯りだけを下ろすのであれば。ただし、内部が崩れ始めた場合は、すぐに中止してください」
「当然だ。地下へ降りることも、試料を採取することも許可しない」
「承知しています」
マリエラの瞳には、未知のものを前にした研究者の熱が宿っていた。
それでも、自ら前へ出ようとはしない。
調べたいという思いを抑え、危険を見極める。それもまた、調査隊の一員に求められる役目だった。
術士が小さな灯具へ手をかざすと、その内部に拳ほどの光が灯った。
第三討伐隊の兵が灯具を細い縄の先へ結び、長い杖へ縄を掛ける。崩落口から十分に離れたまま、杖の先だけを暗がりの上へ伸ばした。
「ゆっくり下ろせ」
サイゾウの指示に合わせ、灯具が地中へ沈んでいった。
最初に照らされたのは、崩れた大地の断面だった。
黒い土や幾重にも絡み合った木の根、その奥にあるヒビの入った岩盤を照らしながら、光はさらに下へ落ちていく。
地表付近だけを土と根が薄く覆い、その下には広い空間が口を開けていた。
「これほどの空洞が……」
マリエラの声に、隠しきれない驚きが混じった。
「静かに」
ラデルカが短く告げ、褐色の犬耳を下へ向けた。
一同が息を潜める中、灯具だけがゆっくりと揺れ、そのたびに岩と根の影が壁面を這った。
しばらく耳を澄ませても、動くものの気配はなく、光の届かない底に何が潜んでいるのかまでは分からなかった。
「もう少し下へ」
マリエラの言葉を受け、サイゾウが兵へ頷いた。
縄が僅かに緩められ、灯具がさらに暗がりへ沈んでいく。
やがて、光が何か平らなものを照らした。
「止めろ」
サイゾウの声で、縄の動きが止まった。
土に埋もれた壁面の一部に、不自然な直線が浮かんでいる。
一枚の岩ではない。
同じような大きさに削られた石が、横一列に積み重ねられていた。
石の表面は黒く汚れ、いくつものヒビが走っている。隙間からは太い根が伸び、長い年月をかけて石組みを押し広げていた。
「あれは、自然にできたものか?」
テンカが尋ねた。
「いいえ」
マリエラは即座に否定した。
「あれほど真っ直ぐに石が並ぶことはありません。誰かが削り、積み上げたものです」
「人の手で造られた壁ということか」
「その可能性が高いです」
悠久なる大魔境の地下に、人の手が入った場所がある。
大魔境が今の姿になるよりも前に造られたのか。
それとも、今も森のどこかに住む者がいるのか。
何一つ分からない。
「灯りを右へ動かせるか?」
サイゾウの指示を受け、兵が杖の位置を変えた。
灯具が石壁に沿ってゆっくりと移動した。
壁は途中で大きく崩れていた。
石が空洞の内側へ散らばり、壁に食い込んでいた木の根まで引き千切られている。その奥には、人の背丈を遥かに超える黒い裂け目が開いていた。
「黒き鬼でも通れる大きさじゃな」
テンカが呟いた。
「そう見えます」
マリエラは慎重に言葉を選んだ。
「ですが、黒き鬼が壊したとは限りません。壁がいつ崩れたのかも、何によって壊されたのかも、今の状態からは判断できません」
「黒き鬼が通った臭いはあるか?」
サイゾウがラデルカへ尋ねた。
「この位置からでは分からん」
ラデルカの鼻が小さく動く。
「瘴気と湿った土の臭いが強すぎる。黒き鬼の臭いが残っていたとしても、地上から嗅ぎ分けるのは難しい」
「ならば、現時点では可能性にすぎないな」
「ああ」
黒き鬼の足跡はこの付近から始まり、その下には巨体が通れそうな裂け目もあったが、それだけで地下から現れたと断定することはできない。
テンカは足元へ意識を沈めた。
崩落によって地中が露出したため、土行の流れは先ほどより捉えやすくなっている。
周囲から集まった土の気は、この場所で消えているのではなく、石壁の向こうにある裂け目のさらに奥へ流れ続けていた。
「土行は、あの裂け目の先へ引かれておる」
「壁の奥へ、ですか?」
「うむ。深さまでは分からぬ。じゃが、この場所だけで終わってはおらぬ」
マリエラがその言葉を手帳へ書き留めた。
「地中の魔力反応も同じ方向です。地下には、さらに広い構造が続いていると考えるべきでしょう」
灯具が僅かに揺れ、その光が崩れた壁の脇へ規則正しい影を浮かび上がらせた。
一段、その下にもう一段と、平らな石が並んでいる。
「待て。あれは何じゃ?」
テンカの声に、全員の視線が集まった。
兵が灯具を少しだけ下へ動かす。
土と木の根に半ば埋もれながら、人が足を置けるほどの幅を持つ石が、等しい高さで続いていた。
不規則に割れた岩ではない。
「石段です」
マリエラが小さく息を呑んだ。
石段は壁に沿って下へ伸び、やがて光の届かない暗闇へ消えている。
黒き鬼の巨体には狭すぎる。
だが、そのすぐ脇には、大きく崩れた裂け目があった。
「石段を造ったものと、壁を崩して通ったものが同じとは限らんな」
サイゾウが静かに言った。
「ええ」
マリエラが頷く。
「少なくとも、この石段は黒き鬼のために造られたものではないでしょう」
「では、誰が造ったのじゃ」
テンカの問いに、答えられる者はいなかった。
その時、足元から低い振動が伝わった。
地面が揺れたというより、地の底で何か大きなものが動いたような、鈍い震えだった。
灯具が縄の先で大きく揺れ、石壁へ幾つもの光の輪を走らせた。
「地震か?」
兵の一人が周囲を見回した。
「違う」
テンカは足元から意識を離さなかった。
土行が、地下の奥へ一斉に引かれている。
先ほどまで幾筋にも分かれていた流れが、一つの太い奔流となり、暗闇の奥へ呑み込まれていく。
次の瞬間、引かれていた土行が、強い波となって押し返された。
「全員、そこから離れよ!」
テンカが叫ぶと、サイゾウも間を置かず命じた。
「調査中止! 灯具を回収し、来た道へ戻れ!」
「「了解!」」
本隊の兵たちは灯具を引き上げ、先行班も命綱に沿って後退を始めた。
マリエラが手帳を閉じると、ラデルカはその背を押して先を急がせた。
「走るな! 足元を確かめろ!」
サイゾウは先行班と本隊の間に立ち、全員の動きを見渡した。
「命綱は外すな! 間隔を保ったまま戻れ!」
再び、地下から振動が伝わった。
先ほどよりも強い。
積もった落ち葉が細かく跳ね、木々の枝が一斉に揺れた。
土の下で、岩の砕ける音が連続して響く。
「姫さま、こちらへ!」
キリカがテンカの腕を引いた。
先行班が本隊の待つ場所へ戻ろうとした、その時だった。
崩落口の縁から伸びていた亀裂が、左右へ走った。
一本。
さらに一本。
黒い裂け目は先行班の足元を越え、本隊の待機場所へ伸びていく。
「まさか……」
マリエラが息を呑んだ。
最初に開いた崩落口は、地下空洞の端にすぎなかった。
安全だと思っていた本隊の足元も。
命綱を回していた大木の下も。
すべて、薄い地盤の上にあったのだ。
「木から離れろ!」
サイゾウが叫んだ直後、大地が大きく沈んだ。
支点にしていた大木が根元から傾き、本隊の兵たちは縄から手を離した。
だが、後方にも亀裂が走り、退路そのものが崩れ始めていた。
「全員、身を低くしろ!」
地表が波打った。
木の根が引き千切られ、幾つもの大木が枝を絡ませながら倒れていく。
サイゾウが近くの兵を突き飛ばし、ラデルカは倒れかけたマリエラの腕を掴んだ。
キリカはテンカを抱き寄せる。
次の瞬間。
足元から、大地が消えた。
先行班も、本隊も、周囲の木々も。
調査隊の12人は、崩れ落ちる土砂とともに地下へ呑み込まれた。
落下の途中、根ごと傾いた大木が空洞の縁へ激突した。
剥き出しになった太い根が岩と土の間へ食い込み、幹に回されていた命綱が一斉に強く張った。
腰へ激しい衝撃が走り、先行班の落下速度が僅かに弱まった。
本隊の兵たちも、崩れた土と絡み合った木の根が作る斜面を滑り落ちたことで、落下の勢いを幾分か削がれていた。
だが、それも一瞬だった。
空洞の縁がさらに崩れ、食い込んでいた根が岩ごと抜け落ちる。
張りつめていた命綱が緩み、テンカたちは再び暗闇へ投げ出された。
テンカはキリカの身体を抱き返した。
頭上から土と石が降り注ぐ。
折れた根が視界を横切り、灯具の光が激しく揺れながら遠ざかっていく。
上下も、方角も分からない。
ただ、暗闇の底へ引きずり込まれていく。
「キリカ――!」
叫んだ声さえ、崩れ落ちる土砂の音に呑まれた。
何かへ身体を強く打ちつけた瞬間、テンカの意識は途切れた。
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