大魔境調査隊②
マリエラの瞳だけが、期待に輝いていた。
ラデルカは表情を変えず、サイゾウは腕を組んだままテンカを見ていた。
「理由を述べなさい」
コトネの声は、母ではなく当主のものだった。
「黒き鬼の残滓と、あの樹皮に残る瘴気。わらわには、二つが似たものに感じられました」
「それだけですか?」
「いいえ」
テンカは机上の地図へ視線を落とす。
「封瘴室で残滓が暴れた時、わらわは五行の巡りが歪むのを感じました。現地にも同じものがあるなら、術具が異常を捉えるより先に、わらわが気づけるやもしれませぬ」
「つまり、戦力ではなく感知役として同行したいと?」
「はい」
コトネの瞳が、すっと細められた。
その瞬間、小会議室の空気が冷たくなったように感じられた。
「あなたを守るために隊列が乱れれば、調査隊全体を危険に晒します」
静かな声だった。
だが、そこには拒絶よりも重い問いが込められていた。
「あなたはハヅキ家の次女です。現場の者が、危険に陥ったあなたを見捨てられないことも理解していますね?」
「はい」
「それでも、自分が必要だと言えますか?」
テンカは、膝の上で拳を握った。
危険な場所へ行きたいわけではない。
黒き鬼に関わる異変を自分の目で確かめたいという気持ちは、確かにある。
だが、それだけなら同行を願い出るべきではない。
「わらわが異常を早く感じ取れれば、皆が退くための時間を作れます」
テンカは母の目を真っ直ぐに見返した。
「守られるためではなく、調査隊が無事に戻るために参ります」
コトネは答えなかった。
沈黙が、小会議室を満たす。
テンカの内側で、鼓動だけが大きく響いていた。
やがて、コトネの視線がトウマへ向く。
「副長。調査計画の観点から答えなさい」
「有用です」
トウマは迷わなかった。
「黒き鬼の残滓が動いた際、最初に異常を感じ取ったのはテンカ姫でした。術具とは異なる手段で異常を捉えられる者がいることは、調査の精度を上げます」
「危険性は?」
「当然あります」
今度はサイゾウが口を開いた。
「姫さまがいることで、隊の動きに制限が加わるのは事実です」
サイゾウは、取り繕うことなく言った。
「ですが、異常を早く見つけられる利点も大きい。第三結界柱から半日以内の範囲に留め、深入りはしない。異変があれば即時撤退する。姫さまが私の命令に従ってくださるなら、同行は可能です」
コトネの視線が、再びテンカへ戻る。
「条件があります」
「はい」
「現地ではサイゾウの命令に必ず従うこと。単独で行動しないこと。異常を感じても、許可なく先へ進まないこと」
一つずつ、重い言葉が落ちる。
「そして、撤退命令が出た場合は、何を見つけていようと、理由を問わず帰還しなさい」
「承知いたしました」
「本当に?」
「はい」
テンカは背筋を伸ばした。
「此度は、見たいものを見るために行くのではありませぬ」
黒き鬼と対峙した時のように、一人で前へ出るためでもない。
「皆とともに調べ、皆とともに戻るために参ります」
コトネは、しばらく娘の瞳を見つめていた。
やがて、小さく頷く。
「同行を許可します」
「ありがとうございます」
「キリカ」
「はい、当主様」
コトネが命じるより先に、キリカは頭を下げていた。
「わたしも姫さまに同行し、決してお側を離れません」
「頼みます」
「承知しました」
会議が終わると、マリエラがすぐにテンカの前へやってきた。
「テンカ様。五行による感知について、出発前にいくつか確認させていただいても?」
「構わぬが、いくつじゃ?」
「さほど多くはありません。まず、残滓を感知した際の身体感覚、五行それぞれの反応、距離による変化、瘴気濃度との関係、それから――」
「副所長」
ラデルカが、マリエラの襟元を後ろから軽く掴んだ。
「明朝は早いので、質問は三つまでにしてください」
「三つでは足りません」
「では、残りは歩きながら聞いてください。隊列から外れなければ」
「分かりました」
マリエラはあっさりと頷いた。
その返事を聞いたラデルカの犬耳が、疑わしげにぴくりと動いた。
「姫さま」
サイゾウが声をかけた。
「大魔境では、見つけたものすべてを確かめられるわけではありません。気になるものがあっても、まず私かラデルカに知らせてください」
「分かっておる」
「マリエラ副所長も、毎回そう答えます」
「……苦労しておるのじゃな」
「ええ。お互いに」
サイゾウは小さく笑った。
◇ ◇ ◇
翌朝。
第三結界柱の門前には、十二名の調査隊が集まっていた。
先頭にはサイゾウ。
その隣に戦斧を背負ったラデルカが立ち、マリエラは調査器具を詰めた鞄を何度も確かめている。
第三討伐隊の兵たちは周囲を警戒し、調査・研究部の術士たちは瘴気計測の器具と封印箱を背負っていた。
テンカは継火の柄へ手を添える。
隣にはキリカがいる。
「姫さま」
「何じゃ」
「お約束を、お忘れなきよう」
「分かっておる。単独で動かぬ。勝手に進まぬ。撤退命令には従う」
「もう一つございます」
「何じゃ?」
「危険なものを見つけても、嬉しそうな顔をなさらないことです」
「それは、わらわではなくマリエラへ申せ」
少し離れた場所で、マリエラがくしゃみをした。
ラデルカが門の向こうへ鼻先を向ける。
褐色の犬耳が微かに動いた。
「風は南西から。今のところ、強い瘴気臭はありません」
「よし」
サイゾウが全員を見渡した。
「目的は、黒き鬼の移動経路と、足跡が途切れた地点の調査だ」
兵たちの表情が引き締まる。
「討伐任務ではない。深追いはせず、異常があれば即座に戻る。勝手な行動は慎め」
全員が頷いた。
「出発する」
第三結界柱の門が開いた。
その先には、朝の光さえ呑み込むような深い森が広がっている。
悠久なる大魔境。
テンカがここへ足を踏み入れるのは、黒き鬼と遭遇した日以来だった。
あの日は、外へ現れた脅威を斬った。
今度は、その脅威がどこから来たのかを確かめに行く。
調査隊は隊列を組み、木々の間へ入っていく。
門から遠ざかるにつれ、鳥の声が少なくなった。
虫の羽音も。
獣が草を踏む音も。
森に棲むすべてのものが、何かを恐れて息を潜めている。
そんな静けさだった。
テンカは継火へ添えた手に、わずかに力を込める。
深い森の、さらに奥。
大魔境は何も語らず、調査隊を待ち受けていた。
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