表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第4章 大魔境に眠るもの
54/126

大魔境調査隊①

「黒き鬼の足跡は、地面へ沈むように消えていました」


 犬獣人の女性がそう告げると、小会議室の空気がわずかに重くなった。


 ハヅキ家の屋敷、その奥に設けられた小会議室。

 中央の長机には、悠久なる大魔境の外縁部を記した地図が広げられている。


 第三結界柱から南西へ伸びる赤い線。

 先日討伐された黒き鬼が残したと思われる移動痕は、森の途中で不自然に途切れていた。


「地面へ沈むように、とは?」


 上座に座るコトネが問い返す。

 報告を行う女性の褐色の犬耳が、ぴんと立った。


「黒き鬼が通った場所には、踏み潰された草木や深い足跡が残されていました。ですが、この地点から先には何もありません」


 太い指が、地図上の一点を示す。


 短く切り揃えられた褐色の髪。女性としては大柄な身体を、滅魔旅団の戦装束で包んでいる。

 壁際には、彼女の身の丈に迫るほどの戦斧が立てかけられていた。


 滅魔旅団副長補佐兼実地調査官、ラデルカ・ラデレイ。


 副長トウマの補佐役でありながら、自ら前線へ出て情報を持ち帰る実戦派である。


「引き返した形跡は?」


 トウマが尋ねた。


「ありません。周囲を二度確認しましたが、別方向へ進んだ痕跡も見つかりませんでした」

「黒き鬼は飛行できる個体ではありません。跳躍したとしても、着地点が残るはずです」

「ええ。それすら見つかりませんでした」


 ラデルカは感情を交えずに答えた。


 テンカはキリカと並び、長机の端に座っていた。

 エリシアが北へ帰ってから数日。

 先行調査隊はコトネの命令を受け、黒き鬼との遭遇地点から大魔境側へ調査範囲を広げていた。


 ただし、深入りは許されていない。

 黒き鬼の移動経路と周辺の瘴気変化を確かめ、異常を感知すれば即座に撤退する。

 それが、先行調査隊へ与えられた任務だった。


「足跡が消えた地点には、別の痕跡が残っていました」


 ラデルカの隣に座る女性が口を開いた。


 彼女の前には、地図だけでなく、土や樹皮を収めた小さな容器がいくつも並べられている。

 栗色の髪を後ろで束ねた、30代前半ほどに見える女性。


 滅魔旅団調査・研究部副所長、マリエラ=ヴェルナーである。


「こちらをご覧ください」


 マリエラは、容器の一つを机の中央へ置いた。

 中に入っているのは、黒ずんだ土だった。


「足跡が途切れた地点から採取した土です。表面に異常はありませんでしたが、水を加えて分離したところ、下層から微量の瘴気が検出されました」


 マリエラが指先をかざす。


 淡い水色の光が生まれ、容器の中へ少量の水が注がれた。

 黒い土がゆっくりと沈み、その上に濁った水が溜まっていく。


「この瘴気は、地表から染み込んだものではありません」

「では、どこからじゃ?」


 テンカが尋ねる。


 マリエラの瞳に、隠しきれない熱が宿った。


「下です。地中から上へ滲み出しています」

「地中から……」


 テンカは地図の上で途切れた赤い線を見つめた。


 あれほど巨大な黒き鬼が、土を掘って潜ったとは考えにくい。

 地面に穴や崩落があったなら、調査隊が見落とすはずもないだろう。


「地下に空洞があると?」

「その可能性はあります。ただし、現時点では断定できません」


 マリエラは別の容器を手に取った。


 今度は、表面が黒く変色した樹皮が入っている。


「こちらは、足跡が途切れた場所から百歩ほど離れた木から採取しました」


 指先から弱い風が生まれ、容器の蓋に刻まれた術式を撫でる。

 内部の空気が動き、黒ずんだ樹皮から薄い靄が浮かび上がった。


 瘴気だった。

 封瘴室で見た黒き鬼の残滓ほど濃くはない。


 それでも、テンカの内側を巡る五行が、微かにざわめいた。


「……似ておる」


 無意識に言葉が漏れた。


 マリエラがすぐに身を乗り出す。


「何にでしょうか?」

「黒き鬼の残滓じゃ。あれほど濃くはないが、同じような淀みを感じる」

「やはり!」


 マリエラが勢いよく立ち上がった。


 机が揺れ、容器の中の水面に波紋が広がる。


「副所長」


 ラデルカが低い声で呼びかけた。


「何でしょう?」

「座ってください」

「ですが、黒き鬼の残滓と同質である可能性が――」

「その貴重な試料を、床へ撒きたいのであれば止めません」


 マリエラは、自分の手元を見た。


 倒れかけた容器を静かに直し、何事もなかったように椅子へ座る。


「失礼しました」

「いつものことです」


 ラデルカの犬耳が、呆れたように横へ傾いた。


 キリカと視線が合う。

 テンカには、ラデルカの苦労が少しだけ分かる気がした。


「魔導協会におった頃から、その調子なのか?」


 テンカが尋ねると、マリエラは少し考えるように首を傾げた。


「協会にいた頃は、採取済みの試料を調べることがほとんどでしたので」

「つまり、大魔境へ来てから悪化したのじゃな」

「研究者として成長した、と表現していただけますか?」

「副所長」


 ラデルカが再び名を呼ぶ。


「冗談です」


 マリエラは澄ました顔で答えた。


「周囲の魔物についてはどうです?」


 サイゾウが尋ねた。


 第三討伐隊長である彼も、地図を見つめている。

 黒き鬼との戦いで負った傷は、すでに癒えていた。

 以前のように左肩を庇う様子もなく、腰には使い慣れた刀が差されている。


「それも妙です」


 ラデルカが答えた。


「黒き鬼の足跡が途切れた場所を中心に、魔物の数が極端に減っています。死骸も、争った痕跡もありません。巣を捨て、外へ移動したように見えます」


「通常オーガどもと同じか」


 サイゾウの表情が険しくなる。


 黒き鬼が現れる前、第三討伐隊は、本来なら大魔境の中央部に棲むはずの通常オーガと遭遇した。

 あの群れもまた、何かから逃げるように外縁部へ現れていた。


「獣は、人より先に危険を感じ取ることがあります」


 ラデルカの鼻が小さく動く。


「現地には腐臭も血の臭いもありませんでした。ただ、別の臭いがした」

「どのような?」

「湿った土と、古い鉄。それに、何かが腐り始める直前のような臭いです」


 テンカは、黒き鬼の傷口から漂っていた臭いを思い出した。


 血とも肉とも違う。

 喉の奥へまとわりつく、淀んだ瘴気の臭い。


「黒き鬼が通ったから魔物が逃げたのか。それとも、魔物を逃がした何かから、黒き鬼も離れたのか」


 トウマが、地図上の赤い線を指でなぞる。


「順序を誤ってはいけません。現時点では、どちらも可能性にすぎない」

「ですが、調べる価値は十分にあります」


 マリエラが言う。


 その声は落ち着いていたが、瞳には先ほどと同じ熱が残っている。


「地中から滲み出す瘴気。黒き鬼の残滓と似た反応。そして、周囲から消えた魔物たち。もし地下に何らかの瘴気溜まりが存在するなら、黒き鬼の変異にも関係しているかもしれません」


 ラデルカが横目でマリエラを見る。


「副所長。今すぐ掘りに行こうとは考えていませんね?」

「危険だからこそ、慎重な調査が必要だと考えています」

「質問に答えてください」

「考えているだけです」


 ラデルカが短く息を吐いた。


 コトネは二人のやり取りを静かに見ていたが、やがてトウマへ視線を向けた。


「追加調査が必要なのですね」

「はい、当主様」


 トウマは眼鏡を軽く押し上げる。


「先行隊だけでは、地中の瘴気と周辺の生態変化を同時に調べることはできません。調査・研究部から専門家を出し、護衛を増員した上で、足跡が途切れた地点を中心に調査すべきです」

「編成は?」

「現場指揮をサイゾウ。学術面の責任者をマリエラ副所長。私の代理としてラデルカを同行させます」


 トウマは机上の書類を一枚めくった。


「第三討伐隊から前衛と斥候を選抜し、調査・研究部の術士を加えます。全体で十二名を予定しています」


 テンカはトウマを見た。


「そなたは行かぬのか?」

「行きません」


 トウマは迷わず答えた。


「私は一つの痕跡を追うより、ここで各地から届く十の報告を繋ぐ方が役に立ちます」


 机の隅には、大魔境周辺の各結界柱から届いた報告書が積まれている。


「調査隊が戻った後の分析も必要です。異常が確認された場合に備え、増援と退路の準備も進めなければなりません」


 前線へ出ることより、ここに残る方がトウマの力を生かせるのだ。

 テンカは素直に頷いた。


「なるほど。軍師らしいのう」

「お褒めの言葉として受け取っておきます」


 トウマはわずかに口元を緩めた。


「出発は明朝です」

「待て」


 テンカは声を上げた。


 隣にいるキリカの気配が変わる。

 こちらが何を言おうとしているのか、すでに察したらしい。

 コトネの黒い瞳が、真っ直ぐにテンカへ向けられる。


「何です」

「その調査隊に、わらわも同行させていただきたい」


 テンカの申し出に、小会議室の空気が張り詰めた。

評価やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになりますのでよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ