わたくしと饅頭
「饅頭を食べに行きたいわけではありませんわ」
朝食を終えた客室で、エリシアはそう告げた。
銀灰色の髪を隙なく結い上げたレオノーラは、向かいでわずかに目を細める。
「わたくしは、まだ何も申し上げておりませんが」
「顔に書いてあります」
「エリシア様が、昨日から何度も領都の方角をご覧になっている理由について考えていただけです」
「南方の街並みに興味があるのです」
「左様でございますか」
「ええ。フロストレイン侯爵家の者として、他領の文化を知ることは大切でしょう?」
「もちろんでございます」
レオノーラは丁寧に頷いた。
「では、甘味処以外にも立ち寄られますか?」
「時間があれば」
即答すると、レオノーラが小さく息を吐いた。
昨日、テンカと手合わせをした後のことだ。
エリシアは屋敷で出された饅頭について、あれはどの店のものかと尋ねた。
ただ一度口にした南方の菓子を、もう少し詳しく知りたいと思っただけである。
決して、柔らかな生地と餡の甘みが忘れられなかったわけではない。
「すでにテンカ様へ、領都をご案内いただけないかお願いしております」
「いつの間に?」
「昨夜、キリカ殿を通して」
「余計な手回しが早いですわね」
「後見役ですので」
レオノーラの表情は、どこまでも穏やかだった。
◇ ◇ ◇
ハヅキ領の領都は、エリシアの知る皇国の街とはまるで違っていた。
石造りの建物の隣に、反りのある瓦屋根が並ぶ。
洋装の商人と袴姿の武官が同じ道を歩き、通りの食堂からは香辛料の匂いに混じって、出汁の柔らかな香りが漂ってくる。
昨日の手合わせの名残で、肩や脚にはまだわずかな張りが残っている。
だが、領都を歩く程度で音を上げるほどではない。
「ずいぶんと、まとまりのない街ですこと」
「異なるものが並んでおる、と言え」
隣を歩くテンカが、少しだけ胸を張った。
今日は継火を腰に佩き、黒髪を風に揺らしている。
その半歩後ろにはキリカ。エリシアの後ろにはレオノーラが続いていた。
「皇国と武蔵ノ原、両方の文化が根付いておる。慣れれば、これほど便利な街もないぞ」
「便利かどうかは、実際に確かめてから判断いたしますわ」
「ならば、まずは目的地じゃな」
「目的地?」
エリシアは知らぬふりをした。
「領都の視察でしょう?」
「うむ。視察先は甘味処【フクキタル】じゃ」
「なぜ最初から甘味処なのです」
「そなたが饅頭の店へ行きたがっておると、キリカから聞いた」
「レオノーラ」
「後見役同士、情報を共有しただけでございます」
キリカとレオノーラは顔を見合わせ、静かに頷いた。
この二人は、いつの間にそのような関係を築いたのだろう。
「勘違いなさらないでくださいませ。わたくしは、南方文化の調査を――」
「分かっておる。饅頭は南方文化じゃ」
「……ならば、問題ありませんわね」
エリシアは澄ました顔で前を向いた。
ほどなくして、丸々とした饅頭の絵が描かれた提灯が見えてくる。
白壁と黒い木組みの店からは、白い湯気とともに甘い香りが流れていた。
その香りが鼻先へ届いた瞬間、脚に残る張りなど忘れたように、エリシアの足が少しだけ速くなる。
「エリー」
「何ですの?」
「店は逃げぬぞ」
「街路の歩きやすさを確かめただけですわ」
背後で、レオノーラが息を吐く気配がした。
暖簾をくぐると、頭に猫耳を生やした女性が明るい声を上げた。
「いらっしゃいませにゃ! あっ、テンカ姫さま!」
「うむ。邪魔するぞ、ルル」
「今日も来てくれたのにゃ! そちらの銀髪のお嬢さまは、姫さまのお友達かにゃ?」
「好敵手じゃ」
「ハヅキ家の客人ですわ」
二人の答えが重なった。
テンカとエリシアは、同時に相手を見る。
「なぜ客人なのじゃ」
「なぜ好敵手だけなのです」
「手合わせをしたであろう」
「共に戦いもしましたわ」
「ならば、そなたは何と答えるつもりであった?」
「それは……」
言葉を探している間に、ルルの尻尾が楽しそうに揺れた。
「とっても仲良しなんだにゃ!」
「違う」
「違いますわ」
今度は、綺麗に声が揃った。
「やはり仲良しにゃ」
「ルル。席へ案内してくれ」
「逃げましたわね、テンカ」
「そなたも同じであろう」
窓際の席へ案内されると、店の奥から白い調理服をまとった男性が姿を現した。
【フクキタル】の店主、コリンズだ。
「これはテンカ姫さま。本日もありがとうございます。そちらは、北方よりお越しのエリシア様でいらっしゃいますね」
「ええ。こちらの饅頭について、確認したいことがありますの」
「確認、でございますか?」
コリンズの目が、菓子職人のものへ変わる。
「先日、屋敷で一ついただきました。柔らかな生地の中に餡を包む、簡素な菓子だと思っていましたが……」
「思っていましたが?」
「見た目以上に、悪くありませんでしたわ」
テンカが眉を上げた。
「素直に美味かったと言えばよかろう」
「評価には段階が必要です」
「饅頭一つに、どれほど慎重なのじゃ」
「あなたにだけは言われたくありませんわ」
コリンズは二人のやり取りを聞きながら、真剣な顔で頷いている。
「初見でそこまで感じ取っていただけたなら、菓子職人として光栄です。本日はぜひ、蒸したてをお試しください」
「蒸したて」
「はい。今しがた、こし餡饅頭が蒸し上がったところです」
奥で蒸籠の蓋が開いた。
白い湯気が立ち上り、甘い豆の香りが店内へ広がる。
エリシアは思わず、そちらへ視線を向けた。
テンカが口元を緩める。
「興味があるようじゃな」
「比較対象として必要なだけですわ」
「では、わらわも比較に付き合おう」
「あなたは普段から食べているでしょう」
「日によって餡の練りも蒸し加減も異なる」
「先ほど、饅頭一つに慎重すぎると言いませんでした?」
「それとこれは別じゃ」
しばらくして、ルルが盆を運んできた。
「蒸したてのこし餡饅頭にゃ! 熱いから気をつけるにゃ!」
白い饅頭から、細い湯気が上がっている。
指先で触れると、柔らかな生地がわずかに沈み、すぐに元へ戻った。
エリシアは一つ持ち上げた。
熱い。
だが、テンカが隣で見ている。
ここで慌てて手を離すわけにはいかない。
「無理をするでないぞ」
「この程度、北方の令嬢には何でもありませんわ」
エリシアは平然とした顔で、饅頭を一口かじった。
次の瞬間。
熱が舌の上へ広がった。
「……っ」
危うく声を漏らしかけ、どうにか飲み込む。
目の奥がわずかに潤んだ。
「熱いのであろう」
「適温ですわ」
「目が適温ではないぞ」
「細かいことです」
テンカが呆れたように茶を差し出す。
エリシアはそれを受け取り、上品さを崩さない範囲で少しだけ急いで口をつけた。
香ばしい茶が熱を和らげる。
改めて、饅頭の断面を見る。
薄い生地の内側に、艶のある餡が詰まっていた。
もう一口。
今度は、ゆっくりと。
蒸したての生地は、屋敷で食べたものよりも柔らかい。
餡は滑らかで、強すぎない甘みが温かさとともに広がっていく。
派手ではない。
珍しい香辛料も、高価な果実も使われていない。
それでも、もう一口食べたくなる。
「どうじゃ?」
「……悪くありませんわ」
「まだその言い方をするか」
「とても悪くありません」
「ほとんど変わっておらぬ」
テンカが笑う。
少し悔しくなったエリシアは、手元の饅頭へ指先を近づけた。
淡い冷気が表面を撫でる。
湯気が薄れ、生地の熱だけが静かに落ち着いていく。
「何をしておる」
「適温に調整しただけですわ」
「蒸したての饅頭へ氷術を使うでない。冒涜じゃ」
「熱すぎるものを我慢して食べる方が、菓子への冒涜ではなくて?」
もう一口食べる。
先ほどより、餡の甘みがはっきりと感じられた。
冷やしすぎず、温かさだけを残した、ちょうどよい温度。
エリシアは満足して頷く。
「こちらの方が味を正確に判断できますわ」
「……一口よこせ」
「嫌です」
「比較するのであろう?」
「これは、わたくしの分です」
テンカの暗い紅玉の瞳が細くなる。
「エリー」
「何ですの?」
「饅頭の恨みは深いぞ」
「大げさですわね」
見かねたコリンズが、もう一つ饅頭を盆へ載せた。
「よろしければ、こちらを同じ温度にしていただけますか?」
「店主まで何を言い出すのじゃ」
「温度によって、味や食感がどう変わるのか。職人として興味があります」
エリシアは少し考え、二つ目の饅頭へ冷気を巡らせた。
今度は先ほどより慎重に。
餡の中心に残る熱まで読み取り、全体を均一に整えていく。
「どうぞ」
「うむ」
テンカが一口食べる。
しばらく黙って咀嚼し、真剣な顔で頷いた。
「……美味い」
「当然ですわ」
「そなたが作った饅頭ではなかろう」
「わたくしが完成させました」
「言うではないか」
コリンズも小さく切り分けたものを口にし、目を見開いた。
「……これは面白い。甘みがはっきりしたのに、生地は蒸したての柔らかさを保っています」
「北方では、焼き菓子の熱を冷気で整えることもありますの。木の実を使った菓子には、特によく合いますわ」
「北方の木の実、ですか」
「ええ。香りが強いものが多いので、餡に混ぜても面白いかもしれませんわね」
コリンズの表情が輝いた。
「ぜひ試してみたい」
「北へ戻ったら、いくつか送らせますわ」
「よろしいのか?」
「文化の比較研究です。南方の饅頭が、北方の素材でどう変化するのか確認する必要がありますもの」
テンカが、にやりと笑う。
「また来る理由ができたのう」
「試作品の評価は、書面でも可能です」
「では、わらわがすべて食べて感想を送ってやろう」
「信用できませんわ。あなたは何を食べても、最後には『饅頭はよい』で終わるでしょう」
「何を申す。黒糖と胡麻とこし餡では、よさがまるで違う」
「ならば、その違いを今すぐ説明なさい」
「望むところじゃ」
二人が饅頭について言い争い始める。
キリカとレオノーラは止めなかった。
危険な封瘴室へ踏み込むよりも、氷壁と刀をぶつけ合うよりも、今はずっと平和だからだ。
やがて皿が空になった頃、エリシアは席を立った。
「コリンズ。持ち帰り用に、こし餡と胡麻を三つずつ」
「かしこまりました」
「六つも買うのか?」
「比較研究には数が必要です」
「本日中にすべて食べるつもりであろう」
「鮮度の確認も大切ですわ」
レオノーラが静かに尋ねる。
「エリシア様。夕食は召し上がれますか?」
「もちろんです」
「先日も、そのようにおっしゃって焼き菓子を残されましたが」
「あの時は事情が違いましたもの」
どこかで聞いた言葉に、テンカとキリカが同時にエリシアを見た。
「何ですの?」
「いや。そなたも同じなのじゃなと思うて」
「誰とです?」
「わらわとじゃ」
「心外ですわ」
即座に否定したものの、不思議と腹は立たなかった。
店を出ると、南方の柔らかな風が銀白色の髪を揺らした。
レオノーラの手には、饅頭の入った箱がある。
ハヅキ領は、やはり妙な土地だった。
皇国と武蔵ノ原の文化が同じ道に並び、火を纏う黒髪の姫がいて、蒸籠の中には柔らかな菓子が並んでいる。
そのどれもが、思っていたより悪くない。
「エリー、次は向こうの店へ行くぞ」
「まだ何か食べるつもりですの?」
「視察であろう?」
「……仕方ありませんわね」
エリシアは、少しだけ歩調を速めた。
その箱から、甘い香りが漂ってくる。
領都の視察は、まだ始まったばかりだ。
ならば途中で、もう一つくらい味を確かめても問題はないだろう。
これはあくまで、南方文化の調査なのだから。
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