大魔境調査隊①
「黒き鬼の足跡は、地面へ沈むように消えていました」
犬獣人の女性がそう告げると、小会議室の空気がわずかに重くなった。
ハヅキ家の屋敷、その奥に設けられた小会議室。
中央の長机には、悠久なる大魔境の外縁部を記した地図が広げられている。
第三結界柱から南西へ伸びる赤い線。
先日討伐された黒き鬼が残したと思われる移動痕は、森の途中で不自然に途切れていた。
「地面へ沈むように、とは?」
上座に座るコトネが問い返す。
報告を行う女性の褐色の犬耳が、ぴんと立った。
「黒き鬼が通った場所には、踏み潰された草木や深い足跡が残されていました。ですが、この地点から先には何もありません」
太い指が、地図上の一点を示す。
短く切り揃えられた褐色の髪。女性としては大柄な身体を、滅魔旅団の戦装束で包んでいる。
壁際には、彼女の身の丈に迫るほどの戦斧が立てかけられていた。
滅魔旅団副長補佐兼実地調査官、ラデルカ・ラデレイ。
副長トウマの補佐役でありながら、自ら前線へ出て情報を持ち帰る実戦派である。
「引き返した形跡は?」
トウマが尋ねた。
「ありません。周囲を二度確認しましたが、別方向へ進んだ痕跡も見つかりませんでした」
「黒き鬼は飛行できる個体ではありません。跳躍したとしても、着地点が残るはずです」
「ええ。それすら見つかりませんでした」
ラデルカは感情を交えずに答えた。
テンカはキリカと並び、長机の端に座っていた。
エリシアが北へ帰ってから数日。
先行調査隊はコトネの命令を受け、黒き鬼との遭遇地点から大魔境側へ調査範囲を広げていた。
ただし、深入りは許されていない。
黒き鬼の移動経路と周辺の瘴気変化を確かめ、異常を感知すれば即座に撤退する。
それが、先行調査隊へ与えられた任務だった。
「足跡が消えた地点には、別の痕跡が残っていました」
ラデルカの隣に座る女性が口を開いた。
彼女の前には、地図だけでなく、土や樹皮を収めた小さな容器がいくつも並べられている。
栗色の髪を後ろで束ねた、30代前半ほどに見える女性。
滅魔旅団調査・研究部副所長、マリエラ=ヴェルナーである。
「こちらをご覧ください」
マリエラは、容器の一つを机の中央へ置いた。
中に入っているのは、黒ずんだ土だった。
「足跡が途切れた地点から採取した土です。表面に異常はありませんでしたが、水を加えて分離したところ、下層から微量の瘴気が検出されました」
マリエラが指先をかざす。
淡い水色の光が生まれ、容器の中へ少量の水が注がれた。
黒い土がゆっくりと沈み、その上に濁った水が溜まっていく。
「この瘴気は、地表から染み込んだものではありません」
「では、どこからじゃ?」
テンカが尋ねる。
マリエラの瞳に、隠しきれない熱が宿った。
「下です。地中から上へ滲み出しています」
「地中から……」
テンカは地図の上で途切れた赤い線を見つめた。
あれほど巨大な黒き鬼が、土を掘って潜ったとは考えにくい。
地面に穴や崩落があったなら、調査隊が見落とすはずもないだろう。
「地下に空洞があると?」
「その可能性はあります。ただし、現時点では断定できません」
マリエラは別の容器を手に取った。
今度は、表面が黒く変色した樹皮が入っている。
「こちらは、足跡が途切れた場所から百歩ほど離れた木から採取しました」
指先から弱い風が生まれ、容器の蓋に刻まれた術式を撫でる。
内部の空気が動き、黒ずんだ樹皮から薄い靄が浮かび上がった。
瘴気だった。
封瘴室で見た黒き鬼の残滓ほど濃くはない。
それでも、テンカの内側を巡る五行が、微かにざわめいた。
「……似ておる」
無意識に言葉が漏れた。
マリエラがすぐに身を乗り出す。
「何にでしょうか?」
「黒き鬼の残滓じゃ。あれほど濃くはないが、同じような淀みを感じる」
「やはり!」
マリエラが勢いよく立ち上がった。
机が揺れ、容器の中の水面に波紋が広がる。
「副所長」
ラデルカが低い声で呼びかけた。
「何でしょう?」
「座ってください」
「ですが、黒き鬼の残滓と同質である可能性が――」
「その貴重な試料を、床へ撒きたいのであれば止めません」
マリエラは、自分の手元を見た。
倒れかけた容器を静かに直し、何事もなかったように椅子へ座る。
「失礼しました」
「いつものことです」
ラデルカの犬耳が、呆れたように横へ傾いた。
キリカと視線が合う。
テンカには、ラデルカの苦労が少しだけ分かる気がした。
「魔導協会におった頃から、その調子なのか?」
テンカが尋ねると、マリエラは少し考えるように首を傾げた。
「協会にいた頃は、採取済みの試料を調べることがほとんどでしたので」
「つまり、大魔境へ来てから悪化したのじゃな」
「研究者として成長した、と表現していただけますか?」
「副所長」
ラデルカが再び名を呼ぶ。
「冗談です」
マリエラは澄ました顔で答えた。
「周囲の魔物についてはどうです?」
サイゾウが尋ねた。
第三討伐隊長である彼も、地図を見つめている。
黒き鬼との戦いで負った傷は、すでに癒えていた。
以前のように左肩を庇う様子もなく、腰には使い慣れた刀が差されている。
「それも妙です」
ラデルカが答えた。
「黒き鬼の足跡が途切れた場所を中心に、魔物の数が極端に減っています。死骸も、争った痕跡もありません。巣を捨て、外へ移動したように見えます」
「通常オーガどもと同じか」
サイゾウの表情が険しくなる。
黒き鬼が現れる前、第三討伐隊は、本来なら大魔境の中央部に棲むはずの通常オーガと遭遇した。
あの群れもまた、何かから逃げるように外縁部へ現れていた。
「獣は、人より先に危険を感じ取ることがあります」
ラデルカの鼻が小さく動く。
「現地には腐臭も血の臭いもありませんでした。ただ、別の臭いがした」
「どのような?」
「湿った土と、古い鉄。それに、何かが腐り始める直前のような臭いです」
テンカは、黒き鬼の傷口から漂っていた臭いを思い出した。
血とも肉とも違う。
喉の奥へまとわりつく、淀んだ瘴気の臭い。
「黒き鬼が通ったから魔物が逃げたのか。それとも、魔物を逃がした何かから、黒き鬼も離れたのか」
トウマが、地図上の赤い線を指でなぞる。
「順序を誤ってはいけません。現時点では、どちらも可能性にすぎない」
「ですが、調べる価値は十分にあります」
マリエラが言う。
その声は落ち着いていたが、瞳には先ほどと同じ熱が残っている。
「地中から滲み出す瘴気。黒き鬼の残滓と似た反応。そして、周囲から消えた魔物たち。もし地下に何らかの瘴気溜まりが存在するなら、黒き鬼の変異にも関係しているかもしれません」
ラデルカが横目でマリエラを見る。
「副所長。今すぐ掘りに行こうとは考えていませんね?」
「危険だからこそ、慎重な調査が必要だと考えています」
「質問に答えてください」
「考えているだけです」
ラデルカが短く息を吐いた。
コトネは二人のやり取りを静かに見ていたが、やがてトウマへ視線を向けた。
「追加調査が必要なのですね」
「はい、当主様」
トウマは眼鏡を軽く押し上げる。
「先行隊だけでは、地中の瘴気と周辺の生態変化を同時に調べることはできません。調査・研究部から専門家を出し、護衛を増員した上で、足跡が途切れた地点を中心に調査すべきです」
「編成は?」
「現場指揮をサイゾウ。学術面の責任者をマリエラ副所長。私の代理としてラデルカを同行させます」
トウマは机上の書類を一枚めくった。
「第三討伐隊から前衛と斥候を選抜し、調査・研究部の術士を加えます。全体で十二名を予定しています」
テンカはトウマを見た。
「そなたは行かぬのか?」
「行きません」
トウマは迷わず答えた。
「私は一つの痕跡を追うより、ここで各地から届く十の報告を繋ぐ方が役に立ちます」
机の隅には、大魔境周辺の各結界柱から届いた報告書が積まれている。
「調査隊が戻った後の分析も必要です。異常が確認された場合に備え、増援と退路の準備も進めなければなりません」
前線へ出ることより、ここに残る方がトウマの力を生かせるのだ。
テンカは素直に頷いた。
「なるほど。軍師らしいのう」
「お褒めの言葉として受け取っておきます」
トウマはわずかに口元を緩めた。
「出発は明朝です」
「待て」
テンカは声を上げた。
隣にいるキリカの気配が変わる。
こちらが何を言おうとしているのか、すでに察したらしい。
コトネの黒い瞳が、真っ直ぐにテンカへ向けられる。
「何です」
「その調査隊に、わらわも同行させていただきたい」
テンカの申し出に、小会議室の空気が張り詰めた。
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