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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第4章 大魔境に眠るもの
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研究者と戦斧使い

 第三結界柱の門を出てから、半刻ほどが過ぎた。


 調査隊は、森の中に残された細い道を南西へ進んでいた。


 先頭を歩くのは、第三討伐隊の斥候二人。その後ろにサイゾウとラデルカが続き、中央にはマリエラをはじめとした調査・研究部の術士たちがいる。

 テンカとキリカも、隊列の中央に加わっていた。

 後方を固めるのは、第三討伐隊から選抜された兵たちだ。


 誰も大きな声を出さない。

 足を置く場所を選び、枝を避け、互いの姿を見失わない距離を保ちながら進んでいる。


 悠久なる大魔境へ足を踏み入れるのは、これが初めてではない。

 だが、以前とは目的が違う。


 あの時は、外縁部を巡回する第三討伐隊へ見習いとして同行した。今回は、黒き鬼が残した痕跡を追い、その先にある異変を見つけるための調査だ。


 テンカは腰に佩いた継火へ触れながら、周囲へ意識を広げた。


 湿った土。

 幾重にも重なる木々の匂い。

 葉の隙間を抜ける、ごく弱い風。


 肌にまとわりつく瘴気は、第三結界柱の周辺よりも濃い。

 しかし、耐えられないほどではなかった。


「テンカ様」


 すぐ隣から、小さな声で呼びかけられた。

 マリエラが、革張りの手帳を片手に歩いている。


「先ほどから、五行による感知をなさっているのですか?」

「うむ。じゃが、今のところ妙なものは感じぬ」

「どのように感知されているのでしょう。術具のように瘴気の濃度を測るのですか。それとも、特定の行が反応するのでしょうか?」

「歩きながら聞くとは申したが、一度に二つも三つも尋ねるでない」

「失礼しました。では、最初の質問だけで」


 マリエラは、すぐに手帳へ筆を走らせようとする。

 まだ何も答えていないのだが、何を書くつもりなのだろう。


「数値として分かるわけではない。五行の巡りが、普段とは異なる動きをするのじゃ」

「普段とは異なる動き」

「水の流れへ石を投げ込めば、その周囲に波が生じるであろう。それに近い」

「なるほど。では、黒き鬼の残滓を前にした際は、どの行に最も強い反応が?」

「質問は一つではなかったのか?」

「今のは、回答から生じた新たな質問です」

「同じことじゃ」


 テンカが呆れると、半歩後ろを歩くキリカが小さく笑った。

 マリエラが再び手帳を開こうとする。


「副所長」


 キリカが、静かに声をかけた。

 進路には、太い木の根が幾重にも張り出している。


「歩きながらの記録は、休止地点までお控えください」


 マリエラは足元を見て、それから手帳へ視線を戻した。


「……そうですね。少し夢中になっていました」


 素直に手帳を閉じ、腰の革袋へしまう。


「ありがとうございます、キリカ殿」

「いえ。姫さまのお話へ夢中になるお気持ちは、少し分かりますので」


「キリカ?」

「何でもございません、姫さま」


 キリカは何事もなかったように前を向いた。


 少し離れた前方で、ラデルカの犬耳がこちらへ向いている。

 聞こえていたらしい。


「副所長」


 ラデルカが振り返らずに言った。


「隊列から遅れないようにしてください」

「分かっています」

「手帳を開く時は、周囲の安全を確認してからにしてください」

「それも分かっています」

「先ほどは分かっていないように見えました」

「今は分かっています」


 ラデルカは、呆れたように小さく息を吐いた。

 それから間もなく、先頭の斥候が片手を上げた。


 隊列が止まる。

 サイゾウが斥候のもとへ進み、地面へ膝をついた。


「どうした?」

「道が二つに分かれています。地図にあるのは左ですが、右にも通った跡が」


 斥候が示した先では、木々の間に細い隙間ができていた。


 道と呼べるほど整ってはいない。

 だが、何か大きなものが枝を折り、下草を踏み潰しながら進んだ痕跡が残っている。


 ラデルカが前へ出た。

 鼻先を僅かに上げ、ゆっくりと空気を吸い込む。


「古い血と獣の臭い。それから、湿った鉄のような臭いがします」

「黒き鬼か?」


 テンカが尋ねる。


「断定はできません。ただ、この先を大型の魔物が通ったことは間違いありません」


 サイゾウは折れた枝を手に取った。

 断面へ触れ、周囲の下草へ目を向ける。


「新しい傷ではないな。黒き鬼が通った頃のものと見てよさそうだ」

「では、この痕跡を追えば移動経路へつながる可能性がありますね」


 マリエラがサイゾウの肩越しに枝を覗き込む。


「少し削って持ち帰っても?」

「構いません。ただし、周囲の確認が終わってからです」

「分かりました」


 答えながら、マリエラは採取用の小刀へ手を伸ばす。

 ラデルカの視線が、その手へ向けられた。


「周囲の確認が終わってからです」

「準備をしているだけです」

「小刀を抜けば、次は枝へ当てるでしょう」


 マリエラは僅かに考え、小刀から手を離した。


「否定はできません」


 サイゾウは二人を気にした様子もなく、右手の獣道を見据える。


「痕跡は続いています。黒き鬼の移動経路である可能性は高い」


「予定していた道から外れるぞ」


 ラデルカが言った。


「トウマ副長から渡された行程では、左の道を進み、南側から調査地点へ入ることになっている」

「分かっている。左は第三討伐隊が巡回に使っている道だ。足場もよく、帰還もしやすい」

「なら、予定どおり左へ行くか?」

「いや」


 サイゾウは右手の獣道へ視線を向けたまま答えた。


「右へ進む」

「探索者時代の勘か?」

「経験だ」

「トウマ副長は、勘で行程を変えたと聞けば渋い顔をするぞ」

「なら、経験で変えたと伝えてくれ」


 サイゾウは斥候二人へ声をかけた。


「右の道を百歩まで確認しろ。地形が悪い、あるいは痕跡が途切れているなら、すぐに戻れ」

「了解」


 二人が木々の間へ消えていく。

 ラデルカはしばらく右の道を見つめた。


「退路は?」

「戻れないと判断すれば進まん。奥へ入ることより、帰る道を残す方が大事だからな」

「それならいい。副長への報告書にも、そう書いておく」

「計画を無視した、とは書くなよ」

「事実は曲げられない」

「やはり、お前が一番怖いな」


 サイゾウが苦笑する。


 二人の見ているものは違う。

 サイゾウは、目の前の地形と痕跡を読む。

 ラデルカは、事前に立てられた計画と、調査隊全体の安全を確かめる。


 それでも、全員を生きて帰すという目的だけは同じだった。


「そなたたちは、随分と気が合うておるのじゃな」


 テンカが言うと、二人が同時にこちらを見た。


「気のせいです」

「気のせいでしょうな」


 ほとんど同時に返ってきた。


「ほれ、やはり気が合うておる」


 ラデルカは眉を寄せ、サイゾウは諦めたように苦笑した。


 やがて、斥候の一人が戻ってきた。


「隊長。百歩先まで痕跡が続いています。足場に問題はありません。ただ、途中に倒木が一本あります。もう一人は、その先で警戒を続けています」

「通れるか?」

「一人ずつなら。ただし、荷物を背負ったままでは時間がかかります」


 サイゾウがラデルカを見る。


「どうする?」

「撤退の邪魔になる。どけるぞ」


 ラデルカは背負っていた戦斧を下ろした。


 斥候の案内で進むと、二本の木の間を塞ぐように太い幹が倒れていた。


 人の胴よりも太い。

 根元から倒れたのではなく、途中で折れている。

 幹の表面には、巨大な爪で抉られたような傷が残っていた。


「黒き鬼が折ったのでしょうか」


 マリエラが近づこうとする。

 その前へ、ラデルカの太い腕が伸びた。


「後ろにいてください」

「樹皮だけでも――」

「後で好きなだけ採取してください」


 ラデルカは戦斧を構え、息を一つ吐いた。


 踏み込みとともに、刃が振り下ろされる。

 重い衝撃が森に響き、人の胴よりも太い幹が半ばまで裂けた。


 間を置かず、同じ箇所へ二撃目を叩き込む。

 幹が大きく割れ、切り離された片側が地面へ崩れ落ちた。

 ラデルカは戦斧を背負い直すと、割れた幹を両手で掴み、道の端へ押し退ける。


「通れます」

「見事なものじゃな」


 テンカが思わず声を上げる。


「斧を扱うなら、この程度はできなければなりません」


 ラデルカは平然と答えた。

 その後ろで、マリエラが割れた断面を食い入るように見つめている。


「副所長」

「まだ触れていません」

「触れる前に呼びました」

「すっかり先を読まれるようになりましたね」

「あなたのおかげです」


 ラデルカは疲れたように犬耳を伏せた。


 調査隊は倒木を除いた道を進み、黒き鬼が残したと思われる痕跡を追う。

 進むにつれ、木立はますます深くなっていった。


 それでも、大型の魔物が通った痕跡は途切れない。


 折れた枝。

 削られた樹皮。

 深く沈んだ足跡。


 サイゾウが先頭で痕跡を確かめ、ラデルカが周囲の臭いを探る。

 マリエラは許可が出るたびに土や木片を採取し、術士たちが位置と瘴気濃度を記録していった。


 テンカも、五行の巡りを探り続ける。

 だが、まだ黒き鬼の残滓に触れた時のような、明確な歪みは感じられなかった。

 代わりに、別の違和感がある。


「……静かすぎぬか?」


 テンカが足を止めた。

 キリカも周囲を見渡す。


「そういえば、先ほどから獣の声が聞こえません」


 鳥のさえずりはある。

 虫の羽音も、かすかに聞こえる。

 しかし、茂みの中を走る小動物の音も、遠くで鳴く魔物の声もなかった。


 ラデルカが鼻先を上げる。

 しばらく動かずにいた彼女の表情が、僅かに険しくなった。


「臭いが薄い」

「瘴気のせいか?」

「違います。獣も、魔物も、この辺りにはほとんどいません」


 サイゾウが地面へ膝をついた。

 そこには、いくつもの足跡が残されていた。


 小さな獣のもの。

 蹄を持つ魔物のもの。

 鋭い爪を持つ肉食獣のもの。


 本来なら、互いに獲物となり、敵となるはずの生き物たち。

 そのすべての足跡が、同じ方角へ伸びていた。


 大魔境の外側へ。


「食うものも、食われるものも……揃って逃げたのか」


 サイゾウが低く呟く。


 誰も答えなかった。


 黒き鬼だけではない。

 この森に棲む生き物たちは、何かから遠ざかろうとしている。


 テンカは、木々の奥へ意識を向けた。

 その瞬間、内側を巡る五行が僅かに揺らぐ。


「……おかしい」

「姫さま?」


 キリカがテンカの横顔を見る。


「木行が、弱い」


 森とは本来、草木の気に満ちた場所だ。

 悠久なる大魔境ほど深い森であれば、木行は強く、絶えず巡っているはずだった。


 それなのに。

 奥へ進むほど、命の巡りが薄れている。


 テンカは意識をさらに深く沈める。


 一方で、土行だけが異様な反応を示していた。

 力が満ちているわけではない。

 足元にあるはずの土の気が、地の底へ引かれるように沈んでいる。


「下じゃ」


 テンカは、自分の足元へ目を落とした。


「土の気が、地の下へ吸われておる」


 獣も、魔物も、木々を巡る気さえも。

 地の下にある何かによって、この森の巡りそのものが歪められている。


 そうとしか思えなかった。

辺境伯家当主であるコトネの前以外では、サイゾウもラデルカもお互い会話する時はこんな感じです。


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