俺に、友達ができた
エリシアが北へ帰った日の夜。
テンカは自室の机へ向かい、目の前に置かれた白い便箋を睨んでいた。
筆はある。
墨も、先ほど自分で擦った。
大魔境や継火、領都、それにフクキタルで話した北方の木の実など、書けることはいくらでもあった。
別れ際に、エリシアへ手紙を書くと約束した。
それなのに。
「……何と書けばよいのじゃ」
筆先が、便箋の上で止まったまま動かない。
エリシアは、自分から手紙を送ると言っていた。
ならば、それを待ってから返事を書けばよいのかもしれない。
だが、先に書いてはならないという決まりもないはずだ。
それに、無事に北へ着いたら知らせよと書いておきたい。
北方の街道は長い。魔物が出る場所もあると聞いている。
エリシアとレオノーラなら、多少の魔物など問題にはしないだろう。
それでも気になるものは、気になる。
「ふむ……」
テンカは意を決し、筆を下ろした。
エリシア=フロストレイン殿。
先般のハヅキ辺境伯領へのご来訪につきまして――
「違う」
すぐさま筆を止めた。
何だ、これは。
友へ送る手紙ではない。
中央へ提出する報告書か、貴族家同士の礼状だ。
便箋を脇へ避け、新しい一枚を置く。
今度は、もう少し柔らかく。
親愛なるエリシアへ。
「……これはこれで違うのう」
親愛なる、とは何だ。
間違いではないのかもしれないが、あのエリシアへ送るには妙に気恥ずかしい。
しかも、本人に見せれば、氷青色の瞳を細めて言うに決まっている。
――まあ。わたくしのことを、そこまで親しく思ってくださっていましたの?
想像しただけで、腹が立ってきた。
『いや、まだ何も言われてないだろ』
前世の自分なら、きっとそう考える。
少し疲れた、40歳のおじさんの声が、久しぶりに頭の奥へ浮かんだ。
かつて日本で会社員をしていた、前世の自分の声だった。
「言うに決まっておる。あやつは、そういうところを見逃さぬ」
『お前も同じだろ』
「誰がお前じゃ」
『俺だよ』
「わらわも、わらわじゃ」
本当に別の誰かと話しているわけではない。
前世の記憶から浮かんだ考えへ、今の自分が反論しているだけだ。
ただ、その方が思考を整理しやすく、時折返事が口から漏れることもある。
前世の記憶を取り戻してから3年。
こうして俺とわらわを少し離れたものとして捉える感覚にも、すっかり慣れてしまった。
俺。
わらわ。
どちらも自分であるはずなのに、いまだに少しだけ離れた場所から互いを見ている。
「そもそも、そなたに友への手紙の心得はないのか?」
『あると思うか?』
「40年も生きておったのであろう?」
『仕事のメールなら、嫌になるほど書いたな』
「めーる、か。この世界の魔導技術も進んでおる。遠くの相手へ瞬時に文を送る道具くらい、そのうち実現しそうじゃの」
『案外、俺が知らないだけでもう存在してたりしてな』
「わらわは魔導技術には疎いからのう。じゃが、今は手紙の話じゃ。そなた、その書き方を思い出せぬのか?」
『だから最初に“先般のご来訪につきまして”って書いたんだよ』
テンカは黙った。
なるほど。
先ほどの堅苦しい文章は、前世の社会人経験から出てきたものらしい。
「役に立たぬのう」
『ひどくないか?』
だが、実際に役に立っていない。
前世では、上司への報告や取引先への連絡、予定の調整、仕事上の謝罪まで、毎日のように文章を送っていた。
ゲームの中でも、仲間と文字を交わすことはあったが、内容は集合時間や装備、役割分担の確認ばかりだった。
用件は、いつも明確だった。
相手へ伝えるべき情報があり、それを過不足なく送る。
そういう文章なら、いくらでも書けた。
けれど。
今日あったことを伝えたい。
相手が無事に過ごしているのか知りたい。
返事が届く日を楽しみに待ちたい。
そんな手紙を、前世の自分が書いた記憶はなかった。
『……友達に手紙なんて、いつ以来だろうな』
「思い出せぬのか?」
『思い出せない』
「幼い頃には書いたであろう?」
『たぶんな。でも、少なくとも大人になってからはないな』
テンカは筆を置いた。
40歳まで生きた。
学校へ通い、会社で働き、誰かと酒を飲み、ゲームでも多くの人間と言葉を交わした。
友人と呼べる相手が、まったくいなかったわけではないと思う。
だが、自分のことを伝えたいと思う相手。
返事を待つことさえ楽しみに思える相手。
そう尋ねられると、顔が浮かばなかった。
『40にもなって、友達への手紙一つ書けないとはな』
自嘲するような声だった。
テンカは、机の上に置いた手を見る。
小さな手。
刀を振り続けたことで、掌には薄く硬い部分ができている。
けれど、40歳の男だった頃の手とはまるで違う。
自分は今、11歳の少女で、家族やキリカ、滅魔旅団の者たちに囲まれている。
そして今日。
友人だと言ってくれた少女が、北へ帰った。
「……別によいではないか」
『何が?』
「40歳で初めてであろうと、11歳で初めてであろうと、友ができたことに変わりはなかろう」
『初めてって決めつけるなよ』
「ならば、以前の友の名を申してみよ」
『……』
「ほれ見よ」
『お前、こういう時だけ容赦ないよな』
「事実じゃ」
そう答えたところで、扉の外から声がした。
「姫さま。入ってもよろしいでしょうか」
「キリカか。構わぬ」
扉が開き、キリカが盆を手に入ってくる。
盆の上には茶器と、小さな饅頭が一つ載っていた。
「夜分ですので、お一つだけです」
「何も言うておらぬぞ」
「姫さまが夜に書き物をなさる時は、甘いものをご所望になることが多いので」
「わらわは、そのように分かりやすいか?」
「はい」
「少しは迷ってから答えよ」
キリカは机の端へ盆を置いた。
そして、机の脇に置かれた2枚の書き損じへ視線を向ける。
「何か書き物を?」
「うむ」
「報告書でしょうか」
「違う」
「では、どなたかへのお手紙ですか?」
テンカは一瞬、答えに詰まった。
別に隠すようなことではない。
それなのに、口にするのが妙に照れくさい。
「……エリーへじゃ」
「エリシア様へ」
「友からの手紙には、近況を書くものらしいからな」
キリカの口元が、わずかに緩んだ。
「そうでございますね」
「何じゃ、その顔は」
「何でもございません」
「姉上のような顔をするでない」
「レイナ様ほどではございません」
「比べる相手が悪いだけで、十分に似ておる」
キリカは小さく笑い、書きかけの便箋へ目を向けた。
「筆が進まないのですか?」
「何を書けばよいのか分からぬ」
「別れ際には、大魔境のことや継火のことをお書きになると仰っていましたが」
「それでは、エリーが言うところの報告書と同じではないか」
「それ以外のことも書けばよろしいのでは?」
「それ以外とは?」
「姫さまが、エリシア様へ伝えたいことです」
簡単に言う。
だが、それが分からないから困っているのだ。
「今日の夕餉が美味かった、とでも書けと申すのか?」
「姫さまが伝えたいのでしたら」
「朝の鍛錬で何度刀を振ったか?」
「それもよろしいかと」
「フクキタルの新作饅頭が出たら知らせる、と?」
「エリシア様はお喜びになると思います」
「……何でもよいのか?」
「はい」
キリカは迷わず頷いた。
「お相手へ知っていただきたいと思ったことを、そのままお書きになればよいのではないでしょうか」
テンカは便箋を見る。
知ってもらいたいこと。
難しく考える必要はなかったのかもしれない。
エリシアが帰った後、正門前が妙に静かだったこと。
夕暮れの訓練場が、朝よりも広く感じられたこと。
次に手合わせをする時は、必ず勝ちたいと思っていること。
北方へ戻っても、無茶をしてレオノーラを困らせていそうだと考えたこと。
そして。
また会う日が、少し楽しみであること。
『少し、か?』
「うるさい」
「何か仰いましたか?」
「何でもない」
テンカは新しい便箋を手元へ置いた。
今度こそ、筆を下ろす。
便箋には、こう記した。
――――――――――
エリーへ。
無事に北へ着いたら知らせよ。
そなたが帰った後も、ハヅキ領は変わらぬ。
じゃが、訓練場が少し広くなったように感じる。
あれほど氷華を咲かせたのじゃ。
北へ戻っても、腕を鈍らせるでないぞ。
次に会った時は、今度こそわらわが勝つ。
わらわも鍛錬を続けておく。
それから、北方の木の実を忘れるでない。
コリンズが楽しみにしておる。
無論、わらわもじゃ。
テンカ
――――――――――
書き終えたテンカは、筆を置いた。
改めて読み返すと、短く、美しい文章とも言い難い。
貴族令嬢から名門侯爵家の令嬢へ送る手紙としては、少々くだけすぎている気もする。
だが、先ほどまで書いていた礼状よりは、ずっと自分の言葉に思えた。
「キリカ」
「はい」
「読んでみよ」
「よろしいのですか?」
「うむ。おかしなところがないか確かめてくれ」
キリカは便箋を受け取り、静かに目を通した。
読み終わるまでの時間が、妙に長く感じられる。
黒き鬼と向かい合った時よりも、落ち着かない。
やがてキリカは便箋を机へ戻した。
「とてもよいお手紙だと思います」
「本当か?」
「はい。姫さまらしくて」
「少々、果たし状のようではないか?」
「最後に饅頭の材料を催促する果たし状は、初めて拝見しました」
「木の実は重要じゃ」
「ええ。エリシア様も、きっとそうおっしゃるでしょう」
キリカは新しい封筒と封蝋を用意する。
テンカは手紙を丁寧に折り、封筒へ入れた。
赤い蝋を落とし、ハヅキ家の印を押す。
これで、手紙になった。
「明朝、北方行きの早馬へ託しましょう」
「頼む」
「エリシア様からのお手紙と、途中ですれ違うかもしれませんね」
「それならそれでよい」
キリカは微笑み、茶器と空になった饅頭の皿を片づけて部屋を出ていった。
静かになった室内で、テンカは封をした手紙を見つめた。
『友達、か』
前世のおじさんの声がした。
「何じゃ」
『いや』
少しだけ間が空く。
『俺に、友達ができたんだなと思って』
「違う」
テンカは即座に否定した。
『違うのか?』
「エリーは、わらわの友じゃ」
『そうかよ』
「そうじゃ」
言い切る。
だが、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
わらわの友。
ならば、俺にとっては何なのだろう。
前世の記憶は、誰かから与えられた知識ではない。
会社で働いた日々も。
深夜にゲームをしていた時間も。
画面の中のテンカへ憧れていたことも。
すべて、自分が生きた記憶だった。
けれど今はまだ、俺とわらわを同じものだと言い切るには、ほんの少しだけ距離がある。
『まあ、どっちでもいいけどな』
「よくない」
『返事を楽しみにしてるのは、同じだろ』
「……それは」
否定する言葉が出てこなかった。
エリシアから届く手紙を、自分は楽しみにしている。
北方の魔物や氷術の報告だけではない。
彼女が何を見て、何を考え、どのように過ごしているのか。
それを知りたいと思っている。
そんな相手ができたことを、嬉しいと思っている。
俺がそう思っているのか。
わらわがそう思っているのか。
今はまだ、よく分からない。
「……今は、わらわの友ということにしておけ」
『はいはい』
「返事が来たら、そなたにも読ませてやる」
『同じ頭の中にいるんだから、嫌でも読むことになるだろ』
「細かいことを気にするでない」
テンカは小さく笑った。
机の上には、一通の手紙。
明日の朝には屋敷を出て、北へ向かう。
そしていつか、返事を連れて戻ってくる。
前世の自分は、誰かからの手紙をこれほど待ち遠しいと思ったことがあっただろうか。
思い出そうとしても、やはり何も浮かばなかった。
『俺に、友達ができた』
もう一度、胸の奥で声がした。
テンカは今度は否定せず、封筒の上へそっと手を置いた。
わらわに、友ができた。
その二つの言葉の違いを、今はまだうまく説明できない。
けれど。
どちらも少しだけ、嬉しそうに響いていた。
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