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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第4章 大魔境に眠るもの
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森の底へ続く道②

 吹き上がった瘴気が、崩落で立ちこめた土煙を押し流した。


「全員、さらに下がれ!」


 サイゾウの指示に従い、先行班は命綱をたどって崩落地点から距離を取った。


「負傷者は?」

「いません」


 斥候の返答を受け、サイゾウは先行班の全員へ目を配った。


 テンカのすぐ後ろでは、キリカがその肩へ手を添えている。


「姫さま、お怪我はございませんか?」

「問題ない。そなたこそ、どこか打っておらぬか?」

「わたしも無事です」


 そう答えながらも、キリカはテンカの側を離れようとしなかった。


 崩落口の縁では、土と小石が今も暗がりへこぼれ続けている。地中のどこまで空洞が広がっているのか分からない以上、不用意に近づくことはできない。


「術士は瘴気を測れ。ただし、崩落口へ近づくな」

「「了解!」」


 本隊に残っていた術士たちが、安全な場所から測定を始めた。

 淡い黄色の光を灯した器具が細かく揺れ、やがて黒ずんだ色へ変わった。


「地表よりも濃い反応です」


 術士の報告を聞き、マリエラの表情が険しくなった。


「瘴気は内部から流れ出ています。それに、この風……」

「奥へ続いているな」


 ラデルカが鼻先を僅かに上げた。

 褐色の犬耳が、暗がりへ向けられている。


「一度吹き上がっただけではない。今も下から空気が流れている。地中に広い空間があるか、どこか別の場所へ通じている可能性が高い」

「中を確かめられるか?」


 サイゾウが尋ねると、マリエラは崩落口から目を離さないまま頷いた。


「人が近づかず、灯りだけを下ろすのであれば。ただし、内部が崩れ始めた場合は、すぐに中止してください」


「当然だ。地下へ降りることも、試料を採取することも許可しない」


「承知しています」


 マリエラの瞳には、未知のものを前にした研究者の熱が宿っていた。


 それでも、自ら前へ出ようとはしない。

 調べたいという思いを抑え、危険を見極める。それもまた、調査隊の一員に求められる役目だった。


 術士が小さな灯具へ手をかざすと、その内部に拳ほどの光が灯った。

 第三討伐隊の兵が灯具を細い縄の先へ結び、長い杖へ縄を掛ける。崩落口から十分に離れたまま、杖の先だけを暗がりの上へ伸ばした。


「ゆっくり下ろせ」


 サイゾウの指示に合わせ、灯具が地中へ沈んでいった。


 最初に照らされたのは、崩れた大地の断面だった。

 黒い土や幾重にも絡み合った木の根、その奥にあるヒビの入った岩盤を照らしながら、光はさらに下へ落ちていく。

 地表付近だけを土と根が薄く覆い、その下には広い空間が口を開けていた。


「これほどの空洞が……」


 マリエラの声に、隠しきれない驚きが混じった。


「静かに」


 ラデルカが短く告げ、褐色の犬耳を下へ向けた。


 一同が息を潜める中、灯具だけがゆっくりと揺れ、そのたびに岩と根の影が壁面を這った。


 しばらく耳を澄ませても、動くものの気配はなく、光の届かない底に何が潜んでいるのかまでは分からなかった。


「もう少し下へ」


 マリエラの言葉を受け、サイゾウが兵へ頷いた。


 縄が僅かに緩められ、灯具がさらに暗がりへ沈んでいく。

 やがて、光が何か平らなものを照らした。


「止めろ」


 サイゾウの声で、縄の動きが止まった。


 土に埋もれた壁面の一部に、不自然な直線が浮かんでいる。


 一枚の岩ではない。

 同じような大きさに削られた石が、横一列に積み重ねられていた。


 石の表面は黒く汚れ、いくつものヒビが走っている。隙間からは太い根が伸び、長い年月をかけて石組みを押し広げていた。


「あれは、自然にできたものか?」


 テンカが尋ねた。


「いいえ」


 マリエラは即座に否定した。


「あれほど真っ直ぐに石が並ぶことはありません。誰かが削り、積み上げたものです」

「人の手で造られた壁ということか」

「その可能性が高いです」


 悠久なる大魔境の地下に、人の手が入った場所がある。

 大魔境が今の姿になるよりも前に造られたのか。


 それとも、今も森のどこかに住む者がいるのか。

 何一つ分からない。


「灯りを右へ動かせるか?」


 サイゾウの指示を受け、兵が杖の位置を変えた。

 灯具が石壁に沿ってゆっくりと移動した。


 壁は途中で大きく崩れていた。

 石が空洞の内側へ散らばり、壁に食い込んでいた木の根まで引き千切られている。その奥には、人の背丈を遥かに超える黒い裂け目が開いていた。


「黒き鬼でも通れる大きさじゃな」


 テンカが呟いた。


「そう見えます」


 マリエラは慎重に言葉を選んだ。


「ですが、黒き鬼が壊したとは限りません。壁がいつ崩れたのかも、何によって壊されたのかも、今の状態からは判断できません」

「黒き鬼が通った臭いはあるか?」


 サイゾウがラデルカへ尋ねた。


「この位置からでは分からん」


 ラデルカの鼻が小さく動く。


「瘴気と湿った土の臭いが強すぎる。黒き鬼の臭いが残っていたとしても、地上から嗅ぎ分けるのは難しい」

「ならば、現時点では可能性にすぎないな」

「ああ」


 黒き鬼の足跡はこの付近から始まり、その下には巨体が通れそうな裂け目もあったが、それだけで地下から現れたと断定することはできない。


 テンカは足元へ意識を沈めた。

 崩落によって地中が露出したため、土行の流れは先ほどより捉えやすくなっている。


 周囲から集まった土の気は、この場所で消えているのではなく、石壁の向こうにある裂け目のさらに奥へ流れ続けていた。


「土行は、あの裂け目の先へ引かれておる」

「壁の奥へ、ですか?」

「うむ。深さまでは分からぬ。じゃが、この場所だけで終わってはおらぬ」


 マリエラがその言葉を手帳へ書き留めた。


「地中の魔力反応も同じ方向です。地下には、さらに広い構造が続いていると考えるべきでしょう」


 灯具が僅かに揺れ、その光が崩れた壁の脇へ規則正しい影を浮かび上がらせた。

 一段、その下にもう一段と、平らな石が並んでいる。


「待て。あれは何じゃ?」


 テンカの声に、全員の視線が集まった。


 兵が灯具を少しだけ下へ動かす。

 土と木の根に半ば埋もれながら、人が足を置けるほどの幅を持つ石が、等しい高さで続いていた。

 不規則に割れた岩ではない。


「石段です」


 マリエラが小さく息を呑んだ。


 石段は壁に沿って下へ伸び、やがて光の届かない暗闇へ消えている。

 黒き鬼の巨体には狭すぎる。

 だが、そのすぐ脇には、大きく崩れた裂け目があった。


「石段を造ったものと、壁を崩して通ったものが同じとは限らんな」


 サイゾウが静かに言った。


「ええ」


 マリエラが頷く。


「少なくとも、この石段は黒き鬼のために造られたものではないでしょう」


「では、誰が造ったのじゃ」


 テンカの問いに、答えられる者はいなかった。


 その時、足元から低い振動が伝わった。


 地面が揺れたというより、地の底で何か大きなものが動いたような、鈍い震えだった。

 灯具が縄の先で大きく揺れ、石壁へ幾つもの光の輪を走らせた。


「地震か?」


 兵の一人が周囲を見回した。


「違う」


 テンカは足元から意識を離さなかった。


 土行が、地下の奥へ一斉に引かれている。

 先ほどまで幾筋にも分かれていた流れが、一つの太い奔流となり、暗闇の奥へ呑み込まれていく。


 次の瞬間、引かれていた土行が、強い波となって押し返された。


「全員、そこから離れよ!」


 テンカが叫ぶと、サイゾウも間を置かず命じた。


「調査中止! 灯具を回収し、来た道へ戻れ!」

「「了解!」」


 本隊の兵たちは灯具を引き上げ、先行班も命綱に沿って後退を始めた。


 マリエラが手帳を閉じると、ラデルカはその背を押して先を急がせた。


「走るな! 足元を確かめろ!」


 サイゾウは先行班と本隊の間に立ち、全員の動きを見渡した。


「命綱は外すな! 間隔を保ったまま戻れ!」


 再び、地下から振動が伝わった。


 先ほどよりも強い。


 積もった落ち葉が細かく跳ね、木々の枝が一斉に揺れた。

 土の下で、岩の砕ける音が連続して響く。


「姫さま、こちらへ!」


 キリカがテンカの腕を引いた。


 先行班が本隊の待つ場所へ戻ろうとした、その時だった。

 崩落口の縁から伸びていた亀裂が、左右へ走った。


 一本。

 さらに一本。


 黒い裂け目は先行班の足元を越え、本隊の待機場所へ伸びていく。


「まさか……」


 マリエラが息を呑んだ。


 最初に開いた崩落口は、地下空洞の端にすぎなかった。

 安全だと思っていた本隊の足元も。

 命綱を回していた大木の下も。


 すべて、薄い地盤の上にあったのだ。


「木から離れろ!」


 サイゾウが叫んだ直後、大地が大きく沈んだ。

 支点にしていた大木が根元から傾き、本隊の兵たちは縄から手を離した。


 だが、後方にも亀裂が走り、退路そのものが崩れ始めていた。


「全員、身を低くしろ!」


 地表が波打った。

 木の根が引き千切られ、幾つもの大木が枝を絡ませながら倒れていく。


 サイゾウが近くの兵を突き飛ばし、ラデルカは倒れかけたマリエラの腕を掴んだ。

 キリカはテンカを抱き寄せる。


 次の瞬間。


 足元から、大地が消えた。


 先行班も、本隊も、周囲の木々も。

 調査隊の12人は、崩れ落ちる土砂とともに地下へ呑み込まれた。


 落下の途中、根ごと傾いた大木が空洞の縁へ激突した。

 剥き出しになった太い根が岩と土の間へ食い込み、幹に回されていた命綱が一斉に強く張った。


 腰へ激しい衝撃が走り、先行班の落下速度が僅かに弱まった。

 本隊の兵たちも、崩れた土と絡み合った木の根が作る斜面を滑り落ちたことで、落下の勢いを幾分か削がれていた。


 だが、それも一瞬だった。


 空洞の縁がさらに崩れ、食い込んでいた根が岩ごと抜け落ちる。

 張りつめていた命綱が緩み、テンカたちは再び暗闇へ投げ出された。


 テンカはキリカの身体を抱き返した。


 頭上から土と石が降り注ぐ。

 折れた根が視界を横切り、灯具の光が激しく揺れながら遠ざかっていく。


 上下も、方角も分からない。

 ただ、暗闇の底へ引きずり込まれていく。


「キリカ――!」


 叫んだ声さえ、崩れ落ちる土砂の音に呑まれた。


 何かへ身体を強く打ちつけた瞬間、テンカの意識は途切れた。

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