研究者と戦斧使い
第三結界柱の門を出てから、半刻ほどが過ぎた。
調査隊は、森の中に残された細い道を南西へ進んでいた。
先頭を歩くのは、第三討伐隊の斥候二人。その後ろにサイゾウとラデルカが続き、中央にはマリエラをはじめとした調査・研究部の術士たちがいる。
テンカとキリカも、隊列の中央に加わっていた。
後方を固めるのは、第三討伐隊から選抜された兵たちだ。
誰も大きな声を出さない。
足を置く場所を選び、枝を避け、互いの姿を見失わない距離を保ちながら進んでいる。
悠久なる大魔境へ足を踏み入れるのは、これが初めてではない。
だが、以前とは目的が違う。
あの時は、外縁部を巡回する第三討伐隊へ見習いとして同行した。今回は、黒き鬼が残した痕跡を追い、その先にある異変を見つけるための調査だ。
テンカは腰に佩いた継火へ触れながら、周囲へ意識を広げた。
湿った土。
幾重にも重なる木々の匂い。
葉の隙間を抜ける、ごく弱い風。
肌にまとわりつく瘴気は、第三結界柱の周辺よりも濃い。
しかし、耐えられないほどではなかった。
「テンカ様」
すぐ隣から、小さな声で呼びかけられた。
マリエラが、革張りの手帳を片手に歩いている。
「先ほどから、五行による感知をなさっているのですか?」
「うむ。じゃが、今のところ妙なものは感じぬ」
「どのように感知されているのでしょう。術具のように瘴気の濃度を測るのですか。それとも、特定の行が反応するのでしょうか?」
「歩きながら聞くとは申したが、一度に二つも三つも尋ねるでない」
「失礼しました。では、最初の質問だけで」
マリエラは、すぐに手帳へ筆を走らせようとする。
まだ何も答えていないのだが、何を書くつもりなのだろう。
「数値として分かるわけではない。五行の巡りが、普段とは異なる動きをするのじゃ」
「普段とは異なる動き」
「水の流れへ石を投げ込めば、その周囲に波が生じるであろう。それに近い」
「なるほど。では、黒き鬼の残滓を前にした際は、どの行に最も強い反応が?」
「質問は一つではなかったのか?」
「今のは、回答から生じた新たな質問です」
「同じことじゃ」
テンカが呆れると、半歩後ろを歩くキリカが小さく笑った。
マリエラが再び手帳を開こうとする。
「副所長」
キリカが、静かに声をかけた。
進路には、太い木の根が幾重にも張り出している。
「歩きながらの記録は、休止地点までお控えください」
マリエラは足元を見て、それから手帳へ視線を戻した。
「……そうですね。少し夢中になっていました」
素直に手帳を閉じ、腰の革袋へしまう。
「ありがとうございます、キリカ殿」
「いえ。姫さまのお話へ夢中になるお気持ちは、少し分かりますので」
「キリカ?」
「何でもございません、姫さま」
キリカは何事もなかったように前を向いた。
少し離れた前方で、ラデルカの犬耳がこちらへ向いている。
聞こえていたらしい。
「副所長」
ラデルカが振り返らずに言った。
「隊列から遅れないようにしてください」
「分かっています」
「手帳を開く時は、周囲の安全を確認してからにしてください」
「それも分かっています」
「先ほどは分かっていないように見えました」
「今は分かっています」
ラデルカは、呆れたように小さく息を吐いた。
それから間もなく、先頭の斥候が片手を上げた。
隊列が止まる。
サイゾウが斥候のもとへ進み、地面へ膝をついた。
「どうした?」
「道が二つに分かれています。地図にあるのは左ですが、右にも通った跡が」
斥候が示した先では、木々の間に細い隙間ができていた。
道と呼べるほど整ってはいない。
だが、何か大きなものが枝を折り、下草を踏み潰しながら進んだ痕跡が残っている。
ラデルカが前へ出た。
鼻先を僅かに上げ、ゆっくりと空気を吸い込む。
「古い血と獣の臭い。それから、湿った鉄のような臭いがします」
「黒き鬼か?」
テンカが尋ねる。
「断定はできません。ただ、この先を大型の魔物が通ったことは間違いありません」
サイゾウは折れた枝を手に取った。
断面へ触れ、周囲の下草へ目を向ける。
「新しい傷ではないな。黒き鬼が通った頃のものと見てよさそうだ」
「では、この痕跡を追えば移動経路へつながる可能性がありますね」
マリエラがサイゾウの肩越しに枝を覗き込む。
「少し削って持ち帰っても?」
「構いません。ただし、周囲の確認が終わってからです」
「分かりました」
答えながら、マリエラは採取用の小刀へ手を伸ばす。
ラデルカの視線が、その手へ向けられた。
「周囲の確認が終わってからです」
「準備をしているだけです」
「小刀を抜けば、次は枝へ当てるでしょう」
マリエラは僅かに考え、小刀から手を離した。
「否定はできません」
サイゾウは二人を気にした様子もなく、右手の獣道を見据える。
「痕跡は続いています。黒き鬼の移動経路である可能性は高い」
「予定していた道から外れるぞ」
ラデルカが言った。
「トウマ副長から渡された行程では、左の道を進み、南側から調査地点へ入ることになっている」
「分かっている。左は第三討伐隊が巡回に使っている道だ。足場もよく、帰還もしやすい」
「なら、予定どおり左へ行くか?」
「いや」
サイゾウは右手の獣道へ視線を向けたまま答えた。
「右へ進む」
「探索者時代の勘か?」
「経験だ」
「トウマ副長は、勘で行程を変えたと聞けば渋い顔をするぞ」
「なら、経験で変えたと伝えてくれ」
サイゾウは斥候二人へ声をかけた。
「右の道を百歩まで確認しろ。地形が悪い、あるいは痕跡が途切れているなら、すぐに戻れ」
「了解」
二人が木々の間へ消えていく。
ラデルカはしばらく右の道を見つめた。
「退路は?」
「戻れないと判断すれば進まん。奥へ入ることより、帰る道を残す方が大事だからな」
「それならいい。副長への報告書にも、そう書いておく」
「計画を無視した、とは書くなよ」
「事実は曲げられない」
「やはり、お前が一番怖いな」
サイゾウが苦笑する。
二人の見ているものは違う。
サイゾウは、目の前の地形と痕跡を読む。
ラデルカは、事前に立てられた計画と、調査隊全体の安全を確かめる。
それでも、全員を生きて帰すという目的だけは同じだった。
「そなたたちは、随分と気が合うておるのじゃな」
テンカが言うと、二人が同時にこちらを見た。
「気のせいです」
「気のせいでしょうな」
ほとんど同時に返ってきた。
「ほれ、やはり気が合うておる」
ラデルカは眉を寄せ、サイゾウは諦めたように苦笑した。
やがて、斥候の一人が戻ってきた。
「隊長。百歩先まで痕跡が続いています。足場に問題はありません。ただ、途中に倒木が一本あります。もう一人は、その先で警戒を続けています」
「通れるか?」
「一人ずつなら。ただし、荷物を背負ったままでは時間がかかります」
サイゾウがラデルカを見る。
「どうする?」
「撤退の邪魔になる。どけるぞ」
ラデルカは背負っていた戦斧を下ろした。
斥候の案内で進むと、二本の木の間を塞ぐように太い幹が倒れていた。
人の胴よりも太い。
根元から倒れたのではなく、途中で折れている。
幹の表面には、巨大な爪で抉られたような傷が残っていた。
「黒き鬼が折ったのでしょうか」
マリエラが近づこうとする。
その前へ、ラデルカの太い腕が伸びた。
「後ろにいてください」
「樹皮だけでも――」
「後で好きなだけ採取してください」
ラデルカは戦斧を構え、息を一つ吐いた。
踏み込みとともに、刃が振り下ろされる。
重い衝撃が森に響き、人の胴よりも太い幹が半ばまで裂けた。
間を置かず、同じ箇所へ二撃目を叩き込む。
幹が大きく割れ、切り離された片側が地面へ崩れ落ちた。
ラデルカは戦斧を背負い直すと、割れた幹を両手で掴み、道の端へ押し退ける。
「通れます」
「見事なものじゃな」
テンカが思わず声を上げる。
「斧を扱うなら、この程度はできなければなりません」
ラデルカは平然と答えた。
その後ろで、マリエラが割れた断面を食い入るように見つめている。
「副所長」
「まだ触れていません」
「触れる前に呼びました」
「すっかり先を読まれるようになりましたね」
「あなたのおかげです」
ラデルカは疲れたように犬耳を伏せた。
調査隊は倒木を除いた道を進み、黒き鬼が残したと思われる痕跡を追う。
進むにつれ、木立はますます深くなっていった。
それでも、大型の魔物が通った痕跡は途切れない。
折れた枝。
削られた樹皮。
深く沈んだ足跡。
サイゾウが先頭で痕跡を確かめ、ラデルカが周囲の臭いを探る。
マリエラは許可が出るたびに土や木片を採取し、術士たちが位置と瘴気濃度を記録していった。
テンカも、五行の巡りを探り続ける。
だが、まだ黒き鬼の残滓に触れた時のような、明確な歪みは感じられなかった。
代わりに、別の違和感がある。
「……静かすぎぬか?」
テンカが足を止めた。
キリカも周囲を見渡す。
「そういえば、先ほどから獣の声が聞こえません」
鳥のさえずりはある。
虫の羽音も、かすかに聞こえる。
しかし、茂みの中を走る小動物の音も、遠くで鳴く魔物の声もなかった。
ラデルカが鼻先を上げる。
しばらく動かずにいた彼女の表情が、僅かに険しくなった。
「臭いが薄い」
「瘴気のせいか?」
「違います。獣も、魔物も、この辺りにはほとんどいません」
サイゾウが地面へ膝をついた。
そこには、いくつもの足跡が残されていた。
小さな獣のもの。
蹄を持つ魔物のもの。
鋭い爪を持つ肉食獣のもの。
本来なら、互いに獲物となり、敵となるはずの生き物たち。
そのすべての足跡が、同じ方角へ伸びていた。
大魔境の外側へ。
「食うものも、食われるものも……揃って逃げたのか」
サイゾウが低く呟く。
誰も答えなかった。
黒き鬼だけではない。
この森に棲む生き物たちは、何かから遠ざかろうとしている。
テンカは、木々の奥へ意識を向けた。
その瞬間、内側を巡る五行が僅かに揺らぐ。
「……おかしい」
「姫さま?」
キリカがテンカの横顔を見る。
「木行が、弱い」
森とは本来、草木の気に満ちた場所だ。
悠久なる大魔境ほど深い森であれば、木行は強く、絶えず巡っているはずだった。
それなのに。
奥へ進むほど、命の巡りが薄れている。
テンカは意識をさらに深く沈める。
一方で、土行だけが異様な反応を示していた。
力が満ちているわけではない。
足元にあるはずの土の気が、地の底へ引かれるように沈んでいる。
「下じゃ」
テンカは、自分の足元へ目を落とした。
「土の気が、地の下へ吸われておる」
獣も、魔物も、木々を巡る気さえも。
地の下にある何かによって、この森の巡りそのものが歪められている。
そうとしか思えなかった。
辺境伯家当主であるコトネの前以外では、サイゾウもラデルカもお互い会話する時はこんな感じです。
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