表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第4章 大魔境に眠るもの
57/125

消えた魔物たち

「土の気が、地の下へ吸われておる」


 テンカの言葉に、調査隊の空気が引き締まった。


 サイゾウが周囲へ目を配りながら尋ねる。


「すぐに危険が迫っている感覚はありますか?」

「そこまでは分からぬ。じゃが、土行の流れが明らかにおかしい」


 テンカは足元を見つめた。

 土の気は、本来なら大地を支えるように静かに留まっている。


 だが、この場所では違う。


 地表近くにあるはずの気が、細い流れとなって地の底へ沈んでいる。水が砂へ染み込むのではなく、目に見えない何かに引かれているような感覚だった。


「流れている方向は分かりますか?」


 マリエラが尋ねる。


「真下……いや、僅かに南西へ傾いておる」


 森のさらに奥。

 黒き鬼の痕跡が続いている方角と同じだった。


 マリエラの表情から、先ほどまでの柔らかさが消える。


「術士二名、ここで瘴気濃度と地中の魔力反応を測定してください。表層と下層を分けて記録します」

「「了解!」」


 調査・研究部の術士たちが荷を下ろし、測定器具を取り出す。


 サイゾウもすぐに指示を出した。


「前後を警戒。調査が終わるまで、隊列を崩すな」


 第三討伐隊の兵たちが、研究員を囲むように配置についた。

 森に魔物の気配がないからこそ、何が現れるか分からない。


 マリエラは地面へ膝をつき、採取用の小さな匙で表面の黒土を掬った。

 続いて、先端が空洞になった細い採取杭を地面へ差し込み、深い場所の土を取り出す。


 それぞれを別の容器へ入れると、指先に淡い水色の光を灯した。

 少量の水が容器へ注がれ、土がゆっくりと沈んでいく。


「表層からは、目立った瘴気反応はありません」


 マリエラは一つ目の容器を光へ透かした。


「下層は?」


 ラデルカが尋ねる。


「まだ分離の途中です。ですが……」


 容器の底から、黒い糸のようなものが立ち上っている。


 液体へ溶けることなく、細い煙のように揺れていた。


「やはり、地中に瘴気があります。それも、先行調査で採取したものより濃い」

「ここから先ほど、強くなっているということか?」


 サイゾウの問いに、マリエラが頷く。


「その可能性があります。ただし、一か所だけでは断定できません。進行方向に沿って、何度か測定する必要があります」

「帰路に支障が出ない範囲で頼む」

「承知しています」


 マリエラは迷わず答えた。


 未知への好奇心は強い。

 だが、調査隊全体を危険に晒してまで、自分の欲求を優先する人物ではなかった。


「ラデルカ」

「分かっている」


 サイゾウに呼ばれ、ラデルカが周囲の足跡へ目を向ける。


「測定の間に、逃げた魔物の痕跡を調べてくる。遠くへは行かない」

「斥候を一人連れていけ」

「一人で足りるぞ」

「その一人を連れていけば、二人になる」


 サイゾウは近くにいた斥候へ顔を向けた。


「ラデルカについていけ。何か見つけても、二人だけでは追うな」

「了解」


 斥候がラデルカの後ろへつく。


「軽率だとでも思っているのか?」

「お前が慎重だから、任せている」

「なら、余計な心配をするな」

「無事に戻ってから言え」


 ラデルカは鼻から短く息を吐くと、斥候を連れて木々の間へ進んでいった。

 互いの力量を知っているからこその、遠慮のないやり取りだった。


 テンカはキリカとともに、マリエラの調査を見守る。

 術士が地面へ立てた測定杭には、淡い黄色の光が灯っていた。


 しかし、その光は安定しない。

 地中へ引きずられるように何度も揺らぎ、弱まっては戻ることを繰り返している。


「術具にも異常が出ていますね」


 マリエラが記録を取りながら言う。


「テンカ様が感じている土行の流れと、関係している可能性があります」

「原因までは分からぬのか?」

「地中に異常な流れがあることは分かります。ただ、それが瘴気によるものか、地脈の変化によるものかまでは」


 マリエラは測定杭の根元へ視線を落とした。


「だからこそ、実際に追って確かめる必要があります」


 その声は静かだった。

 珍しい現象を前に目を輝かせる研究者とは違う、滅魔旅団の一員としての顔だった。


「姫さま」


 キリカが森の右手へ目を向ける。


「ラデルカ殿たちが戻られます」


 木々の間から、ラデルカと斥候が姿を現した。

 斥候の手には、白く乾いた小さな骨が握られている。


「何か見つけたのか?」


 テンカが尋ねると、ラデルカは骨をマリエラへ差し出した。


「肉食魔物の巣があった。中は空だ」

「この骨は?」

「食べ残しです」


 斥候が答えた。


「巣の奥に、獣の毛と一緒に残されていました。主が戻った形跡はありません」


 サイゾウが骨の断面を確かめる。


「巣の主は?」

「臭いは森狼に近い。ただし、あれほど大きな巣を作る種類ではない。魔物化した個体かもしれん」


 ラデルカは自分の足元を指した。


「巣の周囲には、複数の足跡が残っていた。最も古い小さな足跡の上を、蹄の跡が踏み、その上に肉食獣の足跡が重なっている」

「同時に逃げたわけではないのですね」


 マリエラが言った。


「ああ。正確な間隔までは分からんが、小さな獣が先に動き、その後に草食の魔物、最後に肉食の魔物が巣を捨てたと見ていい」


 ラデルカが鼻先を僅かに上げる。


「残っている臭いの薄れ方も、それと矛盾しない」

「黒き鬼の痕跡は?」


 サイゾウが尋ねた。


「それらの足跡を、さらに上から踏み潰している」


 ラデルカは森の奥を振り返る。


「この辺りから獣や魔物が消え始めた後に、黒き鬼が通った可能性が高い」


 黒き鬼が現れたから、森の生き物が逃げたのではない。

 異変は、それ以前から始まっていた。


「では、あやつも逃げていたのか」


 テンカの脳裏に、黒き鬼との戦いが蘇る。


 異常な再生力。

 傷口から溢れ続けた黒い瘴気。

 眼前のすべてを壊そうとする、濁った黒い眼。


 あれほどの魔物すら、森の奥から遠ざかろうとしていたのだろうか。


「逃げていたとまでは断定できません」


 サイゾウが腰の刀へ手を添えた。


「ですが、黒き鬼がこの奥から外へ向かったことは間違いないでしょう」


 テンカは森の奥へ目を向ける。


 木々の隙間には、先の見えない暗がりが続いていた。


「先へ進む。ただし、帰還に支障が出ると判断すれば、そこで調査は打ち切る」

「「了解」」


 測定を終えた術士たちが器具を片づけ、調査隊は再び進み始めた。


 進むほどに、森は静かになっていった。

 鳥の声も、やがて聞こえなくなる。

 虫の羽音すら消え、残るのは調査隊が土を踏む音と、装備が触れ合う微かな音だけだった。


 木々は生きている。

 葉は青く、幹にも枯れた様子はない。

 それなのに、森全体から命の気配だけが抜け落ちている。


 テンカは何度も木行へ意識を向けた。

 草木の中に気は残っている。

 だが、その巡りは弱い。

 枝や葉にあるはずの気が根へと沈み、土行の異様な流れへ引き込まれているように感じられた。


「姫さま」


 キリカが心配そうに顔を覗き込む。


「お顔の色が優れません」

「少し意識を広げすぎただけじゃ。まだ問題はない」

「異変を探ることも大切ですが、姫さまご自身に何かあってはなりません」

「分かっておる」


 テンカが五行への意識を僅かに緩めた時、先頭を進んでいたサイゾウが片手を上げた。


 調査隊が足を止める。


「ここだ」


 そこは、周囲と大きく変わらない場所に見えた。

 木々が立ち、地面には落ち葉が重なり、低い草が生えている。


 だが、黒き鬼の足跡は、そこで始まっていた。

 最も奥側に残された足跡は深い。

 巨大な片足が地面へ沈み込み、周囲の土を押し上げている。


 爪先は、大魔境の外側へ向いていた。

 その一歩より奥には、黒き鬼が歩いてきた痕跡がない。

 足跡が重なった跡も、引き返した跡もなかった。


「間違いないな?」


 サイゾウが尋ねる。


「ああ」


 ラデルカが周囲の空気を確かめる。


「黒き鬼の臭いも、ここから外へ続いている。この奥から歩いてきた臭いは残っていない」

「突然ここへ現れたように見えますね」


 マリエラが周囲の地面を見渡す。


 よく見れば、足跡の周囲だけ土の形がおかしい。

 地面が僅かに盛り上がり、木の根の一部が下から押し上げられている。

 表面は落ち葉と苔に覆われているが、周囲の土と比べて不自然に硬く、ところどころに黒い土が露出していた。


「この一帯で、一度大きく土が動いています」


 マリエラが硬い地面へ指を触れる。


「地面が持ち上がったのか、沈んだのかまでは分かりません。ですが、ただ黒き鬼が踏み込んだだけでは、こうはならないでしょう」


 テンカも足元へ意識を向けた。


 土行の流れが、これまでより強く歪んでいる。


「ここじゃ」


 黒き鬼の最初の足跡。

 そのすぐ脇にある、落ち葉に覆われた一点を指す。


「この下へ、土の気が集まっておる」


 マリエラが傍らへ膝をついた。


「地下へ通じる隙間があるかもしれません。水を流して、行き先を確かめます」


 指先から、細い水の流れが生まれる。


 水は黒き鬼の足跡へ注がれ、深く沈んだ窪みの中へ溜まった。

 最初は、濁った水面が僅かに揺れているだけだった。


 やがて、水が足跡の底から横へ流れ始める。

 土へ染み込むのではない。

 落ち葉の下へ潜り込み、地面の一点へ引かれている。


「そこか」


 ラデルカが戦斧の柄で落ち葉を慎重に退けた。


 黒い筋が現れる。

 髪の毛ほどの細さしかない、地面の裂け目だった。


 だが、それだけではない。


 裂け目の周囲では、土が互いに押し合うように盛り上がっている。

 木の根は途中で裂け、別の根は地表へ押し出されていた。

 まるで、一度大きく動いた地面が、今は無理に元の形へ収まっているように見える。


 マリエラが水を追加する。


 水は細い裂け目へ吸い込まれ、瞬く間に消えていった。


「この亀裂そのものから、黒き鬼が出てきたわけではありません」


 マリエラが低い声で言う。


「周囲一帯の土が、一度大きく動いた痕跡があります。この細い裂け目は、その名残でしょう」

「下に空間があるのか?」

「可能性は高いです。ただ、今分かるのは、この裂け目が地表だけで終わっていないことまでです」


 黒き鬼の足跡は、この場所から始まっている。


 爪先は、大魔境の外側を向いていた。

 その下には、地中へ水を呑み込む亀裂がある。

 そして、木々と土を巡る気が、同じ場所へ吸い寄せられている。


「黒き鬼は、森の奥から来たのではない」


 テンカは裂け目を見つめた。


「この地の下から、現れたのかもしれぬ」


 その言葉を待っていたかのように、細い亀裂から冷たい瘴気が滲み出した。


 亀裂は、森から生き物を追い立てた何かへと、確かにつながっていた。

評価やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになりますのでよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ