消えた魔物たち
「土の気が、地の下へ吸われておる」
テンカの言葉に、調査隊の空気が引き締まった。
サイゾウが周囲へ目を配りながら尋ねる。
「すぐに危険が迫っている感覚はありますか?」
「そこまでは分からぬ。じゃが、土行の流れが明らかにおかしい」
テンカは足元を見つめた。
土の気は、本来なら大地を支えるように静かに留まっている。
だが、この場所では違う。
地表近くにあるはずの気が、細い流れとなって地の底へ沈んでいる。水が砂へ染み込むのではなく、目に見えない何かに引かれているような感覚だった。
「流れている方向は分かりますか?」
マリエラが尋ねる。
「真下……いや、僅かに南西へ傾いておる」
森のさらに奥。
黒き鬼の痕跡が続いている方角と同じだった。
マリエラの表情から、先ほどまでの柔らかさが消える。
「術士二名、ここで瘴気濃度と地中の魔力反応を測定してください。表層と下層を分けて記録します」
「「了解!」」
調査・研究部の術士たちが荷を下ろし、測定器具を取り出す。
サイゾウもすぐに指示を出した。
「前後を警戒。調査が終わるまで、隊列を崩すな」
第三討伐隊の兵たちが、研究員を囲むように配置についた。
森に魔物の気配がないからこそ、何が現れるか分からない。
マリエラは地面へ膝をつき、採取用の小さな匙で表面の黒土を掬った。
続いて、先端が空洞になった細い採取杭を地面へ差し込み、深い場所の土を取り出す。
それぞれを別の容器へ入れると、指先に淡い水色の光を灯した。
少量の水が容器へ注がれ、土がゆっくりと沈んでいく。
「表層からは、目立った瘴気反応はありません」
マリエラは一つ目の容器を光へ透かした。
「下層は?」
ラデルカが尋ねる。
「まだ分離の途中です。ですが……」
容器の底から、黒い糸のようなものが立ち上っている。
液体へ溶けることなく、細い煙のように揺れていた。
「やはり、地中に瘴気があります。それも、先行調査で採取したものより濃い」
「ここから先ほど、強くなっているということか?」
サイゾウの問いに、マリエラが頷く。
「その可能性があります。ただし、一か所だけでは断定できません。進行方向に沿って、何度か測定する必要があります」
「帰路に支障が出ない範囲で頼む」
「承知しています」
マリエラは迷わず答えた。
未知への好奇心は強い。
だが、調査隊全体を危険に晒してまで、自分の欲求を優先する人物ではなかった。
「ラデルカ」
「分かっている」
サイゾウに呼ばれ、ラデルカが周囲の足跡へ目を向ける。
「測定の間に、逃げた魔物の痕跡を調べてくる。遠くへは行かない」
「斥候を一人連れていけ」
「一人で足りるぞ」
「その一人を連れていけば、二人になる」
サイゾウは近くにいた斥候へ顔を向けた。
「ラデルカについていけ。何か見つけても、二人だけでは追うな」
「了解」
斥候がラデルカの後ろへつく。
「軽率だとでも思っているのか?」
「お前が慎重だから、任せている」
「なら、余計な心配をするな」
「無事に戻ってから言え」
ラデルカは鼻から短く息を吐くと、斥候を連れて木々の間へ進んでいった。
互いの力量を知っているからこその、遠慮のないやり取りだった。
テンカはキリカとともに、マリエラの調査を見守る。
術士が地面へ立てた測定杭には、淡い黄色の光が灯っていた。
しかし、その光は安定しない。
地中へ引きずられるように何度も揺らぎ、弱まっては戻ることを繰り返している。
「術具にも異常が出ていますね」
マリエラが記録を取りながら言う。
「テンカ様が感じている土行の流れと、関係している可能性があります」
「原因までは分からぬのか?」
「地中に異常な流れがあることは分かります。ただ、それが瘴気によるものか、地脈の変化によるものかまでは」
マリエラは測定杭の根元へ視線を落とした。
「だからこそ、実際に追って確かめる必要があります」
その声は静かだった。
珍しい現象を前に目を輝かせる研究者とは違う、滅魔旅団の一員としての顔だった。
「姫さま」
キリカが森の右手へ目を向ける。
「ラデルカ殿たちが戻られます」
木々の間から、ラデルカと斥候が姿を現した。
斥候の手には、白く乾いた小さな骨が握られている。
「何か見つけたのか?」
テンカが尋ねると、ラデルカは骨をマリエラへ差し出した。
「肉食魔物の巣があった。中は空だ」
「この骨は?」
「食べ残しです」
斥候が答えた。
「巣の奥に、獣の毛と一緒に残されていました。主が戻った形跡はありません」
サイゾウが骨の断面を確かめる。
「巣の主は?」
「臭いは森狼に近い。ただし、あれほど大きな巣を作る種類ではない。魔物化した個体かもしれん」
ラデルカは自分の足元を指した。
「巣の周囲には、複数の足跡が残っていた。最も古い小さな足跡の上を、蹄の跡が踏み、その上に肉食獣の足跡が重なっている」
「同時に逃げたわけではないのですね」
マリエラが言った。
「ああ。正確な間隔までは分からんが、小さな獣が先に動き、その後に草食の魔物、最後に肉食の魔物が巣を捨てたと見ていい」
ラデルカが鼻先を僅かに上げる。
「残っている臭いの薄れ方も、それと矛盾しない」
「黒き鬼の痕跡は?」
サイゾウが尋ねた。
「それらの足跡を、さらに上から踏み潰している」
ラデルカは森の奥を振り返る。
「この辺りから獣や魔物が消え始めた後に、黒き鬼が通った可能性が高い」
黒き鬼が現れたから、森の生き物が逃げたのではない。
異変は、それ以前から始まっていた。
「では、あやつも逃げていたのか」
テンカの脳裏に、黒き鬼との戦いが蘇る。
異常な再生力。
傷口から溢れ続けた黒い瘴気。
眼前のすべてを壊そうとする、濁った黒い眼。
あれほどの魔物すら、森の奥から遠ざかろうとしていたのだろうか。
「逃げていたとまでは断定できません」
サイゾウが腰の刀へ手を添えた。
「ですが、黒き鬼がこの奥から外へ向かったことは間違いないでしょう」
テンカは森の奥へ目を向ける。
木々の隙間には、先の見えない暗がりが続いていた。
「先へ進む。ただし、帰還に支障が出ると判断すれば、そこで調査は打ち切る」
「「了解」」
測定を終えた術士たちが器具を片づけ、調査隊は再び進み始めた。
進むほどに、森は静かになっていった。
鳥の声も、やがて聞こえなくなる。
虫の羽音すら消え、残るのは調査隊が土を踏む音と、装備が触れ合う微かな音だけだった。
木々は生きている。
葉は青く、幹にも枯れた様子はない。
それなのに、森全体から命の気配だけが抜け落ちている。
テンカは何度も木行へ意識を向けた。
草木の中に気は残っている。
だが、その巡りは弱い。
枝や葉にあるはずの気が根へと沈み、土行の異様な流れへ引き込まれているように感じられた。
「姫さま」
キリカが心配そうに顔を覗き込む。
「お顔の色が優れません」
「少し意識を広げすぎただけじゃ。まだ問題はない」
「異変を探ることも大切ですが、姫さまご自身に何かあってはなりません」
「分かっておる」
テンカが五行への意識を僅かに緩めた時、先頭を進んでいたサイゾウが片手を上げた。
調査隊が足を止める。
「ここだ」
そこは、周囲と大きく変わらない場所に見えた。
木々が立ち、地面には落ち葉が重なり、低い草が生えている。
だが、黒き鬼の足跡は、そこで始まっていた。
最も奥側に残された足跡は深い。
巨大な片足が地面へ沈み込み、周囲の土を押し上げている。
爪先は、大魔境の外側へ向いていた。
その一歩より奥には、黒き鬼が歩いてきた痕跡がない。
足跡が重なった跡も、引き返した跡もなかった。
「間違いないな?」
サイゾウが尋ねる。
「ああ」
ラデルカが周囲の空気を確かめる。
「黒き鬼の臭いも、ここから外へ続いている。この奥から歩いてきた臭いは残っていない」
「突然ここへ現れたように見えますね」
マリエラが周囲の地面を見渡す。
よく見れば、足跡の周囲だけ土の形がおかしい。
地面が僅かに盛り上がり、木の根の一部が下から押し上げられている。
表面は落ち葉と苔に覆われているが、周囲の土と比べて不自然に硬く、ところどころに黒い土が露出していた。
「この一帯で、一度大きく土が動いています」
マリエラが硬い地面へ指を触れる。
「地面が持ち上がったのか、沈んだのかまでは分かりません。ですが、ただ黒き鬼が踏み込んだだけでは、こうはならないでしょう」
テンカも足元へ意識を向けた。
土行の流れが、これまでより強く歪んでいる。
「ここじゃ」
黒き鬼の最初の足跡。
そのすぐ脇にある、落ち葉に覆われた一点を指す。
「この下へ、土の気が集まっておる」
マリエラが傍らへ膝をついた。
「地下へ通じる隙間があるかもしれません。水を流して、行き先を確かめます」
指先から、細い水の流れが生まれる。
水は黒き鬼の足跡へ注がれ、深く沈んだ窪みの中へ溜まった。
最初は、濁った水面が僅かに揺れているだけだった。
やがて、水が足跡の底から横へ流れ始める。
土へ染み込むのではない。
落ち葉の下へ潜り込み、地面の一点へ引かれている。
「そこか」
ラデルカが戦斧の柄で落ち葉を慎重に退けた。
黒い筋が現れる。
髪の毛ほどの細さしかない、地面の裂け目だった。
だが、それだけではない。
裂け目の周囲では、土が互いに押し合うように盛り上がっている。
木の根は途中で裂け、別の根は地表へ押し出されていた。
まるで、一度大きく動いた地面が、今は無理に元の形へ収まっているように見える。
マリエラが水を追加する。
水は細い裂け目へ吸い込まれ、瞬く間に消えていった。
「この亀裂そのものから、黒き鬼が出てきたわけではありません」
マリエラが低い声で言う。
「周囲一帯の土が、一度大きく動いた痕跡があります。この細い裂け目は、その名残でしょう」
「下に空間があるのか?」
「可能性は高いです。ただ、今分かるのは、この裂け目が地表だけで終わっていないことまでです」
黒き鬼の足跡は、この場所から始まっている。
爪先は、大魔境の外側を向いていた。
その下には、地中へ水を呑み込む亀裂がある。
そして、木々と土を巡る気が、同じ場所へ吸い寄せられている。
「黒き鬼は、森の奥から来たのではない」
テンカは裂け目を見つめた。
「この地の下から、現れたのかもしれぬ」
その言葉を待っていたかのように、細い亀裂から冷たい瘴気が滲み出した。
亀裂は、森から生き物を追い立てた何かへと、確かにつながっていた。
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